ゲームのBGMの合間に聞こえた「あ、」という声。二人分のおやつとコーヒーを準備をしてくれている浮奇のその声だった。ゲームを一時停止して、ソファーの上でキッチンを覗き込む様に身体を反らし視線を向けると、カウンター越しに手を洗う姿が見える。
「どうかした?」
「ん、んー…大丈夫」
手元を見つめたままの返答になんとなく違和感を覚えるが、浮奇の表情はいつもと変わりなく、慌てた様子も困った様子も見受けられない。コーヒーの粉を溢したとかかな、なんて思いながらも何となく勘が働いて、コントローラーを置いて立ち上がり様子を見に行くと、浮奇の手元を見るなり俺の眉間に深くシワが刻まれた。
「それのどこが大丈夫なの?」
いつも綺麗に手入れされている浮奇の手。昨晩「新しいネイル、いいでしょ」と嬉しそうに見せつけられたその手に、赤い筋が走っている。人差し指の根本側面に刻まれた切り傷から水に滲んだ血が滴り落ち、シンクに弾ける。
「フルーツの飾り切りしてみようかなって思ったんだけど、手が滑っちゃった。ちょっと切っただけだし、暫くしたら血も止まるから」
本当になんでもないことの様に言いながら、シンクに伸びて広がる血を水で流しながらキッチンペーパーで傷口を押さえる浮奇の腕を掴むと、強制的にソファーまで連行して座らせ、動くなとキツく命じる。その間にもじわじわと赤色がキッチンペーパーを染め上げているのにも関わらず、大袈裟だとでも言いたげに苦笑を浮かべているのが気に入らない。
「ねぇ、そんな怖い顔しないでよ。サニーは綺麗な顔してるから、余計怖いんだけど。血が出てるから大袈裟なだけで、大して痛くないし、」
「大してってことは、痛みはあるんでしょ」
「…少しだよ。ほんの少しだけ」
和ませるためか誤魔化すためか、どこか戯けた様子の浮奇の言葉を遮って指摘すれば、ばつが悪そうに顔を背け唇を尖らせる。普段なら可愛いと思えるような表情も、今はそう思える余裕はない。取り出した救急セットをテーブルの上に放り、浮奇の手を引き寄せそっとペーパーを剥がし傷口の状態を確認する。大怪我と言うには小さく、かすり傷と言うには大きい傷口にじわりと血が滲むと、脱脂綿で拭きわざと多めに消毒液をぶっかけてやった。
「んっ…!」
「大して痛くない怪我なんでしょ。大袈裟なんじゃない?」
流石に滲みるとみえて、痛みから咄嗟に腕を引こうとするのを手首を強く握ることで阻止し、先程の言葉をそのまま返し訴えを流すと恨めしい目で見つめられるけど、知った事じゃない。
滴る消毒液を軽く拭いてから大きめの絆創膏を少しキツめに巻いて貼り付けると、仕上げに消毒臭い手を持ち上げ、小指の先に噛み付き第1関節に歯型を残す。口の中に苦い味が広がる不快感に眉根を寄せて指を吐き出せば、ぽかんと間抜けな顔をした浮奇と目が合った。
「変な顔」
「うるさい。…そんなに怒らなくてもいいじゃん」
「俺が怪我して来たら口煩いくらい色々言う癖に、自分の怪我に無頓着過ぎる。本物にかすり傷ならともかく、こんな風に血も出てて痛みも有る怪我は大した事ないとは言わない」
視線を逸らす事なく真剣な声音で告げると徐々に浮奇の瞳が横に逃げていくが、それでも無言のままじっと見つめ続けていると、気まずそうに口を開き、探り探りの拙い言葉を紡ぐ。
「だって…、…俺の中では、本当に大した事ないって、思ってて…これくらいなら……裂けたわけでもないし、骨や筋肉に異常があるわけじゃない、から…」
尻すぼみになっていく声から察するに、その感覚がおかしいことは浮奇自身分かっているのだと思う。
昔の事を根掘り葉掘り聞いたことは無いけれど、幼い頃に再三刷り込まれた感覚というものはなかなか消えず、覆す事も難しいということは良く分かる。分かっているつもりだが、過去を憐れみ「可哀想だね、辛かったんだし仕方ないよね」と甘やかすのは違うと思うし、こうして訴えなければ浮奇は今後も自分を大切にしきれないという事も分かっていた。だから、怒りを隠すこと無く表に出す。
「ばか、そこまで行ったら大事故。ネイルとかエステとか自分を可愛がる事は出来るくせに、根本的な所で大切には出来てないのほんっと腹立つ」
「大切にしてないつもりはないんだけど…」
「出来てないから怒ってるんだけど?…浮奇の基準はおかしいんだから、自分にとってどうかじゃなくて“サニーがどう思うかな”って基準で判断して。分かった?」
大きくため息をついて有無を言わさぬ強い語気で投げた言葉に、浮奇が素直にこくんと頷く。頷いた所で痛みや怪我を大したことじゃないと流してしまう困った癖が改善されるかは怪しいが、一先ずここまでにしておくか…と今一度細く息を吐くと、じわじわと浮奇の口元に笑みが広がっている事に気付き、再び眉間に皺が寄ってしまう。
「なに笑ってんの?」
「ん…ふふ。ごめん。…愛感じちゃった」
「うわ…腹立つ」
絆創膏の貼られた手を投げつけるように離せば、その手が浮奇の口元へ上がり益々深くなる笑みを覆い隠す。こちらの気など知らず呑気に笑う浮奇が腹立たしく、そんな姿も可愛いと思う自分にはもっともっと腹が立つ。悔しい。
惚れた弱み、という言葉を頭に思い浮かべながらソファーから立ち上がりキッチンに向かうと、背後から追いかけてくる小さな足音が近付いて来るタイミングを窺い、不意打ちで振り返りいつもの様に背中に抱きつこうとする浮奇を正面からキャッチすると、痛みを訴えられる程容赦無くぎゅうぎゅうと抱き締めてやった。