平和の箱庭公と私の区別をつける。公的立場に私的な選択を挟むべきではない。
指輪を外して一度抱きしめ、ケースに入れる。大事なものだと思う。だから宝物としてしまうのだ。カガリはドレッサーの引出を開けて指輪をしまった。幼い頃から宝物は一箇所に集めていた。譲り受けた友人の緑の宝石や、実の母が自分とキラを抱いている写真…そういうものと同じようにカガリは本当はまとめて自分の大事な人間を宝箱のような箱庭の中に入れて守れたらいいと思う。気付かなかったのだ、当たり前に貰えていたから。子供の感情だ、所有欲がとても深かった。――区切りを付けなければいけない。
生きているならそれでいい。生きていてくれるなら、幸せでいてくれるなら、隣にいるのは自分じゃなくていいのだ。
一言で言ってしまえばそれで終わりだ。そういう形の愛情だった。自分の形はそれでいい。あとは相手の受け取り方で、どうあっても自分はそれを受け入れるだけだと思った。どうなるかはわからない。けれど、自分が身勝手に大切だと思っていることは変わらないのだ。こういう生き方しかできない。逃がしてあげようとも思ったのかもしれない。それはいい、きっと相手も幸せになれるだろう。そうだ、自分の気持ちは変わらない。それだけのことだ。
視線が深く交わって、抱き締められたときは驚いた。どうして私はこの宝物をもらえるのだろう。注がれる肯定を目を閉じて享受した。どうして私はこの愛情をすべて飲み込んでしまうのだろう。それが力になることが嬉しくて悲しい。際限なく欲しがってしまうのに、際限なく与えられる。自分はどうしようもなく幸せ者で、我儘だ。