Clear Tears透明の涙
─── おれが殺したんだ、おれがアクラを…おれが皆を殺したんだ…!!
─── 馬鹿言ってんじゃないよ、サッチ!そんな言葉に何の意味がある!!
─── だってそうだろ…?なぁジル!…ッおれが作った飯で、皆死んじまったんじゃないか…。おれが…おれが、殺したのと…一緒じゃないか、…よォ………。
✳︎
目元を腕で覆うのはアロゼだった。元々涙脆い性質の男だったが、堪えようにも堪え切れない涙が幾つになろうと零れ落ちる。例え、同情の涙だったとしても胸を裂かれる気持ちになるのは、この無鉄砲な少年が受けた苦しみを、同じ包丁を握る人間として痛いほど分かるからだった。
白ひげが料理長ガルニの一段落した言葉を待って、唇を開く。
「この坊主は…おれには、死んだ弟妹との約束があるから、オールブルーを探したい。そう言ってたが…そういうことだったのか」
「さよう、我々も頼まれたのです。生きる気力を…まぁ、なくしてたんでしょうな。そのサッチが、なぜもう一度立ち上がる気になったのかは…聞いていませんが、とにかくワシは自由軍には昔受けた恩がある。その恩に免じて、この少年を料理人として学ばせてやってほしいと…頼まれてからの縁ですわ」
部屋の中に沈黙が流れた。時々、押し切れない男泣きが、揺れるランプの軋みの合間に落とされる様だったが、遂に意を決したようにアロゼは悲惨な顔を上げる。
「せ、せせせ、船長さん…!!そっちの、見習いさんも、勿論クルーの方々にもお願いする!頼むよ、コイツを置いてやってくれ…!!」
土下座に何の価値もない。
ただの頭を床に擦り付けて、這いつくばるだけの行為だ。それで生き延びられるならば、愛しい家族に再び会えるならばアロゼは何度でも土下座をするし、顔に唾を吐き捨てられても怒らない自覚がある。大切なのは命だ。プライドなんてもの、犬に食わせておけば良い。恐怖に自分から指を突っ込むような度胸はない。
よって、この土下座は何の意味もないと分かっていても、料理人たる魂が勝手にさせた行為だった。歯の根が噛み合わない、余計なことだったとしても本能的な行為だった。
「おれ、おれ、おれ頼みます…!!使えなかったら、いつでも海に放り込んじまって構わねェ…!!海賊船に乗りてェって言うんだ、それくらいの覚悟がコイツにもある!バカなんだ、コイツは…!!」
涙がボタボタと医務室の床を濡らしていく。
「バカだから、馬鈴薯ひとつでも…もったいねェって、海に飛び込んじまうような、バカだから…!!た、頼めるの、あんたくらいしかいねぇよォ…白ひげさん…!!お、おれ、出来ることなら何でもするから、コイツを置いてやってくれェ…!!」
「……バカな子供ですが、料理人の…魂ってもんを持ってる子でさぁ…ワシからも、お願いします…」
並んで下げられる頭が二つ。
白ひげは特注の椅子に軽く背を預けると、視線を歳若の息子へと落とす。
マルコの視線は、話の途中からずっと寝台に横たわる少年に向けられていた。固く握っていたその拳が、小さな吐息と共に緩められた。
白ひげの口元が、ニヤリと上がる。
「何でもするって…今、言ったか?」
✳︎
暖かい、温かい───。
胸の内から広がる温もりは、冷えた日に飲むスープに似ている。熱過ぎれば飲み込むのに痛いから、用心して口にする。ひとくちそっと口にして、大丈夫だったら器を傾ければ良い。腹の中から暖かくなっていく、満たされていく感覚に包まれて、瞼がゆっくりと挙げられていく。
「……目が、覚めたかい…」
マルコだ。
船の、海賊見習いの、マルコ。
金の髪の毛が、まるでパイナップルのようで、うん。手癖より足癖がすごく悪いヤツだ。見習いって言う割に、随分とズケズケ物を言って、この船では結構長いんだろうな、って感じがして。
親父って、この船のヤツらは皆船長のことを慕うんだよな。普通、船長、とかお頭、とかそういうのだと思ってたけれど、聞いた話によると船に乗る皆が船長のことを父親のように慕うかららしい。
教えてくれたのは、無口だけれど聞けばちゃんと答えてくれる奴で。デッカかったなぁ、ジョズとか言ってたっけ。
いいなァ、って思ったよ。
うん、思った。羨ましいとかじゃなくてさ。
そういうのって良いよなって。勝手に分かるよって、心の中で頷いてた。オヤジ、父親の背中ってこんなにデカいのかって物理的にも思ったもんなァ。
だから、知れば知るほど船には乗りたいけれど海賊になりたいかって聞かれりゃ首を振れない。海は好きだから、夢が海の先にあるから、進んで行きたい。けれど、いきなり家族にならせてください、ってのは違うし。
コイツがさ、嫌がる気持ちが分かってたんだよ、おれ。夢があります、叶えて下さい、船に乗せて下さい、って他人が、しかもおれみたいなガキが駄々捏ねたら真面目に生きてる奴ほど腹立たしいよなぁって。
うん、分かってたうえで、船に残してくれって騒いでたおれの───これは自業自得なんだよな。
「……マルコ?……あれ、おれ、たしか…」
「船から落ちた」
「そう、それ。あ、また誰か引き揚げてくれたのかな、悪かったなぁ……」
うん、海に落とされることがあっても自分から流石に飛び込んだことはなかったわ。そう、口にしたサッチが能天気に頭を掻こうとして持ち上げた手元を、いててと顔を顰めながら引っ込める。
まさか包丁ではないだろうが、あれだけ派手に飛んでこれしか怪我がないのが不思議でならない。親指の付け根に走る切傷を握り込みながら辺りを見渡す。
枕元の椅子に腰掛けるマルコ、サッシュで巻かれた包丁が手元にあるのを安堵しながら、思う。これではまるでこの船に助けられた日と同じだった。
「あー、指切っちまった…なぁ、馬鈴薯どうなった?」
「……かよ」
「え?」
「何かおれに、言いたいことがあるんじゃねぇのかよ…!」
「あ…あぁ!お前な、おれ怒ってんだからな!」
水を向けられて、そうだったと思い返す。
サッチは切り傷も真新しい指先をマルコの鼻先に突きつける。
「刃物持ってる時に、喧嘩しかけてくんなよ!」
「……ッ違うだろ!」
「へ?あぁ、もっと大切なのがあったな…いいか!馬鈴薯ひとつだってなぁ、食べ物を投げるのは絶対にやめろ?おれ、そういうの絶対許せねェからな!果物だろうと、何だろうとそれが食う為のものなら許さねェ!船の上なら尚更だろうが、あとで、あー…あの馬鈴薯があれば……取っておけばよかったな…なんて思いたくねェだろ!!」
パッと顔を器用に唇から窄ませて、よぼよぼとまるで老人のような覚束ない左右の揺れまで再現してから力説するサッチに、マルコの瞳が軽く見開かれてから違うだろうと更に激昂を返す。
「そうじゃねぇ!いや、それがお前が飛び込んだ理由だって言うなら…ちがわねぇが…!」
「あ?……あー!!そっちか。そうでした。ごめん、反射とはいえ、夜の海なんてヤバいもんに突っ込んで行ったのは本当に軽率だったわ…ごめん、すまん。色んな人に迷惑掛けたよなァ…、……全員に謝るのって難しいかもしれないけどさ、名前と顔を教えてくれね?」
サッチは両手をパン!!と叩き合わせる。
だが、それもマルコにとっての予想していた回答と違ったらしい。わなわなと震わされる額に、サッチは唇を引き結んで首を傾げる。
「あの、わかる範囲で良いんだけど……うわっち!」
「何でヘラヘラ笑ってるんだよい!!おれを、まずおれを怒れよ!!」
首根っこを引っ掴まれて、瞬きを繰り返す。
マルコの言葉の意味は分かるが、内容としては理解に苦しむ内容だった。
「怒るって…」
「そうだろ、おれがそもそもお前に向かって突っかかっていかなけりゃ、お前が海に飛び込むなんてこともなかっただろうが!」
「声でかいんだよお前!!ここ、医務室じゃ…あれ、ちがう…?どこだ、ここ。お前の部屋?」
首根っこを掴まれたまま、サッチは室内を見渡す。
医務室かと思いきや、部屋の大きさが随分と違う。
「えっ…何だこれ、上どうなってんだ?」
「この船に何人乗ってると思ってんだよ、医務室は特別だ。基本的に、相部屋だし…ベッドだってこうやって二階建てにして場所の節約してるんだ」
「へー、いや言われてみりゃそうだ。おれ、船に乗ってた時は、皆と荷物起きの上の簡易ベッドで寝てたからさ。収納って色々と工夫出来るんだなー」
マルコの額に浮かぶ血管が、少しずつ薄くなっていく。当のサッチがこうなのだ、何だか途中から馬鹿らしくなっていた。溜息すらこぼれ落ちる。
「おれが言いたかったのは…、いやいい。お前に悪かったって言うつもりだったけど、やめる。分かってねぇみたいだしな…」
「うーん…いや、悪かったよ、悪かった。本当、お前さぁ…いつも笑ってんのに、おれと話してるのいっつも怒った顔するもんな。悪いと思ってる」
「……自覚あったのかい」
「そりゃな、お前がおれを気に食わないって思うのも分かるし。この船の船長さんと皆が大切だから、おれみたいな中途半端なやつは嫌だよなってわかる。うん」
マルコが言葉を返さない代わりに、サッチは頭の後ろで手を組んで枕代わりのクッションに身を預ける。
「……そこまで自覚があんのか」
「それでも、おれの人生でもうないかもしれないチャンスだから、しがみ付きたいって思っちまうのよ。なぁ、マルコ」
サッチは視線だけをくるりと回してマルコへ向ける。
困ったような、八の字になる眉毛に少しばかり唇が微笑みを浮かべていたが、どうしようもない時に自然と笑ってしまうような、そんな行く宛のない笑みだった。
「おれ、どうしたらお前に認めてもらえんのかな〜…。そういうの聞くのって反則だろうけど…もう時間ねェだろ。ダメ?聞いちゃ」
一つ、二つの呼吸。
─── うん、やっぱり反則か…。どうすっかなぁ…。
無言でシーツに視線を落とすマルコに、さてどうしたもんかと下がる眉毛を益々下げ掛けた瞬間である。
「……悪かった、よい」
「……え、何が?馬鈴薯?」
「馬鈴薯はもう一旦どこかへ置いておけ、勝手に…お前が乗ってた船の、コックに聞いた。お前が…何で船に乗りたいか、そこらへんの理由だ」
サッチの緑の瞳が軽く見開かれてから、数秒の無言を挟んでゆっくりと挙げていた腕がブランケットの上に下げられる。
「…あー、どこら辺から、どこら辺まで…?」
「どこからが区切りか分からねェが、」
「オーケー、いいよ。分かった、……そっか、」
へにゃり、と最早垂らし切った眉が眦から落ちてしまいそうだった。
「えーと…、さぁ…」
再び、気まずい沈黙が流れる。
同情されたくなかった。
どこにでもありふれている話なのだ。親のない子供なんて大勢居るし、戦争下で未だ息を殺して生きている人間も沢山いる。それもそうだったし、もう一つ別の理由で隠しておきたい、その理由を隠すこと自体が不誠実といえばそうだったのかもしれない。
頬をひとつ掻いた後に、サッチはへらりと笑って見せる。
仕方がないじゃないか。
こんなの、もう笑うしかないじゃないか。
「……おれ、必ず誰かに飯を出す時は…ちゃんと面前で食うようにしてるから、さ」
マルコの顔から、サッと血の気が引いていく。
「そうだよな、気分悪いよな、ごめん。でも、本当なんだ。自分が作ってなくても、作ってても、必ず。……あ!船長さんに、今日の差し入れ渡す時にも…おれ、ちゃんとひとくちもらったよ。何の問題もなかった、この船のコック達の完璧な味付けで、おれが皿に勝手に何かしたってことは…ないか…、マルコ…?」
「ちょっと来い」
「毒味はちゃんとするから、マジで心配ないって…。どこ行くんだよ、なぁ」
「いいから、来い!!」
マルコの手に手首を捕まれ、サッチは慌てて寝台から身を起こす。視界の端に、海図やら小難しそうな書物が何個も積まれた机が見えたが一瞬だ。廊下を小走りに近い形で振り返らずに歩き出すマルコに、引っ張られるがままに、それこそ小走りで着いていく。
─── 大口開けて笑うヤツなのに、おれと居るといつでも顰めっ面なんだよな…。あれ、もしかして、これって…。
今度は、サーっとサッチの顔から血の気が引いていく。マルコが一直線に目指しているのは甲板だ。
「おおおおれ、おれをどうする気だ…!?」
「うるさい!寝てる奴もいるんだ、静かにしろい!」
「わー!待って話を聞いてくれ…って力強ォ!?」
確かに自分よりは少しばかり体格が良い相手だったが、年齢は変わらない筈なのに!!とギャンギャン吠えるサッチを有無を言わさぬ強さと勢いで甲板上まで引っ張り上げられる。
「マルコ、おれ…!!」
「いいか、黙って、……見てろよ」
急に振り返ったマルコの背に、顔面をぶつけそうになって急ブレーキをかける。それと同時に手首は離されたが、弁解をしようと開きかけた唇が間抜けに半開きのまま動きを止める。
「……お前に、帰る所があるって…勝手に思ってたのを謝らなきゃ、おれの気がすまねぇって、さっきから言ってんだよい」
「ま、マルコ……何だよ、"それ"……?」
サッチの震える指先が、マルコの腕を指差す。
正確には、腕だった一部を、だ。
顔面の半分から、蒼い炎が金粉を纏いながら燃え上がる。身体の、両腕から先は人の物ではない。
正常な反応だ。
いや、普通の人間ならば、まずこう言うだろう。
"化け物だ…!!"それが、普通の、人間の反応なのだから。
「─── 驚いたか?おれは…悪魔の実の能力者なんだ。……お前らが乗ってる間は、極力…見せねぇようにと思ってたが…」
右の片手を振って、全身を青焔で覆い尽くす。
ペタンと少年が言葉を失い腰を抜かすその前で、再び炎の中から人の姿を失ったマルコが同じ瞳で見下ろす。
「知ってるかい、この海には───世界で一番孤独なクジラってのがいるんだ。そいつは、他の個体に比べて圧倒的に高い周波数で話す」
渦を巻いて、風が火の粉を夜目にも青々と散らす。
「海の中は、暗くて頼りになるのはその声だけだ。なのに、誰にも気付いてもらえない。周りと違うから、どんなに鳴いても…世界で独りぼっちのクジラ。この船は、モビーは…、そんな逸れ者ばっかりの為の居場所なんだ」
暗い暗い海の中で、声を張り上げても、どんなに泣き叫んでも応えてくれる声はない。聞こえない、届かない。誰の目にも映らない。その孤独さを知る者だけが、船に乗るべきだと、そう思っていた。
「……そんな鯨に…お前は呼ばれてないって…そう思っちまったんだ。…おれとは違うって」
サッチの目の前に、翼を広げる大型の鳥が居た。
どの図鑑にも載っていない、見たことがない。
金の鎖の尾を垂らし、濡れた羽の一枚一枚に静かに燃え盛る炎を纏った───、深い孤独を知るだろう、青い瞳の鳥だった。
✳︎
「……も、燃えてる…これ、熱くねぇの…?」
腰を抜かしたまま、サッチが呟く言葉に完璧に鳥の姿となったマルコは自分の翼を見下ろしながら呟く。青く燃える炎は、赤く燃える炎よりも不気味だろう。月だけが頼りの夜であれば尚更の筈だった。
「熱くねェよ、おれが食べた悪魔の実は、動物系…幻獣種…トリトリの実、モデル不死鳥だよい…不死鳥の炎は、普通の炎と違って……ってうぉい!!何してんだ!?」
翼に視線を落としたまま、自分語りを始めようとするマルコの身体にズボッと両手を伸ばして抱き付いた男がいる。こんな状態で、そんな間抜けは勿論一人しかいない。
キラキラと瞳を輝かせているのか、それとも驚きに軽く飛び上がったマルコの腕から飛ぶ火の粉が爆ぜたのかどちらなのか。
紅潮した頬で、しかし躊躇いなくサッチはマルコの胸の羽毛に掌を置いて破顔していた。
「熱くない…本当だ!!うわ、すごいな、見てみろよ触ってるのに熱くない…!」
「特別だっつってんだろ!!おれの炎は物を燃やす力はねぇんだよ!!説明は最後まで聞け!!燃えてたらどうすんだ!!」
「燃えないし!何だよ、すごいじゃんお前〜!!鳥になれるんだ、なぁ、飛べるか?ほら、空を!!」
呆気に取られて、勢いに飲まれる。
こんな筈ではなかった、普通ならば恐れ慄き後退りしても良いはずだった。そういう反応を、マルコは実際想定していたのである。
「そりゃ…飛べるけど…」
「す……すげェ〜〜!!飛べるし、お前何なんだよ、凄いじゃん!!何の実って言った?偉大なる航路には、そんな実が存在してるのか!?」
悪魔の実を知らない育ちの人間は、それなりにいる。
情報が入りにくい狭いコミュニティで暮らしているなら、尚更だし、存在すると知っていても実際に目の前にしてみなければ人間そうは実感がわかないものであることもよく分かっている。
マルコは、少なくとも悪魔の実を口にしてからこの船に乗るまでは、どちらかだった。悍ましい異形の姿を持つ少年、もしくは"不死鳥として稀有な価値を持つ"少年。
前者ならば、まだよかった。
後者は、思い出そうとすることを自分が自分の脳みそに拒否反応を起こしている。無理に思い出すことはない、忘れて良い過去だった。
それが、だ。
すごい、すごいとそれだけの語彙力で自分の身体を───いくら、羽毛で包まれているとはいえ生身の身体である。それを触り続けて、はしゃぐ少年は出逢ってから何度となくマルコのペースを崩す素質でも備えているかのようだった。
負けじと、呼吸をひとつして。
ついでに、キッと眼差しを強くして船板に鉤爪を食い込ませるように胸を張ると、それ位の空気は察したらしいサッチがようやく指先を引っ込める。それと同時に、自分の指先に移った炎を珍しげに目の前へ掲げていた。
「これ…あれ、おれ、そういや親指を切って…」
「……だから、不死鳥の炎は特殊だって言ったろ?ソイツは、再生の炎であり復活の炎だ」
「って言うと、つまり?」
「……物を燃やさねェ代わりに、怪我があるなら、その再生力を高める。とは言っても、おれ自身なら大抵の傷は一瞬だが、他人に分け与える場合はそうもうまくいかねェ…一気に効果は落ちる」
「そ、それで!?」
「……………それくらいの怪我でも、完璧に治るには数時間はかかるし、おれだって回復するのには限度があるから、おとぎ話みてぇな完璧な"不死"でもなけりゃ、"不老"でも……近い近い近い!!」
「マルコ…、お前、やっぱりすごいヤツじゃんか〜〜!!」
「怖がれよ!」
しばらくの百面相の後に、マルコは鳥の姿を解くと人の姿で額を抑える。すでに腰を抜かすどころか、顔を押し付けんばかりに羽毛に埋もれていた少年だ。肩先に顔を埋める形になっていることにようやく気付いたか、照れ臭そうに笑って誤魔化しながら離れはするが、そこではない。そうではない。
「何で?」
「何でって?何が」
「何で怖がるんだよ、驚いたけど…、飛べるなんてすごいじゃん。それに、───キレイだ」
「……………………」
「うわ!!イヤそうな顔!!」
「男にキレイだなんて言うなよい、鳥肌立っただろ」
「キレイなもんキレイって言って何が悪いんだよ。はー……海って広いなァ…、おれ感動しちゃうな」
「……おれは、お前がバカなんだか大物なんだか、分からなくなってきた…」
サッチがつくづく感心したように寝っ転がるものだから、そのマイペースさにマルコも隣に不貞腐れて腰を下ろす。
「…お前の反応は意外だったけど、おれをはじめとしてこの船に乗ってるやつらは、皆…この世界だと生きづらいやつらなんだ」
それでも、ポツリと溢す言葉には茶々を入れずに黙っている。本当は、場の空気を誰よりも理解する能力に長けているのかもしれない。そうとも思う。
星がいくつも頭上で瞬く。
丸い月が、流れる雲に見え隠れして夜の海に影を気まぐれに落としては照らしてを繰り返していく。
「……だから、帰る場所が…まぁ、勝手にあるって決め付けたのも、お前が軽い気持ちでこの船に乗ろうとしてるって、そういう勘違いしたの、謝りたくてよ」
「───……、言わないで理解してくれなんて、ガキみたいなこと言わないって。ごめんなら、こっち。勢いだけで生きるなって言われてんだけどさァ…、……マルコこそ、おれが怖くねぇの?」
「はぁ?」
素で眉を寄せるマルコに、よっこらせと片腕を突いて顔を向ける。
その八の字に下がりたがる眉毛は、最早サッチの変えられない癖なのだ。
「─── おれが作った飯で、六人の家族が死んだよ」
「…………ッそりゃあ、おまえ…」
「結果としてはそうじゃん、マルコがどこまで聞いたかは知らないけど、身体の小さい奴から死んでいったよ」
「それは…!!違うだろ!」
だとしたら、マルコの癖は最早サッチの首根っこを掴むことだと言って良かった。聞き分けが良いのではない、この何とも言えない微笑みの形が、理解されないだろうとはなから諦めた俯瞰のそれだと───思いたくはなかった。
「ちゃんと聞いた!食料の中に毒を入れるだなんて外道、海賊でもやらねェよ…!!けど、それをやったのはお前じゃない!お前が殺したわけじゃない…!」
「───、けど」
「けども何もねぇ!確かに…おれァ…料理のことはちっとも分からねェ…食い物は死なない為に食うようなもんで、美味けりゃ不味いよりかは得したって…そんな認識しかねぇが、想像くらいは出来る!……想像しか、出来ねぇけど…、それでも…」
家族を失うこと以上の痛みが、考えられない。
家族から、家族を奪う。その原因に、もしも自分が関与しているとしたら。
もしも、自分が防げたことだったら?
「─── おれだったら、死んじまいたくなる様な痛みだから…、それに耐えてまで今生きてるお前を、怖がるわけねェだろ…!!!」
「マル…お、おいおい!?」
「うるせェ…!最初から言ってりゃ良かったんだ!けどな、言えねェことだって確かにある!!おれが、ガキだったってのは認める!だから、───サッチ…、」
✳︎
サッチ、そう自分の名 名前を呼ばれてホッとした。
首根っこを掴む少年が、不思議な能力を持っていることも。恐らくは、自分たちには見せたいものではなくて、それでいて自分に見せるという選択できっと"あいこ"にしてくれようとしたのも分かっていた。
昔から、人の気持ちを推し量るのは得意だった。
いいや、得意にならなければ到底こころを保ったまま生きていくのが難しかったからに過ぎない。優しいだとか、思慮深いとか、そういう風に周りや弟妹達は言ってくれたが、単なる処世術に過ぎなかったと思う。
「(うん、良いヤツって言うのは…コイツみたいなヤツのことを言うんだよな。他人の為に、本気で怒れて…他人の為に…)」
そこで、サッチはギョッとした。
目の前で、首根っこを掴んだまま顔をしわしわに顰める姿がある。
レモンを頬張ったじゃ足りない、食器洗いの水に指をつけ過ぎて終わる頃には戻るのか不安になるようなふやけ具合の方が合っている。
次から次へと溢れては零れ落ちる涙を前にして、サッチはその瞳の丸さを改めて実感するしかない。それくらい、呆気に取られていた。
「お、おいおい、泣くなよ…何に泣いてんの、同情とかならいらねェから、言わなかったってのもあるし…」
「誰が同情なんかするか!同情じゃねェ…これは、自分だったらって想像した時の安っぽい涙なんだよい!だから、泣いてねェ…」
「泣いてるって、それ」
「お前さァ…、夢ってのは変わらねぇの…?オールブルーを見付けるって、その夢…絶対に変わらねェのか…?」
手放しに涙をこぼすくせに、手は離してくれないものだから安っぽいと言う割に熱い雫がサッチの胸元を濡らしていく。
うん、熱い奴だ。
すごく、良い奴だ。
「変わらねェよ、生きる目標だもん」
即答できる。
さりげなく離してやろうかとマルコの手元に指先を伸ばしかけて、促す形でポンと置いたはずだった。それが、静かに涙を溢されれば、あやすように自然と二、三度弾ませる形になったのは自然な流れだった。
「生きる目標なくて生きるなんて、もうおれには…無理」
「……無理か…」
「うん、無理。けど、この船の皆が…船長さんのことをすごく慕ってんのも、兄弟って言ってるだけあって…おれみたいなのが混ぜてくれって言っても呆れる気持ちはこの数日間でよく分かったから…どうするかなー」
最早サッチが夜天を見上げながらの言葉は独り言に近かった。
今、圧倒的に足りないのは覚悟だ。
夢を叶えるのが約束ならば、どんな犠牲を払っても良いと思っていた自分が、果たしてこの船の一員となれるのか。
「…でも、おれの為に泣いてくれてありがとな。何て言ったら良いのか分かんないけど、おれ、嬉しかったよ」
嘘じゃない。
結局離そうとして、失敗した手元がそのまま重ねられたままだったのは随分と懐かしい温もりを感じたからだ。
抱き上げてから、冷たく硬くなっていく肌の感触ではなくて、それこそ鳥を手のひらに乗せたなら感じられるだろう温もりに───、
流す涙も残ってない、泣けない自分の代わりに熱い熱い涙を溢す相手だったから。
「おれ、好きだなァ…お前みたいなやつ。誰かの為にバカみたいに泣いてくれる奴が、…一番好きだよ…」
「…………」
自分達の為に、怒って泣いて笑ってくれた女を知っている。雪の中で掌に息を吐いて擦り合わせてくれた弟も、やまない雨が歌っているようだと腕を組んでステップを弾ませた妹がいる。
「あ!変な意味じゃなくてだぜ?胡麻を擂ってる訳でもなくてさ!!そういうのおれ嫌いだ!自分で何とかするさ、なんとかな!何だってするって気力で、おれはもう一度船長さんに頼みに…」
「今…、」
「えっ?」
「今、何だってするって、言ったか?」
あわあわと両手を振って弁明するサッチに対して、ゆらりと陽炎のように掌を炎に変えながらマルコは一歩詰める。反射的に一歩分、サッチが下がるよりもマルコの次の一歩の方が早くあっという間に詰められた距離にヒッと喉奥で声が上がった。
「い…」
「い?」
「言った…言ったぜ!でも、なんで?」
「……その言葉を待ってたんだよい」
その瞬間、サッチは何かを予感していた。
何か、青い炎に対して言うことがあっただの、もしかしたらだの、そういう細々としたことを一切合切後にして───いや、後回しにせざるをえない勢いで引っ張り連れ回された船内で、諸々は頭の中から流れ星より早く彼方へ飛んでいってしまった。
聳え立つ、いかついリーゼントの男が立っていた。
マルコに腕を掴まれたまま、サッチは硬直して動けない。その男を中心として、周りを取り囲む男、男、男、時々女。種族も性別も入り混じっているのは、この船に乗るものとして比率に偏りがありつつも同じだが、皆が身に付けている者にも纏う空気にも見覚えがあり過ぎて、一周回って目を見張る。
ドン!!という迫力と共に首に純白のスカーフを巻いた、唯一中でも黒いコック服の男が頬髭に埋もれた口を開く。
「いささかの手心も…加えるつもりはねぇんですがね…いいんですかい?不死鳥さんよ。こんなに小さい坊、私ァ捌いたことはねぇんでね」
「いざとなったら、海に放り投げても良いってよい。こいつの"上司達"から言質は取ってらぁ」
「そいつぁ、重畳…根回しの良いこって…」
ギラリ、と人相悪い男達の手に握られた包丁やらフライパンが次々と鈍く冷たく光る。
「じゃ、励めよい」
「ちょちょちょ説明!!ねぇ、待って、待って、待って待って待って、マルコ?マルコくぅーーーーん!?」
くぅーん、くぅーん、くぅーーーん───、
無情に閉ざされる扉と、残されるサッチ。
犬の悲鳴に似た叫びが、いつまでも山彦のように響き続けていた。
TO BE CONTINUED_