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    JB無配となります。

    ドッペルゲンガー、恋を知る。とある幕間 何度か倒れ、気を失った気がする。
     そのたびに起き上がり、地面を這いつくばり、気がついたときには木に寄りかかっていた。視線を下に向ければ腕は片方なく、血を流しすぎたせいか酷く寒い。戦線を離脱できたものの、通信機器の類は隊長が所持している。仲間は、無事に本丸へ帰還できただろうか。きっと青江がうまくやってくれるだろう。彼は二振り目だ。鶴丸の気持ちを汲んでくれるに違いない。
     あとどれくらい自分が持つのか、わからない。そう遠くないうちに折れるだろうなという予感があった。その予感は、数日前からずっとあったのだ。あの、ドッペルゲンガーである自分の二振り目が現れたときから。
     ふう、と息を吐く。敵が現れても、もう逃げられる気はしなかった。身体が根を張ったように動かない。自分はここまでのようだ。
     そう思って力を抜き残った片方の腕を地面に投げ出したとき、硬いなにかが触れる感覚があった。
    「これ、は……」
     刀だ。自分のものではない。けれどその刀がなんなのか、鶴丸はよくわかっていた。見間違えることなどできるはずもない。
     なんだか笑い出したい気分だった。
    「きみ、こんなところにいたのか……」
     ――大倶利伽羅。
     ずっと昔、何年も前にいなくなった刀。自分も、主も、もう彼が折れたものだと思っていた。そうだ、この時代、この場所は、彼がいなくなった任務先と同じなのだ。こんな状況で、まさか再び出会うことができるとは。
     大倶利伽羅にはもうほとんど霊力が残っていないようだった。それでもそのわずかに残った霊力が辛うじて彼を刀として存在させている。自分にできることはないかと模索してみたものの、重傷を負い仲間と連絡を取ることができない自分には、どうする術もない。
    「すまない……」
     掠れた声で、鶴丸は詫びた。せめて、と大倶利伽羅を背中に隠す。ここから持ち運ぶことはできなくとも、敵が現れたとき、鶴丸の影になって見えないように。時間稼ぎくらいにはなれるかもしれないが、仲間が迎えに来ることはない以上、辿る道は同じだとわかっていながら。
     きみを今助けることができなくてすまない。あのときに折れたと思い込み、迎えに来ることを諦めてしまってすまない。
     あの日の大倶利伽羅の背中を思い出す。帰ってきたら話をしようと一方的に投げかけた言葉。あの日出陣した大倶利伽羅は戻ってこなかった。大倶利伽羅を迎えにいこうとした仲間たちはけれど政府から時空嵐の影響により出陣禁止の達しが出たことでそれもできず、彼のことを諦めるしかなかったのだ。今ここで彼に再会するとは、どんな数奇な運命なのだろう。あの日の彼のように、自分は敵を引き連れて仲間とはぐれ、今ここで孤独に折れようとしている。いや、彼がいるというのなら、孤独ではないのか。くすりと鶴丸は小さく笑った。
    「なあ、伽羅坊。話をしようか。あの日、できなかった話だ。きみに話したいことが、たくさんできたよ」
     今にも気を失いそうだった。次に目を閉じたとき、もう目覚めることはないだろう。けれど、こんな最期は悪くない。もう二度と会うことはないだろう仲間と再会することができた。もしかしたらこれは、折れる間際の鶴丸が見ている自己満足な夢なのかもしれない。だとしたらなんと優しい夢なのだろう。なんと、幸せな夢なのだろう。
    「そうだな、まずはきみがいなくなってからの話をしようか――」
     
     主が怒鳴る声を、今でも思い出す。
     鶴丸が顕現したころ、主はまだ少年といっても差し支えない年頃だった。顕現して真っ先に目に入ったのは溢れんばかりの主の笑顔で、鶴丸は彼が差し出した手を取ったのだ。今代の主は、普通の、ごく普通の、戦いには向かない若き少年だった。
    「知り合いはいるかな。世話役は、そいつに任せようと思うけれど」
    「そうだなあ。俺は転々とあちこち渡り歩いてきた刀だから、知り合いと呼べる刀は多いが」
     主に連れられ、本丸を歩く。まだ冬の気配が残る本丸は肌寒く、それが余計に肉体を得たのだという感覚を強くした。
    「寒いなあ」
     天気はいいが、風は冷たい。手を擦り合わせる鶴丸に、主は微笑んだ。
    「すぐに春が来るよ」
     鶴丸は、冬の終わりに顕現した。春の入り口には少しだけまだ遠い、そんな狭間の朝に顕現したのだった。
     
     顕現したその日は主に本丸を案内され、出陣や遠征、内番などについての大まかな説明を受けた。どうやらこの本丸は開かれてまだ日が浅いらしい。刀剣男士としての存在は確認されているもこの本丸に顕現していない刀も多いとのことだ。刀剣男士の数も決して多いわけではなく、鶴丸もしばらくは忙しくなるだろうと忠告を受けた。
     新しい生活には心が躍る。軽くではあるが出陣して、傷を負って帰還した。その痛みすら、不快ではない。戦場の高揚感はどうやらそういったものを麻痺させるらしい。そのあとの手入れ部屋は、退屈ではあったけれど。
     鶴丸の部屋は真新しく、生活感のかけらもない。まだ寒いからと布団を重ね、冷たい足を擦り合わせた。春はもうすぐ来ると主は言う。そのとき、どんなふうにこの本丸は色付くだろう。
     朝、寒さのせいもあり鶴丸は早くに目を覚ました。痛いほどの冷たい水で顔を洗うと気持ちがいい。すっきりとした気分でひとり本丸の廊下を歩く。
     ふと遠く、わずかなざわめきを感じ鶴丸はそちらへと足を運んだ。どうやら部隊が出陣するところらしい。そこに旧知の姿を認め、鶴丸は立ち止まった。
     大倶利伽羅。
     あの、遠い地で出逢った若き刀。心の中を再会の喜びが支配する。彼もこの本丸にいたのだ。
     近くに行きたいものの、履き物がない。悩んだすえ、鶴丸は大声で叫んだ。朝早く、周りに迷惑かとも思ったが、朝を告げる鶏代わりとでも思ってくれればいい。
    「伽羅坊!」
     遠く、振り返る姿がある。
    「いってらっしゃい! 帰ったら、話そうな!」
     手を振る。距離があるからどこまで鶴丸の声が届くかはわからなかった。大倶利伽羅が鶴丸の言葉になにか返したかどうかもわからない。ただ、鶴丸の姿は認識しただろう。大倶利伽羅は鶴丸の顕現を喜んでくれているだろうか。――いつの日か、彼と並んで戦える日が来るだろうか。
     門の先に大倶利伽羅の姿が消えるまで、鶴丸はその背を見送った。朝から叫んですっきりとした気分ではあったが、当然、その声に起こされた刀から鶴丸は怒られたのだった。
    「おはよう。朝からすごかったね」
     広間に座布団を敷いていると、苦笑しながら燭台切が声を掛けてくる。
    「やあ、おはよう。起こしてしまったか」
    「僕はもともと食事の支度で起きていたから。けれどあれで起こされた人も多いだろうね」
    「悪かったよ。次から気をつけるから」
    「まあ、見送りたい気持ちはわかるよ。伽羅ちゃんたちの部隊、もう出陣しちゃったんだね」
     彼も見送りしたかったのだろうが、食事の支度を優先させたのだろう。迷惑を掛けた詫びに彼を手伝おうと人数分の座布団を敷き終わってから配膳の準備をする。
    「最近、伽羅ちゃんの様子が少し変だったからね。さっきので気分転換になるといいんだけど」
    「そうなのかい?」
     鶴丸は表情も見えないくらい遠くから見るだけだったから、気がつかなかった。うん、と憂いを帯びた顔で燭台切は頷く。
    「伽羅ちゃんってあんな性格だからね。なにかあっても自分から言おうとしないし」
    「帰ってきたら話でも聞いてみようか。無理矢理聞き出せるとも思えないが、きみよりも俺のほうが向いていそうだ」
     まだわずかな交流しかしていないがこうして話をしてみると燭台切は性根が優しい男だというのがよくわかる。だからこそ大倶利伽羅の意思を尊重して深く踏み込むことができないのだろう。ここに太鼓鐘がいたらまた違ったかもしれないが、燭台切よりも鶴丸の方が向いていそうなのは確かだった。大倶利伽羅に多少冷たくあしらわれようが、おそらく燭台切より気にすることはない。
    「伽羅坊はいつ帰ってくるかな」
    「予定としては夜だったかな。伽羅ちゃんの好物でも作って待っていようか。手伝ってくれるかい」
     燭台切の提案に、鶴丸は笑って頷いた。
    「いいとも」
     しかし、その日に帰ってきたのは血まみれの仲間たちで、その中に大倶利伽羅が含まれてはいなかったのである。
     本丸が混乱に包まれた。
     大倶利伽羅は未だ戦場に取り残されているという。このままでは部隊が全滅するというところで大倶利伽羅が敵を引きつけ、残りの仲間たちは重傷を負っている中で大倶利伽羅を追いかけることはできなかった。ひとまず撤収し、当然、すぐに部隊を再編成して大倶利伽羅を救出しようとしたが、政府による強制的な転送手段の遮断によりそれも叶わなくなった。
    「なぜだ!」
     政府に問い合わせる主の悲痛な叫びがいつまでも鶴丸の耳に残る。
     ――曰く。大規模な障害が起こっているのだという。下手に時空転移をすればその時代に取り残されるどころか、時空の狭間から出てくることができなくなる。政府としては被害が起こる前に強制的に全ての本丸の転送手段を遮断するしかない。
     当然、主は反発した。しかし無理に時空転移したところで大倶利伽羅以外の被害が増える可能性はあり、結局のところ大倶利伽羅の無事を信じて障害からの復旧を待つことしかできなかったのだ。
     重苦しい雰囲気が、本丸を覆った。
     鶴丸は、どうしたらいいのかわからなかった。鶴丸にだって大倶利伽羅を助けにいきたい気持ちはある。しかし顕現したばかりの鶴丸は助けにいくのに間違いなく足手纏いで、仲間に託すにしても仲間ですら時空転移が許されない。
     主の姿は、見ていられなかった。大倶利伽羅はこの本丸で三番目に顕現した刀なのだという。主にとってどれだけ精神の支えとなっていたのか、呻く主の姿を見ているとよくわかる。
     燭台切はそんな中でも食事の支度を続け、みんなを励まし続けたが、それが虚勢であることなど本人も周りもわかっていただろう。
     鶴丸はひとり、置いていかれていた。
     悲しむには、大倶利伽羅とした会話はあまりに一方的で、あまりにも短いもので、古くからの付き合いではあるもののこの場で悲しんでいいものかわからなかった。きっと、鶴丸が一番、悲しむべきではない。この本丸で大倶利伽羅がどんな日常を過ごし、彼らと触れ合ってきたのか、鶴丸はなにも知らなかった。
     なにも、知らなかった。なにも知らないから、なにもできなかった。
     奇妙な二振り目が顕現したのは、そんな、みんなが悲しみと絶望に打ちひしがれている最中のことである。
     ――二振り目の大倶利伽羅が顕現した。
     主が顕現したのかと聞くも、主は青ざめた顔で首を横に振る。鶴丸から見てみても、主がこの混乱の中それができるような性格ではない。
     つまり、二振り目の大倶利伽羅は主の意思に反して顕現したのである。
     誰もが遠巻きに二振り目の大倶利伽羅を見る。大倶利伽羅は、まるで罪人のように、なにも語らず、ただ、立っていた。
     一振り目の大倶利伽羅が戦場で消え、二振り目の大倶利伽羅が唐突に誰の意思によるものでもなく顕現した。みんなが二振り目の大倶利伽羅のことをまるで化け物でも見るかのような目で見ているのが、鶴丸には耐えられなかった。二振り目の大倶利伽羅が悪いわけではないだろうと叫びたかった。
     けれど、一振り目の大倶利伽羅の喪失になにも言えなかった鶴丸がここで口を出す権利はあるのだろうか。
    「――なにをやっている」
     その瞬間、世界が音をなくしたかのようだった。
     彼は笑ってはいなかった。冷たい声だ。その声を聞いているのは、ただひとり、鶴丸だけのようだった。
    「お前が最初に声を掛けなければ、ほかに誰が掛ける」
     言葉に軽蔑の色を感じるのは、鶴丸に後ろめたさがあるからだ。一振り目の大倶利伽羅が消えてしまったとき、鶴丸はなにもできなかった。そして今、二振り目の大倶利伽羅に対してもなにもできないでいる。鶴丸の心境を見透かして、彼――三日月宗近は、鶴丸に静かに問いかけるのだ。なにをやっているのかと。
     喉がからからに渇いていた。唾を飲み込むのですら一苦労だった。
    「行け」
     突き放しているようで、それはある種の温情だったのかもしれない。
     したいことと、しなければならないこと。そのふたつにどう区別をつけるべきだろう。鶴丸が今することは、果たしてどちらになるのだろう。
     鶴丸が悩む時間を消すように、三日月は冷たい物言いで鶴丸の背を押した。だから鶴丸は走ったのだ。それは、衝動だった。一振り目の大倶利伽羅に対する悲しみとも、二振り目の大倶利伽羅に対する哀れみとも呼べない、形容しがたい感情の衝動に突き動かされるようにして、鶴丸は大倶利伽羅の腕を掴んだのである。

     また少し、意識が飛んでしまった気がする。
     一振り目の大倶利伽羅も、こんな感じだったのだろうか。刀が残っているということは、怪我による負傷というよりも主や本丸からの霊力供給が絶たれて肉体を維持できなくなったのだろうが、ひとり、こんな風に過去を思い出したのだろうか。
    「ええと、どこまで話したかな……」
     刀である大倶利伽羅が、鶴丸の話を聞いているかはわからない。確かめる術は、もうないだろう。折れるのだ、という実感は少しずつ鶴丸の中で増していく。それでもしぶとくまだ生きているのだから、呆れてしまう。次に目を閉じたら目覚めないだろうと思っていたのに、こうしてまだ生きているのだから。
    「そうだ。二振り目の伽羅坊が顕現してから、今度は青江が折れたんだ。あれも、転機だったな。青江が二振り目の伽羅坊がどういう存在だったか教えてくれた。彼が折れてしまったとき、悲しかったよ。そのときは俺も、純粋に悲しむことが許された気がした」
     きみもよく一緒に出陣していたらしいから、悲しいだろう。背中に隠した刀を撫でる。きみがいなくなったときの部隊に青江も編成されていたしな。本当は、ふたりを再会させてやりたかった。ほかの仲間たちとも。
    「青江が、二振り目のことをドッペルゲンガーと呼んだ。それから、髭切や、三日月も、同じようにドッペルゲンガーが現れて、折れたよ。二振り目の伽羅坊以外、本丸では表向きうまくやれているけれど、二振り目の伽羅坊だけはどうにもな。きみがいなくなったのと、顕現した経緯が経緯だったから、主の方が受け入れられなかったんだ」

     鶴丸は主が心から笑ったのを、顕現した最初のときにしか見ていない。顕現して翌日、大倶利伽羅がいなくなった。入れ替わるように今度は二振り目の大倶利伽羅が顕現した。二振り目の大倶利伽羅に積極的に関わろうとするのは鶴丸だけで、ほかの誰もが、大倶利伽羅のことを遠巻きに見ているしかなかった。そのことを、仕方がないと鶴丸は思っている。特に主については、あの若さで大切なものを喪う体験をしたのだ。主は大倶利伽羅に話しかけることは一切なかった。
    「お前は、なぜ俺に話しかける」
     大倶利伽羅が道場を使用するところを見たことがない。馴れ合わないのは大倶利伽羅の性質のようなものであるが、本人が悪くないのにその状況下に置かれるのはあんまりだなと鶴丸は思っている。大倶利伽羅と手合わせしたことがあるのは、鶴丸だけだ。
     ツツジが咲いている。本丸の重苦しい空気とは裏腹に、明るい色の花だ。鶴丸と大倶利伽羅が鍛錬に使っている秘密の場所。秘密もなにも、打ち明けるような相手がいないだけの話ではあるが。
    「旧知の仲に話しかけるのがそんなに悪いことかい」
    「光忠だって俺に話しかけようとはしない」
    「だからって俺が話しかけない理由にはならない。俺は元来こんな性質さ。きみが望もうと望まないと、好きにやっているだけだ。きみの気持ちなんか知ったことじゃあない」
     大倶利伽羅が呆れた顔をする。
     もっとみんな、こんな大倶利伽羅の一面を知ればいいと思う。そうしたら、この二振り目の大倶利伽羅だって、そんなに奇妙なものではないとわかるはずだ。もともと仏頂面な挙げ句に不器用な性格だから誤解を生みやすい。
    「俺は強くなりたいだけさ。きみだってそうだろう」
     鶴丸が強ければ、一振り目の大倶利伽羅を助けに向かうことができたかもしれない。
     傷害が復旧し、仲間たちは大倶利伽羅を探すため何度もあの任務先へと出陣した。しかし何度探しても、大倶利伽羅の姿を見つけることはできなかった。焦りが本丸を支配する。最悪の想像を、誰もがせざるを得なかった。つまり、大倶利伽羅の末路を。
     青江が奇妙なことを言い出したのは、そんな最中のことである。誰にも見えないもうひとりの自分が見えるのだという。奇妙だけど害のあるようなものじゃないと思う、と語る青江に対し、しかし大倶利伽羅が神妙な顔で忠告したのだった。
     ――自分も同じように意識だけが先に折れて、一振り目が折れてから顕現した。気をつけないと、一振り目のお前も折れて、二振り目に成り代わられることになるぞ。
     二振り目の大倶利伽羅がどういった存在なのかわかったのはそのときだ。青江は二振り目の自分のことをドッペルゲンガーと呼んだ。2回見てしまえば死んでしまうという、奇妙な存在のようだと。青江は遠くない未来に自分が折れてしまうことをあまりにもあっさりと受け入れたのである。
     主は、再び錯乱した。正直、見ていられなかったくらいだ。しかし青江は泣き叫ぶ主に対し辛抱強く何度も話しかけ、自分が折れてしまっても二振り目の自分を受け入れて欲しいと望んだ。親しい仲には手紙を残し、自分が折れたあとの本丸のことを想って行動をした。だからこそ、二振り目の青江のことを、みんなも色々と複雑な心でありながらも仲間として受け入れることができたのだった。
     そうなると、悲惨なのは二振り目の大倶利伽羅である。青江は二振り目がどういった経緯で顕現するのかを解き明かしてくれたが、それは同時に一振り目の大倶利伽羅が折れてしまったことを突きつける行為でもあった。二振り目の青江を受け入れたことは、二振り目の大倶利伽羅を受け入れられなかった罪悪感を生んだ。鶴丸がほかの誰かと大倶利伽羅の間に入ってしまったのもよくなかったのだろう。揉めることはなかった。だからこそ、誰も大倶利伽羅に深く関わることができなかった。
     鶴丸は、失敗したのだ。最初から、なにもかも、失敗をした。けれどどうやればうまくできたのかわからない。
    「きみは案外、甘いのが好きだな」
     たまに、ふたりで出かけることがあった。本丸で過ごしていると、どうしたって誰かの視線が気になる。罪悪感を含んだ視線に大倶利伽羅を晒したくなくて、鶴丸は本丸の外へと大倶利伽羅を連れ出した。
     喫茶店でケーキを頬張る大倶利伽羅を眺めながら、鶴丸は微笑んだ。
    「なにがおかしい」
    「別に」
     こういう大倶利伽羅を知っているのは自分だけなのだ。
     それが悲しく、同時に。――気づいてしまった感情に、ぞっとする。
     自分はどこか、この状況に優越感を抱いているのではないか。自分だけがこんな大倶利伽羅を知っているのだと、得意げになっているのではないか。ざあっと血の気が引く感覚がする。
    「どうした」
    「なにが」
     誤魔化すように、コーヒーを飲む。いつもは美味しいと思えるものも、今は味を感じない。
    「顔色が悪い」
     大倶利伽羅が指を伸ばし鶴丸の額に触れる。やめてくれ、と叫びそうになった。気づいてしまったのだ。そんな優しげにされる資格は、鶴丸にはない。大倶利伽羅を視線に入れないようにする主や、遠巻きに見ているしかない仲間たち――彼らよりずっとずっと、鶴丸は醜い。どろどろとした感情を自分の中に抱えている。今にも身体から飛び出して、大倶利伽羅を飲み込んで離さなくなるかもしれない。
    「きみは、」
     きみは綺麗だ、伽羅坊。
     こんな苦しい世界の中でも、きみは強く、美しいままだ。どんな苦難も、きみを損なうことはないだろう。
     俺ばかりだ。俺ばかりが、こんなにも醜い。

     鶴丸が「それ」を見たとき、ああ、次は自分の番なのだと驚くほど穏やかにその事実を受け入れることができた。きっとずっと、待っていた。自分の失敗も、醜さも、すべてすべて消し去って過去のものにできる存在を、鶴丸は待っていたのである。
     ――二振り目の、鶴丸国永。己のドッペルゲンガーを。
    「折れる前の三日月にな。しっかりやれと言われたよ。遺言にしちゃ、随分なものだとは想わないか。まあ、確かに俺はずっとしっかりなんてできていなかったがね」
     三日月がなにを思い最初に鶴丸の背を押し、なにを思い忠告したのか、鶴丸には終ぞわからなかった。代わりに顕現した二振り目の三日月は一振り目とは随分違う性質だったから、余計、もう一振り目の三日月はいないのだと思い知らされる。
    「でも、代わりに二振り目の俺がきっとしっかりやってくれるはずだ。あいつに、居場所を作ってくれる。こんな、醜い感情を抱えた俺の代わりに」
     二振り目は、鶴丸のような失敗をしない。こんな感情を抱かない。もし抱いたのなら――そう考えて、余計に自分の醜さに反吐が出る思いだった。
     結局のところ、鶴丸はどうしたかったのだろう。大倶利伽羅とみんなが仲良くしているところを見たかったのは、本当だ。鶴丸の失敗のせいで、大倶利伽羅は未だに本丸で自分の居場所を定めることができていない。同時に、鶴丸がそのとなりにいることに優越感を抱いていることも、目を逸らすことができない真実だった。
     自分と、大倶利伽羅の間にはなにもない。
     大倶利伽羅が鶴丸になにかを望むことなどなかったし、反対に、大倶利伽羅になにかを望むことなど、鶴丸にはできない。それだけは、鶴丸が譲ってはいけない部分だった。なにかを望んでしまえば、その途端、様々なことが瓦解する。瓦解した瞬間、この醜さを大倶利伽羅に曝け出さなければならない。これだけは、絶対に、見せないままで終わりにしなければならない。たったひとつの矜持。守りたいもの。少しでも大倶利伽羅に残る記憶の中の自分を美しくしたかったのだと自覚して、笑ってしまう。
     大倶利伽羅には、ずっと美しく在ってほしかった。鶴丸が折れて少しは傷つくかもしれないが、二振り目の自分とうまくやっていけるだろう。今度こそ、本丸に溶け込んで生きていける。鶴丸によって大倶利伽羅が歪んでしまうことだけはあってはならない。なにか言いたげな大倶利伽羅の視線に背を向けて、鶴丸は今、ここにいる。
    「なんだか、長い話のようで、大した話でもなかったな……」
     けれど、随分とすっきりした。
     終わりを終わりとわかって迎え入れる気持ちは、わるくはなかった。やり残したことは、二振り目の自分がなんとかしてくれる。
     頭がぐらぐらして、樹に深く寄りかかった。
    「きみと最期に話ができて、よかったよ」
     あのときの一方的な約束を、果たすことができたから。相槌はなかったけれど。
     こんな話、きみが肉体を得たままだったらどんな顔をして聞いていたか気になるな。途中で呆れて立ち上がっていなくなるかもしれない。それとも、話を聞いているふりだけして本かなにか読んでいるかもしれない。きみと本丸で過ごすことはできなかったけれど、そういう想像をするのはなんだか楽しい。
    「二振り目の伽羅坊は、なんだかんだで俺の話を聞いてくれているんだ。伽羅坊にとってはあまり興味のない話なんだろうけれどな。俺が一方的に話して、たまにあいつがなにか返してくる。それが嬉しくて」
     鶴丸が顕現してからの本丸は、決して幸福とは呼べなかった。主は今も悲しみに打ち拉がれていて、その悲しみを少しでも癒やしてくれるであろう存在はここにいるのに、鶴丸は本丸へと連れて帰ることはできない。一振り目の大倶利伽羅が本丸へと帰ることができたなら、二振り目の大倶利伽羅にも気が休まる日が来るだろうと思うのに。
     もう本丸へは帰れない。鶴丸はここで折れる。そうして、本丸には新しい風が入り込む。本丸にとっての長い冬が終わりを告げることだろう。春が、来る。大倶利伽羅はあの場所で、今度はひとりで過ごすのだろうか。それとも、二振り目の鶴丸と、共に過ごすのだろうか。
    「それは、嫌だなあ……」
     ひとつだけ。たったひとつだけ。あの場所だけは不可侵であってほしいなんて我が儘を抱く。本丸に暗い空気が立ちこめる中、たったひとつ、鶴丸が鮮やかな色を感じた場所。ふたりで過ごした場所。時間。空気。感情。
     それらを思い出して、ああ、と鶴丸は息を吐いた。
    「本当に、自分勝手だ」
     大倶利伽羅には自分によって美しさが損なわれてほしくはないと願うのに、同時に、あの場所をふたりだけの場所にしてほしいとも思う。ほかの誰にも、触れられたくはない。恐ろしいほどの独占欲。
     目を閉じる。
     その瞼の裏に、なにかを探そうとしてしまう。馬鹿みたいだ。
     そうしてどれくらい時間が経ったことだろうか。
     音が、する。
     音はやがて声の形になる。
    「しっかりしろ。俺だ。二振り目の、鶴丸国永だ」
     幻かなにかだと思った。実際、彼はまだ肉体を得ていないのだから幻のようなものなにかもしれないが。
     呆然としながら、鶴丸は彼を見上げた。
    「どうして……」
    「きみを、回収しにきたんだ。伽羅坊も一緒だ」
     その言葉に鶴丸は思わず身を捩る。なぜ、と二振り目に問いかけた。
    「それを、きみが聞くのか」
     二振り目の鶴丸の表情は怒りで満ちている。この、諦めきった本丸の中でいつの間にか見なくなった激情。
    「誰も、俺も、きみのかわりになどならないからだ」
     二振り目の声は、まっすぐに鶴丸に届く。
     二振り目の大倶利伽羅を、一振り目の大倶利伽羅のかわりにしたことは一度もない。ほかの二振り目の青江や、髭切や、三日月だってそうだ。折れてしまった彼らは、かけがえのない存在だった。同時に、二振り目である者たちも、かけがえのない存在なのだ。彼らには彼らの生き方が、感情がある。
     わかっていた。わかっていたけれど、鶴丸は二振り目にそれを望んだのだ。それを察して、二振り目は激しい怒りを鶴丸に向ける。
    「ああ、もう! 俺はきみのようにはならないぞ! きみの勝手を、どうして俺が解決してやる必要がある! きみの感情はきみのもので、伽羅坊の感情も伽羅坊のものだ。いいか、伽羅坊は望んだぞ。最期にきみを一振りだけにしたくないと、あの子が望んだんだ。それを叶えてやれないのなら、きみは『鶴丸国永』失格だ」
     あんまりな言い分に、鶴丸は呆れてしまう。同時に、酷く眩しかった。
     一振り目の鶴丸が一度も抱いたことのない激しい怒りの感情を、二振り目の鶴丸は持っている。その時点でもう、二振り目は確固とした存在であり、到底、一振り目と同じであるとはいえない。一振り目の鶴丸のかわりなどになってくれはしない。
     草木をかき分ける音がする。身構えるが、そこにある存在を認め、力を抜いた。
     傷だらけだった。ここへ来るまでに、どれだけ苦労したのだろう。鶴丸がもう折れてしまうとわかったのに――それでも大倶利伽羅はやってきた。きて、しまった。
    「間に合ったか」
     膝をついて鶴丸の状態を確認する大倶利伽羅の頬を、馬鹿野郎と鶴丸は殴った。力の入らない、仲間ひとり助けることができない、本当に無力な手。その頬に血がついても大倶利伽羅が怒ることはない。ただ、まっすぐに鶴丸を見ている。震える鶴丸の手を、大倶利伽羅が握った。血を流しすぎて体温が下がった中で、その手はひどくあたたかい。
    「折れるか」
    「……まだ、大丈夫だ。どうかな。いつまで持つか」
     血を流しすぎた。失った腕から流れる血が一番深刻だ。大倶利伽羅も状況がわかっているのか、自分の傷も放って鶴丸の止血をする。悪足掻きだ、と鶴丸は呟いた。わかっている、と大倶利伽羅が返す。それでも大倶利伽羅の手は止まらない。
     なんで来たんだ。どうして放っておいてくれなかった。
     鶴丸と大倶利伽羅の間にはなにもない。なにもないことにしなければならなかった。大倶利伽羅には鶴丸によって傷つき、損なわれてほしくはなかった。ただ、美しく在ってほしかった。――こんな苦しい世界の中でも、凜としている姿が好きだったから。
     でも、どうしてかな。嬉しいんだ。
     身体から血と共に体温が失われていく中、瞼の裏だけが酷く熱い。
    「こんなの望んでいなかったのに、きみがここにいてくれて、嬉しいんだ」
     感情が溢れ出す。醜い。こんなにも、醜い。美しいきみとは反対に、どこまでも自分の醜さを思い知る。
     最期までこの醜さを隠しておきたかった。なのに、こうして気が緩んでしまうと、最期にひとつくらいいいだろうという身勝手さがまた顔を出す。
     もう黙っておけと大倶利伽羅の声が聞こえる。その声も、随分遠い。意識がもう持たない。やはりこれは自分が見ている夢かもしれない。都合のいい、夢。だからいいだろうと自分に許した。
    「いいや。これだけ。これだけだ。あのな、俺は、きみが、きみのことが――」
     その先は、言葉になっただろうか。

     結果として、鶴丸は折れなかった。
     手入れ部屋で目覚めた鶴丸は布団の中で悶絶したが、大倶利伽羅はそれを痛みによるものだと勘違いしたらしい。大倶利伽羅が主を呼びに行き、大泣きした主は鶴丸に抱きついた。その背を撫でながら、大倶利伽羅が自分から主に声を掛けたのだとようやく飲み込んで理解したのだった。
     今まで、大倶利伽羅も主も、お互いに話しかけないようにしていた。そうすることで様々なことから目を逸らしていたのだ。それが今では、普通に話すようになっている。鶴丸はまだ自分が夢を見ているのではないだろうかという気分になっていた。
     夢といえば、ほかにも現実とは思えないことがあった。
    「一振り目の大倶利伽羅のことも、見つけてくれてありがとう」
     鶴丸の手を握り、主が深く頭を下げる。どうやらあの一振り目の大倶利伽羅も幻ではなかったらしいと驚いた。二振り目の鶴丸も顕現したが、なぜだか今は伏せっているという。一振り目の大倶利伽羅がその面倒を見ているそうだ。彼もまた本調子から遠いからというのもあるだろう。
     本当にこれは現実なのだろうか。鶴丸はいまもひとり、あの森で折れかけているのではないだろうか。数日はそう思っていたものの、どうやら鶴丸は「そのとき」を乗り越えて、折れずに生きているらしい。
    「驚いたなあ」
     驚いた、驚いた。何度も鶴丸は呟く。夢心地な気分も、そのあと何度か出陣して覚めてきた。主は鶴丸が出陣することを嫌がったが、強引に押し切ったのだ。多少怪我を負っても無事に帰ってくる鶴丸に、もう「そのとき」は乗り越えたのだと主も納得したようだった。そのかわり、大倶利伽羅は未だに血まみれの鶴丸をトラウマに思っているらしく、一緒の部隊でないときは毎回出迎えに来る有様である。これは、少しだけ変わったふたりの関係だった。
     鶴丸のあの言葉について、大倶利伽羅が触れることはなかった。どうやら最後まで鶴丸は言い切ることはなかったらしい。よかったような、悪かったような。怪我人の妄言だと思われたのかもしれない。
     なにもない、ような。ある、ような。
     そんな宙ぶらりんの関係は、進展したと呼べるのだろうか。

    「――やる」
     神妙な顔で大倶利伽羅が差し出してきた小箱を、鶴丸は慌てて受け取った。
    「なんだい、これ」
    「…………」
     大倶利伽羅はなにも言わない。鶴丸は首を傾げつつ、箱を開いた。
    「これ……」
     大倶利伽羅は黙ったままだが、どういうものであるかはわかる。何度も箱と大倶利伽羅に視線を行き来していると、大倶利伽羅がようやく重い口を開いた。
    「らしくはないとわかる。お守りと呼ぶにも、心もとないが」
    「そんなことはない。嬉しい」
     じんわりと喜びが胸に満ちていく。
    「俺たちはやはりしっかりと形にしたほうがいいと、この間の騒動で思い知ったからな」
    「それを言うなよ」
     うう、と鶴丸が呻く。
     変に生き残ったせいか、鶴丸の感情は前に比べて自制が効かなくなった。醜いとわかっていても嫉妬の感情が支配する。しかし大倶利伽羅はそれが不快に感じないようで、ならいいか、いいのかと疑問に思いつつも少し素直になることにした。鶴丸が嫉妬の感情を隠さないように、大倶利伽羅もまた、鶴丸を心配する感情を隠さないようになったからだ。
     ふたりだけの住まいは静かだ。以前は罪悪感を含んだみんなの視線を避けるために誰もいない場所で過ごすことは多かったが、今はそれとは違う穏やかな時間をふたりで過ごしている。
     鶴丸は間もなく修行に出る。
     本丸にとってはほんの数日ではある。鶴丸にとってはそれなりに長い時間。鶴丸と大倶利伽羅が離れて過ごすのはこれが初めてかもしれない。鶴丸の決断を、大倶利伽羅は心配しながらも受け入れた。
     受け取ったばかりの指輪を嵌めた手で、鶴丸は大倶利伽羅の手に触れた。
    「いってくるよ」
     なにかが変わるかもしれない。案外、なにも変わらないかもしれない。どんな鶴丸でも、きっと大倶利伽羅は受け入れてくれるだろう。それがわかるから、怖くはない。
    「あのな、俺は、きみが、きみのことが――」
     好きだよ、と。
     鶴丸は今度ははっきりと言葉にした。
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