黒子くんはぴば🎂0131 手を伸ばしても、届かない。
「もう少し…なんですけど…」
背伸びをして、目いっぱい腕を伸ばしても、目当ての背表紙は指先を掠めるだけだった。
昼休みの図書室は生徒もほとんどいない。ひっそりとした中で、黒子のわずかな唸り声だけが響く。古びたインクの匂いが、昼間の晴れた室内に篭っていた。よく見たら棚の隙間に埃が溜まっている。ちゃんと掃除して換気したほうが良いのでは、なんて考えながら、ぴょんぴょんとジャンプして一番上の棚に手を伸ばした。けれど、なかなか届かない。
「黒子?」
一人でジャンプしながらぜぇはぁと息を吐いていたら、不意にボクの名前を呼ぶ声が聞こえた。鮮やかな、目を引く赤い毛先がちらりと光る。
「赤司君。どうしてここに」
「資料をまとめていたんだ。静かで集中出来ると思ったのに、唸り声が聞こえてくるから」
「ぅ…すみません」
しょんもりと黒子が項垂れたのを見て、赤司はくすりと笑った。平気だよ、と言った後に、黒子の前にある棚を見上げる。
「どれを取りたいんだ?」
「あ、えっと…。あれです」
ハードカバーの小説を指差して、タイトルを読み上げる。黒子が最近気に入っている作者の、わりと古い作品だ。まさかこの図書室にあると思わず検索をかけて見つけた時はすごく嬉しかったのに、近くて遠い距離はなかなか手に届かない。
すると、隣に来た赤司が、その本の背表紙に向かって腕を伸ばした。
するりとした指先が、古びたハードカバーのタイトルに掠める。けれどそれは指に引っかかることなく、あとほんの数ミリのところで届かない。足元を見れば、赤司の綺麗な上靴は、ぴんと伸びて爪先立ちをしていた。
あと少し、もう少しのところで、伸ばした指先はぷるぷると震えて、やがてぺたりと落ちてゆく。
「…無理だな」
「ですね…」
「台を取ってくる」
「え、良いですよ。自分で持ってきます」
「いいから」
そうして踏み台を持ってきた赤司は、黒子より頭二つぶんくらい高くなった身長で、はい、と目当ての本を黒子に差し出した。ありがとうございます。と受け取って、踏み台に上った赤司を見上げる。とはいえ、それでも紫原よりは小さい。赤司が上ればまるでレッドカーペットの敷かれた宮殿の長階段のように見える踏み台も、下りれば目線はほぼ同じ場所で交わった。
赤司と話すのは、まだ少し緊張する。自分を導いてくれた恩人だというのもあるし、全てが雲の上過ぎて、どうして良いのか、何を話して良いのかわからない。少し色褪せた表紙を眺めながらもぺこりとお辞儀をしたら、予想外にまた赤司のほうから話題を振ってきた。
「好きなのか?その作者」
「え?あ、はい…。これは読んだことないんですけど、他の作品が面白かったので」
「じゃあ、読み終わったら教えて。次はオレが借りるから」
「えっ」
「ん?」
「いえ…、わかりました」
うん、と赤司は頷くけれど、黒子はもう一度本のタイトルを見る。空のような、海のような褪せた淡いブルーの表紙は、タイトルからしてあたたかな愛を謳うラブストーリーだった。とても赤司が読むような作品には思えない。哲学書でもなければ帝王学でもない。そんな本の感想を赤司と言い合っているのはあまり想像が出来なかった。けれど、きっとそれも悪くない、と思った。
その日、残りの昼休みの時間、少しだけ赤司と話した。人のいない図書室に響かないくらいの、小さなこそこそとした声で。それでも赤司の声は凛としていたし、黒子の耳にすっと入り込んでは綺麗に馴染んだ。彼が読むとは思っていなかったミステリー小説を赤司も読んでいたから嬉しかった。本のこと、授業のこと、それからバスケのことも。ほんの短い時間だったけれど、すごく楽しかったことは覚えている。
結論から言って、その本の感想を赤司と話すことはなかった。あれから気付けば少しずつ溝は深まっていて、本の感想どころか、うまく言葉を交わすことすらままならなくなってしまっていた。黒子ももう、あの小説の内容もよく思い出せない。けれど、あの日の図書室のことを、急にふと思い出した。まだ幼さの残る赤司の表情と、発展途上の背丈。本を差し出してくれた、マメの浮かぶ指先のことも。あの日の古びたインクの匂いが、なぜか突然蘇る。
「あ」
なんとなく上の棚を見上げれば、見覚えのあるタイトルが目についた。思わず声を上げれば、隣にいた赤司が、不思議そうに黒子の目線の先を追う。
「これ?」
指差した先に黒子が頷けば、赤司はぴんと腕を伸ばして、ぐっと背伸びして背表紙に指をかけた。するりと抜かれたハードカバーは、以前に見た表紙とは違う。新装版らしい。記憶にある淡いブルーの表紙は、温かみのある夕焼けのような色に変わっている。
厚さのあるカバーをぺらりと捲った瞬間、昔のことを急に思い出した。赤司は覚えているだろうか。向かい合う背丈は、さすがに中学生の頃に比べたらだいぶ伸びたけれど、結局周りの仲間たちの中で赤司と黒子の二人だけちんまりとしている。きっと赤司以外の誰かなら一番上の棚までもなんなりと手が届くのだろうけれど、でもこれくらいの距離感の方が、顔を見合わせやすくてちょうどいい。
「赤司君、ボク、これにします」
「ん?」
「誕生日のプレゼント、これが良いです」
「え…これで良いのか?」
「これが良いんです」
受け取った本を、もう一度赤司に渡す。駅前の大型書店の景色が、一瞬だけ中学校の図書室に変わって、まばたきの合間ですぐに戻る。そんな感じがした。
誕生日に何が欲しいかと聞かれて、じゃあ一緒に探しにいきましょうと行ったのは黒子だ。黒子だって、特に欲しいものがあったわけではない。けれど、ふらりと立ち寄った書店でこれに出会えてしまったのだから、これはもう運命だってことにしてしまえ。
「ボクが先に読むので、読み終えたら赤司君に貸します。感想を言い合いましょう。その時間を含めてプレゼントにしてください」
「わかった。そうしよう」
ふわりと微笑む赤司の表情は、あの時よりもだいぶ大人びて、けれどあの日よりもずっと無邪気で穏やかだった。
「買ってくる。待ってて」
レジに向かう赤司の背中を眺めながら、隙間の空いた上の棚を見上げた。
思った以上に早くプレゼント選びは終わった。あとはスーパーに行って夕食の食材を買い込む。黒子が食べたい物を、赤司が何でも作ってくれるらしい。メニューはまだ決めていない。せっかくだから、本物はどんな物なのかすらわからない難しい片仮名の料理でもリクエストしてみようか。手こずる赤司も見てみたいし、でも彼のことだから、たぶん難なく作ってしまうかもしれない。
「お待たせ。行こうか」
彼の持つ紙袋の中で、うすいブルーの包装紙と、赤いリボンが揺れている。並ぶ近い目線で目が合って、自然と手が触れ合った。それはそのまま、ぎゅっと繋がる。
「夜、何食べたい?」
「うーん…。カルボナーラとか…?」
「良いね。それならオレにも作れる」
まあ、黒子の引き出しには難しい片仮名の名前の料理はない。それで良いだろう。今夜は赤司の隣で夕焼け色した表紙を捲りたい。集中して読めるかどうかは、彼次第ではあるけれど。
20250201