起きて真っ先に視界に映ったのはいつも目にする眠る恋人の姿ではなく、彼がいるべき場所に座った大きめのテディベア。その子の首には真っ白なマフラーが巻かれていて、そこに差し込まれているのは読めと言わんばかりに主張するメッセージカード。寝起きの鈍った思考のまま誘いに乗ってカードを手に取りゆっくりと目を通す。
『おはよう、浮奇。ひとりにしてごめんね。
今日一日付き合ってくれるって約束だから、これを読んでからは私の指示に従ってもらいます!
ちゃんと最後まで付き合ってね。
先ずは出かける準備をして、いつものカフェに行って朝食を楽しんで!
その後も色んな所に行ってもらうから、今日は歩きやすい靴でね。
くまちゃんの首に巻いてあるマフラーは、私からのプレゼント。あったかくして出かけてね。
Happy Valentine. 』
数日前から少ししつこいと感じる程に俺のスケジュールを何度も確認して、今日一日開けておくように念を押されていたのはこの為だったのかと納得して一人うなづく。昨夜は一緒にベッドに入ったから、俺が眠った後にそっとベッドから抜け出したか、早起きをしてひっそりとこれを準備したのだろうと想像すると自然と頬が緩み、先ほどまでまとわりついていた眠気なんて何処かに行ってしまった。今はいない彼の代わりにメッセージカードにキスをして、出かける支度をするためにバスルームへと向かった。
指示に従い身支度を整え、近所の行きつけのカフェへと向かう。もちろん、首には贈り物の白いマフラーを忘れずに。ガラス越しにまばらに入った客の姿が見える店内を覗き込んでもスハの姿は見当たらなくて、少し落胆しながら彼はどこに行ってしまったのだろうかと訝しみながらドアを開けると、ベルの音にこちらを向くマスターがいつもと同じように出迎えてくれる。
「いらっしゃい、おはよう浮奇。…見たことないマフラーだ。似合ってるよ」
「ありがとう。いつものをお願い」
オーダーに笑顔でうなづいたオーナーがカウンターの奥に入って行くと、いつもの席に腰を下ろす。俺がここに座るときはいつも向かいにスハがいるのに。今は誰もいない席に違和感と寂しさを感じていた矢先、不意に目の前に差し出されたものにびくりと身体が跳ねてしまった。
「スハからだよ」
そう言って差し出されたそれは、淡い紫の花びらが美しい5本のバラの花束。突然のことに目を瞬かせながら両手で受け取ると、目の前に置かれたサンドイッチとコーヒーが乗ったトレーの上の見覚えあるカードに目を通す。
『浮奇と出会えたことは、私の人生最大の僥倖だよ。いつもありがとう。
今日のコーヒーはバレンタインブレンドだって。一足先に飲んだけど、おいしかったよ!
ゆっくりモーニングを楽しんで。その後はアリシアのお店でリングを受け取ってきて。』
「恋人のこんなに可愛い顔を見ないなんて、スハはもったいないことをしたな」
揶揄するようにニヤリと笑うマスターに「本当にね」なんて返しながら、みっともない程に緩みきった口元を花束に寄せ芳香を堪能するフリをして隠す。花弁を指先でそっと撫でてからいつもスハが座る席に置いて、湯気のたつカップを手に取りバレンタイン限定の一杯に口をつけた。
顔馴染みの客やマスターに見送られ、次は小さなジュエリーショップへ向かう。そこはこの街に引っ越して来た年に2人でお揃いのシルバーリングを購入して以来お世話になっている馴染みのお店で、先日俺が不注意で傷をつけてしまったリングをメンテナンスに出していた。それを受け取ってくるように、との指示だった。
真っ白な扉を開けこぢんまりとした店内を覗き込む。その奥のカウンター下にしゃがみ込んでいたらしい店主のアリシアがひょっこりと顔を出せば、真っ赤なルージュで彩られた唇から放たれた「待ってたわ!」という弾んだ声に招かれる様に足を進め、立ち上がった彼女の手から目当ての品を受け取り小指に通そうとするも、リングの思わぬ変化に手が止まってしまった。
傷がついていた箇所に輝く、濃いグリーンの石。
恋人の瞳を思わせるその石を見つめていると、ルージュと同じ赤で飾られた綺麗な爪先がちょん、とリングに触れた。
「勝手なことして怒られるかなぁ…なんて散々悩みながら自分の色をしっかり埋め込むんだから、彼も相当よね?」
「…可愛いでしょ?」
「やめて、彼氏と別れたばっかりの女に惚気ないで。…あと、これも受け取っていってね」
そう言って差し出されたのは、またしてもバラの花束。今回は白いバラが6本と、お決まりのメッセージカード。
『私の心も視線も浮奇に奪われてばかり。責任とってね。
指輪のこと、内緒で依頼してごめんね。怒ってないことを願います。
勝手な事したお詫びに欲しがってたリップをプレゼントするから、リリィの所に行ってくれる?』
「ねぇ、浮奇。ちゃんと気付いてる?」
「なに、6本のバラの意味?」
「それもそうだけど。持って来た紫のバラと合わせて、今あなたの手にあるバラは何本?」
アリシアに言われて思わず手元を見れば、簡単な足し算で導き出される数字とそれに付随する意味がすぐに頭に浮かび、思わず頬が熱を持ち弾ける様な笑い声が溢れてしまう。正直どうしてこんな回りくどいことをするのかと思っていたけれど、俺の恋人はなんて可愛いことをするんだろう。どうして、今ここに彼がいないんだろう。思いっきり抱きしめて、キスしたいのに!
「次の彼氏は韓国人もいいかも」
「スハには手出さないでよ、ビッチ」
冗談めかした言葉に舌を突き出し軽口を返せば、大事に花束を抱えて足取り軽く店を後にする。次は何本の花束をもらえるのかな。
コスメショップを営むリリィの店に向かう道中必ず通る花屋の店先で、エプロンを身に付けた男性に呼び止められ「あなたを想う男性からの贈り物です」と真っ赤な3本のバラを渡された。今回はメッセージカードはついていなかったけど、ストレートな愛情表現にその通りの意味かと満足しかけたところでそれを足した数字が頭に浮かぶ。
「お兄さん、14本のバラの意味、知ってる?」
「もちろん、私はご覧の通り優秀な花屋ですから。…“ どんな時でも自分の味方でいてくれる、誰よりも強くて優しい恋人に贈るためのとびきり美しいバラを”とのオーダーでした。あなたのことを自慢げにたくさん話してくれましたよ」
あんな話を聞けば、恋しさは一層増してしまう。一刻も早くスハに会いたい一心で足早にリリィの店に入るや否や、待ち構えていたスタッフによって抱えていたバラは拐われ、俺自身は手を引かれ鏡の前に強制的に座らされてさすがの一言に尽きる手際であっという間にメイク直し。仕上げに先ほどのカードに書かれていたプレゼントのオレンジベージュの新作リップが唇を彩れば、鏡の中にはメイクもヘアも一分の隙もなく整えられた姿が映っていて、その鏡越しに見えるのはスタッフが抱える大きな花束。椅子から立ち上がり、穏やかな気持ちでひとまとめにされた花束を覗き込めば、そこに10本の淡いオレンジのバラが追加されていて、差し込まれたメッセージカードにはただ一言『私たちの家で、愛おしい君を待ってるね』と書かれていた。
あっという間にも、長くも感じたゲームの終わり。わざとゆっくりと歩いて帰れば、今朝鍵を閉めて出たドアがノブを下げるだけですんなりと開く。いつもは当たり前の様に感じていたことさえ今は幸せで、美味しそうな料理の匂いと共にリビングで迎えてくれたスハの笑顔にバラを抱く腕に力が入ってしまい、慌てて緩める。
「おかえり、浮奇。一日振り回してごめんね、疲れてない?」
「ただいま。…すごく楽しかったよ。こんなに大きな花束を抱えて1人で歩くのは少し恥ずかしかったけど、それ以上に幸せだったし、ドキドキした。ありがとう、スハ」
「本当?よかったぁ…じゃあ、最後にこれも」
漸く恋人の手から差し出された花束は、9本のピンクのバラ。24本で終わりだと思っていた所為で予想外の追加に驚いていると、照れ笑いを浮かべたスハが身を屈めて顔を覗き込んでくる。
「…受け取ってくれる?」
断られるなんて、これっぽっちも思ってないくせに。でもそんな風に思ってもらえる程度には俺は上手に彼を愛せていると分かって、また一つ幸せが積み重なる。
「いつもならちゃんと言葉にしてって怒るところだけど、今日はもう胸がいっぱいでそんなこと言えなくなっちゃった」
「全部を言葉にするのはまだ私にはレベルが高いから、バラに全てを込めました」
「33本の意味も、ちゃんとわかって贈ってるんだよね?」
「ここまでやっておいて、最後にその意味だけわかりませーん、なんてそんな大ボケかますわけないでしょ。スハはね、やればできるんです」
ふふん、と自慢げに胸を張って見せるけど、耳が赤くなってるの気付いてる?なんて言ってしまいそうになるのをぐっと堪える。恥ずかしがり屋な恋人がここまで頑張ってくれたのだから、今日は見逃してあげることにした。だって、反撃はこれからなんだから。
チョコレートケーキと一緒に用意したスハの薬指にぴったりのリングを見せた時、彼はどんな反応をしてくれるだろう。
『バラの意味』
5本 あなたに出逢えた事の心からの喜び
6本 あなたに夢中・互いに敬い、あいし、分かち合いましょう
11本 最愛
3本 愛しています・告白
14本 誇りに思う
10本 あなたは全てが完璧
24本 一日中想っています
9本 いつも一緒にいてください・いつもあなたを想っています
33本 3回生まれ変わっても、3回貴方を愛する