綻び 廃屋の玄関を何度もしつこく叩く音に参ったなァ、と頭を掻く。これから一日の疲れをさっぱり落として長湯を楽しむところだったのに。ねずみ男が性懲りも無く追いかけてきたに違いない。とはいえ無視すると、返って面倒事に巻き込まれそうなので「うるさいぞ。押し売りは勘弁してくれ」と答える。
「君が鬼太郎くんか」
ややあって訝しむような男の声がした。こちらの返答を待たずして「初めまして、私は田中だ。水木から君のことを頼まれている」と穏やかな口調で答える。そこに敵意は感じられない。
「……オジサンは出張してますよ。何かあったんですか?」
戸を開けるとくたびれたスーツ姿の男が立っていた。鬼太郎は少し思案し、不安そうな声色に変えて見上げる。眩しい月明かりが男に影を落として表情はよく分からない。
「恐らくね。しばらく連絡が取れないんだ。彼は、もしそうなった時にこれを君に渡すようにと」
ささくれの目立つ大きな右手に握られていたのは通帳と印鑑。名義には『田中ゲタ吉』と書かれている。鬼太郎はほとんど反射のように奪い取りつつ、首を傾げた。
「ええと……お名前が違うようなんですが」
「いや合ってるよ。正確には、今日から君はこの名前になる。僕の養子で戸籍を取得して水木の遺産を通帳に入れておいた。昔のよしみで役人と繋がりがあるんだ。でも余計な詮索はしないでほしい」
男は一気に捲し立てると「まぁ、逞しい君なら心得てるだろうけど」と付け加える。どこか高圧的な様相は、責任を問う裁判官のような厳しさがあった。多分この人は理解せずとも感じているのだろう。水木が姿を消した要因について。
鬼太郎は取り繕うのをやめて「ええ、わかりました“お義父さん”。ぼくは金さえあれば十分サ」と通帳をぺらぺら捲った。ゼロの桁数をひー、ふー……と数えて思わず口の端が緩む。これでいくつの煙草を買えるだろうか。ああ、女の子たちがたくさんいるお店にも通えるぞ。大きく膨らんだ妄想は、やがて目前の男への即物的な感謝の気持ちに変わった。
「へへ……ありがとうございます」
「礼には及ばないよ。義父と呼ぶ必要もない。君とは金輪際、会うことはないだろう」
男の声に底知れない怒気が滲んでいた。はらわたから出るような憤怒は、鬼太郎の心臓をどきりと跳ねさせる。
「僕はね、」と男が続ける。
「君の代わりに水木を還してほしい。君を恨みたい。僕達はようやく戦争から逃れたのに、こんな結末は受け入れたくない」
月光が青白い炎のように男の体を縁取っていた。悪びれもせず「喋りすぎたな。では失敬」と挨拶を告げ、ゆらりと踵を返して暗闇の方向へ歩き始める。軍隊を思わせる単調な足音が遠ざかってゆく。鬼太郎は素直に恐怖で硬直した。お人好しのマヌケだと思っていた水木に、まるで獄卒のような知人がいたとは。
でもなァ……と、鬼太郎はすぐに体の緊張をほどいてポケットを探る。一本を取り出して咥えると、すでに見えなくなった後姿を嘲笑った。
「死んだらすべてお仕舞いなんですよ」
あの男と水木がどんな関係にせよ、彼らが再び出会える日は一生来ない。どれだけ怒りや憎しみを抱えようとも死者を甦らせる術をもたない人間にできることは、忘れることだけだ。早く忘れてしまえば楽になれる。
鬼太郎は煙草を燻らせながら、おずおずと頭を撫でてきた無骨な掌と濁流に飲まれる間際の両目を思い出す。彼の湿った手汗とあの日のぜつを覚えているのは、この世でぼくだけでいい。