誠意と覚悟屋敷から乗り付けてきた馬車を降り、無言のまま つかつか足音も高らかに石畳の上を歩いていく。
後ろを慌てたようについてくるもう一つの足音に無視を決め込み、ディオンは貸与されている寄宿舎の部屋に足を向けた。
従者は要らぬと言ったのに、よりにもよって大切にしていたたった一人の親友が昨日とは違う口調、態度で今朝から後ろに控えている。
許されるなら、ただの友達でいたかった。
悲しみは過ぎると怒りに代わり、ディオンの身の内に降り積もる。
彼の大切なものを、自分のために奪いたくなかったのに。
「ディオン様」
「…っ、付いてくるな」
「ですが」
もういっそ文字通り翔んで帰ってしまおうかと何度か頭に過ったが、麗らかな日射しの元、昼前の明るい教会内の敷地には信徒や聖職者がそれなりの数残っていて、驚かせるわけにはいかないと努めて静かにディオンは歩いた。
それでも教会を抜けて寄宿舎のある建屋まで来たらもう半ば駆け足で、一足飛びに階段を駆け上がり部屋のドアを乱暴に引き開ける。
外套の肩口に留めたブローチが通り抜けざま、扉にあたって硬質な音が響いた。
勢いそのまま飛び込んで鍵をかけてやってもよかったが、追い付いた従者が必死に腕を割り込ませてきたので仕方なくそのまま室内に逃げ、窓際のベッドへ腰かける。
「ディオン様、お待ち、下さい…」
ギ、と軋んだ音を立てたのは古い扉の蝶番か、それとも従者を睨み付けるディオンの双眼か。
これまでと変わらぬ一人部屋に、かわってしまった友人。
乱れかけた息を整えながらおろおろ心配を顔に張り付けて、へにょりと眉を下げる「テランス」。
これまでなら遠慮がちに隣へ並んでくれた気安い幼馴染みが、ベッドまでの後一歩を踏み越えられずに待機の姿勢をとっていた。
「バハムート」専属の従者をつける。
わざわざ学校まで迎えにきた父親の近習から、ディオンが聞きたくもない話題が溢される。
ここ1年、シルヴェストルの命で星見の会や宮廷のサロンへ顔を出す折、迎えや案内を勤める使用人達から予告されていたことだ。
曰く、そろそろ国を守護するドミナントとして相応しい振る舞いを、また一貴族の長子として従者下僕の一人も従えるべきであると。
父上様は、あなた様の為に仰っておられるのですぞ。
馬車への乗り込み際に側仕えが吐き出す感情の籠らない音の羅列に対し、ディオンは父の命とはいえわたくしごときにもったいない、と慇懃に返してそっぽを向く。
父上の命令、というよりはそなたら貴族連中の見栄と権力争いのためであろうに。
腰掛けた座席の向かいから特大の溜め息が聴こえたが、これもいつものことと捨て置いて車窓から何とはなしに外を眺める。
誰だ、「そろそろご子息様にも側仕えが要りましょう」とか最初に進言した奴は。
実際、次期神皇と名高いルサージュ家に取り入るべく様々な顔触れが会の度にディオンに擦り寄り、少しでも望みがあるならと貴族から端下の成金までが姿絵をそえた釣書を寄越してくるものだから、ディオンが屋敷の隅に宛がわれた自室の机上にはうず高い「従者の塔」が出来上がっている。
それだけでは飽き足らず、今までは顔を知ってはいるものの話したことすらない学校の同門生達までもがこぞって群がってくるのだから堪らなかった。
上流の貴族ならば、家単位で使用人を抱えるのは当たり前である。
だがしかし、バハムートの従者となれば少し勝手が異なるのだ。
朝の支度から始まり、主人の赴く先々に付き従い世話を焼くのが本来の従者の仕事だ。
時には名代として動くこともあるだろう。
しかし大人たちから真に求められているものは、それよりも未だ年若いディオン本人を側で守り、いざ有事の際は肉の盾となれるか、それに尽きるのだ。
有事とは外部からの脅威に留まらず、万が一バハムートが暴走した場合はその身を挺して周りを逃がす役割をも担うと聞いたとき、ディオンの背筋は恐怖で泡立った。
いくらドミナントが国の重要兵器であるとはいえ、それでは体のいい人身御供ではないか。
国益や保身を囃し立てる貴族連中に乗せられたのか、はたまた本当に「息子」を慮る故かは定かではないが。
シルヴェストルの命により、いつ命を落とすかわからない「バハムートの従者」は家名を捨て、実家への謝礼金__実質それは弔慰金のようなものだ__の変わりにただディオンの影として生きる事を求められていた。
跡取り以外の口減らしが出来て、ルサージュの庇護のもと、多額の金まで手に入る。
今や神皇に一番近い男の目に留まろうと、我が子や兄弟を売ろうと目を爛々輝かせる輩の多いこと。
欲をふんだんに含んだそれらの瞳に、ディオンは辟易していた。
この力は国と民の為にあるというのに、その自分を守るために誰かが犠牲になるというなら。
あるいは、自らの未熟さゆえに傍に置いた誰かが命を差し出すというなら…従者はいらない。
大丈夫。己を律し、鍛錬を怠らなければどうにかなる。
そう考えながら父の待つ屋敷に向かったのが、丁度5日程前の昼時分。
外の宵闇も覆すクリスタルの光の中、ディオンはすっかり草臥れて壁の華となっていた。
大きく取った出窓の外で、ドレイクヘッドの壁面が燦々と輝いている。
ホワイトウィルムに程近い、ルサージュ家の所有する中で一番上等な屋敷で連日催されている夜会の最終日。
壁にかけられた無数のランプと燭台が、宮廷に蠢く影を一時明るく照らし出す。
父親に乞われて開始早々に顕現させていた背中の翼を仕舞い込み、周囲に気取られないよう努めて何でもない風を装いながら深く息を吐く。
この会のために献上されたという、貴族お抱えの縫製職人と細工師の手に鳴る絢爛な衣装も、疲れ果てた身体には最早ただ重いだけの拘束具と化していた。
会の賑やかしにと連日の顕現、半顕現が祟ったか、それとも乾杯だけでもとそこかしこから注がれ続けたワインのせいか、疲労が全面に押し出されて目眩がする。
それでも主催者の長子として挨拶に訪れる賓客を努めて穏便に捌ききり、人の波が切れたタイミングで近くの給仕を捕まえる。
明日の予定と体調を言い訳にして、夜目が利くからと帯同も断りそっと夜会から抜け出した。
人いきれで暖かかった広間とは違い、使用人が僅かに行き交うだけの廊下は冷え冷えとしている。
始終纏わり付いていた不躾な視線と粘つく笑みを思考から振り払い、半ば逃げるように与えられた部屋へ戻った途端ディオンは座り込んでしまった。
水や果汁で薄めたとはいえ、それなりに舐めさせられたアルコールが今になってどっと体を巡り出す。
吐く息が熱い。視界が滲む。
いくらバハムートが国民の士気を上げるからといって、戦でもないのに顕現するのは如何なものかと考えない訳ではなかったが。
__ああ美しい、我らがバハムート。グエリゴール神の御遣い。
会の始まりに投げかけられた、誰とも知らぬ貴族の陶然とした呟きが耳の底に蘇る。
それでも父上が微笑み、よい子だと褒めてくれるから、ディオンにとってはこれも必要なことなのだと割り切るしかない。
喉を焼く息苦しさから逃れたくて、詰めていた胸元を緩め襟元に飾った竜のデザインされたブローチに手を伸ばす。
見映えがするようにと宛がわれる衣装には、如何にもこの子供こそが神の使徒であると判るようそこかしこにそれらしい意匠が施されていた。
墨を流した表面に、目にも鮮やかな黄玉が小さく一つ、二つ。
何の気なしにもぎ取り手慰みにくるくると小さな翼を弄んでいると、己の翼を見て「格好イイ」とはしゃいでいた幼馴染みの顔を思い出す。
癇癪を起こし勢い余って半端に顕現することもしばしばあった幼い自分に対し、恐れるでもなく「ディオンそれすっごい格好イイね!」と興奮していた小さなテランス。
畏れも媚びも含まない真っ直ぐな視線を向けてくれたのは、思えば彼が初めてだった。
いつも穏やかな笑顔で隣にいる幼馴染みを思うと、ふわと胸の内が暖かくなるようでくすぐったい。
自分が居ない間、彼はどう過ごしているのだろう。
共にこの国のため、民のために鍛練しいずれは栄えある竜騎士に、と誓った無二の親友。
自分が何者であれ、ただ心安く話ができる友とこれからも過ごせたなら幸いだ。
取り留めもない日常を心に描いて幾分機嫌が上向いたところで、ようやっと立ち上がったディオンは絡み付いた衣装を解いていく。
従者候補の釣書が詰み上がった机に設置してある乱れ箱にブローチやカフスを転がして、身に纏っていた重い絹地を半ば蹴り飛ばしそのままベッドへ潜り込んだ。
冷えたシーツがのぼせた身体に心地いい。
疲労感に流されるままに目を閉じ、ぼんやり明日の事を考える。
学校に戻ったらまずは跳躍と組み手の訓練をして、練習用武具の手入れをして…子飼いのドラゴンに餌をやって、ああでもまずは心配性のテランスにただいまを言わなければ。
こうしてディオンが学校から連れ出される度に、半ば見世物のような扱いにディオンが疲弊するその毎にテランスは苦虫を噛み潰したような顔をしながら、「僕も一緒に行けたら…」とディオンの背中を優しくさすってくれるのだ。
明日になればまた会えると、愛しい日常に胸をときめかせて気付けば眠りに一直線だった。
それなのにどうして。
数日前確かに学校で別れ、今頃は寄宿舎でディオンの帰りを待っていてくれている筈の彼が。
上等な筈なのに何処か寝苦しい屋敷のベッドでディオンが目を覚ました朝、いない筈のテランスが屋敷の部屋で見慣れない仕着せの上下に身を包み、畏まった口調で主への「ご挨拶とお支度」に現れた。
「なぜ、従者になど」
怒りで震えそうな喉を叱咤し、従者を視界の正面に据えたディオンは努めて冷静に聞こえるように声を絞り出す。
「お前と出会ったのも、元は確かに父上の命だっただろうが。それでもお前は、お前だけは何のしがらみもない只の友達でいたかったのに…」
「ディオン様…」
テランスとその家族のことだから、権力に目が眩んだなどとは考えにくい。
身体の弱い「母親」から引き離して育てたせいか、どうにも言葉の遅かった息子を案じたシルヴェストルにより身の回りの世話を焼く乳母と、その乳母の末の息子をディオンの話し相手としてオリフレムに招聘したことが幼なじみの始まりである。
少なくともディオンはそう聞かされていたし、テランスの母である乳母自身もことある毎に息子とディオンを抱き締めながら、愛おしそうに語って聞かせてきたものだ。
実際には、乳児期をベアラーによる最低限の衣食住を世話されるだけに留まったためか人の振る舞いが上手くなかったディオンに、人のフリの手本となれる同じ年ごろの男の子を連れてきたことから二人の関係は始まった。
後ろ盾のない、地方統治の中流貴族。
平民を取り込むよりも対外的に格好が付き、仮に幼いバハムートが力を暴走させ何かしでかしてしまっても難なく揉み消せる程度の血統故にテランスが選ばれたことを、ディオンは知らない。
どのような経緯であれ、仲の良い幼なじみと共に学び、鍛練し、時折じゃれ会う今の状態は大層心地よかった。
学校の寄宿舎で寝起きし、学び、同じ食事を分け合い、日夜鍛練を積み従騎士として子飼いのドラゴンを共に世話し、ドミナントだからと遠巻きにされるでもなく同じ目線でいてくれるたった一人だったのに。
「従者なんかになったら、対等じゃなくなるだろう」
下卑た大人達のせせら笑いがディオンの脳裏に甦る。
或いはディオンの姿を認めて後退り、恐れを宿してこちらを伺う使用人達の見開かれた瞳が。
「それに解っているのか?私の従者になるということは、お前の家族を捨てることになるんだぞ」
テランスが育まれた、優しく暖かな家族の絆がディオンのせいで断たれてしまう。
額が熱い。視界が開けて受け取る空間認識が広がっていく。
ああ、嫌だ。
お前のこれからが私のせいで。
「家督、家名、縁談だって…お前の未来を私が奪うことになる」
思い切り眉根をよせ、歯を剥いて無意識に威嚇する。
ままならない思いを「従者」にぶつけている、その事実がまさに従う者と従える者の隔たりを表していて、ディオンは俯きギリリと唇を噛んだ。
感情に呼応して、僅かに牙が伸びている。
己を律しようと焦るほど、呼吸が乱れて身の内の竜が暴れだす。
「ディオン様、いけません」
ブツリと浅く下唇の端を食い破ったところで、正面で立ち竦んでいたテランスが飛んできた。
「ああ、血が…」
「触れるな」
しゃがんでこちらに伸びてくるテランスの腕をばしりと払うと、ぱ、と散る一筋の赤。
「あ…」
ディオンの伸びた爪がテランスの手背を割き、一筋の傷をつけていた。
「テ、ランス…」
「私は大丈夫ですから」
「……すまない、………テランス…ご、めん」
八つ当たりをした上に友人を傷つけてしまい、プツプツと涌き出るその赤に一気に頭が冷えた。
ああほら、私の傍にいたせいで。
ディオンの額に浮かびあがったもう一つの瞳が涙で滲んでゆく。
「ぅ~…っ」
「ディオン様、お許しを」
酷く途方にくれた幼子の様な顔をしたディオンを見かねて、テランスはさっさとハンカチを結び付けて自らの傷を隠し、そのままディオンの両手をとった。
伸びた爪を手の平に食い込ませないように解いてあやし、噛み締めた唇にも手を伸ばす。
「ああ、傷になっちゃう。噛んじゃだめだよ」
今朝からずっと弁えていた口調をわざと砕いて、安心させるようにテランスはそっと笑ってみせた。
それでもまだディオンが顰めっ面を崩さずにいたため、これはきちんと話をしておかないとだな、とテランスは内心独りごちる。
時刻はまだ昼の手前。鍛練に出るにはまだ幾分か時間がある。
ディオンの居室は階段から遠く、あまり人の往来はなかったのだが念のため寸の間耳を澄まし、人の気配がないことを確かめてからテランスはディオンに向き直った。
何せ今から、頑固な友人を口説き落とさなければならないのだ。
「ディオン、どうか。今から私が、…僕が言うことを、どうか聴いてほしい」
跪いたまま両手でディオンの拳を包み込み、穏やかな声でテランスは語り始める。
決意の中にもいつもの甘さを含んだ目で見詰めてくるテランスに、ディオンの中に渦巻いていた感情が少しだけ凪いでいった。
「ディオン、僕のこと心配してくれてありがとう。黙っててごめんね。でも、大丈夫。貴方は僕から何も奪わない」
静かに穏やかに、ディオンを刺激しないようにテランスは語りかける。
「僕は3男坊だから家督は上の兄が継ぎますし、もし何かあったとしてももう一人兄がいますから。姉にも良い縁談がきています。やがていずれかが血も家も繋ぐでしょう」
家名を捨てる事に関して、母は少し寂しそうでしたけど…でも貴方と共にあるために、私から親にわがままを言いました、とディオンの両手を撫でながらテランスは苦笑いした。
貴族であるにも関わらず、手ずから子供達の世話をし育て上げた稀有な女性は、末子のテランスと等しく愛情を注ぐ形でディオンのことも慈しんでくれた。
目の前の彼とよく似た面差しの愛らしい婦人を思い出し、ディオンの胸が懐かしさにきゅうと音を立てる。
「君は従者なんか必要ないくらい強いし、勉強も体術も何だって出来る人なのは僕が一番知ってるよ。でもね、これだけは言わせて。僕の方が、君から離れ難かったんだ。」
少し照れ臭そうに頬を染めたテランスは、それでも真っ直ぐ目を逸らさずに話し続けた。
「どうしてもディオンの傍にいたくて、父上にお願いしたんだ。学校の先生にも推薦状を書いてもらって…」
どうやら周りにかなりの根回しをしたうえで、彼はここにいるらしい。
知らず、ディオンの両手に力が入った。
ディオンは知っている。
同窓生の中でも、特に上級貴族の子弟たちが陰でこそこそテランスのことを悪く言う時期があった。
親友を侮辱され頭にきたディオンは一発ぶん殴ってやろうと息巻いていたのだが、当のテランスは淡々と勉学に励みその子供たちを学力と体力で早々に追い抜いた。
「君にふさわしい僕にならなきゃって思って」と愛らしくはにかむその裏で、テランスが並大抵ではない努力を重ねて自分の隣を死守しているのを知っていて、その優しさとちょっとの優越感に甘えていた自覚はある。
それでも本人の努力が及ばない場所、学校や鍛練以外では只の子供であるテランスがディオンの行く先に同行することは難しい。
今後2人とも軍に属するならば或いは戦場で共に槍を振るうこともあるだろうが、そもそもディオンはドミナントであるから、顕現して前線に赴くことも増えるだろう。
方や只人、方やドミナント。
いつまでも一緒というわけにはいかなくなる。
今ですら、デビュー前のテランスは社交の場に出られない。
けれど、従者になれば。
「君、夜会は嫌いだって何時だったか言っていたでしょ。なのにいつもいつも、君を見送ることしか出来ないのが辛かった。僕が出来ることなんて多くないけど、でも誰よりも頑張っている君の側で支えたかった。従者になれば、いつだって側に居られると思って。だから」
私も、貴方と同じところへ連れていって下さい。
テランスの瞳が懇願に揺れる。
数多の思惑が絡まり混沌極める宮中で疲弊する心と、顕現の代償に蝕まれていく身体の両方をテランス自身の力で少しでも癒し慰める事が出来たなら。
「呼び出し」から戻ると毎回草臥れた顔つきで、それでも父親から下賜されたという飛竜草を心底嬉しそうに眺めているディオンを、テランスはそれこそ幼少期からずっと見ていた。
見ていることしか出来なかった。
「君の行く先に、僕も一緒に連れていって。君の『つらい』や、『苦しい』を、僕も一緒に背負わせて」
どうか赦して、ディオン。
心の内で続く言葉を、テランスは飲み込んだ。
友だけでは飽き足らず、あなたに縋る私を赦して。
本当は寂しい、辛い、悲しいを言えない貴方を、どうかせめて隣で暖めたいだけなんだ。
僕の一番の友達。
誰より気高い君。
慕わしく愛しい貴方。
見ているだけは、もう嫌だ。
「テランス…なんでそんな…」
「…貴方が、大切なんだ」
ドミナントとか関係なく、只のディオン、貴方が大切なんだよ。
だから、僕も。
ただの、テランスとして君の側にいよう。
「「私」が貴方のものになれば、それは叶う」
これだけは譲れない。
貴方が振り向いたすぐそこに、いつでも僕を一番にみつけられるように。
「…今まで通り、こうして友として迎えてくれるだけで、私は」
十分救われているのだと、これ以上望むべくもないとディオンは首を左右に振った。
なかなか難儀な主人を持ったものだとテランスは苦笑する。
けれどもそれは、ディオンから「あなたのことが大切です」と告げられているのと同じことだから。
「大丈夫、ディオン」
相変わらずひたひたと涙を湛える竜眼に手を伸ばし、指の腹でそっと拭ってやる。
ディオン本人よりもよっぽど雄弁に語るその目がいいの?本当に?と期待に揺れている。
「私は貴方の従者だけれど、僕は親友も幼なじみもやめたわけではないんだよ」
勿論、君と誓ったーー二人で竜騎士を目指す夢も。
君が望んでくれるなら、僕は何にだってなれる。
「これからは、どこに行くにしても一緒に居られる」
鍛練も、勉学も、君の苦手なパーティーだって。
「寝床も今日から同室にしてもらおう。ルームメイトが欲しいって言ってたじゃない」
ね、案外悪くないでしょう?
内緒話を打ち明けるディオンの「従者」は、すっかりいつもの幼馴染みの顔のままはにかんでいた。
「…、そなたまで、嫌味や好奇の目に晒される必要はない」
この期に及んで、自身の恐れと少しの意地が捨てきれない天邪鬼な口が言い募る。
「そんなの学校でもう慣れっこだよ。羨ましいんでしょ、僕がずっと傍にいる証拠みたいなものだもの」
幼少期から隣にいたのは伊達じゃない、すっかり図太く逞しくなったテランスがディオンの言葉を一蹴した。
「今日みたいにまたお前を傷つけたら、」
「かすり傷だ、明日には治ってる。心配なら僕の鍛錬に付き合って」
午後の体術訓練、負けないからね。そういうことではない、と突っ込んだところで眩しい笑顔がきらきら輝きながら「ディオンは優しいなぁ」と目を細めている。
だから、そういうことではない。
「お前に何かあれば私は」
「ディオン」
「……っ」
「…そんなに、僕がいや?」
ああ狡い。そんな眼をして見つめないでくれ。
ディオンはテランスがたまに見せるこの表情に大層弱かった。
出来るなら、安全なところにずっと隠しておきたいのに。
そんな、どこにも行かないで、もっと一緒にいて、とむずがる小さな子犬の様な。
「…………いや、な、わけない。大切なんだ」
テランス。お前が。
「なら、僕と一緒だ」
僕も君が好きだよ。
熱烈な告白をうけて、テランスの両手に包まれたままの指先から不安と怒りが光となって散って行く。
長く尖った爪と牙、キロリと開かれた額の瞳は、ようやっと成を潜めて人の型に戻った。
ディオンは敗北を悟って、両目を閉じ天を仰ぐ。
反論を諦めて彼に言われた言葉を改めて反芻すると、ぐるぐる考えて悩んでいたこちらが馬鹿らしくなってきた。
結論からいうと、このテランスと言う男は自分と負けず劣らず頑固で、彼の生まれた時から持っていた手札を全部投げ捨ててもディオンと歩む事を決意したということだった。
ならばもう、仕方がない。
こうなったテランスは絶対意思を曲げないと、幼いころから知っていたじゃないか。
瞼を上げて深呼吸一つ、ディオンは腹を括った。
この男の将来ごと、私がすべて責任もって貰い受けなければ。
「…テランス」
意図して、平坦な主人らしい声を出してみる。
「なんなりと」
「そこになおれ」
空気を察したテランスが、改めて一歩下がって跪き、頭を垂れた。
ベッドから立ち上がり、彼の目の前に立つ。
「頭ごなしに否定してすまなかった。
お前は、こんなにも私の事を思ってくれていたのに…」
覚悟には、覚悟を。
信頼には同じだけの誠意をもって応えなければ。
それこそ、何が主人であろうか。
「誰からでもない、私がお前を従者に任命する。これからも…私と、共に来てくれるな?」
ば、と見上げるテランスの顔が期待と興奮で縁取られ、瞳が喜びに揺れている。
「勿論です。君の、__ディオン様の為なら…!」
勢いよく顔を上げ、きらきら音を立てんばかりの眩しい笑顔で応えたテランスに、見下ろすディオンも吐息だけで笑う。
ふと思い立って、ディオンは肩口を飾るブローチを外した。
「ディオン様?」
「…そのまま、テランス」
ドラゴンの翼を模した飾りを外してそのままテランスの襟元に移してやる。
肩掛けの外套がすとんと床に落ちるが気にしない。
彼がバハムートの従者であると大人たちに知らしめ、かつ無用な誹りを避けるためには暫くの間こうした分かりやすい印があった方が無難だろう。
彼が、ディオンの片翼である証が。
それと同時に、軽くなった両手で留め具を嵌めながら祈りを籠める。
どうか彼を守りますように。
竜騎士の叙任を真似て、項を軽く素手で打った後ディオンは再度テランスに向き直った。
「これでお前はわたしのものだ」
何の衒いもなく、竜の加護を賜り心から嬉しそうにしているテランスが可愛らしく思えて、そのままもう一歩踏み出してテランスの目の前にしゃがみこんだ。
主従の距離から、友人の距離へ。
こちらから踏み越えてみせて、ぐい、と身を乗り出してはてな顔のテランスと額を合わせる。
幼い頃から変わらない、二人で秘密の話をするときの合図。
「それでな、テランス」
ぐりぐり軽く押し付けながら、近すぎてピントの合わない視界で彼を見つめる
「これは【友】としてのお願いなのだが。こうして二人きりの時は、どうか今まで通りにディオン、と呼んでほしいのだ」
従者で、友で、幼馴染みであるというならば。
公の場で、お前が私を守るように。この部屋の外に出ている間は、主人として私がお前を守るから。
だからせめて、この部屋のなかだけでいい。
「只のディオンの、友達として」
「もちろん。ディオン、君が望んでくれるなら」
僕は何にだってなれるよ、そっと背中に腕を回して、テランスが優しく抱き締めてくれる。
しなやかに伸びたいまだ細さの残る少年の腕に身を委ねながら、ディオンは小さな声で ただいま 、と呟いた。
ディオンは知らない。抱き締めた彼の瞳が甘く熱を帯び、恋の炎がちらちらとその裡を焦がし続けていることを。
自らの命さえ国家の物で、身の回りは全て父親から気紛れに下賜されるものばかり。
自分の物を何一つ持たなかったディオンが、初めて望み、望まれて得た【所有物】。
2人の望みが、一致した瞬間だった。
「家名か…私のものと言うなら、いっそそなたもルサージュを名乗ってみるか?」
「……流石に恐れ多いかと(まるでプロポーズじゃないか)」
「そうか?(顔が真っ赤だが大丈夫か?)」