ビスケットを焼こう!(ビスケットの煌めき) 真っ暗闇の中で一人泣いていると、そっと僕の涙を拭うものが現れた。その指はとても大きく、体も人の何倍もの大きさなのだと知れた。
「何を泣いている」
「母さんに叱られて」
「何を叱られることがあったのだ」
「わからない。ゼータと仲良くなれたらいいのにと言っただけ。それだけなのに」
いつも優しい母さんが見たこともないような顏で怒り狂った姿を思い出し、また涙が出た。母さんはいたって普通の母親だ。僕が悪戯すれば叱り、甘えれば抱きしめてくれる。こんなわけのわからない怒られかたをしたのは初めてだった。
「ああ、ああ、そんなふうに泣くんじゃない。どれ、顔を見せてみろ」
さっき涙を拭った大きな指先が僕の顎を掬った。そいつは相変わらず暗いところにいて全貌が見えないのだが、天井近くには青い光が二つ。こちらを向いているのだから、あれが目なのだと僕は思った。
「なんだ。恵まれた容姿を授かっているじゃないか。これならゼータも喜ぶだろうさ。ほらおいで」
そいつは大きな掌を丁寧に上向きにして広げて床につけた。乗れ、ということだろうか。
「明かりをつけてもいい?」
「点かないよ」
壁のスイッチを押したがそいつの言う通り電球に明かりは灯らない。仕方なく僕は部屋が暗いままそいつの掌に乗った。そいつは手を椀のようにして僕が落ちないよう丁寧に二つの目の側まで持ち上げた。ぐん、と浮上する感覚は遊園地のアトラクションのようだった。近くに寄ると目の光でそいつの顔の全体がぼんやりと見えた。鼻がある。口がある。耳はわからない。だが人間のような皮膚はない。ロボットだ。鉄の皮膚をしたロボットだった。
「私が怖くないのか」
不思議なほどに恐怖はない。体のつくりも大きさも、まるで違う相手だというのに鏡を見ている気分だった。いや、鏡を隔てた向こうの自分よりもっと近くに感じる。僕はこの得体の知れない大きな存在に何の違和感も感じなかった。
「怖くない」
「いいね。じゃあ、おまえの名前を聞こう」
「センチネル。君は?」
そいつは鉄の皮膚だというのにまるで筋肉が存在するかのように頬を持ち上げ、声を出す度、口元は英語を喋るときの形になった。THの発音をするときの口元まで美しかった。
「私か? 私もセンチネルという」
「同じ名前なの」
「そうさ」
そいつは指先で僕の頭を撫で、額を軽く押した。僕はその力に負けて後ろ向きに転がる。痛くはなかった。寝転がって見上げるそいつはやはりとても大きいのだろうと思った。
そいつはもう一方の手を毛布のように僕へと乗せた。鉄と鉄に挟まれ少し重たいが不思議な安心感がある。
「得たいものは得ればいい」
そいつは優しい顔をした。まるで神様みたいに、全てを夢中にさせるような表情だ。
「?」
「お前の使う言語に合わせているはずだが伝わらないか。ゼータが欲しいのだろう」
「僕は、お話がしてみたいだけで……でも母さんは駄目だと言ったよ」
まごつく僕に、そいつは初めて嫌な顔をみせた。
「友達を作るのに他人の許可が必要なのか?」
「ゼータは特別だ。立派で特別な家柄なんだって」
ゼータの話をしているうちにそいつの機嫌はどんどん上向いたようだった。やはりな。という呟きが聞こえた。
「お前の母親は、お前がゼータに悪さするのを恐れているのだろう」
そいつはさらに僕を高く持ち上げ、頬を寄せた。僕はそいつが友好を示したいのだとわかったので、鉄の皮膚が手で触って熱すぎず、冷たすぎないことを確認して同じように頬を寄せてくっつけた。そいつが瞼を閉じたので僕も同じようにした。
「ゼータから話しかけてくるようにしろ」
「どうやって。話したことも無いんだよ」
「ならば何故お前はゼータに惹かれるんだ」
それは、わからない。けれどひと目見ただけで何かが掴まれて囚われてしまった。
「同じ思いを味あわせてやれ。幸いお前は優れた容姿を持っているじゃないか。磨け。磨いて、磨いて、そうすればゼータの目に留まるようになるだろう」
そいつが喋る度、頬が振動する。ロボットなのにまるで生きているようだった。
手のひらから降ろされ、再び向かい合う。そいつはまた全てを虜にするような笑い方をした。言外に「お前にもできるのだ」と言われた気がしたので、真似てみた。
「おや、歯並びが悪い」
「来週から歯医者さんで矯正してもらうことになってるよ」
「それはちょうどよかった。ますます美しくなるな」
そいつは手を引っ込めて暗闇の方へ下がっていった。
「また会える?」
「お前が望めばいつでも」
言い残して今度こそ、そいつは姿と気配を完全に消していった。