Blind Black目を瞑って、暗闇
わたしの名前は、ビアンカ。
母国の言葉で白を表す私だけれど、その名前に特に思い入れはない。白って言うより、無色透明、本当にそんな感じだ。生い立ちの話をすると、少し長くなるし誰かに話すべき話でもない。
悪魔の実を食べてしまったせいで、人生がこんがらがったり逆転して幸せを掴んだり、目玉が飛び出る価値で取引される貴重な実を奪う為に、殺されてしまったり───、名前の通り"悪魔の実"は悪魔を生み出す実に違いない。
さてさて、本当にたまたま偶然食べてしまった私はどっちだったかって?
ジャミジャミの実、それが私がひもじくて齧ってしまった果実の名前だ。果実だったのかすら危うい、なんて表現したら良いのか腐った牛乳を拭いた雑巾を更に三日干さずに放置していた味が正しい。悪魔も食べられたくないから、あんな奇妙な見た目で白目を剥くような味なんだろうけれど、餓死寸前の人間の貪欲さの方がそれを上回っていたってことになる。
少なくとも、何も口にしないで死ぬよりは、腐った果実だろうと腹の中に詰め込んでから死にたいと思った人間が私です。はい。
不味かったのは勿論。さらに"拙かった"のは、それは私の所有物じゃなくて、私を売ろうとした商人のとっておきの商品だったってことだ。商品が、商品を食べられる場所に箱の中とはいえ置いておくのがマズい。今なら絶対にそう主張するけれど、当時の私はそりゃもう顎の骨がぷらぷら浮く程、殴られるわ蹴られるわ。親切ではなく、殺してしまったら損が増えると商人の仲間から止められなかったら、恐らくその場で死んでいただろう。だからと言って、恩人とは思わない。本当の恩人って言うのは、汚れた私の為に膝を折って肩に上着を掛けてくれるような人を指す。
その人の為なら命なんて惜しくない。
そう思える人のことだ。
ジャミジャミの実を食べた人間は、ジャミングを引き起こす能力を手に入れる。この能力があれば、海軍への通信を妨害することも精度さえ高めれば盗聴も撹乱も自由にすることが出来る。
敵側からしてみれば厄介な電波の使い手。
海に嫌われて溺れるようになった私だけど、それはあまり構わない。そもそも、私は金槌だ。実を食べる前の五歳の頃、極寒の港から海を泳いで逃げようとして死に掛けた上に逃げられなかった考えなしだ。
海なんて、大嫌い。
それなのに、私を救い出してくれた人は海賊だった。助け出してくれて、生きる場所を与えてくれたその人を、私は結局追いかけて海に出てきてしまったのだから、恩を仇で返したと言われても仕方がない。荷物は身一つ、いや二つ。どこへも持ち運ぶパイロットケースには、なくしたくないものが一つだけ。
ただ、生きる為にはコンパスがいる。その心のコンパスに従って生きなければ、それはただ息を吸って吐いて呼吸しているだけの入れ物だ。私は、自分の指標に従って生きたかった、その為に海に無謀にも漕ぎ出して行った私はもれなく馬鹿だけれど、散々周囲に迷惑を掛けた結果として敬愛する方の船に乗ることが出来たのだ、万歳!!───乗ることが出来た、うん。
降ろされて今に至るだとか、そういうのはまだ認めていない。
決して、認めて、いない!!
✳︎
「サッチさん、サッチさん、サッチさん…!!きゃーー!!引きが、引きが大きい!!どうすれば良いんです、これェ〜〜!!!」
「おっ!!やったな、ビアンカちゃん!!ブレンハイム、フォッサ、支えてやってくれよ網持ってくるから、網!!」
「わわわ私、もうこれ、離しても良いですか!?海、落ちる、絶対落ちます落ちるゥゥ!!」
サッチ曰く、旅立ちの日の心残りをひとつだけ挙げるなら"冷凍保存した蛸を任せて船を降りたこと"である。
本日は晴天、絶好の釣り日和ともなれば決して娯楽ではない。船の上での貴重なタンパク源の確保として、乗組員達の一般業務として戦闘員も非戦闘員も穏やかな波の日には魚釣りに勤しむのだった。よって、モビーディック号においても通信部門へ配属されたビアンカも例外ではなく船縁より釣竿を垂らしていたが、細身の彼女が。ましてや、戦闘向けではない能力者の"妹"が海に引っ張られては一大事と野郎達が背後から支えに入る姿は至って真面目でも何処か笑ってしまう光景だろう。
「ビアンカとサッチは随分と親しくなったのね、何歳差だったかしら?」
「四歳差よ、全く子供なんだから…でもサッちゃんがあぁいう性格だからきっと合うのよね、あの子、マクガイ船長しか基本的に視界に入ってないもの」
ロープの補強も、帆の修繕も海上での生死を分ける重要な仕事である。フォアマスト予備の帆を繕う位は、男女関係なく船に乗る時点で大抵は甲板長に叩き込まれるものだ。それでも、やはり器用な者の仕事は早く的確である。傷みの箇所を募集する太めの針を革の手袋で保護した手元から狂いなく打ち込んでは、階層下で喧しい家族達のやりとりに氷の美貌にも微笑が浮かぶ。
「一途な子は好きよ。それを言うならあんたもね、ロッサ」
「あらやだ、褒めても溢れ出る美しかないわよ。それか尽きない愛だけれども、アタシの愛はたった一人にしか捧げないもの。特別も特別よ」
「きゃ〜〜〜!!!きゃ〜〜!!嘘ォ、魚に蛸も引っ付いてきた、えええェ〜〜!?」
「おほっ!!やったなビアンカちゃん!絶対離すな、海に落ちても離すなよ!ナミュールが絶対掬ってやるから落ちて良し!」
「あんた鬼ですか、サッチさん!?そこはあんたが掬いに来やがれですよ!?」
ぎゃあぎゃあと騒がしいのは活気があると言い換えても良い。ロッサの真紅の瞳が見つめるのは、釣竿を握りしめる乙女でも網を待ち駆け付ける男でもない。その背後から、銛を担いで追い掛ける男に真っ直ぐに注がれている。
「サッチ青年〜!!エレファント・ホンマグロはポワレでありますか!!自分、タリアータも捨て難いと思うのであります!!」
わぁわぁ、ぎゃあぎゃあ、鳥の騒めきよりも喧しい。
その中でも、一際自分にとっては輝いて見える存在がある。真紅の唇が笑みを浮かべては、決して不幸ではない溜息を緩く吐き出すようだった。その横顔に、何か気付いたとして口にするのは野暮に違いない。その代わりに、ベイも布地を膝に小さく頬杖を突く。
心地良い潮風が、アイスランド・ブルーの波打つ髪を吹き抜けていく。
「あたし、好きよ…母船の皆、良いヤツらだって分かる。誰も、あたしの名前について聞いて来ないものねェ…」
「あら…聞いて欲しいなら聞くけれど?」
「いやよホワイティ・ベイ。あんた、"ロッソ"の頃のあたしとの付き合いの方が長い癖に」
"ロッサ"は長い指を指先でシッシと追い払うように遊ばせる。誰にでも、聞かれたくない過去も探られたくない腹もある。仲間だから、家族だからと何もかもを曝け出すのが絆ではない。
仲良しこよしの家族ごっこだと口さがない連中の言葉などより、信じたいものがこの船にあるかどうかだ。
「まぁ…モビーに移ってくるって聞いた時には驚いたわ、雷卿の所にずっと居るんだって思ってた」
「ンッフフ、恋ってのはいつでもハリケーンなの。唐突に訪れて、攫われたからには着いていくしかないじゃなァい?」
「ロッサが勝手に発火して追い掛けて来ただけじゃなくて?」
「言うわねェ、この愛に燃え尽きるなら本望よ!!あんただって、いつまでも燻ってるつもり?それとも、今の状況がベストポジションだっての?」
「───そうね、どうかしら。アタシもアンタみたいに、何もかも捨ててハリケーンに巻き込まれたら楽なのかもしれない。でも、失うものが多過ぎるもの」
ロッサの唇とは対比的な、ヌーディカラーのリップが微笑みを作る。魚の大捕物を茶化すだけ茶化して、あとは高みの見物を決めるドレッドヘアの男とばっちり視線があったところで、氷の欠片ほどもベイの自信に満ちたいつもの笑みが崩れることはないのだ。
戯けたように、笑ってしまうような酷い顔をワザと作るラクヨウに、馬鹿なことをやっているんじゃない、と細く整った指先が宙を払う。それを見越した上で、これまた大袈裟に傷付いたと言わんばかりの表情で立ち去っていく男の歩みは、三歩目にはそれすら忘れたように軽い足取りに変わっていく。
「ふぅん…、あんたも難儀な性格ね、ホワイティ・ベイ」
「そう?慣れたものだけど」
「あたしはあんたみたいに、責任感のあるお姉ちゃんなんて真っ平よ」
恋に殉じて、愛に死にたい───、
その結末がどうかなんて、考えることに意味はない。
今ある自分の感情に素直に生きたいのだと毒々しいまでに勝気な唇を羨ましいと思ったのは、きっとそのブレない指針の確かさについて。エターナル・ポースよりも確かに指し示す先が、真っ直ぐであること。
「(……じゃあ、アタシの気持ちは…案外、そんなに強くないのかしらね…、)」
「……イ、おーい、ベイ…?どうした、腹減ったなら何か温め直そうか?」
「───えっ?」
心配そうに上から覗き込むサッチの表情に、ベイの唇から似つかわしくない抜けた声が小さなあぶくの様に溢れた。
✳︎
「あ…やだ、アタシとしたことが…ぼぅっとしてたわ。水飲もうとしていただけなのに…」
「お疲れなんだろ、四番隊隊長殿。今回編成が大幅に変わったしさ。無理すんなよォ……って編成変えさせたおれが言うのもなんだけどさ」
「別にサッチが帰還したからだけじゃないし、そんなことでへばるほど"やわ"な性格してないわよ。生意気言わない」
「ぶぇへへへ、ふぁいふぁい…、」
四番隊隊長、ホワイティ・ベイ。
女だてらに、総対数として男社会である海賊の世界において既に新世界に名を馳せる女海賊の一人だ。その美貌もさることながら、腕が立つのは言うまでもない。白ひげを父と慕う海賊達の中でも、女性でありながら隊長を預かるのはホワイティ・ベイ位だった。その女傑に頬を摘み上げられ、サッチは言葉にならない反論を挙げてからようやく解放され僅かに赤くなった皮膚を摩る。
夜の厨房は、貯蔵庫を狙う腹減らしの不届者か、もしくは古参の者以外でもない限りあまり人は訪れない。今でこそ謎の渇きの為には要所要所に塩水を濾過した真水が飲める環境が整っているとはいえ、昔はそう水回りが整っておらず食堂まで来る必要があったのだ。既に五百名を超える海賊団となって久しいが、ベイの無意識という言葉に頬を撫でていた掌を緩く束ねた茶の髪の首筋に当てて、暫くサッチは唸りとも吐息ともつかない音を溢す。
決めた、と選択肢の一つを選んだなら既に両手は食堂の椅子を軽く引いていた。
「ベイ、腹に余裕ある?」
「あら、何か作ってくれるの?でも…もうイササカ料理長が火は落としちゃったじゃない?」
「あらら、おれのことまだ見習いだと思ってらっしゃる?おれもちゃぁんと持ってんのよ、」
チラリと振り返る扉の向こうの厨房では、火の管理は徹底されている。コックは大所帯に相応しい人数が居るが、中でも火元を操作する為にはそれぞれの責任者が鍵を使用しなければ、おいそれとコンロ一つ扱えはしないのだ。その鍵を腰のベルトに括り付けたチェーンの先に見せるサッチに、マジマジとベイはサッチを見上げる。
「でも、そんなに凝ったもんで美容に気を使う姉ちゃんの胃袋を疲れさせたりもしないから…座って待ってて?」
「サッチ、あんた…」
「ん?」
「うぅん、……大きくなったんだねェ」
「そらそうよ、もうベイを見上げるより見下ろせる位に…じゃ、すぐ用意するから」
止める間もない、何を用意してくれるのかも分からないままベイは素直に引かれた椅子へと腰を下ろす。厨房へと向かってしまったサッチの背中を見送って、テーブルに両肘で頬杖を突く。身長のことを言いたかったのではなく、中身が成長したものだと伝えられはしなかったが、最小限の灯りに絞った広い食堂内は妙に居心地が良かった。
ピチョン、と小さな水音は端に設けられた手洗いと飲み水を兼ねた流しからだ。静かで広くて、テーブルの下でそっと靴を脱いで素足の爪先を遊ばせる。青くゆらゆら光る、今宵上がるは半月だろうか。
「( イヤなわけじゃないの、今の関係が…、でも不思議ね、溺れてるみたい…、息継ぎ、こんなに下手だったかしら…? )」
ゆらゆらと青く揺れる月の光は、いつかレースのカーテン越しに見た揺籠の中に似ている。子守唄と共に抱く嫋やかで強い友の腕、甘く淡い香りのする柔らかな頬。
待って、ねぇ。そんなの今になって───
ベイの爪の先が、テーブルの上で躓いた様に乱れた音を立てる。
「まさか、今更欲しがってるの…?冗談でしょ…? 」
「何が?」
「サッチ!!やだ、驚かさないで…!」
つい先程も同じやりとりを繰り広げた気がする。
ひょいと顔を覗き込むサッチの手に、湯気の上がるスープ皿が乗せられている違いはあるが。胸を抑えて唇をぱくぱくと動かす姉の動揺を揶揄うこともなく、サッチは片頬で笑ってそっとカトラリーと共に皿をベイの前に下ろす。
「一応声かけたけど、ベイがボーッとしてたから。眠れないなら味見係に任命しよっかな〜って、ほら冷める前にさ」
「の、能天気なんだから…、あ、でも良い香り…わざわざ作ってくれたのね」
「スープストックから作れば、半分寝てても作れるっての。ほら、ミルクスープ。腹あっためて、ミルクは安眠に効果があるんだぜ?もっと小さい頃、オヤジに寝る前は一人コップ一杯は飲めって言われたの、思い出すな〜」
「……フフッ」
アレのおかげで、ここまで身長が伸びたのだと話を違う方向に持っていく弟分は斜向かいの椅子を引いてどっかりと腰を下ろす。付かず離れず、特に何もないくせに唇を緩ませて頬杖をつく仕草は、モビーに乗り込んだ時には想像もできなかった程寛いで見えるものだから、肩から無意識に入っていた力が抜けていく思いだった。
「いただくわ、美味しそう」
「どーぞ、そういや…おれが体調崩した時にベイがミルク粥作ってくれたことあったっけなァ…、あの時おれ熱でうまく言えなかったけど、嬉しかったのよ。冷まして食わせてくれたの、今も風邪引いたらやってくれたりする?」
「いくつになったと思ってんの、いつまでも十三、十四のガキじゃないのよ?自分で作って、自分で冷ましなさい」
「あらら、優しくないんだから」
空腹ではなかったはずなのに、鼻先をくすぐる温かな香りにスプーンで救い上げる乳白色のスープは舌の上から胃の中へと心地良く降りて行く。造り手の気持ちが伝わって来すぎる点においては料理としては相応しくないかもしれないが、じんわりと温かくなっていく体温に初めて指先が冷え切っていたことを知る。
「……温かくて、おいしい」
「ほんと?」
「本当。…でも、弟をそんなに心配させるなんて姉失格ね、アタシらしくないところ見せちゃった」
「……うーん、ベイがベイらしいか、らしくないかなんて決めるのはベイじゃね?」
髪を耳に掛けて、心配させるつもりはなかったのだと軽く笑いにしてしまおうとしたベイの言葉に、サッチは頬杖をついたまま首を傾げて返す。一瞬、スプーンを握るベイの指先が僅かに着地点を誤ったのを果たして目敏いその瞳で気付いたのか。
「だから、らしくない所とか考えなくて良いんだけど…難しいこと考えずにさ、たまには頼ってくれと弟は思わないでもねェな」
「………」
「ま、何でもかんでも隠さず話せっていうのが家族だ…とも思わないし、おれじゃなくてもベイにはこんなに家族があるんだぜ?一人くらい、話せる相手が居るなら良いなァ……」
姉らしく、古参のクルーらしく。
女勝りらしく、ホワイティ・ベイらしく。
アタシらしく───。
「……生意気」
「いひぇひぇひぇ!!何で!?さっきより引っ張るの強いの何で!?」
「ちょっと迷うことがあっただけ、確かに環境の変化もあったけど違うの。ちょっと、今まで通りで良いのか、立ち止まってみたのよ。そうしたら、進んできた道が…それに後悔はないけど、アタシってそれだけで良いのかしらって」
思ったよりも言葉はさらさらと口から出てしまっていた。鼻先を摘んでやった弟の眼差しが、痛みを口にしながらも妙に嬉しそうだから。
絆されたと言えば絆されて、それがスープのせいといえばそうだったのかもしれない。
「……サッチ、あんた口が堅いわよね」
「おおっと、指先に武装色の覇気を纏いながら言ってたら実質脅しだと思うけど、堅い方かなァ…!?」
「じゃあ、自称頼れる弟に意見を聞きたいわ」
一つ大きな息を吸う、溺れてしまったその先に差し伸ばされたのが家族の掌だったら本当に掴むだろうか。
能力者でもない自分は、それでも誰かの為に海へと飛び込む青年の掌を掴んでしまうだろう。きっと、次にその掌の主が溺れた時には一切迷わず身を投げ出せるから。
「………」
「ベイ……?」
「………アタシね、……ラクヨウが好きなのよ。ずっと前から、あんたが…この船に乗る前から」
一度口にした言葉はどんなに後悔したって二度と戻らない。
それでも、広がる胸は久しぶりに水面で大きく呼吸した気分だった。
✳︎
「……うん」
「驚かないのね、意外と」
「いや、まぁ、何というか…知ってる、みたいな?」
ベイからの言葉に、サッチは頬を掻きながら言葉を返せば数秒黙り込んだ後に頭部目掛けて武装色の覇気が拳で飛んでくるのを、辛うじて右手を同様に硬化させて防ぐ。恐ろしいのが、比喩ではなく本気で打ち込まれた強靭な一撃に殺意も悪意も敵意全くなく、目的の為だけに駆り出されたという迷いのなさである。
「サッチ、手ェどかしなさい……!殴れないでしょ!」
「殴られない様に防いでんだけど!?ベイ、落ち着けって、人間の頭ぶっ叩いても、そう簡単には記憶ってのは消えないかんな!?」
「簡単にはいかないなら、頑張れば良いのよ…!」
「おれ、スープの中にコンランダケ入れたっけ!?入れてないよな、はい、吸って〜吐いて〜、もっかい吸って〜、吐いて〜、」
「いつから」
瞳の中にぐるぐると浮かぶ螺旋の混乱具合に、水でも飲ませて落ち着かせるかと立ち上がったサッチの背中に声が飛ぶ。勢いは大分ないが、顔を覆っての発言なのは、そのくぐもった声の向きから分かった。
ので、頬を掻きながらも水を中程満たしたコップを起きつつ慎重に言葉を選ぶ。言ってしまってはまた武装色硬化された拳を繰り出されそうだが、氷を思わせる淡い髪色から覗く耳元に灯る色に自然と口角が上がってしまいそうになるのをサッチは何とか堪える。
「いつから、いいえ、何で分かったの…?」
「コップ割らないでェ…、うーん…、いやそんなに前でもないかな。モビーを降りる前くらいに、おれ達が娼館帰りで朝戻ってきた日に、何となく?」
「そんなのいくらでもあるじゃない」
サッチを初めて娼館に連れて行ってくれたのはラクヨウである。大体の、大人の悪い遊びというものはあの南の海出身の陽気な男が教えてくれたものだった。
「その時に、ラクヨウを見るベイの視線が何となく気になってさ。もしかしてって思ってたのが今答え合わせされたって方が正しいのかも」
「……嘘でしょ、アタシそんなに分かりやすかった…?あんたの見聞色の覇気のせい…?」
「ビスタにコントロール教わってから、仲間の心を勝手に覗いたことは一度もねェよ。っていうか…、あとは日常的に見てりゃ、似てたからかなァ…」
拳をテーブルに乗せたまま、若干放心気味に呟く姉にさらりとサッチは自分もコップの水を口元に寄せながら視線を巡らせる。
「なにが?」
「形だの、色だの、そういうので表せない雰囲気?…似てたんだよなァ」
冷たい水で、唇を潤す。
瞼を閉じれば、ありありとその姿が蘇る。
─── 今帰ったぜ、トキ!
─── おでんさん、おかえりなさい。お疲れ様…!
「……トキがおでん隊長を見る目と…ベイがラクヨウに向ける眼差しが、さ?」
✳︎
「…………そう、トキに…、」
そう言ったきり、暫く黙り込んでしまったベイに椅子から腰を上げると、軽く腕を組み壁に寄り掛かったままサッチは緩く目を閉じる。距離が必要ならいくらでも開くが、本当に見聞色の覇気に特出していたとして仲間と認めたクルーの心を自分から深く覗いたことはなかった。それでも、時々は視線の強さの様に分かりやすく向けられればどうしても肌で察してしまうものはある。
恐れ、敬意、疑い、海賊として海を渡れば様々な意識がそれこそ矢のように向けられるのだ。
正直、諸刃の剣ではある。
人間は鈍感でいた方が良いこともあるのだ。
「(おれだって、人のこと言える立場じゃねェしなァ〜〜)」
ただ、隠し通すのは誰よりも得意かもしれない。うんうんと一人で頷き掛けたサッチの頭に浮かぶのは、まだ出会った頃の大笑いするマルコであり、戦場を駆けるマルコであり───走馬灯は縁起でもないとすぐに打ち消した。
「……ねェ、どうしたら良いのかしらね」
「ん?」
「今までどおりで良いと思ってたの。でも、ロッソに久々に会ったら…何だか眩しくて、血塗れだなんて言うけれどあの直向きさは本物。あてられちゃったわ、アタシはコレで良いの?って」
「ロッソの心情は、愛に殉死したいだからなァ〜」
「でしょ?良いわよそんなに離れなくて。別に、本気であんたが心を読み取ろうとなんかしてないって分かってる」
「知ってるよ」
サッチの目元が優しげに緩められる。
ロッソの想い人はただ一人、ヤブサカだけだ。
そして、ヤブサカはロッソの気持ちを尊重しつつ丁寧に断りを入れているのを知っている。だからといって、ロッソの燃え上がる気持ちを否定はしないヤブサカであるからこそ、ロッソは今この船に乗っている。自由な生き方に、憧れる気持ちがあるのは何もベイだけではない。
「……考えれば考えるほど分からなくなって、ラクヨウが確かに娼館に行くのは、本当は好きじゃない。でも、それに対して自分はどうしたいの?ってなるのが苛立たしい。アタシ、別にトキみたいに…家庭が欲しいとか、違うの。アタシの家はもうあるし、ラクヨウは…家族でしょ?」
額を抑えて、いつになく早口にベイは言葉を綴る。
「けど、そこにその先は今のところない。家族、でも恋人じゃない。アタシ…、その家族って位置を捨ててまで、距離を詰めたいと思えない。それなのに、抱えてるのが辛く思えてきた。今まで平気だったのに…」
「……ん、」
「………そんな自分に結局自己嫌悪してるのよ…、サッチ、ごめんね絡んじゃって。あんたに言ったって仕方がないのに…、」
「いんや、分かるよ。ベイの気持ちを分かったって言うのは…ちょい驕ってるけどさ」
乱す長い髪が絡まる海藻のようで、藻掻いて何とか感情の落とし所を見つけようとするものだから、サッチは一頻り目元の傷を指先で掻いてから両手を開く。
自分の気持ちが自分でも分からなくなるのに、それを理解出来るだなんてのは傲慢でしかない。ただ、限りなく近い位置から誰かを眺める気持ちならば───、
「……おれも同じだから」
誰にも言うつもりがなかった気持ちの吐露を、結局自分も誰かにしたかったのだ。頬や鼻先を抓って、柔らかな声色で生意気だと嗜めたりあやしたりする姉に、在りし日の誰の姿を"重ねて"いたか今になってよく分かる。
腰に当てた掌が、布地の上をゆっくり滑る。
「おれも好きなんだ。───けど、家族としても好きだから、言わないだけで。この身体にオヤジのマークを、白ひげの証を刻んだら、それを墓標にするつもり」
「サッチ、それって…、」
ベイのハッとした瞳が丸く見開かれる。
恋とはどんなものか。
砂糖とスパイスと、素敵なもので彩られた楽しくて心踊るもの?
そんなの幻想だ。
苦しくて切なくて。
切り落とせるものなら切り落として捨ててしまいたい。本当に大切な物を、選ばせようとしてくる残酷な負の感情のことだ。
「なんか洒落てるだろ?おれの恋の墓標に、それとまァ…この海で死ぬなら、それこそ墓まで持っていく秘密になるから───、家族の証を抱いて死にたいと思ってるし…まァ、けど…、」
だからこそ、傷を舐め合うなんてことはしない。
たかが恋ひとつ。自分の感情なのに儘ならない矛盾した痛みが分かるからこそ、別の幸せになれる道をどうにか選んで欲しい。
今、不幸なら、選んで進み掴む未来の掌には幸福が待っていなければならない。
サッチは言葉を失うベイに、格好付けてしまったとはにかみながら頭の後ろに腕を組む。それは開き直った子供のような表情だったが、次に向けられる食堂の扉向こうへの眼差しは底冷えするように揺らめく焔が敷かれていた。
「けど───、盗み聞きは家族間でも思うところがあるよ」
扉に手を伸ばす、ドアの取っ手に指先を掛けて。
その向こうで、声を潜めて呼吸すら抑えていた筈の姿を見下ろす。
家族が大切だもんなァ、家族が一番。
お前の望みは、オヤジをはじめとして家族がずっとこの海で共に在れること。悪いことじゃねェよ、世界で一番オヤジの気持ちを分かってる。
そうだろ?
「サッチ……、今のはどういうことだい」
「盗み聞きなんて行儀悪いことするヤツに、何か説明する必要ある?」
激情に焼き尽くされる敵を、羨ましいと思っていた。
胸倉を掴む荒々しい掌も、声も、唇も。憤り跳ね上がる細い眉も、暗闇の中で煌々と青く火の粉飛ばすこの瞳も。
嫌いだ。
TO BE CONTINUED_