火と蜜のふたり「どあほうと食えって、母さんが」
そう言って袋を差し出す流川の額にはじわりと汗が滲んでいた。窓から覗く眩い陽光に辟易としていた桜木は、肌に纏わり付く熱気を掻き分け訪ねてきた恋人を、まずは室内へ避難させてやる。扇風機の前に座布団を敷いてやると、何も言われずとも流川はまるで体を引っ張られるようにその上に座り込んだ。風を受け瞳を閉じ、ほうっと穏やかな息を吐くまでのその様子を見守っていた桜木に、「ん」と再び袋を突き付ける。今度こそ受け取って、中身を確認した桜木は目を輝かせて感嘆の声をあげた。袋の中にはふっくらとした桃が二つ、淡く赤らんで甘い香りを放っていた。
「ここんとこ毎回貰っちまってねえか」
流川に労いの冷えた麦茶を与えて、桜木は桃を洗いながら口を開いた。水を溜めたボウルの中で、指先に力を入れ過ぎないよう優しく表面を擦る。さらさらとした手触りを楽しむその背中を眺めながら、流川はグラスを呷りごくんと喉を鳴らした。
「母さんがおめーにって言ってんだから、いいだろ」
週末桜木家へ出向く息子に手作りの惣菜を手土産として持たせていた流川の母は、蒸し暑い日が続くようになると、代わりに季節ものの青果物を用意してくれるようになった。始まりは小玉西瓜だった。桜木がとても喜んでいたと報告する息子の、滅多にない柔らかな表情に、母は納得し微笑んだ。以来、流川は度々夏の味覚を桜木に届けて、恋人の綻ぶ顔を見ては満足そうに麦茶を飲んでいる。
「おめー、ちゃんとお母サマにお礼言っといてくれよ」
「言ってるし、またうちに連れて来いって言われてる」
「ふぬ……!」
流川の返答に桜木は押し黙り、照れ臭そうに背を丸めた。いつも優しく歓迎してくれる恋人の家族にこそばゆい気持ちを抱きながら、包丁を握る手に改めて力を込める。桃の切り方がいまいち分からなかったが、とりあえず窪みに沿って刃を入れてみた。刃が当たったことで中心部の種に気付き、果実を転がして切れ込みを一周させる。一度包丁を置いて、両手で実を半分に割る。想像より種が果肉から剥がれず、果汁が桜木の手を濡らして、まな板の上に滴った。実の半分に残った種を包丁のあごで外して、ようやく二つに割れた実が並ぶ。二つ目の桃も同じように割って、ここまでも一苦労だったが、問題は皮だ。林檎のような剥き方をイメージして一度刃を当ててみるが、薄い皮との相性が悪い。包丁は諦めて、爪先で皮の端を摘み引っ張る。薄い皮は脆く引っ張られる力に負け、途中で千切れてしまう。想像以上に剥きにくいそれに苛々としながらも、桜木は仕方なく地道に皮を剥がしていく。瑞々しい果汁が溢れては滴り、桜木の指を滑らせ邪魔をした。だからと言って力を入れると指が簡単に果肉に食い込み傷をつけてしまう。できるだけ優しく持ち直して、ぬめった音を立てながら、大きな体に不釣り合いな繊細な作業に没頭する──集中するうちに背後にゆっくりと近付く気配は、完全に桜木の意識の外にあった。
「うおっ」
皮を剥がしつるりとした薄黄檗色の実を包丁で等分したところで、桜木はようやく自分の肩越しに桃を見ている流川に気付いた。てめーいつからいやがった、と声を掛けるも、返事は無い。代わりにその瞳は熱心に桜木の手元を見詰めているので、桜木は一つ閃いて、仕方ねえなと呟いた。
「食いしん坊キツネめ、オラ口開けろ」
切り分けた桃を一つ摘むと、流川の口元へ近付ける。ぶっきら棒な話し方とは裏腹に、ふに、と優しく唇へ押し当てられるそれを、流川は大人しく頬張った。もぐもぐと咀嚼する流川を見て自然と口角を上げた桜木は、残りの桃を皿へ移しながら、一片自分の口の中へ放り込む。滑らかな果肉に歯を立てると、甘さと果汁が溢れ出るように広がって、桜木の舌を喜ばせた。このままでも美味だが、緩い果肉が勿体無いような気もする。一度冷やした方がいいかもな、と桜木が独り言ちたその時──皿に伸ばしたその手を、不意に流川が捕らえた。
「おい、残りは冷やしてから──」
流川が食い意地を張っているのだと思い咎めた声が不自然に途切れて、部屋が一瞬静まり返った。桜木の手首を掴んだ流川が、果汁で濡れた指先に、まるでそうするのが当然とでも言うように、そのまま唇を寄せたからである。
「──!?」
衝撃の余り声を失った桜木は、次の瞬間、流川の舌が自分の指に絡むのを目の当たりにして、ボンッと音が出そうな勢いで顔を真っ赤に染め上げた。
「なっ、おま、何して……っ、」
動揺で上擦る声を無視して、流川は桜木の手に伝う甘露を丹念に舐め取ろうと僅かに身を屈める。骨張った太い指の先から付け根、指と指の間まで丁寧に舌を這わせて、手のひらに唇を押し付けて吸い付くと、ちゅっと濡れた音を立てた。柔らかな唇と舌が優しく何度も触れて、まるで労わるような愛撫に、桜木はその手を無理に振り払うことができず、硬直したまま流川を見詰めていた。
「ル、カワ……」
熱っぽく名前を呼ばれ、緩やかに息を上げながら、流川が目を細める。桜木の声が引き金になったのか、熱気の籠る口腔を僅かに開いて、恋人の指を第二関節程まで咥え込むと、味わうようにゆっくりと舌を絡めながら唇で吸い付いた。
「ッ、おい、」
ぬるりとした舌が纏わり付く感触に、桜木の背筋がぞくりと甘く痺れる。桜木の手首を強い力で握り固定したまま、流川が頭を逸らしゆっくりと唇から硬い指を抜いて、やがて解放される既の所で、同じくらい時間をかけてまた口内へ仕舞い込んだ。満ちていく圧迫感に浸るように流川が瞳を閉じる。伏せられた睫毛が微かに震えている。熱い舌が流川の興奮を伝えて、桜木の理性をぐらぐらと蝕む。それは最早、紛れも無く──。
「……ってめー、いい加減にしろ」
「っ、」
溢れる蜜の如く唾液を纏った流川の舌に、桜木は窘めるように指先を押し付けた。熱く濡れそぼった肉をぐにぐにと捏ねて、そのまま喉奥へ指を押し込む。根元まで遠慮無く咥え込まされ、流川はくぐもった声を漏らすと共に僅かに眉根を寄せた。
「煽るような真似すんな」
ギリギリ繋ぎ止めた理性をもって桜木が指を引き抜こうとすると、しかし、逃がさないと言うように、流川が再びその腕を捕まえる。唇が開かれ、はあ、と溢れた熱い息が、桜木の手を湿らせた。蜜の滴る口内を、蠢く赤い舌を見せつけられて、桜木は呼吸を忘れて、目の前に火花が散った。
「真似じゃねー」
流川の瞳がぎらりと光る。
「煽ってる」
「!」
その言葉に桜木が目を見開いた瞬間、途中まで抜けかけていた指が再びずぷりと呑み込まれる。挑発的な眼差しに、艶かしい音を立てる唇に、桜木はあっという間に目が釘付けになって、流川の全てを自分のものにしたいという欲望に身の内が焦がれて仕方がなくなってしまった。桜木の焦燥を知ってか知らずか、流川がその目を見詰めて止めとばかりに囁く。
「……さくらぎ、」
早く、と強請るように、指に甘く歯を立てられたその瞬間、桜木はぎりりと奥歯を噛み締め、流川の口から乱暴に指を引き抜いた。
「んっ、!」
不意を突かれ指を逃してしまった流川が悔しそうに顔を歪める。桜木の指先と流川の唇を繋ぐ細い銀糸が、やがてゆっくりと重力に負けて途切れるまで、互いに途方も無い興奮に呼吸を乱しながら、黙って見詰め合うことしかできなかった。
「……ックソ!」
先に動いたのは桜木だった。まだ流川の口内の全てを覚えている指先を、熱を帯びた瞳で一瞥すると、もう一方の手で桃を乗せた皿を引っ掴み、見るからに余裕無く冷蔵庫にぶちこんだ。冷たいスチールに爪を立てて、はっ、はっ、と獣のような息遣いで肩を上下させながら、期待に立ち尽くす流川に再び向き直る。
「……てめーのせいだぞ」
桜木は爛々としたその目に流川だけを映して、熟れた桃より甘い色香を放つその身を強引に抱き寄せた。桜木を想い溢れる蜜を余すことなく平らげようと、無我夢中で喰らい付いて、二人は夏の午後に溶け合うように一つになった。
「切り込み入れて、お湯につけると剥きやすいらしー」
汗に塗れた体をシャワーで清めさっぱりした流川は、しっかり冷えた桃を齧りながら唐突にそう言った。あまりの脈絡の無さに、咀嚼していた桃を飲み込んでから、桜木が首を傾げる。
「何が?」
「桃の皮。……母さんが言ってた」
体力を消耗し気怠そうな流川は、いつも以上にスローペースで言葉を紡ぐ。聞けば、桃を用意した流川の母は、皮を剥くのは息子では無いのだろうことを見越して、簡単な剥き方を息子に教えて、桜木へ伝えるようにと念を押してくれていたらしかった。何故そんな大事なことをこのタイミングで聞かされているのか、あのちまちまと桃と格闘した時間はなんだったのか、桜木はがっくりと肩を落とすと恨めし気な眼差しを恋人に向ける。
「てめー、なんでそれ剥いてる時に言わねえんだよ……」
「……言おうとした」
「はあ?」
流川は齧りかけの桃をぱくりと口の中に収めると、数回よく噛んでから飲み込んだ。何のことはないごく普通に食事をする流川のその唇を、今の今まで夢中になって貪っていたのだと、桜木はつい目で追ってしまう自分の未練がましさを自覚し苛々と眉間に皺を刻んだ。桜木の指を舐り、舐られ、心なしか腫れぼったい唇で、流川は話し続ける。
「言おうと思ったら、おめーが指で皮剥いてたから、もう遅かった」
「この野郎、」
「俺のためにてめーが一生懸命剥いてるの見るの、悪くなかったし」
「ん?」
「ぐちゃぐちゃに手汚してるの、エロかったし」
「……は!?」
流川の告白はいつも突然で、その癖本人は顔色一つ変えないのでたちが悪い。驚愕した桜木は、何か言い返そうと試みるが言葉が見つからず、みるみる赤くなっているであろう自分の顔を両の手で隠すように覆うと、そのままヘナヘナと食卓に突っ伏した。盛大な溜息と共に、消え入りそうな声が漏れる。
「……おめー、急にスイッチ入ったから、変だなと思ったら……」
「てめーのせい」
「ふぬっ」
自分の言葉にとうとう耳まで赤くして縮こまる桜木に、流川は僅かに頬を緩める。唸る桜木にお構い無く、皿の上の桃にフォークを突き立てて、次は何を持ってきてやろうかと思案しながら、濡れた唇をこっそり舐めた。