波のフリルで踊っていてよ 波の音と混じる歓喜の声が、夏の青空へ吸い込まれていく。太陽に焼かれた熱い砂の上を素足で駆けていく少年たちの後には、脱ぎ捨てられたスニーカーが残った。光る青海原は手招くように波を寄せて返し、目にした者の心を永遠に炎夏に留めようとしていた。
「──全く、あんなにはしゃいじゃって」
パラソルの下で太陽から身を隠しながら、彩子が困ったように笑った。その視線の先には、部員たちに混ざってすっかり役目を忘れている宮城がいる。
時折ランニングコースにしている浜辺を訪れた湘北高校バスケットボール部は、いつもより賑わいを見せるその場所が、数日前に海開きをしたのだと分かって、皆少しだけ浮き足立っていた。予定通りランニングを終えたものの、そわそわしている部員たちの様子に、キャプテンの宮城から「十分だけだぞ」とお許しが出たので、部員一同束の間の休息を取ることになったのである。
宮城は、彩子のために海の家からパラソルを借りてきて、一目散に海へ駆け出した後輩たちに、「あんまり羽目外すんじゃねぞ」と声を掛けて一歩引いていたはずだった。しかし、桜木に呼ばれて、安田に背中を押されて、気付いたら濡れた前髪が少し崩れるくらい夢中になっている。彩子はやれやれと肩を竦めて──しかしその眼差しは裏腹に優しい──ふと隣で大きな体を窮屈そうにしている後輩に、「それにしても」と話し掛けた。
「あんたが残るとは思ってなかったけどね」
彩子の言葉に、後輩──流川が曖昧に俯いた。彼女の指摘通り、他の部員たちと違って海に興味がなかった流川は、突如与えられた休憩時間に、先に一人で体育館に戻って個人練習をして皆の戻りを待とうと思った。しかし、それを引き止めたのは、一人の男の存在だった。太陽みたいな笑顔を浮かべて、誰よりもこの状況を楽しんでいる恋人──桜木が、先に切り上げようとしていた流川に、「おめーも早く来いよ」と快活に笑ったから。目の前で火花が弾けたような感覚の後、流川の足は砂の上から動けなくなった。とどのつまり、楽しそうな恋人の姿を眺めていたいと思ったので、理由は誰にも告げず、彩子と一緒にパラソルの下に潜り込むことにしたのだ。
熱風に頬を撫でられた流川が、短い溜息を吐くだけで、浜辺は静かに色めき立った。女性客からちらちらと熱い眼差しを送られながら、しかし流川の目に映ることを許されたのは、桜木花道たった一人だけだった。桜木の、燃える太陽のように赤い髪は、青い空と海を背に一層際立ち、鮮やかなコントラストを描いていた。光を受けた飛沫がキラキラと舞って、まるで桜木の存在を祝福しているようだった。流川は、その一瞬を切り取って、額縁に飾りたくなるほど美しい一夏の景色を、永遠に閉じ込められない代わりに、網膜に焼き付けようとただひらすらに目で追っていた。
桜木は早々に水をかなり被って、体に張り付く鬱陶しいTシャツを躊躇無く脱ぎ捨て、上半身裸になっていた。ハーフパンツを履いているので、遠目から見ると水着で遊びに来たような出立になっている。この調子では、そのうち全身ずぶ濡れになって、帰り道には泣き言を言っていそうだなと、流川はぼんやりその様を想像して、彩子に気付かれないよう少し口元を緩めた。
ふと、桜木に近付く人影に気付いて、流川は空想を止めて目を見張る。更には、その人物に声を掛けられた桜木がそれに応えて、あろうことか会話を始めたので、流川はいよいよ我が目を疑った。その人物が、どう見ても桜木とは縁が無さそうな、水着姿の少女だったからである。
「あら、誰かしらあの子」
突然現れたその少女に気付いて、彩子も首を傾げる。流川は返事をするのを忘れて黙り込んだまま、注意深く二人を見つめていた。おそらく同世代らしい少女と桜木の声はここまでは届かず、会話の内容が分からなくて、流川は無意識のうちに眉間に皺を寄せる。程なくして、少女が軽く会釈して立ち去った。少女に応えるように片手を振った桜木を見た瞬間、流川は立ち上がり、驚く彩子を置き去りにして、気付けば桜木との距離を縮めるべく、大股で砂の上を直進していた。
「おい」
流川の呼び掛けに、桜木が振り向いた。その顔が明るく綻んだので、自分を見て嬉しそうな様子に単純に心が弾むが、同時に胸に立ち込めるモヤモヤした気持ちが拭えず、流川は唇を尖らせる。
「ルカワ!やっと来たのかよ、おせえぞ」
「今の誰」
「は?」
きょとんとした桜木に苛つきながら、流川が横目でちらりと見ると、少し離れた場所で友人たちと合流した先ほどの少女と目が合った。その瞬間に、彼女が完全に桜木を意識していると確信して、流川はますます面白くない気持ちになる。そんな恋人の胸中には気付かず、流川の視線の先を素直に追った桜木は、「ああ、」と思い出したように口を開いた。
「さっきランニング終わりにすれ違ったんだよ。砂で縺れてコケそうだったから、手貸しただけなんだけど、そのお礼にって声掛けてくれてよ」
「……」
「それより、おめーもさっさと来いよ!なんでまだそんなの着てんだ、見てるだけで暑くて倒れそうだぜ」
桜木は、流川の長袖のジャージを摘んで軽く引っ張ると、げんなりした顔で項垂れた。すると、流川が無言のまま、徐にジャージを脱ぎ始める。やっと海で遊ぶ気になったのかと期待する桜木の目の前に、脱いだばかりの上着をずいっと差し出して、流川が言った。
「着ろ」
突拍子の無い一言に、桜木は顔を顰める。
「はあ?なんでだよ、このクソ暑いのに」
桜木の拒絶は至極全うだった。流川だって、この炎天下で、他人が脱ぎ着したばかりの、しかも長袖のジャージなんて絶対着たくないと思うだろう。しかし、桜木と対面した今、流川はどうしても彼に上着を着せたかった。桜木の剥き出しの肌は水に濡れて、陽光に照らされ、逞しく、健康的な肉体美が強調されていた。そんな姿で、天真爛漫な笑みを浮かべて波と戯れている桜木が、誰かの心を奪ってしまうことを流川は危惧したのだ。
部員たちには周知の事実だが、元々桜木は人懐こいところがあり、誰にでも分け隔ての無いさっぱりとした性格である。学校内では不良のイメージが先行しているが、彼の自然な優しさに気付いて、魅了されてしまう者がいてもなんらおかしくはない。増して、今のように無邪気な笑顔を見せていれば、見る者の警戒心は解かれ、青い空と海が彼の魅力を引き立てて、一夏の思い出にと淡い期待に突き動かされてしまう者もいるだろう──先ほどの少女のように。
流川は、自分とは違う桜木の明るさや、その優しさを愛しているが、今、それを独り占めしたいという強い衝動に駆られた。桜木は、沈黙する流川を不思議そうに見つめていた。その首筋を滑る雫に、冷房の効きが甘い部屋で抱き合った日の汗を思い出して、流川の理性は悪戯に刺激されてしまう。夏の寵愛を受けて艶かしい恋人の体を、他の誰の目にも晒したくないと思った。
「……中学の時」
「あ?」
「日焼けが痛すぎてバスケできなくなった先輩がいた」
「……マジ?」
「マジ」
大嘘である。どう見ても法螺話をしていますと顔に書いてある流川を、しかし、桜木は問い詰めることはしなかった。あの流川が冗談を言うとは思えなくて、逆に妙な信憑性を感じてしまったからである。そしてそれ以上に、「バスケができなくなる」という言葉が、桜木の背筋を凍らせたのだった。
「……仕方ねえな」
桜木は渋々流川から上着を受け取って袖を通した。流川の眼差しに気圧されて、チャックを胸の高さまで上げると、むすっとして唇を尖らせる。流川はそれを満足そうに見届けると、無言で踵を返してまた砂の上を歩き始めた。その背中に、「結局来ねえのかよ!」と桜木が声を張り上げて、呼応するように波音が響いた。
パラソルへ戻ってきた流川を、一部始終見ていた彩子がニヤニヤと出迎えた。付き合いの長い後輩の新たな一面に出会して、飛び切り上機嫌な笑顔である。
「そういうこと」
ひどく楽しそうな声を無視して、流川は小さく溜息を吐くと、火照る頬を隠すように顔を背けた。聞かれてもいないのに、頬の熱さは強い日差しを浴びたせいなのだと、心の中で言い訳をしながら。