春の蓋軽やかなさえずりが聞こえたような気がして、敦盛は文机から顔を上げた。部屋の外を見れば,欄干に雀の子が止まり、幼い声を懸命に鳴らしている。それにつられたのか、同じ大きさの雀たちが二羽、三羽と次々集まり賑やかにその声を弾ませている。兄弟なのだろうか、屈託もなく恐れもなくことろころと身を寄せ合う姿は、ほほえましいものがあった。
ひとときの団欒の邪魔をしないよう、敦盛は視線だけをさらに外へ向けた。真冬にはない日差しの柔らかさに目を細める。整えられた庭のあちこちから萌黄の若芽が天へと伸ばし、その先のつぼみも膨らみつつあった。
冬から春へ。
ー戦乱から平穏へ。
終戦から、もう一年が経とうとしていた。
***
「神子」
「敦盛さん!どうしたんですか」
神子の自室を訪れたのは、昼に差し掛かろうという頃だった。伺うようにそっと声をかければ、少し驚いたようにこちらに駆け寄ってくる。揺れる萌黄の袖は見慣れないものだった。おそらく朔殿が新しく仕立てくれたのだろう、神子の髪色によくよく似合っている。出会った頃から戦が終わるまでほとんど毎日のように着ていた陣羽織を、あれから見ていないということは敦盛にとってもひそかな喜びでもあった。
「突然ですまない。近く、空いている日があるだろうか。遠出になるが一緒に行きたい場所があって「いきます!」
すぐに反応があるとは思わず、おまけに勢いよく肯定されたものだから、言葉が止まってしまった。神子が「しまった」という表情を浮かべたと思ったら、あわてて隠すように背中を向けてしゃがんでしまった。
ーやって、しまった。
「み、神子すまない、その」
「違うんです、私こそすみません……敦盛さんからのわたしへのお願いって久しぶりだったから嬉しくて、つい」
背中越しだかだろうか、表情が見えない分、彼女の声色から驚くほどに喜びの色がにじんでいる。
「そう、だろうか」
「そうですよ!敦盛さんはあまりお願いとかないから、私ばっかり言っていないかって。わがままなのは、……自覚しているんですけど」
浮かれすぎて恥ずかしい、とつぶやく背中越しの耳の端は少しだけ朱に染まっている。恥ずかしいことなんてないことを何とか伝えるべく同じ視線になるようしゃがめば、ぷいと反対側を向かれてしまった。
「神子」
「……」
「神子、違うんだ。あなた私の言葉で喜んでくれたのは、私も嬉しい」
リズ先生ならきっと良き言葉をかけてくれるだろう。ヒノエなら、譲なら、将臣殿なら。次々とかつての八葉たちが浮かんでくるが、自分はこうすることしか知らなかった。だからせめて、その声が自分にとって迷惑でなく、嬉しかった思いは伝えたかった。ーそして。
「ただ今から言う事が、純粋に喜んでくれたあなたの思いを傷つけるかもしれないと、……戸惑って、惑わせてしまった。謝らなければいけないのは私の方だ。すまない」
丸くなった背中に頭を下げる。たとえ神子に見えなくても何も躊躇いはなかった。呆れてそのまま去って行ってしまても構わなかった。覚悟していたはずの足音は聞こえず、その代わりにあたたかい指先が肩に触れた。
「敦盛さん顔、上げてください……なんか、お互いに謝ってばかりですね私たち」
その声のままに目を合わせれば、少しだけ照れて困ったような顔をして神子は笑っていた。
「続き、遅くなったけど聞かせてくれませんか。あなたが私と一緒に行きたい場所」
その表情に唇が緩んだ。
「ー桂川へ。昨年の秋、一緒に花を見た場所を覚えているだろうか」
雲に日が隠れてしまったのだろう、部屋の影がいきなり濃くなった。どこからか舞い込んできた枯葉が、風と共に渡殿を転がっていく音がやけに響く。
彼女に対して、どれほど残酷なことを言っているのか、分かっていた。それでも。
「終戦からもうすぐ一年になる。本当ならあの海へ行きたいが、やはり難しいと弁慶殿より聞いた。京にも墓標はあるがー出来ればあの海に眠る彼らの近くに、花を手向けたいんだ」
近くにいるはずの神子の表情かどのようだったか、先程の影でよくわからない。
「はい。私も一緒に行かせてくれませんか、敦盛さん」
ただ、そう答えた彼女の声は凛としていた。
***
「わぁ、思ったよりたくさん咲いていますね」
「神子!あまり急がなくても」
「大丈夫ですよ!もう丈の長い着物での走り方も覚えました!」
走り出した神子の足取りが思った以上に早い。今日は淡い朱色で川縁の緑の新芽によく映える。丈の長い布地に巻き込んで転ばないかとヒヤリとしたが、すでに手慣れたものらしい。確かに足取りはしっかりと、そして軽やかでー早い。覚えた、というあたりが神子らしく、思わず笑いが零れる。
「敦盛さーん、こっちにもたくさん咲いていますよ!」
少し遠く、揺れる花の中で笑って手を振る神子にそっと手を振り返す。川は柔らかな光を受けてゆったり流れ、軽やかな鳥たちのさえずりに混ざって、同じく花を眺めに来た人々の談笑する声が聞こえてくる。
京の皆が待ち望んでいた、穏やかで正常な春がそこにあった。
「これくらいでいいでしょうか」
空が茜色になる頃、神子があちこちと駆け回って先導して花を見つけたくれたおかげで、予想以上にも様々な種類が集まっていた。潰さないよう胸に抱えると香りが一層が立ち込める。ああ、あのひとはこの花が好きだった。この花はあの方が好んでいたもの。薄黄の花は、香りの甘いあの花は。花と共に一緒に過ごしてきた人たちとの思い出が巡っていく。
「ありがとう、神子。私一人だけですべきことだったが、それだけではこんなにも手向けることが出来なかったと思う」
「……平家のひとって、ずっと京に居たんですよね。野原の花ですけど、それでも見慣れたものが少しでもあるほうがいいと思って」
おせっかいかもしれないけど、とつぶやく姿にただ胸を突かれる。
ああ。
何気ない優しさに触れたとき、私は何度も思うのだ。
だから、私はあなたに惹かれたのだと。
「……心遣い、改めて感謝を。神子」
嵐山の端に沈んでいく日の光を受け、川面は昼よりも赤が濃く滲んでいる。
赤間関での海を思い出す。赤の旗が波間に揺れては消えていったあの水面。
「敦盛さん」
「ああ、」
一つひとつ丁寧に川へと送り出していく。
「…………どうか一門に安らぎを」
神子も私の傍らに来て、同じように祈りながら花を捧げていく。
「どうか、安らかに」
龍脈は正常にめぐる今、黄泉がえりは起こらない。怨霊として不当に蘇り、嘆きや悲しみだけを無理やり増幅され募らせ振りまき、人々を襲うこともない。波間で散った彼らも、龍脈に還った。そうしてまたこの世界に戻ってくるだろう。次はどうか、穏やかな生でありますように。もう自分には祈ることしかできないが、それでも祈れずにはおれなかった。
すべての花を手向けとして送り出したころには、陽の光はすでに山の影に隠れていた。もうすぐ夜が来る、逢魔が時。
「終わりましたね」
じっと空の両手を見つめる私に、静かな声が降る。
「神子、一つ聞いてもいいだろうか」
「私にわかることなら、なんでも」
振り返った先の神子の表情は、ひどく穏やかだった。まるで敦盛がこれから何を言おうとしているのか、知っているかのように。
「八つに分かたれた玉は再び一つに戻った。龍脈も世界もあるべき姿に戻ったという事だろう」
手のひらにあったあのぬくもりを思い出す。今はもう無き、八葉としての証。
「ならばなぜ、私がいまだに存在を許されているのか。二度目の願いは既に果たしているというのに」
二度目の黄泉がえりの際、己の果たすべき残念はあの時に果たした。望みは一つだけだった。あなたに自分の思いを伝える事。自分さえいなければ龍脈が穢されることも、一門が狂うきっかけになることも、そしてあなたがこの世界で戦に駆り出されることも、傷つけることもなかった。龍脈に還ることで世界の一部となり、再び巡る。それが正常だ。あるべき理の流れだ。それを、己の欲で。自分の感情だけで、
一恐ろしい望みだ。すべての元凶である私が救われたいと願い、あまつさえその心に触れたいと思うなど。
それでも。あの時、狭間であなたの声を聴いてしまった。私をただ望む声が。
恐れることなく願いが受け止められてしまえば、理由を一つひとつ、言い訳じみたものをつけて残る浅ましさしかない。
「神子。あなたは知っているだろうかー私がこの世に留まれる理由を」
目の前の彼女は、表情を変えなかった。口の端に少しだけ笑みを湛えたまま、まっすぐにこちらを見つめていた。
「敦盛さん、私わがままなんですよ」
風がざあっと吹く。岸辺に茂る草がさざめく。
「白龍に言ったんです。敦盛さんが、どうして世界に居てはいけないのかって」
「それは、」
「怨霊だから?もう死んでいるから?ねえ、そんなの関係ない。関係ないんです」
黄昏時。私は今、誰と話しているのだろう。
「私は怨霊のあなただから出会えたんです、敦盛さん」
目の前にいるのは怨霊を浄化し、封印する白龍の神子。
「敦盛さんの望みが浄化され世界に再び巡ることだとしても、私が耐えられなかった。あなたの事を諦めきれなかった。存在が罪だというなら、罪を正そうとした、あなたの正しい行いを踏みにじった私も同じです。白龍の神子失格です」
彼女は白龍の神子。強く、正しく、美しいひと。けれど、
「どんな形でも、捻じ曲げてでも、この世界にあなたの居場所を作って取り戻すって。ねぇ、軽蔑しましたか?私、敦盛さんが言う清らかさなんてどこにもないーだって私はわがままなんです、敦盛さん。許されないとわかっていてもあなたを、諦めきれなかった……ただの、」
この熱は、ただ私にだけ向けられたもの。それに気づいた時、心に芽生えた感情は罪悪感ではなく、ー喜び、であった。
「神子」
高ぶった感情のまま手を伸ばし、強張った体に触れようとしてー止まった。彼女の瞳が罪の意識で揺れている。奥底に留めいていただろう感情を、不用意に暴いてしまったとこの時ようやく気付いた。自分が知りたいと欲を出してしまったからだ。本来ならば、蓋をして何事もなく過ごせたはずだというのに。
「すまない、神子。私のせいであなたを苦しめてしまっていたのだな」
「……っ、違います!それだけは、絶対に違います」
行き場のないままの手を神子があたたかく、柔らかく触れた。
「敦盛さんを失いたくなかった。あの時は苦しいだけだった。でも、今はあなたがいる。苦しくても、側に敦盛さんがいるんです。だから、私は幸せなんです」
瞳の海は揺れて、それでもその中の光にまっすぐ射抜かれるようだった。ああ、と目を細める。手には暖かい熱、耳には言葉、そして視線。彼女のすべてが私をこんなにも優しく、熱く、焦がれるように包んでいる。
「神子」
気付けば手のひらの指を絡めていた。彼女から感じる熱を、一つも逃したくなかった。
「私も……、私もだ。あなたをこんなにも苦しめているとわかっていても、言葉の一つひとつが……あなたのすべてが、私がここにいていいのだと受けれてくれたのが、たまらなく嬉しかった」
そして自分の熱も、また彼女に少しでも伝わってほしいと願って、少しだけ力を込める。
「あなたは白龍の神子だ。確かに私はあなたの責務で救われた怨霊だ。神子でしか、救いの道を一門にも私にも見出すことが出来なかった。皆の希望はずっとあなたにあった。私だけが一人、願いを叶えていいのだろうと思っていた……けれど、」
ずっと、惹かれていた。焦がれていた。生きることが間違いであった私を、他でもないあなたが望み、側にいることが幸せだと感じていてくれるのなら。閉じていた蓋を、私も外そう。あなたにありのままを伝えよう。
「あなたの側で、一緒に喜びも苦しみも分かち合いたい。神子、あなたと共に。分かち合うことを許してくれないか」
「……なら、私からも、もうひとつお願いをしてもいいですか」
握り返した指に力がこもった。ああ、と答えれば神子の表情が泣きそうな、それでも晴れやかな笑顔を浮かべる。
「私がしわくちゃになる時までずっと一緒にいてください。そして、一緒に還りましょう」
どこに、とは言わなかった。自分も尋ねなかった。
「あなたが還る時が私の還る時だ、神子。その時まであなたの側にいよう。わたしが、あなたの幸せとなるのなら」
花の香りがどこからか、流れてくる。季節は春。
2人の間を隔てるものは何もなかった。