東京駅純情ものがたりこの日は仕事が早く終わりそうだから、たまには外に飲みにでも行かないか、と、珍しく赤司からそう誘われた。
断る理由もないので、良いですよ、と黒子は答える。オレは仕事終わりだからスーツだけど、黒子は私服で良いからとも言われた。そんなふうに言われても、赤司と行く店はいつもそれなりに敷居の高い店だから、マジバに行きますよみたいな服装で行けるわけがない。そう思っていたのが勘付かれたのか、本当にいつもの服で良いからと笑われた。うーん。疑い深いけれど、彼がそう言うならまあそれで良いだろう。
週の真ん中水曜日、時計の針がまっすぐ縦になった頃。
約束していた時間のほんの数分後に、「ごめん、お待たせ」と言って赤司は黒子の前に颯爽と現れた。まだ蒸し暑さの残る中、背筋を伸ばし、チャコールグレーのスーツを涼しい顔して着こなしている。臙脂色に水色のストライプが入ったネクタイは、黒子が選んで、今朝黒子が結んであげたものだ。人のネクタイなんて結べない、と思っていたけれど、いつしか結ぶのが当たり前の習慣になったことである。そのネクタイが朝と変わらず、赤司の襟元を彩っていた。
「お疲れさまです。全然待ってないですよ」
「ごめん、もう少し早く終わるつもりだったんだけど…。暑いし、早速行こうか」
「はい」
待ち合わせに指定された駅は、いわゆるオフィス街といえる場所だった。仕事場終わりのサラリーマンやOLと思われる人たちがどんどん駅に向かって改札に吸い込まれてゆく。その波に逆らって、赤司は駅とは反対の方へ足を向けた。
スーツを着たサラリーマンの集団の中で、赤司は一際目立っていた。若い女性がちらちらと彼に視線を向けている。隣にいる黒子なんてこれっぽっちも認識されていない。
大人になればなるほど、元々端正だった彼の顔立ちには精悍さと色っぽさが増した。だいぶ見慣れたはずのスーツ姿も、こうしてオフィス街を歩いていると何割増しで格好よく見える。赤司に色めき立つ女性たちと同じように、黒子もまた赤司の横顔をこっそりと眺めれば、その視線に気付いたのか、赤司はくすっと笑ってほんの一瞬だけ黒子の手を握った。温かい手は黒子の指を掴んで、すぐに離れてゆく。
「暗くなったら、ね」
「…何がですか」
じとりと睨んでも、赤司は楽しそうに笑うばかりだった。
「ここだよ」と言って連れて来られた店の外観を見て、黒子はぱちぱちとまばたきをした。けれど赤司は迷いなく古びた暖簾をくぐる。
もくもくと煙がたちこめる店内は、酒と煙草と揚げ物の匂いで充満していた。頭にバンダナを巻いた元気のいい店員が、「らっしゃーせー!」と声を張り上げている。
中に入れば、カウンターと、小さな丸テーブルだけがある狭いお店だった。二人が案内されたのは丸テーブルのほうである。プラスチックケースに挟まれたメニューと、灰皿、割り箸とお手拭きがごちゃごちゃと並べられている。テーブルに椅子はない。まさに大衆居酒屋、といった、立ち飲みのお店だった。
「え、このお店、赤司くんが選んだんですよね…?」
「そうだよ。たまには良いかなと思って。嫌だった?」
「いえ、ボクは全然、こういうところ好きですけど」
そう、なら良かった。と言って彼は笑った。脱いだジャケットをハンガーに掛けて、壁に備え付けられたフックに引っ掛けた赤司だけれど、オーダーメイドの高級スーツがもくもくの煙まみれになってしまって良いのかと黒子はハラハラした。
シャツの袖を捲った赤司は、店員を呼んでメニューを見ながら注文している。その間、黒子はしげしげと周りを見回した。平日にもかかわらず店内はほぼ満席で、一人で飲んでいる人もいれば、数人のグループで既にほろ酔いになっている客もいる。平成にヒットした少し懐かしい曲がBGMとして流れているけれど、その音楽が掻き消されそうなくらい店内は騒がしかった。
学生時代、例えば青峰や火神とはこういった居酒屋にはよく行ったことがあったけれど、まさか大人になって、仕事終わりに赤司と一緒にこんなお店に来るなんて。赤司と立ち飲み屋、ミスマッチな状況になんだか変な気持ちになっていたら、威勢のいい店員がジョッキに入ったビールとカシスウーロンを運んできた。お通しのキャベツは銀のアルミ製の皿に山盛りに盛られていて、ざくざくと大雑把に千切られている。
「じゃあ、黒子、今日もお疲れさま」
「あ、はい。お疲れさまです」
かちゃん、とジョッキとグラスがぶつかる。テーブルに肘をついたまま、赤司はくぴくぴとビールを一気に煽った。男らしい喉仏がコクリと動く。黒子は、マドラーでグラスの中をかき混ぜながらカシスウーロンをちびちびと飲んだ。
油っぽいテーブルと薄汚れた壁は赤司にあまりにも不釣り合いなのに、なぜか不自然ではない程度に馴染んでいるから不思議だ。狭いテーブルには、赤司が注文したつまみがどんどん運ばれてくる。枝豆、冷奴、ポテトサラダ、冷やしトマト、だし巻き卵、焼きそば、唐揚げ。小さなテーブルはみるみるうちに隙間がなくなって、彼はそれを一つ一つ取り皿に分けた。
「はい。黒子の分」
「え、いや、良いです、これは赤司くんの分で…。ボクは自分で勝手に取るので」
「きっちり二等分だ。ちゃんと食べなさい」
「うぐぅ…。って、ちゃっかり紅しょうが全部入ってるじゃないですか!二等分してないです!」
食べてください!と紅しょうがを半分赤司の皿に押し付ける。何とも微妙な顔をして眉を寄せていたが、黒子だって普段手厳しい食育を受けているのだ。これくらいの仕返しは許してほしい。
割り箸を割って、だし巻き卵に箸を入れる。まだ湯気が出ているだし巻き卵は、口に入れるとふわふわでしっとりしていて、中に青のりが入っていた。出汁の味がきいていておいしい。
「これ、おいしいです」
「ん?どれ?」
「これ、だしまきたまご…って、近いです、赤司くん!」
「え?なに?周りがうるさくて聞こえない」
にやにやしながら顔を近づけて来る赤司だけれど、こんなの、確実に聞こえている。椅子がない分自由に身体を寄せられるし、黒子たちのテーブルは店内の一番奥の目立たない場所にあった。そもそも、周りは各々で盛り上がっていて他の客を気に留めている様子もない。自然と距離が縮まってゆく。ついに、二人の肩がトンっとぶつかった。
「もう…」
「良いじゃないか、たまには」
機嫌良さそうにビールを飲む赤司の頬がほんのり赤らんでいる。普段、付き合いでアルコールを飲む機会が多い彼が、元々そんなに酒に強くないことを黒子は知っていた。仕事関係の場ではうまく取り繕っているけれど、気の置けない仲間と飲むとなると、赤司のガードはだいぶ緩む。そんな姿を見ると、心を許されていると思えて黒子は嬉しかった。彼が楽しそうで嬉しかったから、まだ手付かずの赤司の焼きそばの紅しょうがを、行儀悪くもやっぱり黒子の皿のほうに移し替える。
「おや」
「特別ですよ」
「じゃあ、オレは特別に黒子の冷奴も食べてあげる」
「それ、赤司くんが食べたいだけでしょう」
わいわいと騒がしい店内で、グラス半分のアルコールで酔った気分になりながら、肩を寄せ合いくすくすと笑い合う。ちょうど店内のBGMが、数年前に流行ったポップなラブソングに切り替わった。酒と煙草の匂いが充満しているはずなのに、隣の赤司からは、いつもの彼の、いい匂いがした。
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立ち飲み屋というのは回転率が早いようで、一時間もしないうちに客は入れ替わる。赤司と黒子も二杯目を飲み終えたところで、そろそろ行こうかと店を出た。ちなみに会計を見て、これで本当に二人分なのかと赤司は目をぱちくりとさせていたのは面白かった。
騒がしかった店を出ると、外の風は秋めいていて涼しかった。アルコールで火照った身体の酔い醒ましにちょうどいい。
一駅分歩いて帰ろうか、と赤司の提案に頷き、高架下の飲み屋が並ぶ通りをのんびりと歩いた。赤司が手に持っているジャケットは、もうもくもくの煙まみれだ。黒子の着ているシャツも同じだろう。
「黒子」
赤司が手を伸ばす。その意味がわからないほど黒子は鈍くなかった。一応、右を見て左を見て後ろを見て、まあ全く人がいないわけではないけれど、暗いし、少しなら良いかと思って彼の手を取る。ほんのり汗ばんだ、温かい手のひら。ぎゅっと握れば、赤司も強く握り返してくれた。
がたんごとんと、電車がひっきりなしに真上を通ってゆく。見上げれば、オフィスビルはまだどこも明かりがついていた。東京の夜空は明るい。赤司も、この時間は普段はまだ仕事をしているだろう。黒子は自宅で執筆活動をしながら、赤司の帰りを待っている。その時間も、なんだかんだで結構好きだ。
でもやっぱり、隣で手を繋いで歩いている時間のほうが、よっぽど好きだ。だらだらと歩いていれば、隣の赤司がふらりとよろめいて黒子のほうに体重を預けてくる。
「もう…。大丈夫ですか」
「酔っ払いのふりでもしてたほうが自然だろ」
「いや、十分不自然ですよ」
頬をほんのり赤く染めながら、赤司は小さく笑った。黒子も一緒になって笑う。夜風が気持ちいい。
高架下が開けて、駅へと続く大通りに出た。次第に人通りが多くなってきて、名残惜しくもそっと手を離す。だけど二人の距離感は、肩がぶつかりそうなほどぴったりとくっついていた。
きらびやかにライトアップされた駅舎を、地方や海外からの観光客があちこちで写真を撮っている。歩道を渡った向こう側では、この時間でもウェディングフォトを撮るカップルが何組かいた。
「ボク、東京駅って、好きだけど好きじゃなかったんです」
隣の赤司が、うん、と頷く。サラリーマンたちが足早に駅へと向かって歩く中、二人はまだゆっくりと足を進めた。
赤煉瓦造りの巨大な駅舎を、黒子は何十回と見た。赤司と二人の時もあれば、一人の時もあった。
高校時代、彼と会える日は嬉しくて、特別な気持ちになって、約束の時間よりもだいぶ早く家を出て近くの大きな本屋で時間を潰したりもした。けれど結局そわそわして待ちきれなくて、赤司の乗る新幹線が到着するだいぶ前からホームで待っていたこともある。新幹線を降りた赤司が黒子を見つけた瞬間の、嬉しそうな笑顔が大好きだった。
赤司と会えるこの駅が好きだったけれど、赤司と別れなくてはいけないこの駅が好きじゃなかった。何回経験しても、またねと手を振って離れる時間はつらかった。さみしくて、まっすぐ帰る気にもなれなくて、この広場で一人ぼんやりと駅舎を眺めていた日もある。自分たちだけでない。新幹線のホームでは、たくさんの再会と別れが繰り広げられていた。
だけど、今はこうして並んで歩いて、あの時のことを良い思い出として語ることが出来る。大人になって、仕事終わりに待ち合わせてお酒を飲むことが出来る。顔を見て、おはようとおやすみなさいが言える。些細な毎日が、幸せだと胸を張って言えた。
「帰ろうか」
「帰りましょうか」
ふふっと一緒になって笑い合う。向かうのは新幹線のホームではなく、JRの改札だ。最寄駅に着いたらまた、家まで手を繋いで歩いても良いだろう。