夏休みの短編(仮)7✕11
年期の入った据え置き型のラジヲをぶらぶら揺らしながら、通いなれた学校までの道を黙々と歩いていく。
まだ低い位置にあるはずの太陽が時折住宅の間から瞳を刺激して、夜間に降った雨のせいか湿ったままの空気が温まりしっとりと肌にまとわりつく。
朝の6時を過ぎたところだというのに、庭木といい街路樹といい至る所からジーウジーウと蝉たちの元気な合唱が降り注いで鼓膜の表面に張り付くようだ。
ずっとこの土地に住んでいるのに、生まれついてこのかた頭の下地にある記憶のせいでどうにもこの〝夏〟だけは未だに違和感が拭えない。
額を触るとすでに汗で湿ってしまっていて、くっついてしまった前髪ごと首のタオルでかきあげていると、後ろから軽やかな足音と聞きなれた高い声が段々と近付いてきた。
無邪気で生命力あふれるそれに思わず口角が上がり、ぶつかってくる前にと振り返る。
「ディオン!」
「おお、テランス」
おはよう、の挨拶に対して律儀におはようございます!と頭を下げるのは、運命なのか何なのか、打ち倒したはずの神の気まぐれか。
〝かつての私〟が置いて逝ったはずの愛しい幼馴染だった。
日焼けなんか気にしないと言わんばかりのタンクトップから、まだ細い腕がのぞいて勢いよく振られている。
わたしの歩幅に合わせて歩く彼は少々速足で、見上げてくる大きな瞳に朝日が入り込んで明るい緑色に輝いていた。
「今日のラジヲ体操当番、君だったの?」
「そうだ。しっかりやろうな」
朗らかさを絵に描いたような形の口から、生え替わり途中の疎らな前歯が覗いている。
自治体の、所謂小学校子供会と言われる組織の体操当番。
地域の子供の見本となり体操後はカードにスタンプを押すのは所属している上級学年の持ち回りになっていて、五年生の自分にも当然それは回ってくる。
おれ、ディオンの前でがんばるね!と嬉しそうに飛び跳ねるテランスが首からかけているカードが、動きに合わせてぱたぱたと揺れる。
———かつての彼も、こんなに無邪気なところがあったんだったな、と急な既視感が脳裏によぎったが、丁度学校の正門が目に入ったので思考を打ち切った。
「ねぇ、ディオン。今朝、アサガオがね」
体操の後ラジヲを次の当番に渡して学年花壇に水をやり、人気の少なくなった通学路を二人で連れ立って歩く。
通勤時間には少しだけ早い時間帯だというのに行きし方よりも勢いを増した蝉時雨と、それに負けない大きな声のテランスが、声量にふさわしい大きな手ぶりで話をするのが微笑ましい。
可愛いな、というときっと怒るので言ったことはないのだが。
「ん?」
「おれの育てたアサガオ!きれいに咲いたんだ。だから、見に来ない?」
自信満々が服を着て歩いている、というのはこのことか。
頭一つ小さい〝元従者〟が跳ねるように私の周りをウロチョロと歩く中、その首に滴るキラリとした汗の雫に目が奪われる。
今生何度も見た光景だが、やはり上から見下ろすこの角度はいつまでも新鮮で、あの頃はしゃがんで貰わないと見つけることすら難しかった彼の旋毛すらやすやすと触れられる位置にあることが何だか不思議な心地がして落ち着かない。
子供らしい足取りでちまちまと歩を進める子供の歩幅に合わせつつ、数舜、今日の予定を頭の中に描きそう大きな用事もなさそうだと結論付けた。
どうせ家が隣同士なのだ、朝食前に少しくらい寄り道したってきっと父母は怒りもしまい。
『まぁ、あなたまたお隣にお邪魔してたの?仲良しねぇ』
おっとりした母親の口調が脳裏に浮かぶ。
息子に負けず劣らず隣の家の奥方—テランスの今生でのご母堂だ—と仲が良い母親は、同世代の連中より少々老成した考えの息子がやや年下ながらも同じ〝子供〟と積極的に関わることに好意的だった。
それに幸いなるかな、今生の自分は両親ともに程々に目をかけられ、相応に甘やかされてきたもので。
「なら、この後伺おうか」
「やった!あ、それとね、庭で妹とプールするんだけどよかったらディオンも…」
この世の幸福を集めたように破顔したテランスの笑顔が、続く言葉に萎んでいく。
ついに立ち止まってしまった足音に後ろを振り返ると、ああしくじったな、という顔でこちらを見上げる子供の瞳とぶつかった。
「あの、はしゃぎすぎました…」
赤く染まった頬は、上昇する気温に引きずられたわけではないのだろう。
いきなり“あの頃”のよく弁えた子供が目の前に飛び出して来たものだから、大真面目な本人には申し訳ないがそのちぐはぐさに吹き出しそうになった。
——きっと、私の従者に選ばれなければ。そなたはそもそもこんなに快活な子供だったんだろうな。
あのころの人生のやり直し、というわけではないが、それでも過酷極まる生活の中でちらと想像したことがなかったわけではない。
〝テランスとディオン〟が、ただの幼馴染だというだけの穏やかな生活を。
道端にしゃがみ、恥じ入る彼の顔を見上げるように覗き込み口角を上げて見せた。
一生懸命な思いには、真心で返すのが信条だ。
「大丈夫。…今日は習い事もないから、喜んでお邪魔させていただこう」
どうかお母様に伝えてくれるか?テランス。
そう言うと再度パッと顔つきが華やいで、大きな瞳がとろんとふやけて「えへへ、うん」と幼く返事をする様が愛くるしい。
「さて、そうと決まれば急がなければな。アサガオが萎んでしまう」
「え!大変だ、早く帰ろディオン」
差し出された細い腕をとり、手をつないだまま小走りで家路を急ぐ。
ほんの少し話をしていただけでも背は汗ばみ、シャツが不快に張り付いているが、同じくしっとりと汗で湿った小さな掌を振り払う理由にはならなかった。
まずはアサガオを観て、一度家で朝食を摂ってから。
後は決められた自習時間が終わったら、と大まかな約束をしながら自宅への道を往く。
「じゃあまた後でね!」
玄関の扉が閉まる直前、「母さーん今日ディオンがねー!」と奥に向かって張り上げられたテランスの声を背に自分の家の門扉を潜った。
小さな可愛らしいテランス。
幾度となく反芻し噛み締めている事実ではあるが、何故かこうして記憶を持って生まれ、出来すぎな事にお隣家の次男坊がまさかかつての恋人だとは。
数年前隣の家族が引っ越してきた際、挨拶の折に両親の足元から様子を伺っていた小さな男の子が「でんか…?、わたしのでんか!」と初対面のはずなのに大泣きしながらしがみついてきたのは今でも新鮮に思い出せる。
訝る両親を誤魔化すのがなかなか骨が折れたのも。
以来会うたびにべったりと張り付く三文語もようやっとの幼児から、親の目を盗んで少しずつ根気よくじっくり認識を擦り合わせてみた所、どうやら〝記憶〟はあるが端々が抜けていて、それでも私のことだけは忘れず覚えているのだと理解した。
「おあいできて、うれしいです。でぃおんさま」と舌足らずにはにかむ小さなテランスは年齢相応の天真爛漫さが全面に出ていて、纏めて乳母に面倒をみてもらっていたあの頃の懐かしさと、自分よりも幼い子供に裏表ない好意を向けられることでなんともこそばゆい感覚とともに庇護欲を刺激されてしまい今に至る。
つまりは、だ。
今生、私たちは同じく近くに生を受け、幼馴染みというのは前とかわらない。
ただ、歳まで同じというわけにはいかなかった。
学年にして4つほど離れてしまったものだから、かつて自分を守ってくれていた広い背中は未だ薄く、頭一つ下にある背丈は記憶の中よりもずっと小さくて。
今や滑らかでふくりとした幼げな顔つきも愛らしく、なんの柵もなく子供らしい楽しみをこちらと共有しようといつも無邪気にこちらへ走ってくる。
あの頃も確か、彼が見つけた秘密の場所や小さな鳥の巣など、たくさんの宝物を見つけては〝ディオン〟に共有してくれていた。
付属学校に行く直前、一時的に滞在したテランスの実家で見た青々した麦畑と、森の入り口で湧き出る泉。
まだ世界の何たるかを知らなかった、私たちのささやかな夏の思い出。
限られた小さな世界での、つかの間の自由だった。
今日のアサガオも庭でのプールも、正しくそれと同列なのだろう。
小さな頃から纏わりつくようにディオン、ディオンとくっついてきた。
さて、懐く彼の心の底にあるのはあの日置き去りにした恋心か、それとも。
……それもまた、答え合わせをする時が来るのだろうか。
(早く大きくなれ、テランス。ああでも、まだそのままでいて)
矛盾を抱えてさざめく心は、こちらの庭を望めるキッチンの窓の向こうから私を見つけて「ディオン!」と無邪気に手を振る姿に凪いでいく。
「ああ、また後でな」
戦のない夏、君と過ごす何度目かの、夏の日のやりなおし。
否、地続きで新しい日々の記録。