海を刺繍する頬 乗車する時はいつも少しだけ身を屈めるのが習慣になっていた。二人くぐるようにドアを抜けて、深碧のロングシートに腰を下ろす。当然のように流川が身を委ねてきたので、桜木は動揺したが、結局は黙ってそれを受け止めた。乗客は疎らだったが、コンパクトな車内に不釣り合いな体格の男二人はどうしても注目の的になってしまい、桜木は照れて顔が火照る。しかし、流川の寝不足の原因は自分にあると分かっているので、咎めることはできなかった。目的地までの僅かな移動時間に恋人に肩を貸すくらいどうと言う事はない。深呼吸の後、拳に力を込めて、桜木は車窓を流れる景色を眺めることで気を紛らわそうと試みる。結局、肩に感じる流川の重みと体温にどうしても意識を奪われて、全ては焼け石に水だった。
手を伸ばせば届きそうな距離感を保ちながら、グリーンの車体は住宅地の間を縫うように進んでいく。目的地へ近付くに連れて乗客が少しずつ増え、車内は家族連れや観光客で休日らしい賑わいがあった。次の駅への到着を告げるアナウンスが流れると、電車は緩やかに速度を落としていく。目的地の駅のホームが見えて、桜木は流川の体を軽くゆすった。
「キツネ、起きろ。もう着くぞ」
桜木は、のろのろと体を起こした流川を半ば引っ張るように立ち上がらせて、他の乗客と共に塊になって電車を降りた。明るい日の下へ足を踏み出す瞬間、視界が眩しい白に染まった。寝惚け眼を擦る流川を支えながら、半分ほどに減った乗客を乗せて次の駅へと走り始めた小振りな姿を見送る。肌に纏わり付く湿っぽい空気を感じながら、改札を出て、線路を渡って、二人は人々と同じ方向へ歩き出す。この駅で降りた者の目的地は同じだ。誰も彼も皆、この道の先にある、まだ見ぬ海を目指している。
駅から続く道は、住宅街に混じるようにぽつぽつと飲食店が並び、道行く人々を歓迎していた。そろそろ昼時ということもあり、それぞれの店先には人集りができて、徐々に賑わい始めている。わくわくと好奇心に満ちた様子で辺りを見回しながら、桜木が感慨深そうに言う。
「久しぶりに来たけど、結構人いるんだな。前来た時はもっと空いてたぜ」
「前っていつ?」
「中学の時、洋平たちと学校フケてよ。高宮がたこせん食いてえって言い出してな」
「……平日の昼間だったら、今日よりは空いてるんじゃねーの」
「ふぬ……!」
流川の言葉にぎくりとした桜木は、ジトっとした流川の視線から目を逸らすと、誤魔化すようにわざとらしく一つ咳払いをして話し続ける。
「そ、そういうおめーはどうなんだよ。来たことあんのか」
「……子供の頃来たけど、覚えてねー」
「何だそりゃ、薄情なキツネだな」
流川は、桜木の物言いにムッとして言い返そうと口を開いた。しかし、自分の肩越しに何かを見つけた桜木の瞳がきらりと光ったので、思わず釣られて視線の先を追った──次の瞬間、風に靡く色取り取りのシャツに目を奪われる。
「……!」
二人が出会したのは、南国情緒漂う雑貨屋だった。アーチ状のカーポートの下には、海を目指す人々の心をくすぐるような品々が所狭しと並べられている。アロハシャツに描かれた海洋生物は、風を受けゆっくりと揺れる度、本当に波間を泳いでいるように見えた。鮮やかな蝶が羽を広げるようにビーチサンダルが並び、色も形も様々なアクセサリーが太陽の光を受けて煌めいていた。
「ちょっと見てっていいか?」
そわそわした声音でそう言いながら、流川の返答を待たず桜木が進路を外れたので、流川も無言でその後に続いた。桜木は、髪色こそ派手だが私服はいつもシンプルで、アクセサリーの類いも身に着けない。しかし、その場の空気に感化されやすいところがあるから、海を想像させるラインナップにテンションが上がったのだろう、と流川は思った。案の定桜木は、普段なら見向きもしなそうなビーズのブレスレットを興味深そうに眺めている。けれど、好奇心で子供のように瞳を輝かせるその横顔を独り占めしているこの状況は、流川に密かな優越感を与えた。
「……おめー、どれがいい?」
「……?」
不意に桜木がちらりと視線を寄越したので、黙って桜木の気が済むのを待つのみと思っていた流川は意図が分からず少し眉を寄せた。
「何が?」
「っだから、……」
流川の反応に、桜木は言いにくそうに歯噛みして、暫く言葉を詰まらせた。不安定に彷徨う瞳は流川の顔を見ることができず、少し俯いてもう一度、絞り出すような声で言う。
「……二人で同じの買いてえんだけど、どれがいい」
言いながら、みるみる真っ赤に染まっていく桜木の横顔を、流川はじっと見詰めていた。見詰めながら、桜木がこの店に立ち寄った本当の目的に今更気付いて、じわじわと己の頬も熱くなっていくのを感じていた。楽しそうな桜木を見て心地良く弾んでいた心が、途端に気も漫ろになって、それを自覚すればする程、どう立ち回ればいいか分からなくなる。桜木と出会って、流川は初めて知る感情が増えた。向き合い、理解して、答えを出すまでに時間がかかってしまう。難解で厄介で、自分が自分じゃないみたいで、けれどそれは、不思議と嫌な気持ちはしないのだった。
「っ……あー、なんつーか、」
何も言わない流川に不安を覚えたのか、沈黙に耐えかねた桜木が俯いたまま口を開いた。
「その、あれだ、ちょっと思い付きで言ってみただけだから、嫌なら別に──」
「これがいい」
「!」
何故かその先を言わせたくなくて、続く言葉を遮るように流川の体が動いた。思いがけなく目の前に突き出された拳に、桜木は一瞬固まって、それからゆっくり顔を上げる。よく見ると、流川の手にはシンプルなミサンガのブレスレットが握られていた。驚き、何も言えず瞳を瞬く桜木に、拳の主が自信に満ちた声で宣言する。
「どあほうっぽい」
「オレ?どこがだよ」
「桜」
「桜ぁ?」
続く予想外の一言に訝しげな眼差しを送るが、流川の真っ直ぐな瞳に気圧され、桜木は改めてブレスレットを見た。こんな南国を想起させるような店で、そんな商品あるのだろうか?と首を傾げながら目を凝らすと、ブレスレットの中心に銀色のビーズがついているのを見つけた。小さなそれは花を模していて、五枚花弁がついている。
「……まあ確かに、言われてみればそう見えるかもしれねえけど……」
桜木は、人差し指でちょんとビーズをつついた。
「ハイビスカスじゃねえか?これ」
桜木の返答に、流川は目をぱちくりさせると、ちらりとブレスレットを見て、ムッと顔を顰めた。
「……桜にしか見えん」
「……ふっ、くく、」
大真面目な流川のトーンに、桜木は思わず吹き出した。そのまま堪え切れず声を上げて笑い出すので、先ほどまでの戸惑いを感じさせない屈託のない様子に、流川は安堵すると共に、少しだけ唇を尖らせる。
「……別のにする」
「いや、待てよ、これにしようぜ」
拳を引っ込め、陳列棚に戻そうとした流川の腕を、桜木が優しく制した。そうして、何故と問い掛ける瞳を、今度こそしっかり見詰め返しながら、照れ臭そうに笑って言った。
「この花見る度、今日のこと思い出せそうだから」
購入したブレスレットを包みから出して、改めてそれを嬉しそうに眺める桜木を見て、流川は満更でもない気持ちになった。桜木を真似てブレスレットを取り出し、とりあえず手首に当ててみるが、その先はどうしていいか分からず、そのままの姿勢で固まってしまう。流川は桜木以上にアクセサリーの類に疎かった。
「……おい」
「あ?」
「着けらんねー、これ」
「つ、着けるのか!?」
腕を差し出すと、桜木が目を丸くして背を逸らしたので、仰々しい反応に流川は思わず舌打ちする。
「そのために買ったんじゃねーのか」
「そっ、そりゃ、そうだけどよ、」
「ならさっさとしろ」
「……っ」
桜木はまだ何か言いたそうな顔だったが、やがて覚悟を決めたように口を真一文字に結ぶと、流川から慎重にブレスレットを受け取って、恋人の左手首にそっと触れた。まるでガラスを扱うかのような分かりやすくぎこちない動作に、流川がぼそっと呟く。
「……なんで緊張してんだ」
「うっ、うるせえ!黙ってろ」
流川にじっと見守られる中、桜木はその手首にブレスレットを一周させる。端と端を二度交差させると、最後に少し強めに引いて、解けないようにきゅっと結んだ。
「……ほらよ」
ぶっきらぼうな声に完成を告げられ、流川は、ほう、と手首に結ばれたブレスレットをしげしげと眺めた。青空の下、日差しを浴びて、銀色の花がキラリと光る。小さな輝きは、流川の瞳に反射して、海の水光のようにいつまでも消えなかった。
「どーも」
「……おう」
「じゃあ、おめーのも寄越せ」
「……え?」
「一人じゃ着けれねーだろ」
「……」
自分が着けたブレスレットを物珍しそうに眺める恋人を見て、半ば満足していた桜木は、流川からの提案に瞠目する。両手を使うために一度ポケットへ仕舞っていたブレスレットを引っ張り出すと、暫しそれを見詰めてから、流川にそろそろと差し出した。
「……お願いシマス」
「ん」
桜木のブレスレットを受け取って、今度は流川が恋人の手首にそれを絡めた。桜木が流川にしてくれた手順を思い浮かべながら、両端を二度交差させる。指先を使うちまちました作業はなかなか捗らず、慣れない手付きで時間を要した。降ってくると思われた揶揄いの声は無く、それどころか桜木が終始無言だったので、流川はむしろ奇妙な気持ちにさせられた。しかし、なんとかブレスレットを結び終えて顔を上げた時、目の前の男と視線が絡んで思い知る──耳まで染めた桜木が、流川だけを瞳に映して、この瞬間全てを焼き付けようと必死だったことを。
「……っ」
桜木の、愛おしいと切ない程語る瞳に、誰の目にも明らかな程恋をしている表情に、完全に油断していた流川は面食らい、思わず目を伏せた。気圧された悔しさと照れ臭さに唇を噛んで、跳ねた心臓を宥めるように、無意識に上着の胸元を押さえる。結局は、ダイレクトに感じる自分の鼓動に、桜木への恋心をまざまざと自覚させられて、余計に悔しいだけだった。
「……どあほう。いつまで見てんだ」
「……え?……あ、」
流川の一言に桜木はようやく我に返って、もう既に赤い顔を、更に湯気まで昇りそうな程染めて慌てふためいた。
「わっ、悪い、なんか無意識だった……っき、キツネにしてはなかなか上手くできてんじゃねえか、これ」
自分の左手首を飾るブレスレットを少し掲げて、思い出したように早口で茶化し始めた桜木に、流川は深い溜息を吐く。無意識に見惚れていた方が余程恥ずかしいのに、それを白状していることに気付かない男に調子を狂わされていたのかと思うと腹立たしくなって、失いかけていた平常心を少しづつ取り戻せそうだった。
「そろそろ行くか。まだ全然途中だしな」
おめーのせい、とは言わなかった。自分の左手首を眺めて目を細める桜木を前に、流川もここに立ち寄って良かったと感じていたからだ。代わりに、取り急ぎ解決したい問題を簡潔に桜木に伝える。
「腹減った」
桜木も同じ問題を抱えていたようで、二人は示し合わせたように連れ立って歩き始めると、行き交う人々の流れに戻って行った。
「リョーちんが言ってた店までもうちょっとだから、そこに寄ってみようぜ」
「混んでるかも」
「昼時だからある程度は仕方ねえ。でも、リョーちんはその店穴場だって言ってた」
「海鮮丼屋?」
「おう。でも普通の定食とか、他にもいろいろあるらしい」
楽しみだな、と笑う桜木に、流川も素直に頷いた。海も、潮風も、海幸も、二人にとっては日常の中にあるものなので、特別珍しさはない。けれど、訪れる人々による開放的な雰囲気がそうさせるのか、二人の心もそわそわして、並ぶ肩は自然と近付いた。もっと日が落ちたら、海辺のムードに力を借りて、手を繋いだっていいかもしれないと、お互いに意識していることは知らない。
恋人の手首に自分がつけた印が煌めくのを認める度、二人は果ての海へと近付いていった。