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    美晴🌸

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    美晴🌸

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    もうすぐ折れてしまう一振り目の鶴丸と大倶利伽羅を見守る二振り目の鶴丸の話です。

    #くりつる
    reduceTheNumberOfArrows

    ドッペルゲンガー、恋を知る  ――きみは、ドッペルゲンガーというものを知っているだろうか。
     まあ、そうだろうな。
     簡単に説明してしまえば、自分そっくりの姿をした分身、幻覚の一種ってもんらしい。面白いのは、自分のドッペルゲンガーを2回見てしまうと、見たやつは死んでしまうっていう噂だ。もちろん、噂に過ぎない。本物のドッペルゲンガーは周囲の人間と会話をしないらしいしな。ま、残念ながら俺も、本物のドッペルゲンガーを見たやつと会ったことはないが。
     訳がわからない、という顔をしているな。俺たちもそうだった。「それ」が現れたのは唐突で、どうしたらいいのか、俺たちも、主も、わかるはずがなかった。ただひとつ確かなのは、「それ」が現れたら、近いうちに同じ姿をした者は折れてしまう。だから便宜上、俺たちは「それ」をドッペルゲンガーと呼んだ。
     きみは、俺のドッペルゲンガーというわけだ。
     鶴丸国永。俺の、分身。まだちゃんと顕現できていない、二振り目。

     気がついたら、そこにいた。
     というのが正しいのだと思う。
     ここまで歩いてきた記憶どころか自分が瞼を開けたという認識すらもなかったが、ただ、ぽつんと、鶴丸国永は廊下の真ん中に立っていた。
     くるり、とその場で軽く回り、周囲を見渡す。庭に面した長い廊下。辺りには誰もいなかったが、遠く、高い声が聞こえてくる。子供の声だ。見れば、聞けば、それをきっかけとして「在る」という感覚が自分の中で広がり、自分は刀剣男士と呼ばれる存在であることを、思い出したのだった。
     刀剣男士とは、歴史を守るために審神者に隆起され戦う付喪神のことである。自分でも覚えたはずのない知識が、知らぬ間にしっかりと根付いていた。
     しかし。
     はて、と鶴丸は首を傾げた。自分はそもそも、その審神者に会った記憶がない。隆起されたという感覚もない。なぜ自分はこんなところでひとり、立っているのだろう。
     まあ、いいか。楽観的に鶴丸は足を踏み出した。歩き続けていれば、どこかで誰かに出会うだろう。そうしたら、話を聞いてみればいい。まずは声の聞こえてきた場所、子供たちのいる方へ向かうとする。そこに、自分の主となる者がいるかもしれない。
     雲ひとつない快晴である。季節は春に差し掛かったころだろうか。庭の花壇にはまだ咲いている花こそはなかったが、小さな芽が土から覗いていた。誰かが育て、手入れしているのだと思うと、これからその者たちと出会い話すのが楽しみな気持ちが増していく。
     声は庭の先、塀の向こうから聞こえてくるようだった。このまま降りてしまってもいいだろうか。悩んだのは一瞬で、えい、と鶴丸は思い切って縁側から飛び降りる。雨でなくて助かった。汚れるのは、好きじゃない。まだ肉体を持たなかったころから、そういう意識があるのは不思議なことだ。刀は敵の血で汚れてこそ、とは思うが、そうでない汚れはできることなら避けておきたい。ただの刀の付喪神だったころには自分自身を好きにすることは叶わなかったが、今は刀剣男士なのだ。好きなことには手を伸ばし、嫌いなことからは足を遠ざけることができる。ひとまず、自分の思いのまま、鶴丸は声の方へ方へと歩みを進めていった。
     陽気な天気は鶴丸の気分もまた明るくさせる。誰ともすれ違うことはなかったが不安はなかった。自分と同じように顕現した者がほかにもいるのだろうが、自分の知っている刀ははたしているだろうか。長い歴史の中、多くの刀たちと知り合ったが、そのどれも名刀だ。この戦のために喚ばれていてもおかしくはないはずである。
     道具であるから、一度別れてしまえばもう一度運命が交差することは滅多にない。特に鶴丸は多くの場所を渡り歩いてきた刀だ。もう二度と相まみえることはないだろうと思う方が多かった。期待に胸を弾ませるのも、仕方ないことだ。
     声は段々と近づいてくる。我ながら浮かれているなと感じながら、足早にそちらへと向かった。
    「そっち、早く、早く!」
     なんらかの遊戯に興じているのだろう、子供たちが白と黒の混じった球を追いかけている。蹴鞠のようなものだろうか。夢中になっているからか、誰も近づいてきた鶴丸に気がついていないようだった。
     邪魔しても悪いだろうと、鶴丸はのんびりとした気持ちで遊んでいる子供たちを見ていることにした。球はあっちにいったり、こっちにいったり。そのたびに子供たちが声をあげているのが面白い。
     おや、と球遊びをしている子供たちの中によく見知った顔を見つけて、鶴丸は破顔した。平野藤四郎。生真面目で優しい、粟田口の短刀である。では、彼の周りにいるのは彼の兄弟刀たちだろうか。似たような衣装に身を包んでいる。新しい出会いも大切だろうが、やはりよく知った仲の刀に会えるのはうれしい。
     これからの生活に胸を弾ませていると、子供たちのうちの誰かが蹴った球が、鶴丸の方まで転がってきた。思いも寄らない方向だったのだろう。残念そうな声があがる。どれ、拾ってやろうと鶴丸はその球へと手を伸ばした。足下へと辿り着くまでにもう既に転がる速度を落としていたから、造作もないことだ。
     しかし、鶴丸の意思に反してその手は空を切った。あれ、と首を傾げてもう一度球を掴もうとするが、またしてもそれは叶わない。
     混乱している間に、子供たちが鶴丸のもとへと集まってくるが、その誰もが鶴丸を視界に入れているはずなのにまともに鶴丸の顔を見ようともしない。流石にこれはおかしい。鶴丸をよく知っているはずの平野でさえ、挨拶のひとつもせずに、球を拾い上げ背を向けて再び走り出してしまった。その小さな肩にも、鶴丸は触れることができない。呼び止めてみても、振り向く気配はなかった。
     ううむ、と鶴丸は腕を組み、唸った。
     困ったことになった。どうやら自分は不完全に顕現してしまったらしい。
     何にも触れられず、誰にも認識すらされない。肉体を得たと思ったが、これではただの付喪神だったころと変わりないどころか、より悪くなっている。
     はてさて、本当にとんでもなく困ったことになったなあ。
     鶴丸は頭を掻き、ひとまず本丸内を散策することにした。このままぼんやりと子供たちが遊ぶ姿を見ていてもなにも事態は好転しないのだ。もしかしたら、主たる審神者にだったら、自分を認識することができるのかもしれない。とりあえず、僅かな可能性を信じて行動しなければ。主と呼ばれる人物がどこにいるのかもわからなかったけれど。今代の主はいったいどのような人物なのだろうというわくわく感は、はたして自分を認識することができるのかという不安に変わってしまった。驚きは好きだが、こういう心臓に悪いのはよくない。そもそも、今の自分にまともに心臓があるかは、謎ではあったが。
     誰にも聞こえないのならばいいだろうと、少し気分を明るくするため適当に鼻歌を歌いながら来た道を戻ることにした。外よりも屋根の下にいる可能性の方が高いだろうと考えたからだ。外出していたとしても、一日中不在にしていることはないだろう。
     本丸には、多くの気配があった。どうやら自分はこの戦に随分と遅参してしまったようである。惜しい気になるが、挽回しようにもこの状態では戦場に立つこともままならない。はあ、と溜め息を吐いた。
     歩いているうちに刀剣男士と思われる者と何度もすれ違ったが、やはりその誰もが、鶴丸のことを認識できないようであった。なかには平野と同じように昔馴染みである刀もいたから、無視されるのはなんとも寂しいものである。見えないだけで触れるのだったら、その頬を引っ張ってやるのに。おい、聞いているのか一期一振。聞こえていないんだった。舌打ちしたくなる気持ちを抑えて、ぶらぶらと屋敷の中を歩く。
     全体的に和風建築ではあったものの、灯りなどはやはり現代の技術が多用されているようだった。審神者は現代の人間なのだからいっそすべて現代風にすればいいのにとも思うが、大名屋敷のような造りは懐かしく気分を落ち着かせる。こういう居城は時の政府が用意したものなのだろうか。興味深い。
     状況も忘れ、ちょっとした探検気分で歩き回っていると、背後でなにかが落ちた音がした。思わずそちらを振り返ると、白が目に入る。
     白い髪に白い肌。白い衣服に身を包んだその人物は、紛れもなく「鶴丸国永」だった。
     金色の瞳をまん丸に見開き、こちらを凝視している。初めて自分を認識したのは、まさかのもう一振りの自分だった。
    「きみ、俺が見えるのかい」
    「あ、ああ」
     鶴丸の呼びかけに、相手は頷き、それからたった今自分が床に落としてしまったものを拾い上げた。何冊かの書物が折れ曲がっていないかを確認している様子は、動揺を落ち着かせているようでもあった。
    「困ったことに、誰も俺のことが見えないし、声も聞こえないらしい。きみが初めて俺を認識できたやつだ」
     この本丸には既に鶴丸国永がいたらしい。そうすると、鶴丸は二振り目というわけか。既に鶴丸国永が存在しているというのに、なぜ主は鶴丸を顕現させたのだろう。いや、そもそもまともに顕現できていないのだから、主にも顕現させようという意思はなかったのかもしれない。
    「俺は用なしなのに顕現してしまったんだろうか」
     とするなら、少し悲しい気分になってきた。さきほどまでここでの新しい生活に胸を弾ませていたのに、その気持ちはすっかりと萎んでしまった。それに、一振り目以外、誰にも認識されないときた。随分と中途半端な存在だ。
     しかし、鶴丸の言葉に一振り目の鶴丸は、いいやと首を振った。
    「これ以上なく必要さ。少なくとも、俺にとってはな」
     着いてこい、と顎で示され、しぶしぶ鶴丸は一振り目に着いていくことにした。どのみち、鶴丸には行くところなどないのである。
     廊下を何度か曲がり、一振り目は辿り着いた一室の障子を勢いよく開けた。あまりの勢いに鶴丸は飛び上がりそうだったし、部屋の中の人物もそうだったのだろう。おい、と不機嫌そうな声が聞こえてくる。その声に聞き覚えがある気がして、鶴丸はひょっこりと一振り目の後ろから部屋を覗き込んだ。
    「乱暴に開けるなと何度言ったら……」
     言葉は、それ以上続かなかった。
     不愉快そうに歪められた表情は次第に、先ほどの一振り目と同じく、驚きに満ちていく。理由がわからない驚きは嬉しくない。自分ひとりだけが蚊帳の外だった。どうやらこの刀――大倶利伽羅も、鶴丸のことが見えるらしい。
    「というわけさ」
     なにが、というわけなんだ。
     そう訊ねる前に、一振り目はにっこりと大倶利伽羅へと笑いかけた。笑ってはいるが、そこに喜怒哀楽の感情のうち、どれも含まれていないように鶴丸には感じた。
    「近いうちに、俺は折れる。きみには先に知らせておくべきだと思った」

    どっぺるげんがあ。
     説明されてもよくわからない聞き慣れない言葉に、首を傾げる。
    「便宜上、そう呼ぶ。単純に二振り目と呼ぶべきかもしれないが、肉体を得る前と得た後の状態を区別させたかったのさ。その方が色々と、楽だしな」
    「俺のような存在は初めてじゃないのか?」
    「ああ。きみで五回目だな。おかげで、対応にもすっかりと慣れた」
     一振り目の態度は飄々としたものだが、大倶利伽羅はそうではなかった。眉を顰め、拳を強く握り、しかしなにも言わず、ただ二振りの鶴丸を見ていた。そんな大倶利伽羅を部屋に残し、一振り目は鶴丸を連れ、再び廊下へ出たのであった。
    「みんな俺のことが見えなかったのに、きみには俺が見えるんだな。あと、伽羅坊も」
    「ドッペルゲンガーは、いずれ折れる刀には見えるようになってるのさ。だからドッペルゲンガーと呼んでるんだ」
     廊下を歩いている最中、何度か誰かにすれ違うこともあったが、みんな一振り目だけに声を掛けていく。それを奇妙な気分で見送った。
    「伽羅坊に見えるのは……。彼もまた、きみと同じ立場だったからだな」
     あれは二振り目の大倶利伽羅だ、と一振り目の鶴丸国永は語った。
    「一振り目の伽羅坊がいなくなったのは、随分と前のことだな。俺が顕現してすぐのことだった。きみが顕現したあとに困ったことがあったなら、あいつに話すといい。きっと力になってくれるはずだ。そうじゃなくたって、なんだかんだあいつは鶴丸国永に甘いところがある」
     ふふ、と笑う姿からは、先ほどあっさりと近いうちに自分は折れると言ってのけた様子は想像できない。今している会話だって、随分と嫌な内容だ。あまりにも平然としているから、自分の方がおかしいのではないかという気分にすらなってくる。
    「着いたぞ」
     案内されたのは、蔵のようだった。ここに刀が保管されているらしい。鶴丸はその中の一振りに目を留めた。
    「そう、それがきみさ」
     そこで鶴丸はようやく自分が佩刀していないことに気がついた。なるほど、本体はずっとここにあったということか。
     自分がこの刀と繋がっている、という感覚はある。同時にそれは酷くか細い。
     眉を顰める鶴丸に、一振り目は笑いかけた。
    「俺が折れたあと、ちゃんと顕現できるはずだから安心しろ。前例があるからな。しかも四回も」
    「……なにひとつとして安心できないんだが」
     なぜこうも飄々とした態度を取ることができるのか。鶴丸には一振り目の心境について全く理解することができなかった。
    「俺が現れたから、きみが折れるんだろう。とするなら、今ここで俺をちゃんと顕現する前に折ってしまえばいいんじゃないか」
     一振り目が折れる原因が今ここにいる二振り目の鶴丸にあるというのであれば、原因を取り除くべきだ。戦場に立てないというのは無念ではあるが、一振り目が折れることで自分が顕現できるようになるというのは、ありがたくない。戦力的にも、大事にされるべきは一振り目のはずだ。
     しかし、一振り目はゆるりと首を横に振った。
    「それは逆だな。俺が近いうちに折れるから、きみが現れたんだ。きみが俺を折るわけじゃあない。俺はきっと、戦場で折れるだろうさ。今までのやつらもそうだった。虫の知らせってやつがあるだろう。この本丸を満ちる霊力かなにかが、それを察知して、きみを半分起こしたんだ。おかげさまで俺たちは円滑に、『次』へ戦いを任せることができるというわけだ」
     引き継ぎ期間というやつだ、とあっけらかんとした様子で一振り目は語る。
    「誰かの意思が介在することがない。そういう仕組みだと考えておけばいい。俺は、折れるまでの間にきみに必要なことを教える。きみは、それを覚えておいて、俺が折れたあとにそれを活かす。必要なのはそれだけさ」
    「戦場に立たないという手はないのかい」
    「冗談だろ」
     そこで初めて、一振り目は不愉快そうに顔を歪ませる。そうだろうなあ、と鶴丸もわかっていて聞いた。
     わかっている。「鶴丸国永」だ。退屈をなによりも厭う刀だ。戦うための刀だ。美術品として愛でられる期間の方が圧倒的に長かったものの、鶴丸国永には戦刀としての自負がある。
    「折れるのは、怖くないのか」
     聞いてばかりだ。だって、鶴丸はまだなにも知らないのだ。一振り目がこうもあっさりと折れることを認めてしまっている理由も、二振り目の大倶利伽羅が自分も二振り目でありながらも一振り目の鶴丸が近いうちに折れることに動揺していた理由も、なにも知らない。
    「怖くないさ。だって、きみが『続き』をしてくれるからな。それに、」
     一振り目は背を向け、歩き出した、だから、鶴丸からはその表情を窺い知ることはできない。
    「――きみの存在を否定してしまえば、同じように顕現したあの子の存在を否定してしまうことになる」
     まったく違うと思うがなあ。
     鶴丸のぼやきは、はたして一振り目の鶴丸の耳に入っただろうか。

     一振り目は主に事情を説明しにいくという。
     長い話になるだろうから部屋に戻っていていいぞ。提案のようではあったが、実際のところ、そうしろと言っているようなものだ。実際、鶴丸が横にいて主と一振り目の話を聞いていたところでできることはないのだ。仕方なく、鶴丸はもともと来た道を引き返した。つまり、大倶利伽羅がいるあの部屋へと向かったのだ。
     鶴丸で五回目、ということはほかにも鶴丸を認識できる刀はいるのだろうが、誰なのか名前は聞いていなかった。話し相手になってくれそうなやつは大倶利伽羅しかいない。まともに相手をしてくれるかどうかは、別ではあったが。
     困ったのは障子は再び閉じられていて、鶴丸には開けられないことだった。しかしよく考えれば今の鶴丸には実体がないのだ。すり抜けることはできるのだろうかと恐る恐る腕を伸ばしてみたらそのまますり抜けたので、ひらひらとそのまま手を振った。
    「やあ、いるかい」
    「……普通にできないのか、お前は」
    「つまらんだろう」
     思い切ってそのまますり抜ける。ただの付喪神であったときとは、同じようで少し違う感覚だった。あのときのほうが、力があった。特に鶴丸は長い時間存在し続けてきた刀だから、意識すれば多少の物にも干渉することができたのだ。いまや戸のひとつも開けられないとは。弱体化も甚だしい。
    「改めて、よろしくな、伽羅坊」
    「ふん」
     相変わらず、機嫌はよろしくないらしい。握手を求めようにも、そもそも自分は相手に触れられないのだった。
     部屋はごちゃごちゃとしているわけではないが、生活感があった。整理整頓はされていても、長い間ここで過ごしていたことがわかる。どうやら一振り目の鶴丸は、それなりの期間、大倶利伽羅と同室であったらしい。
    「一振り目の俺は、主のところへ挨拶に行ったらしいぜ」
    「だろうな」
     つれない態度に心が折れるには、誰にも存在を認識してもらえなかった時間の方が辛かった。この大倶利伽羅にとってはそうでなくとも、今日目覚めたばかりの鶴丸にとっては懐かしい相手だ。どんな返事だって、嬉しく感じてしまうものである。
     もっとも、会話を楽しむには、なかなか重い問題が転がっているが。
    「きみも、二振り目なんだろう」
     大倶利伽羅は頷いた。
     今の大倶利伽羅は肉体を得ている。鶴丸も近いうちにそうなる。だがそれは一振り目が折れた先のことで、どうしたってそれから目を逸らすことはできなかった。
    「きみは、一振り目の伽羅坊から円滑に引き継ぎってやつをできたのかい」
     なんだか想像もできない話だ。鶴丸の問いを、大倶利伽羅は首を横に振って否定した。
    「……俺は一振り目とはまともに会話してないからな。ずっと無視されていた」
    「無視?」
    「事例としては俺が一例目だった。だから、まあ、俺のことは幻覚かなにかだと思っていたんだろう。ずっと俺から目を逸らしていたし、俺も一振り目の傍ではなくあちこちうろついていた。まともにドッペルゲンガーと対話をしたのは二例目のにっかり青江が初めてだから、そいつに聞いた方が早い。ドッペルゲンガーを名付けたのもそいつだった」
     一振り目の大倶利伽羅が折れたのは随分前という話だったが、まさか一例目だったとは。つまり、この本丸で初めて折れた刀は、大倶利伽羅だったということになる。
    「きみは一振り目からなにも引き継げなかったというわけかい」
    「引き継ぐようなことなどなにもなかった。この本丸ができてから一年も満たなかったころのことだしな」
     一振り目がまだこの本丸にいた期間よりも、二振り目が顕現してからの期間の方が長い。それでは、この本丸の中では一振り目の大倶利伽羅のことを知らない者の方が多いことになるのかもしれない。
    「なあ、一振り目の俺は、本当に折れてしまうのか」
     どうにも信じがたくて、鶴丸は大倶利伽羅に訊ねた。大倶利伽羅は頷き肯定する。
    「例外なくそうだった。だからあいつも、そのうち折れるだろうな」
     きみはそれでいいのかい。
     たたみかけるようにそう聞いてしまいたかったが、鶴丸は口を閉じた。
     大倶利伽羅は表情が豊かではない。それでも、あの地で長い間共に過ごしてきたのだ。大倶利伽羅という男は、表情に表れなくとも、その瞳の奥に感情が宿る。
     ああ、と息を吐いた。
     今、この手がきみに触れることができたなら、きみの頭を抱いてやるのに。けれど、触れることができるようになったときには、もうなにもかもが手遅れなのだ。
     まだ顕現できていない鶴丸は無力で、ただの幻影に過ぎなかった。
    「――戻ったぜ」
     障子が開き、姿を現した一振り目の鶴丸国永の手には、酒瓶があった。
    「昼から飲むつもりかよ」
    「俺が買った俺の酒だぜ。折れる前に飲んどかないと損だろ」
     部屋の隅に置かれていた卓袱台を引っぱり出し、酒器もふたり分用意する。当然ではあるが、鶴丸の分はなかった。
     大倶利伽羅は俺の分はいらないとばかりに部屋を出て行こうとするが、それを易々と見逃す一振り目でもなく、あっさりと捕まって無理矢理酒器を持たされ酒を注がれていた。まだ飲んでもいないというのに酒癖の悪い酔っ払いのようである。
    「あと少ししか一緒にいられないんだ。いいだろ」
    「あと少しで折れるなら、飲む相手は選んだらどうだ。俺と飲んでもなんの面白みもないだろうに」
    「きみがいいんだ。――きみが、いい」
     一振り目の言葉に、流石の大倶利伽羅も押し黙るしかなかったようだ。
     自分は邪魔なのだろうなあ、とわかったから、せっかくなのでにっかり青江なる刀を探しにいくことにした。ぶらぶらと歩いていれば、そのうちに出会えるだろう。誰が自分を認識できるかわからないまま彷徨いていた先ほどよりは気が楽だ。

     気が重い。
     いっそ、一振り目が折れたあとに顕現したかったとすら思う。こうして意識だけでも目覚めてしまったのは鶴丸の意思でも一振り目の意思でも、まだ会えてもいない主の意思でもないのかもしれないが、なんとなく、割を食っている気がする。
     本当に近いうちに一振り目が折れるとして、平然と鶴丸はそこに納まることができるとは思えなかった。どんな顔をして、大倶利伽羅とこれからを過ごしていけばいいというのか。
     はあ、と溜め息を吐きつつ、当て所なく本丸の中を彷徨う。
     どたばたと廊下を走る音がする。誰かを呼ぶ声や、夕餉の支度をしているのか美味しそうな匂いもする。たくさんの刀剣男士がここで生きていて、その誰もが、やはり鶴丸国永といえばあの一振り目を想像するだろう。
     鶴丸とて、戦えるものなら戦いたい。戦場に立ちたい。けれど今いる一振り目を差し置いてまでそこにいたいとは流石に思えない。それなのに、そういう気持ちとは関わりなく、一振り目は折れてしまうのだそうだ。
    「おや、どうしたんだい」
     うんうん唸っていると、背後から声を掛けられた。
    「さっき酒瓶を持って早足で部屋へ戻ったと思ったのに」
     首を傾げる年若い青年は、鶴丸のことが見えるらしい。
    「それは一振り目の俺だな」
     鶴丸がそう言うと、彼はそれだけで事情を察したらしい。一瞬黙り込み、それから、そうかい、と答えた。
    「僕はにっかり青江。あなたと同じ二振り目だよ。その様子だと、一振り目の鶴丸さんにはもう会っているのかな」
     鶴丸は小さく頷いた。理解が早い。
     僕の部屋で話そう、そう青江は誘った。廊下ではゆっくりと話をすることはできないし、周囲から見れば青江の独り言だ。鶴丸にも断る理由はなく、先導する青江の後ろを着いていった。
    「一振り目の『にっかり青江』が折れたのは、一振り目の大倶利伽羅がいなくなって半年ほど経ってからだそうだよ」
     二人分の湯飲みを出されたが、俺は飲めないからと固辞すると、そういえばそうだったと天然なのかよくわからないことを言われてしまった。美味しいのだろうか。少し、気になるところではある。
    「僕も、気がついたら目覚めていた。でも誰も僕のことが見えないようで、困っていたら一振り目に会ったんだ。そこで話をしているうちに、僕が意識だけ目覚めた二振り目だとわかったんだよ」
    「伽羅坊……、大倶利伽羅は、あいつ一振り目とはまったく話さなかったって言ってたぜ。社交的じゃないからな」
     茶化すように肩を竦めると、青江はくすりと笑った。青江も大倶利伽羅の性格は良く理解しているらしかった。
    「僕は幽霊を斬った刀だからね。一振り目の僕も、僕のことを最初そういう類いのものかと思ったらしい。それで、こんな面白いことがあったと周囲に話していると、大倶利伽羅が忠告に来たんだ。他には見えない僕のことを、大倶利伽羅は見えていた」
     自分も同じように意識だけが先に起きて、二振り目が折れてから顕現した。気をつけないと、一振り目のお前も折れて、二振り目に成り代わられることになるぞ、と。
     驚いたことに、一振り目のにっかり青江は大倶利伽羅の忠告に驚いた様子はなかったという。
    「一振り目の僕は、一振り目の大倶利伽羅がいなくなったとき同じ部隊だったそうだから、それが事故のようなもので二振り目が何かしたとは思わなかったみたいだね。それに、まあ、ほかでもない自分のことだったから。なにを信用してなにが信頼できないか、ということはわかっていたんだろう。冗談交じりに、僕のことをドッペルゲンガーと呼んでいたくらいだし」
     そして一振り目の青江が折れて、二振り目の青江が顕現した。二振り目の青江の意識が目覚めて約一週間ばかりの出来事だったらしいが、他の例から見ても、大体平均してドッペルゲンガーとやらが現れてから一振り目が折れるまで、その程度の期間とのことだ。
    「最初はギクシャクしたけれど、一振り目が主や近しい間柄の刀には手紙を残していたからね。きっと、二振り目として受け入れられるのは早かったと思うよ。大倶利伽羅はそうじゃなかったみたいだけれど」
    「あいつ、愛想というものが根本的にないからな」
    「そればかりではないけれど……」
     話しているうちに、遠くから鐘の音が聞こえてきた。おや、と青江が顔を上げる。
    「夕餉の時間だ。僕は行くね。このまま部屋にいても、外へ出てもいいけれど」
     どうする、と問われ、どうしようと考える。
     青江の話が本当だとするなら、一週間近くもこのような状況が続くらしい。
     はっきり言ってしまえば、かなり暇だ。かといって、肉体を得る日のことを待ちわびたくはない。それは一振り目が折れたときなのだから。
     やはり、二振り目というのは割を食う。青江や、他の二振り目はどうやってこの気持ちを乗り越えたのだろう。
    「とりあえず、その辺を彷徨いてみる。暇になったら、また話し相手になってくれるかい」
     青江は穏やかな笑みで、もちろんだよと頷いてくれた。

     夜に差し掛かると、昼間でのぽかぽかした陽気はなりを潜め、冷たい風が頬を撫でた。
     なににも触れられないというのに、気温は感じ取れるのは奇妙なことだ。肉体がなければ風邪をひく心配もないはずだが、少しばかり心細さがある。
     鶴丸が一振り目だったら、あるいは一振り目が折れることなど知らない本当にただの二振り目だったのなら、きっと目に映るすべての新鮮なものに触れようとしたに違いない。けれど今は、それらを甘受するには、いろいろなものが阻んでいた。
     このまま顕現しないほうが、本当はいい。顕現できなければ、そのほうが、いい。
     一振り目の鶴丸は、自分にとってこの上なく必要だと言っていたが、二振り目である鶴丸自身はやはりとてもそうは思えなかった。ほかならない自分自身が、顕現したいとは思えない。一振り目が本当に折れたとしても、自分はそのまま顕現しないほうがいいとすら、思う。
    「おい」
     懐かしい声。ぶっきらぼうで、優しい声。鶴丸はその声の主をよく知っている。
    「なにをしている」
    「……伽羅坊」
     縁側で足を揺らしていた鶴丸に声を掛けたのは、大倶利伽羅だった。そもそもこんな状態の鶴丸に話しかけることができる存在は多くはない。食事を終えてきたのだろうが、その隣には一振り目の姿はなかった。
     鶴丸が疑問に思っていることに気がついたのだろう。昔からの知り合いの刀たちに捕まって長い話になりそうだから置いてきた、と大倶利伽羅は言った。その言葉から、馴れ合わないが信条の大倶利伽羅が、あの鶴丸と行動を共にする機会が多いことが窺える。
    「俺、顕現したくはないな」
     素直に、鶴丸は言った。これが一振り目がいる前だったら言えなかったかもしれない。今ここにいるのが、大倶利伽羅だけだったから。
     大倶利伽羅は、なにも言わずに鶴丸の隣に座った。
    「きみは、一振り目が折れたときどうだった」
     一振り目は二振り目の大倶利伽羅と全く会話をしていなかったという。それならば、二振り目が目覚めてから顕現するまでの孤独は、鶴丸のそれより遙かに大きかっただろう。前例がない状態で、どうしたらいいのかなにもわからなかった。青江の言葉から察するに、二振り目として受け入れられるのにも時間がかかったに違いない。
    「一振り目は、折れることがわかっていたのではないかと思う」
    「どうして」
    「青江もそうだった。あいつも……一振り目としては、なにか察するものがあったのかもしれない」
     鶴丸は一振り目の鶴丸のことを思い出した。確かに、彼は自分が折れるかもしれないということに、大きな動揺を見せることはなかった。
    「一振り目がいなくなったとき、やはり初めてのことだから本丸中が慌ただしくて、その混乱が解消できないまま俺が顕現したものだから、距離がある連中とは未だにそのままだ。主などは、最たるそれだ。俺と最初から距離を詰めて会話をしようとしたやつは、あいつくらいだ」
    「一振り目の俺か」
    「そのうちに、一振り目の『大倶利伽羅』を知らない連中の方が多くなった。だから正直のところ、俺よりもお前の方が、顕現したあとに苦労するかと思う」
     それは、そうなのかもしれない。おそらく一振り目の交流関係は広い。自分だからよくわかる。そんな一振り目が折れると知ってショックを受ける者は多いだろう。今なかなか広間から部屋に帰れないのも、そういった連中に捕まっているからだ。
     けれど、比べるものでもない。一振り目の鶴丸は、一振り目の大倶利伽羅が折れたことを悲しまなかったのか。悲しまなかったはずはないだろうに。どうして、すぐに話しかけることができたのだろう。
     きっと、大倶利伽羅は一振り目が折れたとして、顕現した自分に同じようにすぐに話しかけようとはしないだろう。話しかけられても、困る気がする。自分は一振り目の代わりにはなれない。
     一振り目の鶴丸は、卑怯だと思う。
     一振り目が折れたら、大倶利伽羅がどう思うのかわかっているくせに。
     そのくせ、今から悲しむなと予防線を張っている。それに利用されているようで、腹立たしくて堪らない。

     眠気は訪れない。
     眠気は肉体に依存するものだったらしい。それにしては、ただの付喪神だったころ、退屈だったころは寝てばかりいたような。半端でも顕現状態になると、昔の感覚が遠くなるようだった。本当に顕現するときまで寝ていられたのなら、楽だったろうに。
     寝静まった本丸。虫の声ばかりがいやにうるさい。ただでさえ退屈を厭う鶴丸にとって、朝が来るまで待つのはしんどいものがある。
     誰かが起きていないだろうか。起きていたとしても、話しかけることも話しかけられることもないのだろうが、少しばかりは気が紛れる。
     ふと、鼻歌のようなものが聞こえてきた気がして、鶴丸はそちらへと向かうことにした。いつか遠い昔にどこかで聞いたような、懐かしい調べだった。
    「おや、きみだったか」
     懐かしいはずだ。
    「三条の刀だな」
    「いかにも」
     返答があるとは思わなかった。
    「月見酒とは羨ましいな。三日月宗近だろう、きみは」
     穏やかな笑みは否定をしなかったが、そうだろうという核心が鶴丸にはあった。平安というのはもはや遠い昔の記憶すぎて、実際に言葉を交わしたことがあったのか覚えてはいない。その後も長い歴史の中で幾度か運命が交差することはあったかもしれないが、それもまた覚えてはいなかった。しかし三条の刀、それも三日月宗近ともあれば、間違えようもない。兄弟刀とは到底呼べるような間柄ではなくとも、自分と近しい存在の気配というのは案外、わかるものらしい。今まで数多の刀剣と出会ってきたが、三日月宗近が一番、鶴丸に「近い」気配がする。もちろん、同位体を抜いての話になるが。落ち着くような、落ち着かなくなるような、そんな心地だった。
    「驚いたな。きみも二振り目だったか」
    「四例目というやつだな。俺の方が色々な意味で先輩だ。よろしく頼む」
     一振り目の鶴丸から話を聞いていたのだろう。三日月は二振り目の鶴丸が現れても驚くことはなかった。ぽんぽん、と軽く隣を叩かれ、鶴丸は腰掛ける。先ほども同じように縁側に座ったが、夜は深まり、庭はまた違った光景を見せた。
     三日月宗近が纏う独特のゆったりとした空気は、ささくれ立った心を少し静めてくれる。
    「きみは、顕現してよかったと思うかい」
    「それは難しい問いだなあ」
     一振り目の三日月が折れたのは、一年ほど前のことだという。そのころにはこの特殊な現象にも本丸にいるみんなが慣れてしまったようだが、三日月は初期に顕現した刀であったため、やはり二振り目が本丸に馴染むまでは時間を要したらしい。
    「多少、息苦しくなることもあるな。だからこうして、たまにはひとりで酒を飲む」
    「俺は邪魔してしまったかな」
    「なに。お互い、気晴らしにはいいだろう」
     物に触れられるのであれば酌でもしてやりたかったが、生憎そうはいかなかった。もしかしたらこの二振り目の三日月宗近は、少し寂しいのかもしれないなと鶴丸は思うのだった。ひとりの時間を望むが、本当に望んだのは、誰かと一緒にいる時間ではないだろうか。
    「裏庭にはな、みんなが一振り目の墓を作ってくれたのだ。それに花を手向けていると、妙な気持ちになる。ただ、そうさな。俺は一振り目の三日月宗近を知っていてよかったと思うぞ。なにも知らぬまま花を手向けるより、知っていて手向けるほうがいい。たった少しの関係でしかなかったが、俺にも悼む権利はあるからな」
    「俺は……一振り目の墓に花を手向けるなんてごめんだぜ」
     この三日月だって、きっとそういう気持ちだったはずだ。だが結局、ここにいるのは二振り目の三日月宗近で、一振り目の三日月宗近は、もう折れてしまった。三日月は、これから先も一振り目の墓に花を手向け続けるのだろうか。鶴丸は一振り目の三日月宗近のことを知らないし、自分もまた二振り目という立場のせいかもしれないが、なんだか折れてしまった三日月よりも今ここにいるこの三日月のほうがより「可哀想」だと思えて仕方がない。大倶利伽羅は比較的本丸ができて初期のころに折れたというが、ここまで大所帯になってしまった本丸ではどうしたって新参の二振り目である三日月はみんなの記憶に残る一振り目と比べられてしまうだろう。
    「一振り目の三日月宗近は、あまりみんなと関わらなかったらしい」
     三日月が、静かに言った。
    「思うところがあったのだろう。最期もあっさりしたもので、言付けは一振り目の鶴丸に対してのみだった」
    「なんて、言い遺したんだ」
    「お前はしっかりやれ、と」
     ――しっかりやれ。
     一振り目は、その三日月の遺言の通りに動いているのだろうか。

     一振り目の三日月宗近の遺言はなんだか忠告じみているし、苦言のようにも思う。
    「いいか、幽霊の俺。朝餉はちゃんと時間通りに広間まで行くんだぞ。で、余裕がありそうならみんなの分の座布団を敷いておく。太刀は夜戦が免除されているから、特に朝餉ではそういうところで気を遣わないと駄目だ。席は上座も下座も気にしなくとも構わんが、おかわりをしないなら奥の方へ座るといい。入り口付近はそういう連中が立ったり座ったりして落ち着かないんだ」
     きみがよく食べるかどうかは顕現するまでわからないから、俺には知る術がないなあ。
     なにが楽しいのか一振り目はくつくつと笑うが、鶴丸にとってはなにひとつとして面白くはない。
    「俺はあんまりおかわりはしないな。寝起きはあんまり入らないんだ。その代わり、昼は結構食べる。光坊がたまに菓子を作ってくれるが、それが美味いんだ。好みが一致するかわからんが、俺のオススメの甘味処を書き残しておこう。俺が折れたあと、たまにでいいからあの子を連れ出してくれよ。よくあの子と一緒に行った店だ」
    「伽羅坊は絶対来ないと思うぜ」
    「そんなことはない。あの子、ああ見えて甘い物に目がないんだ」
     鶴丸は息を吐いた。
     なぜ大倶利伽羅がついて来ないと鶴丸が思っているか、一振り目は気づかないものなのだろうか。
     よく行った場所だというのなら、尚更に大倶利伽羅はその場所へ行くことはないだろう。少なくとも、鶴丸が誘ってもついてこないだろうことは予想できた。一振り目の鶴丸と過ごしてきた場所を、どうして二振り目たる鶴丸が浸食できようか。最悪の上書きだ。
     一振り目の鶴丸の言動は、なんだか「わざとらしさ」すら覚える。道化を演じているようで、薄ら寒いものを感じるのだ。鶴丸がそう感じているのだから、大倶利伽羅は余計にそうなのだろう。言いたいことを噛み殺して、不機嫌そうに眉を顰めるのだ。言いたいことを言えばいい。そう助言することは簡単かもしれないが、きっとなにを言ってもこの二振り目はのらりくらりと躱してしまうだろうということは容易に想像することができた。
     そんな大倶利伽羅は、朝から出陣している。後ろ髪を引かれているような表情の大倶利伽羅を、一振り目の鶴丸は、いってらっしゃいと笑顔で手を振り送り出した。そうして二振り目の鶴丸へ、本丸の案内をしている。
    「道場は出入り自由だが、混み合っている。素振りなんかだと、邪魔にならない本丸の裏あたりでするやつもいるな。顕現したばかりだと、鍛錬している姿をほかのやつに見られたくないなんてこともあるだろう。今のうち良さそうなところを見つけておくのもいいかもな。どうせ、夜は暇だろう」
    「きみにはそういった場所はないのかい」
    「あるにはあるが、そうだな、……内緒だ」
     そこで一振り目は、今までとは少し違った性質の笑みを浮かべた。苦笑、というよりも照れくささを隠すような笑みだ。
    「ひとつくらい、そんなものがあったっていいだろう。俺には俺の生き方があって、きみにはきみの生き方がある。すべてが俺のものを引き継ぐ必要などないからな」
     おそらくその場所は、一振り目にとって触れてほしくはない場所なのだということは、鶴丸にも理解できた。大切に、宝箱にしまいこむように、思い出の中だけのものにするつもりなのだろう。
     その場所について、大倶利伽羅は知っているのだろうか。
     そんなことを、鶴丸は考えてしまった。
     一振り目の鶴丸が二振り目の鶴丸に譲り渡したくはない唯一のものについて、大倶利伽羅は触れたことがあるのだろうか。
    「きみは、あの子になにか遺してやりたいものはないのかい」
     一振り目は、決して大倶利伽羅に対して無関心でいるわけではない。自分が時期に折れてしまうことを主より先に伝えに行ったのがその証左でもあった。
    「あるさ」
     はっきりと、一振り目は言った。力強い瞳で、鶴丸を見つめる。
    「俺はあの子に、居場所を与えてやりたい。俺のドッペルゲンガーであるきみになら、それができると俺は信じている」
    「居場所?」
     首を傾げる鶴丸に、一振り目は頷いた。いつもの道化じみた笑みを消し、正面から鶴丸と向き合った。
    「あの子の存在は特異なんだ。あの子は、この本丸で自分の居場所をちゃんと定められていない。――伽羅坊は、一例目だったから」
     鶴丸には訳がわからなかった。青江も三日月も、この本丸には馴染んでいるように見えたからだ。大倶利伽羅に愛想がないのはもともとのことではあったが、それで居場所を失うようにも思えなかった。
     鶴丸の疑問に、一振り目は息を吐く。
    「二例目であった青江が引き継ぎをしっかりしていただけだ。最初にいなくなった伽羅坊のショックが癒えないまま、すぐにあの子は顕現した。それも、主が自分の意思で顕現させたわけじゃない。ドッペルゲンガーが人の身を得るとき、必ずそうなる。蔵で刀のまま保管されていたはずなのに、そこで目覚めるんだ。そのこともあって、あの子は主に気味悪がられていたよ。今も、距離を取られている」
    「けれど、青江以降は『そういうもの』だったとわかったんだろう? あの子が避けられる理由はないじゃないか」
     青江も、自分は二振り目として受け入れられるのは早かったが、大倶利伽羅の方はそうではなかったと語っていた。最初しばらくは仕方がないことなのかもしれないが、大倶利伽羅だけが特別ではないとわかっていたのなら、多少変わった顕現の仕方をしただけの彼を拒否する必要はない。
    「そう。距離を取る必要はない。しかし、距離を取らない理由にはならない。最初に取ってしまった距離とは、なかなか縮まらないものなのさ」
     一振り目の鶴丸は表情を曇らせ、鶴丸に背を向けて歩き出す。
     周囲には人影がない。だからこそこんなことを話せるのだろう。春の陽気とは裏腹に、前を歩く一振り目の声は低く、重い。
    「一振り目の伽羅坊は、この本丸で三番目に顕現した刀らしくてな。要するに、彼の存在はこの本丸最初期の土台を作った刀でもあった。それが突然いなくなって、挙げ句に主の意思とは関係なく唐突に成り代わるように二振り目が現れた。そういった現象であると後に理解はできても、二振り目のあの子が顕現した経緯が経緯だったから、どうにもやはり、今でも主と伽羅坊は良好的な関係を未だに築けていない」
     主がそんな風だから、大倶利伽羅の普段からの態度も相まって、なかなかほかの刀剣男士とも距離がある。
     そういうことか、と鶴丸は納得した。
    「しかし、きみは随分と距離が近いようだが」
     大倶利伽羅も、昔馴染みであることや同室であることもあって、一振り目の鶴丸を拒否しているようには見えない。そうだな、と考えるような間があって、一振り目は続けた。
    「俺は、一振り目の伽羅坊がいなくなったその前日に顕現したんだ。顕現した当日は本丸を案内されたり出陣したりで、誰がこの本丸にいるかまでは把握できていなかったんだ。伽羅坊がこの本丸に顕現していると俺が知ったときには、彼は出陣する間際だった」
     深く深く、過去を思い出す声。
    「遠く、彼の背中に、帰ってきたら話そうと声を掛けて、彼が僅かに振り返ったような気がしたが、どう返事をしたのかまではわからない。それきりさ」
     二振り目の大倶利伽羅に言わせれば、一振り目の大倶利伽羅は薄々自分が折れることを察していたのではないか、という話だった。そんな一振り目の大倶利伽羅は、一振り目の鶴丸の言葉をどう受け取っていたのだろう。もしかしたら、話の内容までは聞こえていなかったかもしれないが、鶴丸が顕現したことは察したはずだ。
    「みんなが、一振り目の伽羅坊が帰ってこなかったことに絶望した。間を置かずしてあの子が唐突に顕現して、本丸中が混乱して、どうしたらいいのかみんなが考えあぐねていた。でも、三日月が――」
    「三日月が?」
    「――お前が最初に声を掛けなければ、ほかに誰が声を掛けるのかと。そりゃあ、そうだな。俺しかいなかった。一振り目がいなくなったのとほぼ同時期に顕現した、中途半端にしか一振り目の思い出を持てない俺だけだ」
     そうしてふたりは鶴丸が押しかけるようにして同じ部屋となり、今日まで一緒に暮らしている。部隊は太刀と打刀という性質上別々になることもあるが、それ以外の本丸の生活では共に過ごすことの方が多いようだった。
    「きみがいなくなってしまったら、伽羅坊はどうなる」
     彼に居場所を与えたいのではなかったのか。
     当然の鶴丸の疑問に、一振り目は笑って答えた。
    「あの子と主の仲を取り持つようなことを俺はできなかった。間に入ってなんでもかんでもやるのは、よくなかったな。主はあの子に今も一言も声を掛けられないのは、主のせいでもあの子のせいでもなく、俺のせいさ。そうした関係を、今更崩すのは難しい。そうなってしまっていると気づいて、でもどうしようもできなくて、数年も無駄に過ごしてしまったな」
     だから、打開したかった。そのタイミングを掴めないまま、今に至って、そうして待ちわびた機会は訪れた。
    「言っただろ。――きみは、これ以上なく必要さ。少なくとも、俺にとってはな」
     一振り目の声色が、また一段と低くなる。
    「きみは、少なくとも二振り目という立場を理解してやれる。その生きにくさを理解したうえで、あの子に居場所を作ってやれるだろう。俺の過ちを、なかったことにできる」
     なんという、勝手な。
     一振り目の鶴丸が二振り目の鶴丸に望んでいたのは、それまでの引き継ぎなどではなかったのだ。自分がしてしまったことの過ちを、なかったことにする。たった、それだけ。自分ではどうすることもできなかったから、外から大きな変化が訪れるのを待って、それは二振り目の鶴丸という形で現れた。最悪だ。そう毒を吐きたくもなる。
     いってしまえば、一振り目の鶴丸は器用すぎたのだろう。その複雑な状況下において、主と大倶利伽羅の間に軋轢が生まれるのを望まなかったから、うまく立ち回った。二振り目の大倶利伽羅の顕現に際して、気兼ねなく声を掛けられるのは確かに顕現したばかりの一振り目の鶴丸以外にはおらず、一振り目は自ら望んで主と大倶利伽羅の緩衝材の役目を担ったのだ。それは、そのときは最善だったのかもしれない。しかし長期的な視点で見れば、確かに、過ちと呼ぶよりほかにない。なぜなら、軋轢を以てふたりの感情を摺り合わせ新たな関係性を築く機会は、失われてしまったからだ。
     二例目として顕現した青江は、うまく引き継ぎができてしまった。そうすれば、大倶利伽羅のときに一振り目の喪失も二振り目の顕現もそのとき素直に受け入れることができなかったことは罪悪感という形でのしかかり、余計に大倶利伽羅を避けることになる。誰しもが主を傷つけたくはなかったから、そのことに触れないようにする。結果、今も主と大倶利伽羅の間には深い溝ができている。二振り目が顕現して何年も経つというのにもかかわらず、だ。
     二振り目の大倶利伽羅に対し、彼が顕現するまでに本丸に存在していた誰もが、罪悪感を抱えずにはいられない。それ以降に顕現した刀たちも、各々本丸の空気を察して余計なことは言わないようにしているのだろう。ずっとそうした環境が維持されていたから、それを根本から破壊できる存在を一振り目はずっと望んでいたのだ。
    「俺にはできない」
    「できる」
     鶴丸の拒否を、一振り目は一蹴した。
    「やるんだ。この機会にしか、もう状況は打破できない。きみが、道化を演じて、顕現したばかりの無力で無邪気な二振り目の振りをして、主と伽羅坊の軋轢など知らなかったとばかりに今度は正しく主とあの子の間を取り持つんだ。主やほかのみんなの罪悪感も、そこでようやく解消される。全部なかったことにして、次に進める」
    「俺にきみの尻拭いをしろというのかい。伽羅坊はそんなこと、望みはしないだろう」
    「望みはしないさ。あの子は最初から、今までも、なにも望みはしなかった。俺が勝手にやったことで、あの子が割を食った。俺がもっとうまくやっていれば、違った関係になっていただろう。三日月の忠告を受け取ったのに、ちゃんと活かせなかった俺の責任だ。そう、俺はきみに、俺の尻拭いをしてもらいたいんだ。きみには酷なことを願うがな」
     背中を向けている一振り目の表情を、鶴丸は伺うことができない。
     もしかしたら今はもういなくなってしまった三日月は、この一振り目の後悔を察しているのではないだろうか。ふとそんなことを考えた。三日月は三日月で、思うところがあり、あまり他者と関わるような生き方をしなかった。三日月は、一振り目の鶴丸と二振り目の大倶利伽羅の行く先を見守り続け、その終着点を見届けられないと察すると、「しっかりやれ」と遺言をしてこの本丸からいなくなってしまった。一振り目はまたしても三日月の忠告をうまく受け取られていないように思えるが、これが彼なりのけじめの付け方なのだろう。
     だって、なにをしてもしなくとも、一振り目の鶴丸国永は折れてしまう。鶴丸は今度こそ、本丸にとって最善の道を示したいのだ。
     大事なのは大倶利伽羅本人の意思ではないかとも思うが、きっと彼に問い詰めたところでなにも答えはしないだろうことはわかりきっていた。大倶利伽羅がそのように顕現したことに彼の責はなく、主とうまくいっていないのも同様だ。彼は彼で、自分の顕現した経緯がために本丸に悪影響を及ぼさないため、今の状況を甘んじて受け入れているようにも見て取れる。物わかりが良すぎるのも問題だった。
     なにが本当に本丸や主、大倶利伽羅のためになるのかなど、まだ顕現できていない鶴丸が判断できるようなことでもないのかもしれないが、しかし、なんとも言い難い感情が胸を占めるのを鶴丸は感じていた。

     この本丸の主がどういった人物なのか。
     その疑問を鶴丸が抱くのは当然のことで、未だ顕現していない鶴丸には時間があったため、本丸を探索するにあたりその影を追い求めるのもまた当然のことだった。
     ただでさえ退屈が天敵であると自覚しているというのに、なににも触れられず誰とも語り合えないのは気が滅入る。青江や三日月がいたのならまだ会話はできたが、彼らとて為さねばならぬ役割がある。出陣や内番で出払っていればそれを邪魔することはできなかった。
     大倶利伽羅とは、話すことがなかなかできなかった。やはりどうにも、話しかけにくい雰囲気はあったし、残り僅かな時間しか残されていないのであれば、一振り目との時間を大切にしてほしい。
     そういうわけで、鶴丸はこの本丸の主を探すことにしたのだった。
     遠目では見たことがあった。普段は執務室に籠もっている主も、食事時には顔を出す。刀剣男士の間には上座も下座も存在しないが、主の場所だけは流石に決まっていた。ほとんど誰からも見えないといっても食事時に歩き回るものではないから、近づくことなく遠くから眺めていただけだったが、鶴丸の目からすればごくごく一般的な男のように見えた。
     年の頃は、成人したばかりかその辺りの、若い男だ。線の細さはあるが、不健康そうには見えない。誰かが主へと近づいた際にも、邪険にはせず、穏やかに受け答えをしている。
     しかしそんな主も、大倶利伽羅には一切声は掛けないのだという。
     完全に存在の無視をしているわけではないのだろう。出陣や内番に携わる刀剣男士を選ぶのは主の役割で、大倶利伽羅は極端にその役割が多いわけでも少ないわけでもない。ここ数日一振り目の鶴丸と編成をともにさせているのは彼なりに思うことがあってゆえなのだろう。そこには気遣いという形が見える。
     大倶利伽羅という存在についてどうしたらいいのか考えあぐねている。それがずるずると、今のこのときまで至ってしまった。一振り目が語ったことに、嘘偽りはない。
     主には、鶴丸の姿を見ることができない。それ幸いと、食事を終えた主の後ろを着いていくことにした。出陣以外の内番や事務仕事などの雑務は、夕餉までと決まっている。主はその後、自室でひとり過ごすようだった。
     主の自室は執務室のとなりとなっている。このあたりは昼間こそは人気が多いものの、夕刻を過ぎれば静けさと寂しさが漂う。さらに時間が過ぎれば不寝番の詰め所がすぐ近くにあるものだからまた誰かが行き交うので、この時間が一番静かだった。
     今の鶴丸は、物に触れることはできない。自分の足が床を抜けるわけでもないから奇妙なものである。主の後ろを歩きつつ、この奇妙な身体について鶴丸は考えた。
     ふと、主が縁側の先に目を向ける。釣られて、鶴丸もそちらへと目をやった。
     そこには小さな庭がある。本格的な春はまだまだこれからだが、つぼみをつけている花も多い。主は縁側の下から靴を取り出すと、それを履き、庭の方へと向かった。鶴丸も悩みつつ、縁側から飛び降りる。やはり汚れないとはわかっていても、そのまま降りるのは気が進まない。
     花壇の中には並んで五つ大きな石が埋め込まれており、主はそれに向かって手を合わせる。ああ、と鶴丸は合点がいった。これが三日月の話していた、折れてしまったという一振り目たちの墓なのか。
     まるで人のようだ。と、墓を見ながら思う。鶴丸たち刀剣男士は刀であって人ではない。けれどこうして墓を作るということは、主として刀剣男士たちに確かな情があったということだろう。
     最初に作られたのは、大倶利伽羅の墓だった。
     ここに、どんな気持ちで墓を作ったのか。新しく顕現した大倶利伽羅を見てどう思ったのか。その気持ちについて鶴丸は結局のところ推し量ることしかできない。鶴丸は、当時のことをなにひとつとして知らないのだ。
     ここに、近々一振り目の鶴丸国永の墓が並ぶことになる。
     主もそのことを考えているのだろう。今はまだなにもない空間を眺めながら、頭を掻きむしり、声にならない声で吠えた。慰める資格など、鶴丸にはない。
     無理だ、と思う。一振り目が望むことを、鶴丸は成し遂げられる気がしない。この光景を見て、それでも一振り目は鶴丸に道化を演じろという。そうして、今いる二振り目の大倶利伽羅と主の仲を取り持てと頼む。あまりにも勝手すぎる話だ。
     しかしもう、時が解決してくれるという甘い期待を一振り目は抱いていないし、実際鶴丸の目から見ても、簡単に解決するような問題とも思えない。なにかしらきっかけがないと、というのには同意見ではあったが、そのきっかけとして自分が折れていなくなることを挙げる一振り目とは相容れる気がしない。
     主は、普通の人間なのだろう。
     大切な仲間が折れてしまって悲しむし、間違いを間違いとわかりつつも正す手段を見失っては苦しむ。本当に、普通の人間だ。哀れだとも思う。
     そして同様に、鶴丸は一振り目の鶴丸のことも哀れと思っている。一振り目の大倶利伽羅を喪った悲しみを受け入れる前に前に進まざるを得なかったのは彼だって同じだ。主が徹底的に大倶利伽羅を無視したのとは反対に、大倶利伽羅に構うことで悲しみを誤魔化した。結果、余計に面倒なことになっている。
     大倶利伽羅には、と思う。大倶利伽羅にはこのような間違いなど犯してほしくはない。一振り目の鶴丸を喪うことが悲しいのならそれを主張してほしかったし、二振り目である鶴丸を受け入れられないというのならそれでも良かった。あの子には、気持ちを誤魔化してほしくはないのだ。そう考えることもまた、悲劇の渦に巻き込まれるだけなのだろうか。

    「――憂鬱そうな顔をしているな」
     きっと大倶利伽羅は、それが一振り目だろうが二振り目だろうが、鶴丸が気落ちしているように見えるときにせずにはいられないのだ。
     それを優しいとも思えるし、残酷とも思える。
     今まで折れていった刀たちを悼む主をあの場に残し、鶴丸は再び本丸を巡り歩いた。そんな中で声を掛けてきたのは、今の鶴丸を認識できるごく僅かな存在、大倶利伽羅である。
    「一振り目はどうした」
    「部屋の整理をしている。いずれは、あんたが使うことになるだろう」
    「一振り目の伽羅坊の部屋を、そのままきみが使っているように?」
    「そうだな」
     当てずっぽうであったが、どうやら当たってしまったらしい。
    「嫌ではなかったか、それ」
    「俺が顕現したときには本丸が混乱していたからな。選択肢はなかった。本当は、よくなかったと思っている。一振り目のものは一振り目のものとして、遺しておくべきだった。もっとも、俺以外は『引き継ぎ』がうまくいっているようだから、気にしてはいないようだがな」
     大倶利伽羅は大倶利伽羅で、一振り目の立場を奪ってしまったことに負い目を感じている。せめて彼が一例目でなければ、ほかの誰かが一例目だったなら、もっとうまく物事は回っていたのではないだろうか。そう想像もしてみたが、意味のないことだった。
    「伽羅坊は、一振り目の俺とやり残したことはないのかい。言っちゃあ悪いが、折れる時期がわかるというのは考えようによってはとても贅沢なことだ。一振り目とやりたいことを、俺は替わってやることができんしな」
     一振り目の鶴丸と、二振り目の鶴丸は違う。
     きっと二振り目の鶴丸が顕現したところで、一振り目の鶴丸が遺した穴を埋めてやることはできない。だから、今できることがあるなら今やってしまった方がいい。それでもなにかしらの思い残しは生まれてしまうのだろうが、なにも行動しないよりはましだ。
     しかし大倶利伽羅は首を横に振った。
    「ない」
    「だが」
    「――なにも、ない。俺たちの間には」
     伽羅坊、と呼ぶ声は果たして形になっただろうか。
    「俺は自分がこうして顕現したのに、あいつが折れるという想像を一度もしてこなかった。あいつと本丸で過ごしたこの数年が無為だったとは思わないが、言葉で説明ができるようななにかがあったわけでもない」
     あいつは、満足していただろう。
     大倶利伽羅は鶴丸から目を逸らし、そう語る。
    「あいつが俺と関わったのは、一振り目の俺とろくに話すことができなかった後悔故だ。そして今、また別の後悔に苛まれている。あいつはその後悔から間もなく解放されることだろう。今更、余計なことを言ってあいつに思い残しを増やしてしまうほうが惨いとは思わないか」
     それでは、大倶利伽羅自身の気持ちはどうなる。
     今大倶利伽羅が語ったのは、あくまで一振り目の鶴丸の気持ちを慮ってのもので、そこに大倶利伽羅の気持ちは含まれていない。大倶利伽羅の気持ちは、いったいどこにあるのだろう。先にいなくなってしまうのは一振り目の鶴丸で、残されてしまうのは大倶利伽羅の方だ。大倶利伽羅自身の気持ちだって、もっと、大切にされてしかるべきではないだろうか。
    「きみは――、」
     その先は、喉に詰まったように出てこない。いいや、と鶴丸は首を横に振る。
     いったいどうしたら彼らの後悔の連鎖は打ち切ることができるのか、鶴丸には想像もつかない。一振り目の鶴丸は酷いと思うし、大倶利伽羅は物わかりが良すぎる。まだ顕現してもいない鶴丸にできることなどなにもありはしない。このまま素直に一振り目から「引き継ぎ」するには癪すぎるが、鶴丸にはそれくらいしか存在意義がない。一振り目が折れてしまうからこそ、今ここに二振り目として鶴丸は存在しているのだ。

     一振り目と大倶利伽羅の部屋には、お互いの荷物が溢れている。
     乱雑に散らかっているわけではないが、床にも物が置かれているのはふたりの関係の遠慮のなさ故だろうか。文机がふたつあり、そこを中心としてふたりの荷物が置かれている。その荷物を、一振り目の鶴丸が選別し、不要と判断したものを次々に箱へと移し替えていった。
    「こうなる前に、もっと普段から整理整頓しておくべきだったぜ。これは、俺が折れたあとに処分してもらうことにするさ。きみ、必要そうなのあったら、今のうちに教えてくれよ」
    「肉体もまだ得ていないのに、なにが必要なのかわかりなんてしないだろ」
    「そりゃあ、そうだ」
     一振り目の鶴丸が大雑把に荷物を整理している横で、鶴丸は手持ち無沙汰になりながらその作業を見守っていた。
     大倶利伽羅は昨日の夜から戦に出ていて、まだ戻ってきてはいない。主はできる限り鶴丸と大倶利伽羅を同じ部隊で出陣させているようではあったが、太刀と打刀という性質上、どうしても得意となる戦場は異なる。どうしたって大倶利伽羅が出ていかなければならない場面はあった。出陣する際後ろ髪引かれるように一振り目を見ていた大倶利伽羅に、一振り目は気をつけて、と呑気に手を振っていた。それは、大倶利伽羅がなにかを伝えることを拒否しているようでもあった。
    「ん。ああ、これか。これは、きみにやろう」
     作業の手を止め、一振り目が一冊の書物を鶴丸に差し出す。しかし、鶴丸には肉体がないため受け取れない。そうだったと笑い、一振り目は机にそれを置いた。一冊の本である。
    「これは、一振り目の伽羅坊の私物だ」
    「この本が?」
    「日記さ」
    「……プライバシー、とかいうやつの侵害じゃないのか」
     そんなに軽々しく渡して良いものではないだろう。そう指摘すると、そうなんだが、と一振り目は苦笑する。
    「中は、日記というよりも記録に近い。一振り目のあの子の感情については一切記録されていなかったからな。天気、献立、出陣先、収穫物。そういうのを書き連ねているだけさ。読み物としては単調で面白みがないが、あの子がいなくなる前日までの記録がある。そうだな、ただ、最後の数日だけは奇妙な物を見たという観察日記のようなものだった」
    「それがまだドッペルゲンガーだったころの二振り目の伽羅坊ってわけか」
    「いかにも」
     一振り目は頷く。
     なににも触れられない鶴丸の代わりに、一振り目が日記を開いた。日記は大抵、三行程度に収まっている。一振り目が語る通り、これでは日記ではなく記録だ。その文字を、一振り目がなぞった。
     ――鶴丸国永、顕現。
     一振り目の大倶利伽羅が折れる、前日の記録。それを見ながら、一振り目が目を細めた。
    「こればかりは、二振り目であるあの子に渡せなかった。あの子の生き方は、一振り目の伽羅坊とはまったく違うものだ。違うものに、しなければならなかった。だから俺が見つけたときにこっそり拝借していたわけだが、これをきみに預ける」
    「なぜだい」
    「今では一振り目の伽羅坊を覚えている者も少なくなった。だからかな。感傷、とかいうやつだ。でもこれは、あの子には託せるような類いのものではないからな。主にも、厳しいだろう」
    「俺は一振り目の伽羅坊を知らないぜ」
     この本丸の最初期に顕現し、本丸の土台を作った大倶利伽羅はもういない。主の心に深い傷を残し、今も苦しめ続ける彼のことを、鶴丸は知らない。
     それでも、『大倶利伽羅』だ。
     一振り目の鶴丸は、きっと断るはずがないだろうと思っている。実際、そうだ。鶴丸には断れない。
    「これは、もういなくなってしまった一振り目の伽羅坊の、小さなひとかけらさ。一振り目の伽羅坊がどんな風に生きてきたのか、俺はこれでしか知ることができない。主やあのころ顕現していた刀たちが彼の思い出話をするには、二振り目の伽羅坊の存在が主を苦しめる。あの子のせいではないのにな」
     一振り目は、愛おしそうに、悲しそうに、日記の表紙を撫でる。一冊、使い切ることもなく終わってしまった大倶利伽羅の記録。それ以上の月日を生きてきても、二振り目の大倶利伽羅にはこの本丸での居場所がない。
    「きみは一振り目の伽羅坊を知らないが、だからこそ、持っていてくれないか。いつかみんなが、彼の思い出話ができるようになるまで」
    「そのころにはきみも、思い出の中だけの住人になるのかい」
    「そうだな。……うん、そうだ。きみが俺を、思い出の中の住人にさせてくれ。それが一番、良い方法なんだ」
     遠く、鐘が鳴る。間もなく出陣の時間だ。一振り目の鶴丸は顔を上げ、日記を再び引き出しの中へとしまった。箱を閉じ、机の上へと載せる。そうすると一振り目の荷物は綺麗に片付いてしまった。
    「行かなければ」
     なぜだろう。
     唐突に、止めなければ、という使命感のようなものが胸を占めるのを感じた。自分の中でもよくわからない衝動のようなものが鶴丸を突き動かし、一振り目の鶴丸へと手を伸ばす。――しかしそれは当然、すり抜けて、掴むことはできなかった。わかっていたことだというのに愕然としてしまう。
     そんな鶴丸のことを一振り目はからかうこともなく、自分も手を伸ばした。決して触れられない手を、重ねるように。
    「次は、あの子の手を掴んでやってくれ」
     今日が、「その日」なのだ。鶴丸が感じた予感を、他の誰でもない一振り目自身がよく感じている。
     まだ肉体のない鶴丸には、一振り目を引き留める術がない。
    「……あの子を待たなくていいのかい」
     我ながら、声は震えていた。一振り目はゆっくりと首を横に振る。
    「待たない。三日月や青江にも、なにも言わないでくれ。まあ言ったところで彼らも止めないとは思うがな」
     一振り目の鶴丸は自分の刀を手にし、鶴丸へと背を向ける。
    「敵さんを道連れにして派手に散るさ。同じ部隊のやつらには申し訳ないが、俺が折れたら破片くらいは持ち帰ってくれるだろう。今まで折れてきた連中と同じように庭に埋めて、それで、俺のことは過去にしてくれればいいさ。これからはきみが、この本丸での鶴丸国永だ」
     もう一振り目の鶴丸国永は、覚悟を決めてしまったのだ。自分が折れることを受け入れ、二振り目の鶴丸にすべてを託し、すべてが丸く収まることを願っている。それが悲しくて悔しくて、止めたいのに止められないことに腹が立つ。その苛立ちをぶつける相手も、もういなくなってしまう。
    「あの子に、言い残すことはないのかい」
     せめて、とそれだけ尋ねれば、そこで初めてなにかを躊躇うように動きが止まった。本体を握る手に力がこもるのとは反対に、なにも、と答える声は小さい。
    「――なにも、ない。あいつとの間には」
     どこかで聞いたような言葉だと、そう思った。
    「あいつはなにも望みはしなかった。俺も、なにも望みはしなかった。結局のところ、俺はあいつになにを言ったらいいのかわからなかった。最初から、今に至るまで、そうだった。だから駄目なんだろうな、俺は」
     一振り目はこちらを振り向くことはなかったが、声の揺らぎが感情の表れだった。最期とわかっているからだろう。隠すこともない途方に暮れた様子に、かえってこちらの方がどうしたらいいのかわからなくなる。どうにかしたいのに、できないもどかしさ。
    「折れるのは怖くないさ。怖いのは、俺が折れてから、あいつがどうなってしまうのだろうということさ。だからきみが、うまくやってくれ。――すまないな」
     ふう、と息を吐き、止め、そこでようやく一振り目は振り向いた。すっかりいつもの調子を取り戻し、口元には笑みが浮かんでいる。けれどその目だけは隠しきれない哀愁を帯びていて、胸が締め付けられるようだった。
    「さよならだ、二振り目。俺の、ドッペルゲンガー」

     荒い、足音がする。
     それを鶴丸は、部屋の中で座り込みながら聞いていた。
     すっかりと日は暮れ、部屋には暗闇が満ちていたが鶴丸には灯りを点ける術がなかったし、たとえその術があったとしても到底灯りを点けようなどという気分にはなれなかった。
     荒々しく戸を引いたのは、案の定、大倶利伽羅だった。
     座り込んだ鶴丸を呆然とした様子で見下ろす。
    「――あいつ、は」
     鶴丸は首を横に振った。一振り目は、大倶利伽羅の帰還を待たずに出陣した。一振り目たちの部隊はまだ戻ってきてはいないが、戻ってきたところでそこに一振り目の姿はないだろう。鶴丸の様子から大倶利伽羅はすべてを察したようだった。土埃を落とすこともなく、鶴丸とは少し離れた場所へ座る。部屋が暗いため、大倶利伽羅の表情を見ることはできなかった。
     別れらしい別れも、満足にできなかった。これで本当によかったのだろうか。
     覚悟を決める時間はあった。あったはずだ。けれど第三者である鶴丸にとって、その覚悟と本当の気持ちというものが結びついているようには到底思えなかった。一振り目が自分を置いてもういなくなってしまったことを突きつけられた大倶利伽羅は、なにも言わない。言えない。ただ、呆然と、暗闇の中で何事かを考えている。いや、考えてすらいないのかもしれない。どうしたらいいのかわからないのかも、しれない。
    「一振り目の鶴丸国永は、きみにとってどういう存在だったんだい」
     暗闇の中で、鶴丸は口を開いた。
    「疎ましいと思ったことは」
    「……腐るほど、ある」
     答えないかもしれないと思ったが、意外にも大倶利伽羅は答えた。
    「誰も俺に話しかけられないとき、あいつだけはなれなれしく声を掛けてきた」
    「そうかい」
    「俺が顕現しないほうが、この本丸にとってよかった。だが、俺の顕現を否定したら、お前のことも否定することになるのかと、こうなって初めて理解した」
    「……ああ」
     鶴丸だって、こういった状況下で二振り目として顕現したいわけではない。だがそれを言ったところでどうしようもできないし、大倶利伽羅の存在を否定してしまうことになる。
     そうしてままならなさを抱えたまま、ふたりで暗闇の中を過ごしていた。
     沈黙は、部屋の外から破られた。
     大倶利伽羅が顔を上げる。おそらく、部隊が帰還したのだ。障子を開け、そこでようやく鶴丸は月明かりによって大倶利伽羅の表情を見ることができた。なにかを堪えたような、どこか幼げな表情。
    「大倶利伽羅」
     そんな大倶利伽羅に声を掛けてきたのは、にっかり青江だった。出陣による傷だろう、頭から流れる血を布で押さえている。手入れ部屋に行くより前に、ここへとやってきたのだ。
    「あいつは、折れたのか」
     固い声だ。答えをわかりきっている問いだ。
     しかし意外にも、青江は即答しなかった。大倶利伽羅の気持ちを慮っているわけではない。困惑したように、大倶利伽羅と、それから鶴丸を交互に見る。
    「折れては、いない。と思う」
    「どういうことだ」
    「鶴丸さんが敵を引きつけてくれたけど、おそらくは罠だった。そのことをすぐ理解したけれど、敵の数が圧倒的で、合流することができなかったんだ。それに……。おそらく、今日が『その日』だった。彼もきっとわかっていた。だから、部隊への損害を考慮して帰還した。無理に、追うことはしなかった。……僕のことを、責めるかい」
     青江の問いに、いや、と大倶利伽羅は首を横に振る。
     その判断を下せたのは、青江が二振り目という立場だからだろう。一振り目の鶴丸がその場面でなにを望むかわかったのは、彼だからだ。青江のことを責めることはできないし、一振り目も青江がそう判断してくれたことに胸を撫で下ろしているかもしれない。
    「破片すら持ち帰ることができなくて、すまない」
     青江の声は低く廊下に響く。
     鶴丸は、庭にある墓を思い出した。一振り目の破片は、あの場所に埋められることはないのだなと、そんなことを思った。なんだか、それは寂しい気がする。
     大倶利伽羅は、強く拳を握っている。
     ずっと、なにかを堪えている。物わかりが良すぎる男だ。それを、哀れに思う。
    「伽羅坊」
     手を伸ばす。大倶利伽羅が、鶴丸を見た。
     当然、手は掴めない。それでいい。それでよかった。
    「きみの手を握るのは、俺じゃない。きみが触れたいのも、俺の手じゃないだろ」
     ドッペルゲンガーの鶴丸は、この大倶利伽羅にとっての「鶴丸国永」の代替品には、到底なり得ない。
    「なにもないわけがない。なにかがあったことは、きみだって本当はわかっているはずだ。きみが行動したところでなにも変わらないかもしれないけれど、堪えるのはやめろ。きみは、望んだっていい。わがままになって構わない。だから――」
     だから、と鶴丸は願う。
     決して触れることのない手を、大倶利伽羅は見下ろし、それから顔を上げた。
    「青江」
    「……なんだい」
    「あいつとはぐれた場所を、覚えているか」
    「あれから時間が経った。あの時点で、鶴丸さんは傷を負っていた。今も無事でいるかはわからない。それを、わかっているのかい」
     じ、と青江は大倶利伽羅を見据える。その覚悟を、試している。
     少しの間ふたりは睨むように見つめ合い、結局最初から大倶利伽羅の選択をわかっていた青江が先に目を逸らした。
    「僕も行くよ。僕が一番軽傷だ。主に話をつけておいで。その間に僕は部隊を再編成する」
     大倶利伽羅は頷き、足早に主の執務室へと向かった。鶴丸もそれを追って走る。
     大倶利伽羅が挨拶もなしに執務室の戸を開けたとき、主は頭を抱え、蹲っていた。鶴丸が帰還しなかったことを、当然ほかの者から聞いているのだ。その事実を、ゆっくりと彼は苦しみながら受け入れている最中だった。
    「主」
     大倶利伽羅の声に、主が顔を上げる。
     大倶利伽羅が自分から主に声を掛けるのは、これが初めてかもしれない。主は困惑したように、大倶利伽羅を見ている。
    「あいつを、連れ戻しに行く許可がほしい」
     大倶利伽羅の言葉を、主は大きく首を横に振って否定した。
    「だ、駄目だ。きっと、鶴丸は折れている。それがわかっていて危険な場所へと出陣はさせられない」
     本当は、彼だって諦めたくはないはずだ。これが一振り目の鶴丸以外だったら、危険を冒してでも仲間を取り戻そうとするかもしれない。けれど、一振り目は折れることがわかっている。そんな刀を取り戻すために、危険を重ねることはできない。
    「俺一振りだけでいい。青江が一緒に行くと言っていたが、置いていく。――どうせ、俺は最初からこの本丸には不要だった。俺が折れたところで、この本丸に影響はない」
     大倶利伽羅の言葉に、ひゅっと主の喉が鳴った。
     大倶利伽羅は、主を恨んでいる様子ではなかった。淡々と、事実を述べているだけに過ぎない。それがかえって、主を傷つけていることに気づきながら、大倶利伽羅は言葉を紡ぐのを止めない。
    「あいつは、結局折れるかもしれない。すべてが無駄なのかもしれない。けれど俺は、最期にあいつを一振りだけにしたくはない。せめて、それを見届けてやりたい。俺はこの本丸には不要だったが、あいつはこの本丸に必要な存在だった。できることなら、あいつのひとかけらの破片だけでもいいから持ち帰りたい」
     そうすればあんたも、あいつを弔うことができるだろう。一振り目の「大倶利伽羅」に対してそうしているように。
     大倶利伽羅がそう告げると、主の目からは涙が零れ落ちた。言葉にならないなにかを呻き、喚き、畳に爪を立てる。
     大倶利伽羅は、主を責めることはない。その優しさという残酷が、主を苦しめている。
    「……青江を連れて行くのが条件だ。無論、もうこれ以上深追いはできないとわかったら、すぐに帰還しろ」
     主が許可を出すまでには、時間がかかった。急かすこともなく、大倶利伽羅は待っていた。
    「感謝する」
     主へ背を向ける大倶利伽羅へ、俺は、と主が声をぶつけた。しっかりとした声だった。
    「俺は、お前を不要だと思ったことはないよ」
     主の言葉に、大倶利伽羅は短く息を吐く。鶴丸にはそれが、笑っているように思えた。大変、わかりにくくはあったが。

     大倶利伽羅は主の条件を受け入れ、青江たちとともに出立することになった。向こうは夜になっているだろうと、短刀や打刀を基本とした編成だ。
    「お前も行くのか」
     呆れたように、大倶利伽羅は問う。当たり前だろう、と鶴丸は答えた。
    「気配くらい、わかるかもしれない」
     根拠があるわけではない。ただ、黙って待っていることなど到底できなかった。大倶利伽羅もそれはわかっているのだろう。結局鶴丸が着いていくことを止めることはしなかった。
    「第一目標は、生きている鶴丸さんの回収。第二目標は、折れている鶴丸さんの回収」
     取り急ぎの手当だけ済ませた青江が、再編成した部隊へ告げる。青江の言葉には過度の期待はするなという意味が含まれている。大倶利伽羅が拳を握る音がした。
    「二振り目としての僕は、せめて破片だけでもこの本丸に連れて帰ってあげたいと思う。けれど、全員の安全が最優先。わかるね」
     青江は部隊全員を見渡し、最後に言い含めるように大倶利伽羅を見る。大倶利伽羅は静かに頷いた。
    「――では、行こうか」
     はたしてこの状態で時空転移ができるのか。
     それは鶴丸としても疑問ではあったが、杞憂だったらしい。鶴丸が目を開けたとき、そこは確かに戦場だった。
     そう、困ったことに、戦場の真っ只中だった。
     だが出陣した全員、そのことは覚悟していたようだ。襲いかかる遡行軍をいなし、力強く前を見据える。
    「お前は、あいつを探せ」
     抜刀した大倶利伽羅が鶴丸を見る。そう、鶴丸は戦えないかわりに、遡行軍も鶴丸へ触れることはできない。鶴丸だけがこの戦場で自由に動き回れるのだ。
     鶴丸は頷き、駆け出した。
     月明かりがあってよかった。しかしおそらく怪我を負った一振り目では、動き回ることは難しいだろう。
     今、鶴丸はただのゴーストだった。まだ、顕現してはいない。それはつまり、一振り目はまだ折れていないということではないだろうか。そんな淡い期待を抱きながら、鶴丸は月夜の下を走って一振り目を探した。
     おそらく一振り目も敵を引き連れて逃げたあと、うまく敵を撒くことができたなら一目のつかないところに隠れているはずだ。夜とはいっても野戦だ。隠れるところなど限られている。
     しばらく走り回ったところでようやく林を見つけ、そこへ駆け込んだ瞬間、一瞬力が抜けて鶴丸はその場へと倒れ込んだ。
    「なんだ……?」
     困惑しながら起き上がろうと手をつくが、その手が薄らと透けているのを見て、鶴丸は思わず小さな悲鳴を上げる。
     消えかけている。
    「勘弁してくれ」
     ただ鶴丸が消えるだけならそれでいい。ただ、最悪なのは一振り目が折れかけているのではないかと想像させられることだ。一振り目が折れたら、二振り目である鶴丸が顕現してしまう。これは、その予兆なのではないだろうか。
    「伽羅坊が来るまでに折れてくれるなよ」
     せめて、最期はふたりにしてやりたい。最期が変わらなくとも、ひとりだけにはさせたくない。
     そんな願いが天に届いたかのようだった。
     まるで鶴丸を導くかのように、林の中、大きな葉が数枚落ちている。それを追って鶴丸が足を進めていくと、驚くことに木に寄りかかりながら、一振り目である鶴丸がぐったりと座り込んでいた。
    「おい、きみ! しっかりしろ!」
     左腕から先がない。右手はしっかりと刀を握っているが、頭から派手に血は流れ、満足に前も見ることができないようだった。拭ってやりたいが、鶴丸には彼に触れる術がない。
     う、と鶴丸の声に反応し、一振り目は呻く。
    「逃げろ、と、言っただろ……」
     意識が朦朧としているのか、鶴丸のことを一緒に出陣した仲間だと思っているようだった。掠れた声は、今にも息とともに途切れそうだった。
    「しっかりしろ。俺だ。二振り目の、鶴丸国永だ」
     ゆっくりと、言い聞かせる。何度かそうやっていると、ようやく一振り目は鶴丸を認識できたようだった。
    「どうして……」
    「きみを、回収しにきたんだ」
     伽羅坊も一緒だ。そう告げると、一振り目は大きく目を見開き身を捩った。その瞬間痛みを思い出したのか、呻く。
    「な、なぜ」
    「それを、きみが聞くのか」
     呆然とした様子に、段々と怒りがこみ上げてきた。
     そう、鶴丸は怒っている。本当はずっと、この一振り目に対して怒りを抱いているのだ。
    「誰も、俺も、きみのかわりになどならないからだ」
     一振り目は勝手だ。大倶利伽羅の物わかりがいいことを知りながら、なにも言わずにここで折れようとしている。鶴丸になにもかも押しつけて、勝手に舞台から退場しようとしている。
    「ああ、もう! 俺はきみのようにはならないぞ! きみの勝手を、どうして俺が解決してやる必要がある!」
     敵に見つかるかもしれないだとか、そんな考えはすっかり頭から抜けたまま鶴丸は叫んだ。今の鶴丸が叫んだところで、遡行軍に感知はされないだろうが。
    「きみの感情はきみのもので、伽羅坊の感情も伽羅坊のものだ。いいか、伽羅坊は望んだぞ。最期にきみを一振りだけにしたくないと、あの子が望んだんだ。それを叶えてやれないのなら、きみは『鶴丸国永』失格だ」
     我ながら、無茶苦茶な理論だ。一振り目も、呆れたように鶴丸を見上げている。
     でも、そうだろう。
     きみは鶴丸国永である以上、大倶利伽羅が望んだことを否定することができない。それが、唯一無二として築いてきた関係があるのなら、なおさら。
     がさ、と草木をかき分ける音がして、一振り目の鶴丸が身構える。しかし一瞬の後、力を抜いた。
    「伽羅坊」
    「……そこの二振り目が喧しいから、すぐわかった」
     大倶利伽羅は満身創痍といったところだ。それでも、その目は力強さを失ってはいない。
     座り込んでいる一振り目の前に膝をつく。
    「間に合ったか」
    「馬鹿野郎」
     安堵した様子の大倶利伽羅の頬を、力の入らない手で一振り目が殴る。撫でている、ようでもあった。べっとりと血がついた頬に対して、大倶利伽羅は怒る様子もない。血に濡れた一振り目の手を、大倶利伽羅が握った。
    「折れるか」
    「……まだ、大丈夫だ。どうかな。いつまで持つか」
     一振り目の出血は多い。力なく笑った一振り目に、大倶利伽羅は止血をしていく。その布も、すぐに赤く染まった。
    「悪足掻きだ」
    「わかっている」
    「でも、どうしてかな。嬉しいんだ」
     こんなの望んでいなかったのに、きみがここにいてくれて、嬉しいんだ。
     一振り目の声は震え、濡れている。顔の血を洗い流すように、止めどなく溢れていくものを、鶴丸は静かに眺めていた。その景色も、霞んでいく。
     あ、と鶴丸は自分の姿を見下ろした。先ほどまでは手だけだったのに、今はもうすっかり、全身まで透けてしまった。それがなにを意味をするかわかってしまって、苦しくなる。それと同時に、よかったとも思った。
     間に合ったのだ。間に合うことが、できた。
     鶴丸は、ふたりに背を向ける。最期はふたりきりにしてやりたかった。それが、大倶利伽羅の望みだからだ。
     空が、白んでいく。美しい夜明けがやってくるのと入れ替わりに、鶴丸の意識は深く深く、沈んでいった。

     夢を、見た。
     おそらくは夢なのだろう。
     ゆらゆらと、揺れている感覚。不思議な、感覚。
     声が聞こえる。

    「本当はな。思い残していることがたくさんあるんだ。きみとまた、手合わせがしたい。俺はきみとする手合わせが一番好きだったよ」
    「そうか」
    「あそこのツツジは、まだ、咲いていないんだろうな。あの場所だけは、秘密だぜ。二振り目にも教えていないんだ。ふたりだけの、特訓の場所なんだから」
    「……ああ」
    「なんで、だろうな。二振り目にはあれこれ押しつけたのに、同時に、絶対、教えてやりたくないことが、たくさん、あって」
    「いいから、もう黙っておけ」
    「いいや。これだけ。これだけだ。あのな、俺は、きみが、きみのことが――」

     ――目が覚めた。

    「うわっ」
     飛び起きる。と同時に、ぐらりと視界が揺れ、再び倒れ込んだ。
     五秒ほどそのまま突っ伏して、そうしてようやく周りを見渡す。
     部屋の、中だった。本丸の天井だ。呆然としてまま見上げていると、おい、と声が掛かる。
    「起きたか」
     大倶利伽羅である。ああ、と鶴丸は答えながら、絶望的な気持ちになった。今の鶴丸は肉体を得ている。その意味を理解して、泣きたい気持ちになった。
     一振り目の鶴丸国永は、最期に本当の意味で満足してその生を終えられただろうか。
    「お前は、蔵の中で倒れ込んでいた。二振り目が顕現するとき、そうなるそうだ。お前は肉体を得てから三日ほど寝ていた。すぐには起きられないだろう」
     そうか、と鶴丸は相槌を打ち、ん、と疑問を抱き大倶利伽羅を見る。なんだか、変だ。大倶利伽羅も、同じように顕現したはずだ。なのに今、まるでその現象について聞いてきたかのように語っている。
    「きみ、――誰だ」
     鶴丸の知っている大倶利伽羅ではない。よくよく見てみると、気配が全く違う。鶴丸の問いに、大倶利伽羅は押し黙った。
     まさか、と血の気が引く気配がする。
    「あの子は、折れたのか」
     折れて、三振り目の大倶利伽羅が顕現したのか。絶望的な問いに、いや、とあっさり目の前の大倶利伽羅は否定する。
    「帰還後、手入れを受けたが今は完全に直って出陣している。――一振り目の鶴丸国永と一緒に」
    「んん?」
     首を傾げ、改めて大倶利伽羅を見る。
     なにやら、聞き捨てならないことを聞いた気がするが、その前にとゆっくりと鶴丸は起き上がった。そんな鶴丸の背を、大倶利伽羅が支える。背中に触れる手を、あたたかいな、と思った。
    「ええと、それで、きみは誰だい」
     改めて、鶴丸が聞く。大倶利伽羅はしばらく悩んだあと、答えた。
    「大倶利伽羅だ。……この本丸にとって、一振り目の」
     はて、この本丸の一振り目の大倶利伽羅は、この本丸で一番最初に折れた刀ではなかっただろうか。
     みんな、そう語っていたはずだ。
     しかし、思い返してみると、一振り目の大倶利伽羅に対し、誰も「折れた」とは明言していないことに気がついた。「いなくなった」と、そう言っていたのだ。
    「今回と同じようなことが、過去にも起きた」
     起きたばかりの鶴丸に気を遣っているのか、大倶利伽羅の言葉はゆっくりとしていて、少しだけ眠気を誘う。さすがに三日も眠っていてさらに追加で眠るのは勘弁したい。
    「敵の手から逃げ切ることはできたが、長時間本丸から離れたせいだろう。主も審神者になったばかりで、刀剣男士に対してそこまで力を分けられなかったのもある。折れはしなかったが、霊力切れで刀のままで転がっていた。ちょうど、今回一振り目の鶴丸が逃げ隠れていたあたりだ。偶然、あいつらが刀のままの俺を見つけて回収し、こうして本丸へと帰還したわけだ」
    「ええ……。そんな偶然、あるのか?」
     呆れたような鶴丸の声に、大倶利伽羅は目を逸らす。しかし実際こうして一振り目の大倶利伽羅が戻ってきているのだから、信じるしかないだろう。
    「俺のことを折れたと判断するような土台が、今の本丸にある。一振り目の青江が折れ、二振り目の青江が顕現したことで、いなくなった俺のことも折れたと判断せざるを得なかったのだろう」
    「ああ、なるほど」
    「俺はこうして戻ってくることができたが、青江たちは本当に折れてしまったんだな」
     大倶利伽羅が目を伏せる。そこになにかがあるような気がして、鶴丸は彼の頬に手を伸ばした。もちろん、指先が濡れることはなかったが。
    「一振り目の俺は、無事だったんだな」
    「青江たちが回収に間に合ったようだ。そのとき、俺は刀のままだったからよく知らない。あとで、本人たちに話を聞け。出陣できるくらいだから、今はもう元気なはずだ」
    「そうか。……そうか」
     ゆっくりと、噛みしめる。
     よかった。
     あのとき、最期にふたりきりにできたことをよかったと思えたことが、全然よくなくて、よかった。だってふたりが無事でいることが、こんなにも嬉しい。
    「で、俺は中途半端にこうして顕現してしまったわけか」
    「そうなるな」
     さて、どうしたものか。一振り目は無事なわけだからこうして二振り目の鶴丸が存在することに意味はすっかりなくなってしまったが、とりあえずとして。
    「改めて。おはよう、一振り目の伽羅坊。俺は、二振り目の鶴丸国永だ。きみに、渡したいものがあるんだ。そこまで行きたいから、手を貸してくれないかい」
     あの日記は、まだ、引き出しの中にあるだろう。
     日付はずれてしまったが、続きを書いてもらおうと鶴丸は思ったのだ。
     ――二振り目の鶴丸国永、顕現。
     その一文を。

    「すまなかったな」
     一振り目の鶴丸が帰還したのは、すっかり日が暮れてからだった。その姿に、もう傷は残っていない。左腕も、もとのようについている。改めて姿を見て、ほっとした。
    「なにに対してだい」
    「それはまあ、その、いろいろとだ」
     じっとりとした鶴丸の視線に、一振り目は目を逸らす。
     夕餉の時間のため広間には続々と刀剣男士が集まってきている。中途半端な顕現だったせいか、鶴丸はまだまともに固形食を受け付けず、周囲に並べられていく豪華なおかずを恨めしく思ってしまう。
     遠く、既に座っている主に、大倶利伽羅が話しかけている。あれは、二振り目の方だろうか。一振り目が、眩しそうにその光景を眺めている。
    「折れなくてよかったな」
    「……ああ」
     そうだな、と一振り目が頷く。
     たぶん、一振り目の鶴丸が望んだ光景が、そこにはある。
    「俺も、ちょっと行ってくる」
     ああ、と鶴丸は手を振り、一振り目を見送った。そうすると残されたのは、鶴丸用に用意されたあまり美味しそうとはいえない食事だ。
    「食べないのか」
     声の主は、一振り目の大倶利伽羅だった。
    「これって、拷問だとは思わないか。ほかの連中は美味そうなもん食べてるのに」
    「……俺も似たようなものだ」
     大倶利伽羅が座る。大倶利伽羅が持ってきた膳には、確かに、鶴丸と同じような食事があった。数日前までただの刀の状態となっていた大倶利伽羅もまた、まともにまだ固形食を受け付けないらしい。
    「拷問も、ふたりだったらまあ、悪くはないか」
    「嫌にきまっているだろう」
    「少しは前向きになろうと思ったのに冷静に返すなよ」
     鶴丸は唇を尖らせるが、大倶利伽羅は両手を合わせ拷問食へと向き直った。仕方がなく、鶴丸も手を合わせる。
    「いただきます」
     生きていくって、ままならないなあ。
     見た目通り美味しいとは呼べない食事を取りながら、鶴丸は思う。ちらりと横を見ると、若干眉間に皺を寄せながらも大倶利伽羅が黙々と匙を口へと運んでいた。拷問でなかったとしたら、修行なのかもしれない。
     ふと、大倶利伽羅がここへ座ったのは、鶴丸に気を遣ってくれたからだということに今更ながら気がついた。拷問も、ふたりだったら悪くはない。冗談のように言った言葉を、もう一度胸の中で呟いた。
    「なあ、伽羅坊。この拷問食を無事卒業できたら、どこかふたり、美味しいものを食べに行こうぜ」
     どうだ、と誘いをかける。大倶利伽羅は手を止め、口の中の物を飲み込んだ。
    「暇ならな」
    「うん」
     それでいい、と鶴丸は頷いた。
     愛想のない返事ではあったが、胸の中を温かいものが満たしていく。
     生きていくのはままならないかもしれないが、ドッペルゲンガーのときより余程いい。そう思いながら、鶴丸は再び食事を口へと運んだ。
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    silver02cat

    DONEくりつる6日間チャレンジ2日目だよ〜〜〜〜〜!!
    ポイピク小説対応したの知らんかった〜〜〜〜〜!!
    切望傍らに膝をついた大倶利伽羅の指先が、鶴丸の髪の一房に触れた。

    「…………つる、」

    ほんの少し甘さを滲ませながら、呼ばれる名前。
    はつり、と瞬きをひとつ。 

    「…………ん、」

    静かに頷いた鶴丸を見て、大倶利伽羅は満足そうに薄く笑うと、背を向けて行ってしまった。じんわりと耳の縁が熱を持って、それから、きゅう、と、膝の上に置いたままの両手を握り締める。ああ、それならば、明日の午前の当番は誰かに代わってもらわなくては、と。鶴丸も立ち上がって、その場を後にする。

    髪を一房。それから、つる、と呼ぶ一声。
    それが、大倶利伽羅からの誘いの合図だった。

    あんまりにも直接的に、抱きたい、などとのたまう男に、もう少し風情がある誘い方はないのか、と、照れ隠し半分に反抗したのが最初のきっかけだった気がする。その日の夜、布団の上で向き合った大倶利伽羅が、髪の一房をとって、そこに口付けて、つる、と、随分とまあ切ない声で呼ぶものだから、完敗したのだ。まだまだ青さの滲むところは多くとも、その吸収率には目を見張るものがある。少なくとも、鶴丸は大倶利伽羅に対して、そんな印象を抱いていた。いやまさか、恋愛ごとに関してまで、そうだとは思ってもみなかったのだけれど。かわいいかわいい年下の男は、その日はもう本当に好き勝手にさせてやったものだから、味を占めたらしく。それから彼が誘いをかけてくるときは、必ずその合図を。まるで、儀式でもあるかのようにするようになった。
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