It might be a good morning「シーン、シン」
誰かが俺を呼んでる。
「シン!」
誰か、誰かじゃない、ジャーファルだ。頭の上から降ってくる、ジャーファルの甘ったるい、俺を呼ぶ声。
「まあた、もう、裸で寝るなって言ってるのに」
うそだ、全然甘ったるくなんてない。むしろちょっと怒っている。枕に埋まって聞こえないふり。
「ちょっと、シン、聞いてますか?」
「んんん」
ジャーファルがもぞもぞと布団の中で動くから、ほら、隙間から冷たい空気が。寒い、肩が寒い、やめて。
布団を引っ剥がされないように端っこを握りしめてぎゅっとうずくまる。完全防御の姿勢。俺はまだ出たくない、この温かな布団のぬくもりに包まれていたい、のだ。
「あ」
しまった、今何時だ。スマホ、スマホはどこだ。目が開かない。
「七時ですよ」
ジャーファルが教えてくれる。
「今日は日曜ですけど、もう起きますか? コーヒーは? お水の方がいいですか」
日曜? ああ、そうだ、日曜かよかった。昨日帰ってきたの何時だった? 寝る前に確かスマホ見たときは、明け方の四時、だった気がする。昨日じゃない、さっきだ。まだ三時間しか寝てない。まだ寝る。もっと寝る。昼まで寝てやる。コーヒーなんていらない、起こすなジャーファル。寒い。
中途半端に布団を捲くり上げたまま、暖房のリモコンを探しているジャーファルの手首をぐいぐい引っ張る。ジャーファルはあったかいから湯たんぽ代わりにちょうどいい。布団の中に引きずり込んで、ぬくぬく抱きしめてもう一度、二人一緒に夢の中へ、
「ちょっと、離してください」
と思ったのに、あっさり振り払われた。くそ。
まるっと縮こまって、もうテコでも動かない、俺は寝ると決めた。ジャーファルが布団から出ていく。
「さむっ」
休みの日くらいゆっくり二度寝でもすればいいのに。せめて、暖房で部屋が暖まるまで布団の中で待てばいいのに。いつも通りの時間に起きて、顔を洗ってコーヒー淹れて、杓子定規みたいな生活を送るのが好きなんだ、こいつは。でも、ほっとくとすぐに昼夜逆転してしまう俺にとってはちょうどいい。今までは明け方に帰ってきたら夕方まで寝てたけど、こいつと暮らすようになってからはちゃんと昼には起きて一緒に昼メシを食うようになった。おかげで休日の半分を無駄にしなくてすむ。
「お風呂の電気つけっぱなしじゃないですか」
遠くからまた小言が聞こえる。
「あちこち脱ぎ散らかして」
んーー、うるさい。酔っ払ってるのにがんばってちゃんと風呂入ったんだぞ、それだけでえらいだろうが。もごもご。幼児か、俺は。
「濡れたバスタオルも置きっぱなしです」
幼児だな。
「悪かったって、後でちゃんと片付けるから、もうちょっと寝かせて」
「そんなに眠いのにシャワー浴びたんですか? そういうところ、シンて意外に潔癖ですよね」
意外は余計だろう。
「だって、おまえが風呂に入らないなら布団に入るなって言うから」
そうだ、眠かったし酔っ払ってたのにちゃんと風呂に入ったのだ。俺はえらい。
「そんなこと言ってません、お風呂に入るつもりでそのまま廊下で行き倒れるのはやめろって言ったんです」
そうだっけ。
「コート着て靴履いたまま玄関で寝てるでしょ、いつも」
「いつもじゃない」
確かにそんなことも何度かあったかもしれない、だがいつもではない、断じてない。
「せめて布団まではたどり着いてほしいんです。あなた、重いので」
「だからあ、昨日はちゃんと風呂にも布団にも入っただろ」
多少散らかしたくらい多目に見てほしい。後でちゃんと片付けるし。
「まあ、それはえらいと思いますよ。玄関で寝るよりずっと」
しゅごおっと電気ケトルから蒸気が噴き出す音、それからぱちんとスイッチが跳ねる音。お湯が湧いた。コーヒーのいい匂いが漂ってくる。最近ジャーファルは豆からコーヒーを淹れるのに凝っている。毎月おまかせで送られてくるサブスクのコーヒー。豆の味の違いはよくわからないけど、俺はジャーファルの淹れてくれるコーヒーが好きだ。コーヒーの匂いも好きだ。こうしてまどろんでいると幸せな気持ちになる。あとは、あいつがこっちに来て、抱きしめてくれたらもっと幸せなのに。
「はい、お水」
布団の上から小突かれる。
「ここ、置きますよ」
ぴとっとこめかみに冷たい感触。思わず頭をふると、ペットボトルが倒れて転がった。
「つめたっ」
「目、覚めましたか?」
ベッドの端に腰掛けてジャーファルは淹れたてのコーヒーを啜る。使い古されたカップは一人暮らしを始めたときに実家から適当に持ってきた何かの景品。ジャーファルはびっくりするほど物にこだわりがなくて、使えれば何でもいいといつも言う。いちいち形から入る俺とは正反対だ。でもさすがに毎日使うマグカップくらいは二人でお揃いにしたいと思う。キーリングとか、アップルウォッチのバンドも。(ただしジャーファルはアップルウォッチを持っていない)乙女か、俺は。今までは誰かと付き合ってもそんなこと考えたことなかったのに。持ち物をお揃いにしたことはあったけど、自分から望んだことは一度もなかった。
「覚めない。まだ寝る」
「はい、おやすみなさい」
ジャーファルが俺の髪を撫でる。やさしく、やわらかく。それがものすごく心地良い。
「だって、臭いって思われたくないじゃん」
「え?」
「一緒に寝るならちゃんと風呂入ろうと思って、だから」
「ぷ」
一瞬、ベッドが微かに揺れた。
「ちょっと待て、何で今笑った?」
「そんなこと思ってたんですか? 臭くなんてないですよ」
今どんな顔をしているのか見てみたくて、そっと持ち上げた布団の隙間から覗いてみる。でも、ジャーファルは割と普通の、いつもの表情だった。よくわからない。もそもそと起き上がってスマホを探す。ざっとスライドした通知はどうでもいいメッセージばかりだった。ぽいと放り投げて、わざとらしくちょっと甘えた声を出す。
「一口ちょうだい」
どうぞとジャーファルが差し出したカップを受け取る。ぬるくなったコーヒーは少し酸味がきつめで、でも後味は悪くない。ちゃんと美味しい。
「ただでさえ酒臭いだろうから、シャワーくらい浴びてちゃんとキレイにしてそれで」
「玄関で寝るほうが嫌われますよ」
ジャーファルがふふふと笑う。すごく、なんだかくすぐったい。
「そうなのか?」
「そうですよ、大体わたしがあなたを嫌いになんてなるわけないじゃないですか」
「さらっと言ったな、今」
照れ隠しにぷいっと顔をそむけて、まだあと二口分くらい残ってたコーヒーを一気に飲み干した。
「ほら早く、パンツくらい履いてください」
「別にいいだろ家の中なんだから」
こんなときにパンツ履けとか言われるのはさすがにかっこ悪い。
「風邪引きますよ」
「パンツ履いたくらいで風邪引かないのかよ」
「服も着るんです、ほら」
ジャーファルがぐいぐい押しつけてくるパンツと部屋着を押し返して両肩に手を置く。着たところでどうせすぐ脱ぐに決まってるからそれはいらない。ぐいっと体をこちらに向かせる。
「へ?」
最近学んだことだが、ジャーファルは俺に見つめられるのに弱い。こうして顔を近づけて至近距離から、じいっと視線を逸らさずじっくり時間をかけて、ジャーファルを見つめる、というよりも俺の顔を見せるといったほうが正しいかも、まあ、でもそうすれば。
「大丈夫だって、風邪なんて引かない」
「え、え、」
こんな感じに割とあっけなく狼狽え始める。
そこで、焦らず慎重に、あくまでかーるくを装ってちゅっとキスしてみる。肩がぴくんと跳ねて、だけど抵抗はしない。両目を大きく見開いて、にっこり微笑む俺の顔に見とれてるその隙に、今度はもう少しだけ長くちゅううっとする。口唇と口唇をくっつけて、離して、もう一度。吸ったり、ほんのちょっと舐めてみて、離して、そうしてるうちにさっきまで全開だったまぶたがとろんと落ちてきて、強張っていた肩の力も抜けて、この次のタイミングが最も重要なんだが、髪を撫でて、両手でほっぺたを挟んで、頭が逃げていかないように押さえつつ、じっくり時間をかけてほぐしてから、たっぷりと、キスをする。舌を入れても嫌がられたりしなければ、たぶん成功。
「ジャーファルが」
なし崩し的にベッドにそっと押し倒して、熱っぽくため息を吐く。
「あたためてくれれば」
急に静かになったジャーファルは黙ったまま俺にしがみついて頭をぐりぐりと押しつけてくる。照れ隠しなのか愛情表現なのかよくわからないけど、この際どっちでもいい。耳たぶが真っ赤なのがかわいい。スウェットの裾をまくって肌と肌をぴたりと合わせる。じんわりと感じる体温がなぜかすごく懐かしい。ずっと前から知っていたような気がする。だんだんお互いの体温が混ざりあって、完全に溶けてしまうまでじっと動かずに何もしない。ただそうしてひたすら抱きしめ合う。性欲は、そりゃもちろんあるけどそういうのとは別のところで感じるもっと強い感覚、穏やかだけど強烈な、なんていうか愛おしさみたいなもの。を、今はただ感じていたいと本気でそう思うし、聞いたことはないけどたぶんジャーファルだって同じようなことを思ってるに違いない。こうして体をくっつけて抱き合ってる、ただそれだけだけど、ずっとこうしていたい。ずっと、もう離れることなく。
とは言っても体は正直なので、当然この後することはするんだけど。