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    上巻を読まないとさっぱりわからないのでご注意ください。

    知り叩きサンプル くしゅん、とひとつくしゃみをして、季節の移ろいを実感する。
     夏が過ぎ、秋も半ばを迎え、鶴丸が顕現してからもう数ヶ月が経過していた。
     書庫前の落ち葉を掃いていると肌寒さを覚え、そろそろ防寒具を揃えてもいいかもしれないなとそんなことを考えた。鶴丸が顕現したのは春先のことで、それからあっという間に暖かくなったから、鶴丸は手袋のひとつも持っていないのだ。まだ見ぬ未来のことを考えると、なんだかそわそわしてしまう。
     書庫のすぐ近くには銀杏の樹が植えられている。少し離れた場所にはオオモミジもあり、風に乗ってこちらまで流れてくることもあった。黄と赤が混じり合う様子は美しい。
     窓辺から眺める分には純粋に綺麗だと思えるが、銀杏については実の匂いが気になってしまうため毎朝掃き掃除をする羽目になる。実は食べるから回収するようにと燭台切にきつく言われているが、だったら作業を手伝ってくれればいいのにと唇を尖らせるしかない。汚れる以上に匂うのは好きではない。
     今日のひと仕事を終えたら、大倶利伽羅を連れて万屋へ行くのもいいかもしれない。彼も本丸を長い間留守にしてしまったから、今は防寒具のひとつも持っていないはずだ。その理由について考えると辛いものがあるが、これからふたりで新しい思い出を作っていけばいいのだと前向きになることにした。今、鶴丸と大倶利伽羅は同じ時を共に歩んでいるのだから。
     ひたすら落ちてくる葉に苦戦していると母屋の方から近づいてくる影が見えたので、鶴丸は大きく手を振った。夏の終わりに念願だった書庫と母屋を繋ぐ渡り廊下がようやく出来上がったのだ。書庫の利用者もほんの少し増えた気がする。その客足を絶やさないためにも掃き掃除を徹底せねば。
    「おつかれ、伽羅坊!」
     大倶利伽羅は玄関前の掃除をしていたはずだった。出陣や遠征などの任務がなくとも、やるべき仕事は山のようにある。任務に比べるとやりがいというものがないが、刀のころとはまるで違う、肉体を得て生活を営んでいく感覚は嫌いではなかった。
    「なあ、伽羅坊。午後から買い物に行かないか。きみも防寒具の類いは持っていないだろ。本格的に寒くなる前に手袋くらいは買っておきたいんだ」
     燭台切ももしかしたら防寒具を新調するかもしれないから誘ってみようか。そうでなくとも、なにか鶴丸と大倶利伽羅に似合うものを見繕ってくれるかもしれない。こういった「おしゃれ」については、彼の方が詳しい。
    「時間が余ればな」
     大倶利伽羅はポケットから一枚の紙を取り出す。
    「光忠から買い出しを頼まれた。明後日は宴会をするから、事前準備のためとのことだ」
    「宴会? ――ああ、そうか」
     鶴丸はもう一度くしゃみをする。
     季節は移ろい、再会の時がやってきた。
     修行へ出ていた一振り目の鶴丸国永が、もうすぐ帰ってくるのだ。

    「おおい、伽羅坊。光坊が作ってくれたおかず、持ってきてやったぞ」
     この本丸には鶴丸国永と大倶利伽羅が二振りずつ存在している。
     一振り目の鶴丸と二振り目の大倶利伽羅は本丸のほかのみんなとは別に、平屋にふたりきりで暮らしているのだ。
     一振り目の鶴丸が不在のときくらいはみんなと一緒にご飯を食べればいいのになと鶴丸は思うのだが、大倶利伽羅の性格上仕方がないのかもしれない。一振り目が留守なのをいいことに、絶対にほかの連中が絡みにいくからだ。
     一振り目の鶴丸と二振り目の大倶利伽羅が「良い仲」であることは、公言していなくともふたりで家を構えたことで周知の事実となった。二振り目の大倶利伽羅に対してある種の罪悪感を抱いていた者には、今の彼が幸せであることが喜ばしいのだろう。彼もそれがわかっているから無碍にできないし、無碍にしたくはないからこそ鶴丸と一緒でない限りは任務以外家に引きこもっている。まあ、面倒な気持ちと照れくさい気持ちと、そういうのも合わさっているのかもしれないが。
     燭台切に託された風呂敷包みを持ってふたりの住まいに顔を出せば、大倶利伽羅は玄関の拭き掃除をしているところだった。母屋で一振り目の鶴丸と同室だったときは意外にもごちゃごちゃとした印象を受けたが、新居を構えた今はできるだけ綺麗にしようと心がけているらしい。もしかしたら一振り目がもうすぐ帰ってくるから、よりいっそう掃除に力を入れているのかもしれない。そういうところが微笑ましく感じる。玄関先には花も活けられており、その色鮮やかさが今の彼らの生活を表しているように思えた。
    「悪い」
     大倶利伽羅が鶴丸の差し出した包みを受け取る。
    「一振り目が帰ってきたら、宴会を開くんだとさ。そのときはきみも強制参加だぞ」
    「……わかっている」
     苦々しい顔をしながらも大倶利伽羅は頷いた。
     せっかく帰ってきたのだ。ふたりでゆっくりしたい気持ちもあるだろう。しかしこれは主に対し一振り目が無事に帰還したことを知らせるためのものでもあるから、この宴会くらいは我慢して来てほしい。
    「ひとりでの生活はどうだった」
     玄関先に腰掛け、問いかける。
     二振り目の大倶利伽羅が顕現したときの経緯が経緯なだけに、一振り目の鶴丸は彼を孤独にしようとはしなかった。それができたのは一振り目の鶴丸だけだっただろうし、一振り目の意地のようなものもあっただろう。たかだか数日だろうが二振り目の大倶利伽羅のとなりに一振り目の鶴丸の姿がないことは、少し奇妙な気分になる。任務で離れることはあったが、修行で不在にしていることと任務で不在にしていることは、やはり違うように感じるのだ。
    「静かだ」
     意外にも、大倶利伽羅は鶴丸の目を見てしっかりと素直に答えてくれた。
    「騒がしいのは好きじゃない。それでも、あいつがいないと静かすぎて、沈黙で耳が痛くなる」
    「……そうかい」
     きっと一振り目が聞いたら喜ぶのじゃないだろうか。
     ふたりの関係は、色々なしがらみから解放された分、穏やかなものになったように感じる。ふたりで一緒にいる意味を考えた結果のことなのだろう。罪悪感でもなく、同情からでもなく、なし崩しでもなく、自分たちで一緒にいることを選んだ。それが、鶴丸にとっては嬉しい。
     家、というわかりやすいふたりの居場所。彼らが帰ってくる場所。
    「お前らは」
    「うん?」
    「お前らは、どうなんだ」
     お前ら、がどの範囲を指しているのかくらいはわかる。
     大倶利伽羅に問われ、ううん、と鶴丸は首を捻った。そうして、自分と二振り目の大倶利伽羅が付き合っていると一振り目の鶴丸に嘘を吐いていたことを思い出した。おそらく彼は一振り目経由で話を聞いたのだろう。
     あのときは一振り目の鶴丸がややこしい勘違いの末に嫉妬をぶつけてくるから咄嗟に嘘を吐くことしかできなかったが、こうしてふたりが無事お互いに気持ちを確かめ合い一緒になったなら嘘を吐き続ける理由なんてない。今となっては完全に笑い話だ。なんとなく嘘だったと一振り目に白状するタイミングを失ってしまっただけなので二振り目の大倶利伽羅には正直にあれが嘘であることを告げたが、大倶利伽羅が驚く様子はなかった。
    「それくらい、見ていればわかる」
    「ええ……。一振り目は普通に騙されていたが」
    「それはあいつが単純だからな」
     一振り目の鶴丸を単純と言い切れるのは二振り目の大倶利伽羅くらいな気がする。鶴丸からしてみれば、一振り目の思考回路は難解かつ面倒だ。
     そう評すと、大倶利伽羅は鼻で笑った。なんなんだ一体。
    「じゃあ、きみはいったいなにが聞きたい」
     むっとなりながら聞き返す。自分と二振り目の大倶利伽羅が付き合っていないと知っているのだから、どうだもなにもないだろう。
    「お前たちはどうして一緒にいることを選択したんだ」
    「そこは、きみたちとは違うな。事情は詳しく話すことはできないが、そうしなければならない理由があるからさ。ま、俺のせいではあるんだが。あいつは、可哀想なことに俺に振り回されているだけさ。自覚がない『良いやつ』は損をする」
     彼は鶴丸の抱えている不具合を知っているから、薄々自分たちの関係性に気づいているのかもしれない。
     一振り目の鶴丸と二振り目の大倶利伽羅は、本人たちが望んで一緒にいるのだ。最初は一振り目の独りよがりな感情からだった始まったのかもしれないが、少なくとも今はふたりで決めてここにいることを選んだ。自分たちとは違う。
    「……俺は、あいつと一緒にいるのが好きだよ。驚きというのには遠いが、穏やかな気分になれる。けれどあいつの方はどうかな」
     鶴丸は、大倶利伽羅に対して負い目がある。鶴丸がいる限り、大倶利伽羅は不自由だ。せっかく長い放浪の果てに大倶利伽羅はこの本丸に帰ってこられたというのに、鶴丸がその足枷になってしまっているのだ。
    「後ろ向きだな」
    「そうかもな。だから、俺はあいつを解放してやりたいし、その上で――気兼ねなくあいつと一緒にいたいと思うよ。その感情は俺の中で両立するんだ。俺は、俺のしたいようにする。俺はもともと自分勝手だからな。だからこそ、そこに変な事情を入れたくはない。あくまで俺の感情のままに行動したい。きみたちみたいにな」
    「それは……」
     そう笑いかければ、今度は大倶利伽羅が言葉を濁した。照れているのだ。わかりにくいようでわかりやすい。
     鶴丸にとって、一振り目の鶴丸と二振り目の大倶利伽羅の姿は眩しく見える。鶴丸にだけではない。本丸のほかのみんなだって、ふたりが幸せであってほしいと思っているはずだ。今、ふたりはみんなに祝福されている。それが嬉しい。
     この先、戦いの最中で今度こそどちらかが折れる事態が訪れるかもしれない。けれど少しでも長く、ふたりがこの場所で穏やかに過ごせる時間が続けばいいと願わずにはいられないのだ。

     修行とは本来概ね数日程度で帰ってくるらしい。
     らしい、というのは鶴丸にとって修行から帰ってくる刀剣男士を出迎えるのはこれが初めてだからだ。ただし、これは概ねというだけであって、それよりも時間を掛けて帰ってくる刀剣男士も中にはいるらしく、結局のところ帰還の手紙が主に届かなければいつに帰ってくるのかもわからないとのことだ。最初聞いたときはなんだそれ、と思ったものの、刀剣男士の個体差というものなのかもしれない。
     そういうわけで、一振り目の鶴丸は旅立ってから長いのか短いのかわからない微妙な日数を経て本日帰還した。
     今まで一振り目の鶴丸と二振り目の鶴丸の区別は遠目から見るとわからないと言われていたが、これからはそういうことはなくなるのかもしれない。なお、実際に近づいてみると二振り目の方が見るだけで印象が騒がしいからすぐにわかるとも言われたが、甚だ不本意である。
    「おかえり」
     ちょうど玄関先にいた鶴丸が一振り目の帰還に気づき近寄ると、一振り目も鶴丸の存在に気づき笑ったが、すぐに不快そうに顔を顰める。
    「ああ、ただいま……ってなんだ、すごい匂いだな」
     拾った銀杏の実をバケツに入れていたのだ。これから種を取り出す作業をしようとしたところで一振り目に出くわしたので、タイミングが良かったのか悪かったのか。
    「そうか、今は秋なのか。すっかり感覚が狂ってしまったな。ここでは数日でも、向こうではそれなりに長く過ごしたものだから」
     一振り目が感慨深そうな顔で周囲を見渡す。
    「もう処理したものもあるから、今日の茶碗蒸しにも入っているぜ」
    「きみもすっかり本丸に慣れたようだな」
     そうだな、と鶴丸は相槌を打つ。一振り目が修行に行っていたのはそう長い期間ではなかったが、その間にも鶴丸は出陣や遠征で少しずつ力を身につけている。一振り目に届くのはまだまだ先だろうが、今は懸命にやるべきことをやるだけだ。
    「どうだった、修行は」
    「それは、お楽しみだな。きみもいつか行くだろうさ。自分の中で色々と疑問に思っていたことがしっくりとくるというか、ううん、説明が難しいな」
     一振り目が屈み、高下駄を脱ぐ。自分と同じなのに、全く違う存在。鶴丸がまだ見たことのない景色を見てきた半身。
    「――ただ、そうだな。きみには感謝しているさ、いろいろと」
     一振り目の声が、低く玄関に響いた。
    「なんだい、急に」
    「きみがいなけりゃ、俺はここにいなかっただろうしな。こうして帰ってきたし、改めて感謝しておくべきかと思ったんだ」
    「やめてくれ。気持ちが悪いぞ」
     そういうのはいらん。そう返せば一振り目は酷いなと笑った。
     今ここにいる一振り目は、旅立つ前の一振り目と地続きの存在だ。外見こそは多少変わったが、内面はどこまで変わったのだろう。自分も、いつか変わってしまうことがあるのだろうか。まったく想像がつかない。
    「本丸は、変わりはないか」
    「書庫の前の落ち葉が酷くて一苦労だ。それ以外には、まあ、変わらん。新顔が増えたわけでもない」
     今のところこの本丸では鶴丸が一番の新参者だった。いつか太鼓鐘に会いたいと願ってはいるが、悲しきかな、鍛刀の結果も芳しくはない。こればかりは運なのだろう。
    「そうかい。とりあえず、主に会ってくる。それからひとっ風呂浴びるかな。夕餉までは寝ていたい」
     一振り目の鶴丸は大きくあくびをした。修行から帰ってきたにしては緊張感のない男だ。
    「今日は宴会だからな。あまり寝過ぎるなよ」
     こういうときに限って、二振り目の大倶利伽羅はここにいない。一振り目の鶴丸も今日帰ってくるとは事前に知らせていたものの、何時かまでは教えてくれていなかったのだ。一振り目が帰ってきたことを彼へ知らせてこようかと伝えると、首を横に振られる。
    「せっかくだから驚かせてやるさ。……正直、その、照れくさい気持ちがあってな。帰ってから少しだけ時間を置いた方がいいかと思ったんだ。こんなに離れたこと、今まではなかったわけだし。ま、あくまで長く離れていたというのも俺の体感であるわけだが」
     ようやく顔を上げた一振り目の頬は若干赤らんでいる。
     彼は二振り目の大倶利伽羅が一振り目の鶴丸の不在にどう思っていたのか知らないのだ。それを教えてやったらどんな反応をするのだろう。
     意外と可愛らしいことを言うので、面白くなってしまった。大倶利伽羅のことをからかうのは可哀想だなという気持ちになるが、一振り目は普段飄々としている分、こういうときに弄りたくなる。
    「そんなもんかい。てっきり抱きつくかと思ったが。恋仲なんだし」
    「やめてくれ、そんな柄じゃない。そういうのはきみのときにやってくれ」
    「俺だってやらんが」
     恋仲であることを否定しない分、多少は素直なのかもしれない。
     一振り目の大倶利伽羅とはそんな関係ではないし、事情があって長時間離れて過ごすことはできないからそのような感動的な再会はできそうにない。色々と面倒になるから、その事情が解決するまで一振り目にそういったごちゃごちゃとした真相を教えることはないのだが。
    「とにかく、さっさと行ってこい」
     ばしんと背を叩く。頼もしくなったのか、そうではないのか、はっきりしていない白い背だ。この背中を、鶴丸が戦場で見ることはない。少しだけ、それが残念だ。
     同じ刀は同じ部隊に編成できない。これはどうやっても覆せないシステムの問題のようで、だから鶴丸が戦場で一振り目を見たのは、鶴丸がまだ実体を持っていなかった、ただのドッペルゲンガーとして存在していたあのときだけだ。
     一振り目の鶴丸が、折れそうになったときのたった一度だけ。
     改めて感謝されるには気恥ずかしいが、今ここに一振り目の鶴丸が存在していることは奇跡のようなことなのだ。
    「きみに、無事再会できたことを嬉しく思うよ」
     離れていく背中に声を掛けると、一振り目は振り返らないままひらひらと手を振った。

     その日の宴会は盛大に行われた。
     この本丸で修行に出た刀はそれほど多くない。そして一振り目の鶴丸がかつて折れるかもしれないという事態に陥ったこともあり、今回無事に修行から帰ってきてくれた一振り目をみんなが喜んで出迎えた。特に主の喜びようといったら。
     もう飲めないと断っているのに、一振り目のもとへみんなが次々と酒を注ぎにやってくる。一振り目の鶴丸のとなりには二振り目の大倶利伽羅がおり、あまりの騒々しさに逃げようとしたものの、それを許す一振り目ではない。この状況なら酔い潰れた一振り目を彼が頑張って連れて帰ることになる。せっかく今夜はふたりで静かに過ごせたかもしれないのに可哀想だし、ほかのみんなもわかっていてやっているのだろうから悪質だ。
     当然、止めない自分を含めて。
    「機嫌がいいな」
     隣から声がする。
    「まあな」
     酒を飲みながら、くつくつと鶴丸は小さく笑った。
     鶴丸がまだドッペルゲンガーと呼ばれる存在だったときには想像もできなかった光景だ。明るい声が広間に響いている。屈託のない顔で一振り目が笑い、反面、隣の大倶利伽羅が苦々しい顔をしているのもまた面白い。
    「きみが帰ってこなければこんな風景、見られなかったかもな」
     笑いながら隣の大倶利伽羅に話しかけると、大倶利伽羅は顔を顰めた。
     この本丸にとって一振り目の大倶利伽羅。数年という長き不在の果てに、ようやく帰還を果たした刀だ。
    「なぜ俺の話になる」
    「一振り目が帰ってきても、きみが帰ってこなければ二振り目の伽羅坊はずっと居心地が悪いままだっただろう。きみが帰ってきてから、本丸に良い風が吹いてきたんだなって思う。俺はこの本丸では新参だが、それくらいわかるさ」
     今まで折れた刀たちが、戻ってくることはない。一振り目の鶴丸や今ここにいる大倶利伽羅が戻ってきてくれたことは奇跡のようなもので、おそらく二度目はないだろう。――それでも。
     それでも、失われたものがある中で、失われないでここに在るものだって残っている。それが救いなのだ。
    「それを言うなら、お前の方じゃないか」
    「俺?」
     予想もしない言葉に瞬きをする。
    「お前がいなければ、二振り目の俺が覚悟を決めることはなかった。折れるとわかっている一振り目のあいつに逢いに行こうとはしなかっただろう。俺がこうして戻ってきたのは、その副産物のようなものだ」
    「そうかな」
     きっと、自分がいなかったとしても二振り目の大倶利伽羅はあの日鶴丸のもとへ駆けつけようとしたのではないだろうか。最初から自分の中にその選択肢があったからこそ、彼は走った。自分はこの本丸には不要なのだという薄暗い認識も後押ししたのかもしれない。望まれずに顕現してしまったという気持ちが彼の根底にずっと存在し続けていたから、折れるとわかっていた鶴丸のもとへ行って自分がいなくなってもこの本丸に支障はないと思った。一振り目が戦場で倒れていたのであれば、そこで共に折れるのも悪くないとおそらく感じてしまっていた。
     ――今の彼の姿を見ていると、もうそんな気持ちはないのだろうが。
     とうとう酔い潰れてしまったのか、一振り目の鶴丸が二振り目の大倶利伽羅の肩に頭を乗せている。あれでは、もう起きないだろう。疲れ切った顔をしている二振り目の大倶利伽羅が面白い。
    「一振り目が言っていたんだ。俺に感謝してるってな。なんだかそこまで大仰に言われると、俺は顕現した段階でもう本来為すべき役目を終えてしまったような気分になるぜ」
    「俺たちの本分は戦うことだろう」
    「そりゃあ、そうなんだが」
     どう表現するのがわかりやすいのだろう。
     鶴丸としてはなにかを成し遂げたという意識などまったくないのだ。だって、あの日も一振り目を連れ戻したのは結局のところ二振り目の大倶利伽羅で、鶴丸は肉体もない状態で着いていっただけに過ぎない。感謝すべきなのは二振り目の大倶利伽羅と、彼の出陣を許可した主、重傷を負った一振り目の鶴丸を無事に連れ帰ることができるよう駆け回った青江たちだ。
    「きみが帰ってきたことが副産物というなら、俺の顕現だって副産物のようなもんだろ。もちろんそれだけで終わらないよう努力はするが、消化試合のような気がしてなんともな」
     少なくとも鶴丸自身がなにかを成し遂げたのだという実感さえあったのならこう思わなかったのかもしれないが。
    「くだらないことに悩むな」
     と、大倶利伽羅は溜め息を吐いた。
    「まだ満足に戦えていないからそう思うだけだ」
    「そうかな」
     鶴丸はこの本丸の中で一番弱い。この本丸にいる刀剣男士で一番後に顕現したからというのは当然のこととして、大倶利伽羅の助けがなければ戦場に立つことすらままならない。
    「いつかは、必ずほかの刀剣男士と同じように戦えるようになる」
    「いつか、ねえ」
     以前も、大倶利伽羅にしては珍しくそんな確証もないことを言っていたけれど。
     大倶利伽羅は自分の手に目を落とした。
    「俺だって、そう変わらない。少しは勘を取り戻せてきたとは思うが」
     今やすっかり二振り目の大倶利伽羅の方が強い分、大倶利伽羅もやりにくさを感じているのだろう。
     鶴丸にとっての比較対象は修行から帰ってきたばかりの一振り目の鶴丸で、顕現時期に差がありすぎる分、絶対的な差については納得できる。しかし一方の大倶利伽羅は、不幸な事故のような出来事で長く本丸を不在にしていたため、二振り目の大倶利伽羅の方が一振り目の大倶利伽羅よりもずっと強いという奇妙な状況になっている。
    「きみは、結局修行へは行かないのかい」
     その選択肢は示されていた。強さに差はあれど、どちらの大倶利伽羅も修行に出られるくらいには刀剣男士としての実力はあるのだ。しかしどちらも相手が先に行くべきだという主張を譲らなかったために、結局一振り目の鶴丸が先に修行へ出ることとなった。
     もしかしたら今現在大倶利伽羅が感じている無力感は修行に出ることで解消されるのかもしれないと鶴丸は思っている。それは戦力という面でもそうだし、精神という面でもそうだ。大倶利伽羅は漠然と、おそらく鶴丸以上に、満足に戦えていない自分に不安を覚えている。
    「できないだろう」
     大倶利伽羅はゆるりと首を横に振った。
    「なぜ」
    「それに足るべき実力がないから」
     堂々巡りだ。修行へ行くのは、力をつけるためだ。しかし大倶利伽羅はその修行へ行くのに、力が足りないと主張している。
    「きみに足りてないのは実力よりも野心な気がするぜ」
     あるいは、渇望。なにがなんでも、という気概。
     そういったものが大倶利伽羅には薄いように思う。臨死体験のようなものがそうさせたのかもしれない。それとも、二振り目にまだ遠慮があるのだろうか。
    「まあ、こういうのは巡り合わせってやつなのかもしれないな。なにか大きなきっかけでもあれば、きみか、二振り目か、どちらかが覚悟を決めるだろ」
     遡行軍との戦いはまだ終わる気配を見せない。いずれ修行に旅立たなければならない状況はやってくる。鶴丸も、いつかはそのときが訪れるのかもしれない。それはいったいいつのことになるのか、今の段階では想像もできないが。
    「まあ、でも、俺がいる限り修行に出られないのはなんとかしないとな。しばらく出陣も遠征も我慢して部屋に引きこもっていればいいが、きみを心配させたくはないし」
     鶴丸は慢性的な不具合を抱えている。顕現してから抱えているそれは、大倶利伽羅が助けてくれなければ鶴丸は立って歩くことすらままならない。毎日の特訓によって少しずつ自己管理できる範囲を広げてはいるが、大倶利伽羅はどうしても鶴丸のことを気にしてしまうだろう。
    「二週間程度なら俺が不在でもなんとかなる方法は、あるにはあるが……」
     大倶利伽羅はそこで言葉を濁し、首を横に振った。なんだよ、と気になった鶴丸は大倶利伽羅の袖を引く。
    「そんな方法があるなんて俺は聞いていないぞ」
     それさえあれば、大倶利伽羅はもっと自由に行動できる。鶴丸と共に出陣しなければならないという制約を受ける必要もない。なぜ言ってくれなかったのか。
     大倶利伽羅の顔には失敗したと書いてある。うっかり口が滑ってしまったといわんばかりだ。
    「ろくでもない方法だ。忘れろ」
    「なんでだよ。痛みでも伴うのか。それくらいいくらでも我慢するぜ」
    「痛みはない。ただ――」
    「ただ?」
     鶴丸は身を乗り出す。広間にいるほかの刀剣男士は各々会話が弾んでいて、鶴丸たちの不穏さに気づく様子はない。逃がす気がまったくない鶴丸に、大倶利伽羅は顔を顰めた。
    「……怒る、と思う。お前は」
    「はあ?」
    「そういう類いのものだからだ」
     どういうやつだよ。
     予想外の反応に鶴丸もどうしたらいいのかがわからない。
    「なんだきみ、俺に怒られるのが怖いのかい」
    「怖くはないが、ひどく面倒だ」
    「おいこら」
    「そういうところだ」
     今度は鶴丸が押し黙る番である。どうやら大倶利伽羅はこれ以上口を割るつもりはないらしい。鶴丸も引き際くらいわきまえている。ただでさえ迷惑を掛けているという自覚があるのだ。その手段とやらは、大倶利伽羅にとってなんらかの不利益を被るものなのだろう。
    「いいか。どうしてもそれしか手段がなくなったら、躊躇いなくその手段を使えよ。俺も、怒らないようにするから。……できる限り」
     自信はないが。今の段階で語ることのできない手段なら、本当にろくでもない方法なのだろう。わかった、と頷いた大倶利伽羅はようやく解放された安心感からか深く息を吐いた。
     そんなに面倒だろうか、自分は。悶々と考えていると、大倶利伽羅の食事の手が進んでいないことに気がついた。よく食べる大倶利伽羅のことだ。普段はどれだけ鶴丸が話しかけようとも黙々と食べ続けるのに。宴会だとしても、大倶利伽羅が酒を食事より優先させることはないし、酒を飲んでいるにしては杯も空になってはいない。
    「ちょいと失礼」
     一応断りを入れ、ぺしんと大倶利伽羅の額に手を当てる。
    「痛いが」
    「痛がっている場合か、馬鹿!」
     周りを気にして、小声で怒鳴る。先ほど怒らせたら面倒だと評されたばかりだが、怒らせるようなことをする大倶利伽羅にも問題がある。
    「……なんで黙っていた」
     毎日のように大倶利伽羅の手に触れているのだ、普段よりもかなりの高熱だとわかる。大倶利伽羅だって自覚しているはずなのだ。今までまったく気づかずに呑気に酒を飲んでいた自分は馬鹿だ。
    「水を差すわけにはいかないだろう」
    「だが」
     祝いの場だ。大倶利伽羅の気持ちは多少理解できる。それでも、悔しさに拳を握る。
     普段は聡い燭台切も、今日ばかりは主役のために張り切って料理を作っていたから大倶利伽羅の様子に気がつかなかったに違いない。
    「今なら平気だろう。なにせ主役が酔い潰れているんだ。きみも酔ったといえば誤魔化せる。ほら、掴まれ」
     大倶利伽羅の腕を無理矢理引っ張り肩に回す。周りも珍しく大倶利伽羅が酔い潰れたと判断したのか、あまり注目はされなかった。ほっと息を吐いて引きずるように部屋へと向かう。触れる体温は、やはり熱い。
    「気づかなくて、……気づいてやれなくてすまなかった」
     鶴丸が気づくべきだったのだ。せめて、無理をさせないよう立ち回ることはできた。せっかくの宴会に水を差さないよう気を遣う大倶利伽羅は優しいが、自分のことも大切にしてほしい。
     鶴丸は大倶利伽羅の助けになることができなかったし、大倶利伽羅からなにかを託されるほどの存在ではなかったことが悔しかった。身勝手な話だ。
    「俺が自分でなんとかできると判断しただけだ。結果、このザマなわけだが」
    「きみは馬鹿だ」
     急に冷え込んだから風邪か、それとも疲労か。疲れによる体調不良であるなら、原因の大部分は間違いなく鶴丸にある。しかし考えるよりもまず先に、今は一刻も早く自室で休ませるべきだ。
     部屋に着き、大倶利伽羅を壁へ寄り掛からせて、その間に布団を敷く。薬かなにか飲ませるべきだろうかとも思ったが、少しでも酒を飲んでしまっていることを考えてやめておくことにした。こういうときに頼りになる薬研は広間で酔い潰れている刀たちの中に混ざっている。なら、ひとまず燭台切に相談しにいくべきか。しかし彼はおそらく一振り目の鶴丸たちのそばにいるはずだ。大倶利伽羅がぎりぎりまで自分の不調を隠していた理由を考えると、声を掛けにいくのは憚られる。
     命に関わるほどのものではないだろうから、一晩寝かせて様子を見る程度でも大丈夫かもしれない。熱を持った大倶利伽羅の身体を布団に横たえる。
    「俺、水用意してくるから。辛いなら寝ててもいいぞ」
     ぽん、と軽く布団を叩く。するともぞもぞと大倶利伽羅の手が布団の中から出てきて、鶴丸の腕を掴んだ。熱い手だ。まさか大倶利伽羅に限って寂しいから手を掴んだなどということはないだろう。
    「……今日の特訓、まだだろう」
    「馬鹿が!」
     無理矢理引き剥がし、布団の中へと戻す。こんなときにまで鶴丸のことを気にするのは、大馬鹿以外の何者でもない。大倶利伽羅も限界だったのか、抵抗することはなかった。不調の大倶利伽羅にそこまでさせてしまった自分に腹が立ち、けれどこれ以上怒るわけにもいかないことがまた歯痒い。
     大倶利伽羅が寝入ったことを確認し、鶴丸はようやく部屋を出た。
     今日は自分の部屋で寝なければならないだろう。もともと抱えている不眠症状だけではなく、心配から寝られそうにはなかった。

    「鶴さん、伽羅ちゃん起きた?」
     厨に顔を出した鶴丸に、燭台切が心配そうに声を掛ける。
     いや、と鶴丸は首を横に振る。持っていったお粥も手つかずのままだ。
     大倶利伽羅はあれから二日寝込んだままだ。起きたときに多少食事は取るものの、寝ていることの方が多い。
     大倶利伽羅は食事によって不足している霊力を補っている節がある。ほかの刀剣男士よりも食事が生命線の役割を担っているのだ。食事を取らない限り回復は遅れる一方で、ただ今はその食事を取る体力すらもない。
    「鶴さんの方は大丈夫? あんまり無茶しちゃ、駄目だよ」
    「……ん」
     鶴丸は小さく頷いた。
     鶴丸の霊力はなにもしなければ漏れ出す一方で、大倶利伽羅が自分の霊力を分け与えることでなんとか行動可能となっている。毎日の特訓の成果により必要以上の流出を抑えてはいるものの、どれくらい持つのかははっきりしていない。
     しばらくは大倶利伽羅の看病をしながら自室で静かに過ごすしかない。退屈ではあるが下手に動き回って倒れるわけにもいかないから、書庫に行くこともできなくなった。ひとりであの場所にいるときに倒れてしまえば、発見が遅れてしまう。落ち葉で周辺が酷いことになっているだろうなあと気になってしまうがこればかりは仕方がない。
    「伽羅坊が具合悪いこと、気づけなかったのが悔しくてさ」
     今、最も大倶利伽羅のそばに近いのは自分だろうという自負がある。そしてその理由が、鶴丸が望んでそうしているからだけではなく大倶利伽羅の責任感によるものだということも、わかっている。
     せめて、具合が悪いことくらいは気づきたかったし、それを告げるに足る存在になりたかった。受け止められるだけの立場と力が欲しかった。
     顕現する前から鶴丸は自分が無力に感じる機会が多々あったが、正直今回が一番堪えた。
    「まあ、でも仕方がないかもね」
    「きみ、意外とあいつの肩を持つんだな」
     鶴丸が唇を尖らせると燭台切は苦笑した。
    「きっと伽羅ちゃんは鶴さんに頼りにされたいんだよ。頼りにされたいから、未熟な自分をあまり見せたくないんだ。いなかったときが長かったとはいえ、自分の方がずっと顕現が早かったからね」
    「そんなもんかい」
     鶴丸は大倶利伽羅のことを未熟とも無力とも思ってはいない。鶴丸がそう思ってはいなくとも、大倶利伽羅の考えは違うということなのだろう。
    「伽羅ちゃんはね、鶴さんを守りたいんだと思うよ。敵からとかそういうんじゃなくて、親が子を守るようにとか、兄が弟を守るようにとか、そんな感じ。苦難や苦痛から守ってあげたいっていう優しさ」
    「俺の方が年嵩なのに」
     不満を感じ鶴丸は頬を膨らませた。
    「『刀』としてはね。『刀剣男士』としては、伽羅ちゃんの方が先に顕現したから。……鶴さんも、いつかわかるよ。自分の次に顕現した刀剣男士って、どうしても気に掛けてしまうから。伽羅ちゃんにとって鶴さんがそうだったわけじゃないけど、倒れていたところを伽羅ちゃんが拾ってきたわけだし」
    「拾って……」
     そんな、犬猫みたいに。
     とはいえ、事実なので微妙な気持ちになる。
     多少大倶利伽羅は自分に甘いのではないかと思うことは幾度かあったが、つまり大倶利伽羅は鶴丸に対して庇護欲のようなものを抱いているということなのだろうか。鶴丸に対してそんな態度なら、なんだかそのうちに変な人間に引っかからないか不安である。
     本気で心配する鶴丸に、燭台切は声を出して笑った。
    「俺はさ、あいつと少しでも早く対等になりたいよ。なんの気兼ねもなくお互いに背中を預けられるような存在になりたい。そのためにも、もっと早く強くなりたい」
    「伽羅ちゃんは鶴さんの存在に救われたと思っているかもしれないけれどね」
    「助け合いならともかく、どっちが救った救われたなんて関係は嫌だろ。全然、健全じゃないからな」
     今はまだ、大倶利伽羅を頼りにしないと自力で立てないくらいに弱い存在ではあるけれど。
     霊力が足りていない今は強く拳を握ることすらできないけれど。
     鶴丸が大倶利伽羅と対等になりたいという目標だけは、見失ってはいけないのだ。

     大倶利伽羅の体調不良はやはり疲労によるものが大きいようだ。負担を掛けているのは間違いなく鶴丸で、その事実を見ない振りはできない。落ち込むなという方が無理で、けれど気にしすぎれば却って大倶利伽羅の負担になることもわかっているからもどかしい。
     大倶利伽羅が本調子でないことは長く続いていたことだったが、それは本調子ではないというだけで体調不良とはまた種類が異なる。このように大倶利伽羅が伏せっているのを、鶴丸は初めて見た。
     刀剣男士が体調を崩すこと自体は、そう珍しいことでもないらしい。毎年本丸にいる刀剣男士のうち一割近くは乾燥が激しい時期になると軽度重度に差はあるが風邪をひいてしまうし、任務が重なれば疲労から動けなくなる者もいる。折れたりはしないからそんなにピリピリする必要はないよと燭台切に励まされてしまうくらいに、顔に出ていたらしい。
     ひとりきりの夜は慣れない。最初の頃のように眠れないというほどではなかったが、大倶利伽羅と一緒に眠ることの方が多かったので寂しさが募るのだ。
     秋の夜は静けさとはほど遠い。ふたりのときにはさして気にしてもいなかった虫の鳴き声や風の音がよく耳に入った。こういうとき、まだほとんど誰にも認識されていなかったころ、実体がないから眠ることもできず本丸を彷徨い歩いていたことを思い出す。だから余計に、その記憶が邪魔をして眠りが浅くなるのかもしれなかった。
     今、大倶利伽羅はどんな夢を見ているだろう。熱が引かないから、魘されているかもしれない。水差しは置いてきたが、空になっていたらどうしよう。
     夜通し看病するほどではないとは言われたが、気になるものは気になる。布団から抜け出すと、秋の寒さが足を苦しめた。それに耐えつつ部屋を出る。廊下には誰もいない。冷たい廊下を数歩歩いて、大倶利伽羅の部屋の戸をそっと引いた。幸い、大倶利伽羅はよく眠っているようだった。
     水差しは、半分ほど減っていた。様子を見に来てよかった。あとで補充しておこうと決めて、大倶利伽羅の様子を確認する。熱は未だ引かず、表情には少し苦しげな様子が見える。
     こうしていると以前と逆の立場だな、となんとなく鶴丸は顕現したばかりの頃を思い出していた。肉体を得てすぐに鶴丸は布団の中にいて、大倶利伽羅は鶴丸の看病をしてくれた。そこからまた倒れたこともあったが、いつだって大倶利伽羅は鶴丸を見守ってくれていたのだ。
     布団からはみ出していた大倶利伽羅の手を取って布団の中へと戻してやろうとしたとき、鶴丸はふと思い至った。あのときと、逆のことをしたらどうなるのだろう。
     つまり――鶴丸から大倶利伽羅へ霊力を分け渡す。
     大倶利伽羅の体調不良は疲労によるものだろうが、気力とも呼べる霊力を供給することができれば体力だってある程度は戻ってくるのではないだろうか。
     大倶利伽羅から鶴丸へ霊力を分け与えることができるのであれば、線は繋がっている。理論上、逆のことだってできるはずだ。今、大倶利伽羅は酷く弱っていて、まともに食事すら摂れない。最低限起き上がる程度まで快復できれば、あとは食事をすることで大倶利伽羅ならば自力でどうにかできる。
     悩んだのは、一瞬だった。
     鶴丸の中に貯蓄されている霊力の残量は減っていくばかりだ。今、行動するしかない。やりすぎて刀に戻ってしまったとしても、快復した大倶利伽羅がなんとかしてくれるだろう。大倶利伽羅が快復しない限り、鶴丸だって共倒れだ。
     数日すればこのようなことをしなくとも熱は引くかもしれない。けれど鶴丸はこれ以上大倶利伽羅が苦しむ姿は見ていたくなかったし、大倶利伽羅が鶴丸にそうしてくれたように鶴丸だって大倶利伽羅のためになにかをしてやりたかった。
     大倶利伽羅の手を握る。あまり強く握りすぎると起きてしまうかもしれないから、そっと。
     ええと、どうすればいいのだろうと過去の記憶を掘り起こす。いつも受け取ってばかりで、渡すときのイメージが掴めていない。目を瞑る。自分の中の、霊力の流れを意識する。
     いつもの特訓と同じだ、と自分を励ます。あれと逆のことをやるだけだ。やり方は、大倶利伽羅が教えてくれた。大丈夫、大丈夫、と深呼吸を繰り返す。焦る必要はない。ちゃんと、大倶利伽羅と繋がっている。今度は受け取るのではなく、渡すのだ。
     熱い。自分の中にある熱を、大倶利伽羅に送る。線は繋がっている。熱が引いていく。ぐらぐらと、揺れて。
     手を振り払われたのは、そのときだった。
    「――なにを、している」
     酷い声だった。喉が渇いているのもあるし、暫く声を出していないからというのもあるだろう。それに加え、大倶利伽羅は不機嫌というよりも不快という態度を消しはしなかった。精神的な余裕がないからか、あるいは。
    「……水、飲めよ。喉、乾いているだろ。酷い声だぜ」
    「誤魔化すな」
    「誤魔化してなんかいないさ。実際、自分でもわかるだろ。話をするにもとりあえず水飲んでおけ」
     不承不承の態度で大倶利伽羅が起き上がる。背中を手で支えてやったが、とりあえず大倶利伽羅が自力で起き上がる程度に回復できたことに鶴丸はほっと胸を撫で下ろした。
     水差しの中身をあっという間に大倶利伽羅は飲み終える。相当に喉が渇いていたらしい。
    「おかわりを持ってくる。起きられたならなにか食べた方がいい。きみの場合、そうでないと快復が遅くなるからな。腹が減っては戦ができぬって言うだろ。俺を怒るのにだって体力が要る」
     大倶利伽羅の瞳は戦場にいるのと同じくらいに鋭い。制止の声が飛んでくるのを待たず、鶴丸は空になった水差しを持ってさっさと部屋を出た。大倶利伽羅が無理に鶴丸を止めようとはしなかったのは、鶴丸が戻ってくるとわかっていたからだろう。戻ったら怒られるのだろうなあと、ぐらぐらした頭で考える。
     厨に入ると、そこでは燭台切が明日の朝餉の仕込みをしている最中だった。
    「ああ、まだ起きていたか。ありがたい。伽羅坊が起きたんだ。おかゆかなにか、作ってもらえるかい」
     鶴丸も作れないことはないが、燭台切が作ってくれた方が確実に美味しい。
    「え、伽羅ちゃん目が覚めたの」
    「ああ。食えるうちに食っておいた方がいいだろ」
     喜びの声を上げた燭台切だったが、鶴丸の表情を見た瞬間、眉間に皺を寄せた。その目から逃れるように顔を背けるも、容赦なく燭台切は両手で鶴丸の頬を固定し覗き込んでくる。
    「鶴さん、顔色悪いよ」
    「あー、うん。伽羅坊の風邪、移ったかなあ」
    「風邪じゃあないでしょ、伽羅ちゃんは」
     まさか大倶利伽羅よりも先に燭台切に問い詰められるとは思わなかった。こういうとき、燭台切は諦めが悪い。背中に冷たい汗が流れるのを感じる。白状しない限り、燭台切は調理に取りかかれないし、つまりは大倶利伽羅のところへ食事を持って帰ることができない。それを燭台切もよくわかっていて、だから今の状況は圧倒的に燭台切が有利だった。
     鶴丸は呻いて白旗を揚げた。
    「俺から伽羅坊へ、少しばかり霊力を渡した。流石にちょっと、立っているにも辛い」
    「少しばかりって嘘でしょ。……あー。うん。そう、そうかあ。……………………そうかあ」
     燭台切が俯く。暫くの間沈黙が流れたが、ばっと顔を上げてようやく燭台切は鶴丸の頬から手を離した。
    「とりあえず、鶴さんは座ってて。部屋に帰っていても――いや途中で倒れられても困るからやっぱりそこにいて。一緒に行こう」
    「……おう」
     色々と、言いたいことはあるのだろう。けれど燭台切は優先事項を理解できる男で、自分の気持ちをひとまずは飲み込んで調理に取りかかる。こういうところが尊敬できるのだ。
     燭台切の手際は良くて、その無駄の動きに舌を巻く。
    「伽羅ちゃんにはもう怒られた?」
     やはり怒られることは確実らしい。首をゆるりと振って、まだだと苦笑する。
    「僕はね。あんまりふたりには無理をしてほしくない。わかるよね」
    「ん」
    「でも、僕自身がどこまで立ち入っていい話なのか判断がつかない。僕が怒っていい立場にいてもいいのかってね」
     燭台切は背中を向けたまま、淡々と言葉を紡ぐ。
    「きみは、怒っていいさ」
     もし燭台切が不干渉を貫き鶴丸と大倶利伽羅に関わらないと決めたなら、悲しい。もしそうされたとしても、文句を言うことはできない。だからこうして燭台切が距離を測って確かめようとしてくれているのに救われた気分になる。
     燭台切がこうやって鶴丸と大倶利伽羅への関わり方を考えて悩むのは、きっと一振り目の鶴丸と二振り目の大倶利伽羅に対してうまく接することができなかったという負い目だ。それは彼の中でいつまでも残り続けるし、見ないふりはできない。
    「きみに怒られるとほっとする」
    「それは流石に、どうかと思うよ」
     燭台切は笑ってコンロの火を止めた。
    「ひっくり返されたら困るから、僕も行くよ。立てる?」
    「倒れたら担いでくれ」
    「嫌だからね」
     軽口を言えば笑いながら拒否される。
     きっと自分は燭台切に救われているし甘えている。そのことに、燭台切も同じように感じているのだろう。
     この本丸のみんな、誰もが距離の取り方がうまくはない。それは一振り目の鶴丸と二振り目の大倶利伽羅に対する負い目によるものが大きかったのは間違いない。一振り目の鶴丸と二振り目の大倶利伽羅もあまり積極性をもってほかの者に関わろうとしなかったから、この本丸では長い間陰鬱な空気が流れていたのだろう。
     一振り目の大倶利伽羅が帰ってきて、少しずつ、少しずつ、春先に雪が溶けるような緩やかさでわだかまりが解消されていっている。それを燭台切は強く実感しているのだと、ほころんだ表情を見るとよくわかる。
     先ほどよりも冷えた廊下を歩くのは苦ではない。多少頭はくらくらしているものの、休んだからか倒れるほど重症ではなかった。
    「せめて伽羅坊に怒られているときは助けてくれよ」
    「それも嫌。だって、絶対に鶴さんは後悔していないってわかるから。不毛な争いに手を出すほど見極めは甘くないよ」
    「厳しいなあ」
     だが事実、鶴丸は微塵も後悔はしていなかった。大倶利伽羅が途中で目を覚ましたのは予想外だったが、なにをしたかわかれば後からでも怒られるだろうとは推測できた。それでも鶴丸なりの覚悟をもってやったのだ。自分に恥じることはない。
    「伽羅坊、起きてるかあ」
     敢えて軽い調子で声を掛けてから部屋の戸を引く。部屋を覗くと、完全に起き上がり布団の上に座り腕を組みながらこちらを睨みつけてくる大倶利伽羅の姿が目に入った。流石に怒られるだろうと予想していた鶴丸も思わず後ずさった。
    「鶴さん」
     後ろから冷たい声がする。前門の大倶利伽羅、後門の燭台切光忠。ろくでもない、撤退も許されない陣形である。
     鶴丸は観念して部屋へと入る。
    「えっと、まあ、とりあえず伽羅坊は飯を食え。ご飯をちゃんと食べられたら怒られてやってもいいから」
    「怒られる立場なのにだいぶ偉そうな態度だね」
     燭台切が冷静に指摘してくるが、無視をして鶴丸は座る。そうすると燭台切も鶴丸のとなりへと腰掛けた。
    「あまり急いで食べようとしないでね。胃に悪いし、あと単純に舌を火傷するから」
    「ふーふーして冷ましてやろうか」
    「……いらん」
     出鼻をくじかれたのだろう。大倶利伽羅は大きく息を吐き出した。燭台切が土鍋からよそったお粥を大倶利伽羅は自分で息を吹きかけて冷ましていく。
    「食べ終えるまで、きみは口を挟むなよ。反論も、説教も、後でまとめて聞く」
     鶴丸は大倶利伽羅に向き直り、口を開く。
    「まず最初に、俺は後悔していない。今からきみに怒られても、反省はしない」
     我ながら開き直りのような態度ではあったが、結局のところどう議論したところで鶴丸の着地点は変わらないのだ。それをまず知っていてほしい。
    「きみが倒れて動けなくなったら、俺も共倒れだ。俺はどっちみち、きみに助けて貰わないとまともにこの身体すら維持できないからな。きみがいつ快復するのかもわからなかったから強硬手段を執らせてもらったまでのことだ」
     最悪、鶴丸の顕現状態が解けてしまっても大倶利伽羅さえいれば鶴丸は立ち直せる。鶴丸にとって大倶利伽羅は生命線にも等しいのだ。
     大倶利伽羅は黙って聞いている。大倶利伽羅は普段早食いの方ではあったが、流石に熱いお粥を冷ましながらでは食べきるのに時間が掛かるようだった。ここしばらくまともに食事を取れてはいなかった分、腹は空いているようで、食欲がしっかりあることに安心する。
    「きみは俺がいなくとも存在できるが、俺はきみがいないと存在できない。そのことを絶対に忘れるなよ。俺は、俺が多少無理をしてでもきみを助ける必要がある。感情論抜きに、だ。感情の話をすれば――きみがこれ以上苦しむのは見たくなかった」
     熱に魘され、意識もはっきりしていなかった。倒れたのは疲労が原因で、その疲労は鶴丸によるものが大きい。それに対する負い目だって当然あった。けれど鶴丸が原因でなくとも、間違いなく鶴丸は同じ手段を執っただろう。鶴丸個人の感情を含めても含まなくても鶴丸にはそうするだけの理由がある。
    「というか、きみは俺を怒ってもいいが、俺がそれを聞き入れる必要はないだろ。だってきみ、俺に対して同じことをしたんだから」
     鶴丸よりもずっと感情で動いていたのは大倶利伽羅だ。鶴丸を助けたところで大倶利伽羅にメリットは存在しない。大倶利伽羅は自分に負担が掛かっても鶴丸を助けようとしたのだ。その負担の蓄積がこの結果なのだから、鶴丸の方だって大倶利伽羅を怒ってもいいはずだ。
    「きみには俺をただの刀に戻さなかった責任を取ってもらう必要がある。中途半端に手を出して放置なんて、きみはできないだろう。きみが俺を怒るなら、俺はその数百倍怒り返す自信があるね」
    「本当にろくでもない自信だね」
     呆れたように燭台切が言うので鶴丸は頬を膨らませる。
    「なんだい、口を挟むなって言っただろう」
    「伽羅ちゃんには言っていたけれど、僕には言っていなかったからね」
     そうだっただろうか。そうだった。
     こういうところ詰めの甘さが露呈するのだからもう少し気をつけていきたいところである。敗北感を味わいつつ大倶利伽羅の様子を窺い見れば、大倶利伽羅は燭台切の作ったお粥をすべて食べ終えたところだった。佇まいを直すのに対し、鶴丸も背筋を正す。
    「お前の言い分はわかった」
    「おう」
    「だが、二度とやるな」
    「反省はしない。後悔はしていない。だから、約束はしない」
     力強く鶴丸は答えた。
    「だって、俺ときみはすでに約束をしている。その約束がある限り、それが守れない約束はしない。俺がきみのとなりに帰ってくるためには、きみが俺のとなりにいなければならないのだから。きみがいないと、駄目なんだ」
     ——約束する。これから先、遠征や出陣ができるようになっても、なにがあったとしても、きみのとなりに戻ってくる。
     かつての約束。大倶利伽羅が本丸に帰還後に初めて遠征に出る際、ふたりでした約束だ。忘れたとは言わせない。
     即答する鶴丸に、大倶利伽羅は鶴丸から大きな溜め息を吐く。
    「……わかっていて、言った。期待はしていない。これについて反省も後悔もしないのであれば、俺が倒れたことについてもお前は反省も後悔もするな。俺も、もう下手は打たない」
     鶴丸が原因であっても鶴丸が責任を負う必要はないと大倶利伽羅は言うのだ。
     唇を噛んで唸る鶴丸に、燭台切は数度手を叩き場を仕切り直した。
    「終了。伽羅ちゃん、汗かいたでしょ。お湯持ってくるから、汗拭いて着替えてね。お風呂は流石にまだ入るのきついでしょ。鶴さんは手伝ってあげて。それくらいの気力はまだ残っているよね」
    「おう……」
     こういうとき、燭台切は強い。大倶利伽羅の食べ終えた器をさっさと回収して部屋を出ていく姿を見送って、鶴丸は箪笥から大倶利伽羅の着替えを引っ張り出した。シーツの類いも変えてやった方がいいだろう。
    「起き上がれるようになったといっても、あと数日は出陣も内番もしないで寝ていた方がいいぜ。俺も、流石にちょいと疲れたから大人しくしているかな」
     倒れるほどではないが、この調子では鶴丸も辛い。大倶利伽羅が自力でしっかり食事を取れるようになったのならおそらく大倶利伽羅の方が快復が早いので、あとは快復した大倶利伽羅に霊力を分け与えてもらえばいい。大倶利伽羅の熱はまだ引いている様子はないが、食欲さえ戻ってきたのなら後は大丈夫だろう。
    「俺ときみの話は平行線になることが多いな。平行線であっても、こうやって落とし所を見つけることはできるが」
     すべてを納得できるわけではないが、相手の言い分もわかる。こうやってぶつかって話し合える関係は、鶴丸は嫌いではなかった。なにもかもを物わかりよく飲み込んでしまえば、きっとどこかで歪んでしまう。その歪みを正すのには、長い時間が必要なのだ。悲しいことに、この本丸にはその前例がある。
    「俺がさっき起きなかったらどうするつもりだったんだ」
    「それはまあ、賭けだ。さっきも言ったが、どのみち、きみが起きてくれなかったら俺も共倒れだからな。賭けるだけの価値はある。ただ、これできみが体調不良じゃなく戦場で重傷を負って手入れも期待できない状況には使うことのできない手だから、課題は残るな」
     体調不良であればよく寝て栄養を取っていればある程度の快復は見込める。大倶利伽羅は普段から鶴丸に霊力を分け与えている分、自分の霊力回復を食事で補っている部分があり、今回数日といえど食事を少ししか取らなかったせいでより状態が悪化してしまった面はある。これが食事をしてもどうにもできない状況下であれば、鶴丸だってこのような手段は執れない。いざとなってもここは本丸内だから大丈夫だろうという慢心があったことも否定はできなかった。
    「きみが、俺のために行動して無理をしてこうして倒れてしまったことに怒りはある。けれどきみはあんまり自分の気持ちを俺に伝えようとはしないだろ。そんなきみが譲らないのであれば、俺だって認めるしかないさ。俺には俺の言い分があって、きみにはきみの言い分がある。こんな風に倒れられるのは二度とごめんだが、お互いにもうしないと約束はできない」
     約束できることとできないこと。お互いを思うからこそできることとできないこと。バランスの取り方は難しい。
    「最低限、光坊を悲しませないようにしたいよな」
     燭台切はそんなふたりのバランスをうまく取り持っているように思う。というよりも、座標のようなものだろうか。しゃんとしなければ、という気持ちを燭台切を見ていると強く抱くし、自分を見失いそうになれば我に返る。今だって燭台切がいなければ余計に拗れていただろう。
    「これくらいは、約束しておこう。俺たちは極力、光坊を悲しませないよう努力すること」
    「極力か」
    「極力。努力義務。絶対にゼロにはできないが、可能な限り悲しませない、怒らせない。俺たちはお互いを軸にするとなんかこう、面倒なことになるからな。その方がいいだろ」
     勝手に大倶利伽羅の手を取り、その指を絡める。いつもよりも熱い手だ。
    「もしも悲しませたり怒らせたりしたら、一緒に謝りに行く」
    「……………………」
    「嫌そうな顔をするな。お互い様だろ。ひとまず、あの子が帰ってきたら一緒に謝るぞ」
     逃げようとする指を強く引く。
    「もしも光坊が俺たちを悲しませたり怒らせたりするようなことがあったら、頑張って飲み込んで、ちゃんとふたりで許すこと。ま、そんなことないだろうが。ああ、でも顕現してしばらくの味気ない食事だけは、あれ、悲しかったな。光坊が悪いわけじゃあないが」
     こつん、と額をぶつける。やはりまだ熱は引いていないようだった。燭台切がお湯を持ってきたら、身体を拭いてやろう。このままでは汗が冷えて本当に風邪をひいてしまう。そうして、今日は一緒に寝てもいいだろうか。独り寝はやはり少し寂しいのだ。
     まっすぐに、お互いに見つめ合う。暗い中でも、瞳の中にある光を見失うことはない。これからも、ずっと。

    「おい、三日月。『あるばいと』をしないか」
     大倶利伽羅の熱がようやく下がり、三日が経った。もう完全に床上げし、明日からは普段通りの日常を送ることができるそうだ。
     びゅうびゅう吹く秋風に気は早いものの首にマフラーを巻き付け、本丸の中で暇そうな誰かを探しているとき、鶴丸はようやくちょうどよく縁側でお茶を飲んでいる三日月を見つけたのだった。
     太陽を雲が覆っているから、ここ最近の中では一番の寒さだ。そんな中、縁側で茶でも飲むのだから、余程の変人か暇人か。
    「図書館の前の落ち葉が溜まりすぎて堪らん。掃くのを手伝ってくれ」
    「ふむ」
     三日月は茶を残り僅かとなっていたお茶を飲みきり、盆の上に湯飲みを置く。
    「『あるばいと』というからには報酬があるのだろうな」
    「落ち葉を集めたら、焼き芋を作る。きみには特別に二本やろう」
     指を二本立ててやれば、仕方がないと三日月は立ち上がる。
     収穫して寝かしておいたさつまいもを食べてもいいと燭台切に許可を得たのだ。落ち葉拾いにはそれくらいの報酬がないと誰も引き受けてはくれない。
    「二振り目の大倶利伽羅にも手伝ってもらえばいいだろう」
    「あいつは今、光坊と買い出しに行ってる。それに病み上がりだから無理はさせたくない。きみはこんなところでお茶を飲むくらいだ、寒さに強いとみたね」
    「これからは場所を変えるか」
     不服そうに三日月は唇を尖らせる。ともあれ、芋二本で手伝ってくれる気はあるらしい。大倶利伽羅ほどではないが、案外食い意地の張っている男だ。
     鶴丸は大倶利伽羅とともに出陣していたため残念ながら芋掘りには参加できなかったが、蔵には掘った芋が保管されている。燭台切が教えてくれたさつまいもを使った料理はどれも美味しそうで、食べるのを密かに楽しみにしていたのだ。焼き芋にしてもいいんじゃないかな、と提案してくれたのも彼である。
     鶴丸にとっては初めての秋だ。冬の終わりと春の始まりの境に顕現し、春が過ぎ、夏が過ぎ、そうして秋を迎えた。こうして思い返してみればあっという間だった気がする。
    「秋は、美味しいものがたくさんあるんだろ。楽しみだなあ」
    「俺は、昨年食べたものの中では栗ご飯が好きだったな。栗を収穫して剥くのには苦労したが」
     話しているだけで腹が鳴りそうである。今日のおかずはなんだろう。とにかく、夕餉の前に働かなければ。大倶利伽羅や燭台切が帰ってきたら、焼き芋の準備をして一緒におやつにしよう。主のほかに、今日は本丸に誰が残っていただろうか。いったい何本芋を焼くべきか悩みながら書庫へと向かう。
     渡り廊下ができたといえど、基本的に吹きさらしで移動はやはり寒い。屋根があるだけありがたいが、残念ながら風が吹けば太刀打ちできない。
    「この本丸って、冬はどのくらい雪が降るんだい」
     鶴丸はまだこの本丸の冬を知らない。取り急ぎに大倶利伽羅と揃いでマフラーと手袋を買ったが、もっと寒くなるならあれこれと用意しなければならないだろう。最近は廊下を歩くのも少し辛い。書庫にも空調設備はあったが、吹き抜けだから寒そうだ。
    「それなりに。だな。俺もまだまだこの本丸では新参だが、去年は出陣より先に雪かきをさせられたぞ」
    「それって結構降るってことじゃないか」
     初雪はまだまだ先になるだろうが、想像してぶるりと震えた。
    「悪いことばかりじゃあない。短刀らは雪合戦に興じていてな。見ているほうが寒かったが、なんとも愛らしかったものだ。雪下ろしで屋根から落ちて骨折していた刀剣男士もいたが」
    「なんできみって会話の中で上げて落とすんだ……」
     楽しみよりも大変そうなイメージがこびりつく。
    「……暑いのは嫌だが、寒いのも嫌だ」
     想像して鶴丸は肩を落とす。そんな鶴丸に対し、三日月はからからと笑った。
    「なに、――どれだけ寒くとも雪が降ろうとも、春は来る」
     寒さのせいか、自然、ふたりとも早足になる。書庫の前に来ると、入り口の扉の付近に見慣れた姿を見つけて鶴丸は首を傾げた。
    「光坊じゃあないか。どうしたんだい」
     燭台切は今、大倶利伽羅とともに買い出しに行ったのではなかったか。とはいえ門の方まで見送ったわけではない。出かける前に、なにかついでに買い足すものがないかわざわざ聞きにきてくれたのかもしれない。だが燭台切の表情はどこか困惑していて、そういったことではなさそうだ。なにかほかに、鶴丸に対して火急の用事があったのか。
    「光坊?」
    「あの、その」
     鶴丸の後ろを着いてきていた三日月の足が止まる。おや、と鶴丸は背後を振り返った。三日月は、平時の彼からは想像もできないほど、ごっそりと表情が抜け落ちていた。こうして表情を失っていると、美しさよりなによりも、恐ろしさのほうが勝る。そんな人形めいた顔で、三日月は燭台切をまっすぐに見つめていた。
     ざわ、と背中になにかが走ったような気がした。
    「――あの、あなたたちは僕の姿が見えるの」
     その瞬間、世界から一切の音が失われた気がした。聞き間違えであってほしかった。振り返り、燭台切の姿を見ることを頭が拒否していた。
     その問いの意味を、鶴丸は知っているはずだった。
     なぜならば同じ問いを、鶴丸も投げかけたことがあるからだ。
     いつ、どこで、誰に、なんのために。
     喉がからからに渇いていた。夢だ。これは悪い夢だ。目を瞑って、もう一度開けば、きっといつも通り部屋にいる。となりには大倶利伽羅がいて、ふたり並んで朝支度をし、広間へと向かう。広間にみんなの分の座布団を敷き、厨にいる燭台切になにか手伝うことはないかと聞くのだ。そうだな、と燭台切ははにかむ。ちょっとだけ味見してみてくれないかな。ううん、こっちはお昼の分。今日、鶴さんも伽羅ちゃんも非番でしょう。久しぶりに三人で出かけようよ。いいじゃない。本格的に寒くなる前にピクニックでも。きっと、楽しいよ。
     そんな風に笑っている。そうでなければならない。
     そうでなければ。
     
     わかっている。鶴丸と三日月は、この状況を誰よりもわかっている。
     ただ、逃げたかったのだ。鶴丸は逃げたかった。今、この場にあるすべてのことから逃げたかったのだ。
     逃げられない。秋の次に冬が来るのが逃れられない流れのように、忍び寄るものから、鶴丸は逃げる術を持たなかった。

     春が来たように、夏は来る。
     夏が来たように、秋は来る。
     だから。
     だから、秋が来たように、冬は来る。
     ――本丸に、長い、長い、冬が訪れる。
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