Sepia Cryセピアの叫び
その晩の海が大荒れでなかったのが幸いだった。
海上を家とする荒くれ共の集まりである、統率性が優れていたのも幸いした。あってはならないことだが、海に落下する事案は確率としてはそれなりにあるのだ。その際、どういう行動をすれば良いのか。どうすれば、二次被害、三次被害を起こさずに救出出来るのか。海に飛び込んだ男達には、経験として叩き込まれていた。
─── いたぞ、あそこだ…!引き揚げろ!!
─── 毛布持ってこい!!早く水を吐かせるんだ!
─── コンラッドを呼んでくる、運び込んでくれ…!
「行くぞ」
「……おれ、」
「いいから、着いて来い」
葉巻を咥えた男、フォッサが顎で促す先にマルコは遅れながらも着いて行く。躊躇って、迷う足ではあったが逃げ出す様な卑怯者ではなかった。
✳︎
その掌に何か握っていると開かされ、転がり出てきた馬鈴薯に笑う者は居なかった。条件が条件なら、ふざけたガキだと小突き位はしただろうが、夜の海に飛び込むなんて暴挙に何か、執念を感じ取っていた。
「ずみまぜん、ずみまぜん!!!うちの、バカが、もう本当にサッチの馬鹿野郎が!!迷惑をかけて!!もう、もう、おれぁ…!!」
「申し訳ない、ワシらが見てりゃ防げたことだったかもしれないってのに…面目ないことです」
医務室内、灯りで照らし出される部屋の中で地面に張り付き頭を下げるアロゼの隣で老いた男が膝を折ろうとするのを制したのは、船の主だった。
「話を聞いてりゃあ、最初にふっかけに言ったのはうちの息子だ。…マルコ、そうだよな」
「……おれが投げた馬鈴薯追いかけて、アイツが飛んだんだ。おれが落としたような…もんだ」
当の本人とくれば、イビキこそかく事もなく鼻提灯を作ることもなく新台に横たわっていた。飲み込んでしまった水は吐き出され、幸いなことに迅速に引き揚げられたので派手な怪我をおってもいない。
急激に冷えた身体を温めれば、問題はないとは船医である隻眼の男。コンラッドの診察だった。
「けど、なんで馬鈴薯なんて追いかけて…」
絶えることのない波に包まれ船は進む。
天井から吊るされた灯りが、その流れに合わせ軋んだ音を立てて揺れる。
「…北の海に、セルレジーアという国があったのをご存知ですかな」
マルコの躊躇いを、すぐに掬い上げたのはブルニである。その言葉に白ひげはすぐに頷いたが、マルコは今ひとつ首を傾げる。
子供の頃、それこそもっと幼い頃から明確な夢があった。いつか、海に出てみたい。その時のために、航海の勉強を独学ながらしていたのである。今はだいぶ形を変えて夢は叶うこととなったが、それでもマルコの記憶に掠りもしない国名である。
「お若い方がご存知ないのは無理もない、今の名前はリシオラ。サッチは、そこの国の生まれでしてな…」
リシオラ、それならば知っている。
世界経済新聞にも何度となく取り上げられてきたはずだ、決して一面を飾ることはなかったが。
「数年前まで、大きな内乱のあった国だろ確か、世界政府未加盟の国で、……最終的には民衆側の勝利に終わったって話だ」
「その通り、説明が必要ってならワシからお話ししましょう。知っているのに話さないのと、…この子が…」
ガルニの指先が、ランプに半面を照らされる少年の枕に触れる。
「知られたくないことを話すのと、どっちが不義理か。知ってなきゃあ、理解できないことの方が多いですからねぇ。───ワシがこの子から聞いた話じゃない。この話は…そう、ある傭兵から聞いた話です。ジルという名前の…若い傭兵から…」
✳︎
五年前、北の海リシオラ───
世界は、暗闇の中での潜めた囁き声から始まる。
─── 今の音、きこえた?すごく大きかった、近くに落とされたんだよ。
─── 前よりも近いよね、大丈夫かな、ジル…。もどってこられるかな…?
─── アイツらもう近くに来てるんだ、こわい、こわいよ…。……わたし、こわい……。
身を寄せ合う、小さな姿がいくつもあった。
寒さのせいだけではない、切れ端のような毛布を抱きしめながら恐怖が乳歯も生え替わらない歯の根を震わせるその中で、底抜けに明るい声が響く。
「なんだよ〜、そんなに皆がしんみり静かにしてると、おれの腹が鳴ったのがバレちゃうだろ?……あ!」
子供達の視線が集まった瞬間、タイミングよくゴロゴロと鳴る少年の腹の音。毛布に顔を埋めていた前歯のない少女が、堪え切れずに吹き出すと同時に皆が肩を震わせる。笑いは伝染する、笑ってはいけない、と思えば思うほど愉快に思えてくる不思議な効果を少年は知っていた。
「ぷーっ!!ふ、ふふ…サッチの、サッチのお腹の音って、雷よりおおきいね…!」
「よせよ、恥ずかしいだろ〜!」
「だって、す、すっごい音したもん…、うふふ、臼がごろごろ音を立てたみたい!」
「もー、サッチ、すこしは我慢しろよなー!一番歳上じゃん、これだからサッチはさぁ…あはは!」
「ごめんごめんって!反省した…次回からな!」
くすくす笑いで、肩を小突けば爆撃が近い防空壕の中でさえ、その場にパッと花が咲く。頭の後ろをガシガシと掻きながら恥ずかしそうに笑う少年が、"腹の虫"として擦り合わせた石同士をそっと背中に放っては、代わりに取り出すのはボロボロになった表紙の分厚い本だった。
「腹の虫ついでに、中にいたってひまだろ?この本の続き読むやつは、この指とーまれ!」
本の題名は擦り切れているが、微かに読める。
"世界の美食レシピ1000!これであなたも一流コック編"。何ともありがちで、大風呂敷を広げたネーミングだ。一度読んだら覚えられそうにチープさで、そのくせ正確には思い出せそうにない。
にっこにこと指先を差し出すサッチの齢は八歳。
それでも、この孤児達の中では一番の年嵩だった。
「って、皆掴めよ指ー!!この指止まれって言ったら、掴もうよ、義理でもさぁ!」
指先を掴む者が誰も居らず、思わず指先を掲げたまま落ち込むサッチだったが、既に皆は自分達が一番本を見やすい位置へと移動しているのだ。
「だって、サッチ掴まらなくても勝手に読んでくれるもん。あたし、お菓子のページがいいなぁ」
「おれ、肉のページ!」
「目をつむって開いたページが、公平だよー」
「はーいはいはい、じゃ、読もうな。順番だ、順番。昨日が…サモサだったよな」
その本を最初に誰が持ち込んだのかは、分かっていない。ずっと前からあった本で、子供達の誰かだという記憶もない。
ボロボロで、ページを留める糸が解けてしまっているのも不都合はなかった。舌がとろける甘さのケーキを紹介するページの隣に、目が飛び出るように辛いスープの解説がされていても、その順番のめちゃくちゃさが薄暗い壕の中で飽きない素晴らしい娯楽へと変わる。
「サッチ、おひざ」
「ああ、おいでアクラ。けど、そこじゃページが見えなくないか?」
「いいの」
胡座の膝には、すぐに髪を二つに縛った少女の頭が乗せられる。その小ささと、軽さにサッチは一度口の中をギュッと噛んでは、何事もなかったかのようにページを開くのだった。
「きょうの料理は…これだ!これは、何だ?えっとな…ブイヤ…ブイヤベースだって。美味そうだなぁ〜!」
子供達の口から、賛同めいた感嘆の声が上がる。
「大きなエビ…!」
「貝も入ってる?赤いのはなに、何、サッチ?」
「待て待て、トマトベース…トマトの赤だな。濃厚な魚介の旨みが特徴的な料理なんだと、魚か〜食べたいな〜腹いっぱいな〜」
サッチだけでなく、皆がうっとりと頷いては両手を頬に当てる。リシオラでの長く続く戦いでは、飲み水の確保が生命線を握っている。それを理解して国側も兵を配置するので、最近は中々魚や貝類を口にする機会はめっきり減っていた。
絵物語を、いつから現実とはかけ離れた世界だと子供は知るのだろう。ピンチの時に必ず助けてくれるヒーローはおらず、正義の味方なんてものは基本的に存在してはいない。
夢のあるお伽話を、いつから嘘くさいだなんて遠巻きにするようになったのか。
「作り方は、まず…魚の切り身をブツ切りにする。大きさは…七cmくらいだから、まぁこれくらいな?それで───、」
忘れてしまうくらいには、前の話だった今となっては不安や恐怖を紛らわせる為に、まだ現実的である想像の世界で遊ぶのだ。
閉ざされた扉へのノックが素早く二回。
身構えるより早く、続けて三回、一回、最後にコン、ココン、のリズム。それを確認した、扉に一番近い少年が振り返るのに、サッチは両手を伸ばして閂に手を掛ける。
眩しい外の光、開かれる扉の先には───、
「がぇり、ジル〜〜!!遅かったから、皆心配したじゃねェか〜〜!!」
「汚!!ちょっと…あたしは今、汗だくなんだよ!くっつくな、鼻水付けんな!」
しくしくと抱き着くサッチを摘み上げて、ゴーグル姿の女は壕の外へと放り投げる。サッチも負けてはいない、くるくると回転させられたところで、着地は両手を伸ばしてのものだ。
その後も、ポイポイポイっと投げられるのは、次々ジルと呼ばれる女性の丈の短いジャケットに抱き付く少年少女だ。投げられては、受け止める役目があるのでポーズを決めてばかりではいられない。
「ふぇぇぇん…ジルが投げたぁ…」
「アクラ、泣くなって〜。いつものことだろ?」
「毎回毎回、分かってんなら抱きつくんじゃないっての!良いかい、あたしはねェ…、」
最後の一人を引っ張り出してから、ジルはゴーグルを押し上げる。曲がった短い煙草を咥えた、妙齢の女性だった。釣り上がった眉の下の瞳も髪も僅かに青みを帯びた黒は烏の羽の色によく似ている。
「金が全てなんだよ、金。分かる?子供は嫌いだよ、金がもらえなかったら、こんな仕事やってないっての。誰か怪我したやつはいるのかい、ボサっとしてないで答える!!」
「ギニョンが…、」
「怪我したのか!!どこ、見せて…!」
サッチが口にした途端、あたふたと顔を青くして名を挙げられた少年に駆け寄る姿は何とも説得力がない。
「どこだ、どこだ?あ?」
「ギニョンが、逃げる時に転けて膝擦りむいたけど、手当てしたから多分大丈夫…」
「ほー……、この馬鹿!もっと派手なのを怪我って言うんだよ!いや、破傷風が怖いから…手当てできない場合は判断して…いいや、やっぱり、怪我したら言いなさい。いいね!」
「はーい…おつかれさま、ジル♡」
「もう、あんたらもね…♡ちがう、違う、子供は嫌いなの!さっさと移動するわよ、飯!飯の準備!!」
ぴったり、と抱き着く子供達に愛おしげに抱擁を返しては、忙しく拳を振り上げ怒鳴る姿に笑いながら皆が駆けていく。
よくある光景だった。
国の端、この村で。動乱の中、子供達を守る大人を失って、孤児院なんてものは作られなかった。善意で引き受ける大人にも限度がある。金さえもらえれば、何でもやるという言葉を言葉通りに取られて年端も行かない子供達を預けられたジルの気持ちを思えば、早熟なサッチは同情してしまう。したところで、出来ることと言えば、年長者ぶって出来ることをするだけだ。
時に道化を演じて、時に頼れる兄貴分でいる。
自分より幼い子供達は、弟や妹のような存在だったから苦ではなかったが、時々冗談のようにジルに抱き着いて寂しかったと口にする事が唯一の本音を言える瞬間だったと理解しているのも自分自身だった。
「……サッチ」
「うん?どうした、アクラ。疲れちゃったか、シャル達と座って待ってていいんだぜ?」
「……うぅん、……」
「───、そっかぁ…」
血の繋がりの大切さは、いまいち分からない。
顔も知らない父親も、母親も、話で聞いた限りで。それでも、感謝はしている。命の大切さを分かっているから、産み出してくれたことに心から感謝している、つもりだ。
自分の袖を掴んで、俯く少女は妹ではない。
だが血の繋がりが何だと言うのだろう、血が繋がらなくても大切な存在で、この世は溢れている。
「じゃあさ、おれのお手伝いしてくれるか?アクラが一緒に手伝ってくれたら、おれ、すごーく助かるよ」
「……うん、てつだう」
「やった!それじゃ行こうぜ、一緒に」
産まれた時から、貧しかった。
産まれた時から、戦争が始まっていて。
産まれた時から、そういうものだと思っていた。
産まれた時からずっとそうだったから、死ぬまでそうだと思っていた。暗がりの中で産まれて、暗がりの中で死んでいく。夜の中で暮らして、夜の中で死んでいく。
それでも、足元を照らしてくれる星があったからサッチは歩いて来られた。
口の悪い涙脆い月が導いてくれるから、サッチは振り向かずにいられた。
一日の目標を生きることとして、眠る時に次の朝、目覚められることを祈って手を繋ぐ。笑って、泣いて。
涙を堪えて歯を食いしばることの方が多くても、そんなささやか過ぎる生き方が、ずっと続くと思っていたのだ。
ずっと、変わらずに───、いつまでも。
✳︎
「すっっっげぇぇ……!!これ、本当に?本当に食べて良いの…!?」
「そーよ、本当よ。ここに来て、自由軍が…って、あんたらガキに言っても分からないわよねェ…、とにかく、アタシ達に味方してくれる奴らが増えたって思えば良いの」
最近、防空壕に飛び込む回数が減って来ていた。
外で火を焚いても、直ぐに消さなくてはならないだとか、極力灯りが漏れないように生活するだとか、そういうのが少しずつ緩やかになっていくにつれて妹や弟達の顔に明らかに笑みが増えて来たのを感じる。
それと同時に、ジルの為のジャケットを繕っていた糸を結んで歯の先で切って、すっかり所帯染みたと自分の頭を掻いてから慌てて針を戻す。
覗き込む先には、缶詰が本当に積まれて山の形を成している。見て分かる果物のイラストが描かれた缶に喉を鳴らす子供がいれば、サッチが身を更に乗り出すのは調味料が収められた瓶だ。
手先は元から器用だったが、必要となれば磨きもかかる。既に、例のレシピ本は暗記してしまってそらでも言える位には読み込んでいた。勿論、食べたことのない食材や調味料の類は味を想像するしかなかったが、それが目の前に飛び出て来たような錯覚。しかもそれが、錯覚ではない現実と来たものだ。
「ジル、ジル、これ調味料だ…!すごい、塩、砂糖に…胡椒だ!胡椒だよ……胡椒だ…うそマジでェ…?」
広場とも言えない空き地で、キラッキラと瞳を輝かせるサッチの手には胡椒の瓶が両手で握られていた。
「サッチ〜、なんでそんなにうれしいの?こっちの果物のほうが、甘そうだよ?」
不思議そうな顔で首を傾げる少女の頭を抱くと、これでもかと撫でながら夢見心地に食料が積まれた荷台を見上げる。
「胡椒ってのはなぁ…胡椒ってのは、アクラ。凄いんだぜ?こーさんかさように、さっきんさよう!!いや、確かにその、そう、パイナップルだ!パイナップルもすごい。かったい肉を柔らかい〜くしてくれるパワーを持っててだなぁ…缶詰じゃ、意味ないんだっけか。…まぁそれはそれ、すごいじゃん、ジル!」
「あんたはスパイスに一番喜ぶと思ってたよ、サッチ。ジャケット、ありがとね」
「いいよ、ジルは裁縫とか料理とか全然ダメだもんな。結婚出来なかったら、おれがもらってあげるからあと十年待って?」
「はいはい、最初は疑ってたけどね、自由軍ってのは傭兵とは全然違うのね…村人達を鼓舞する力っていうの?そういうのが、根本的に違うのよ」
男児が一人、またサッチがジルに振られたと囃し立てては周りがドッと声を上げて笑う。
サッチの淡い初恋だった。
「自由軍?ソイツらが、これをくれたのか?」
「んーん、厳密には違うわ。これはあくまで、連中の拠点の食糧庫からちょうだいしてきたのよ。あくまで、あたし達を手助けするって形でね。…変な連中よ、わざわざ紛争に首を突っ込んで人助けなんて…なによ、あんたら、その顔は」
相変わらず、折れ曲がった煙草の先から紫炎をあげ独り言のように呟いていたジルの瞳が瞬きを繰り返す。ジッと向けられる子供達の表情は言わずとも物語っていたが、敢えてここは年長者としてサッチは殊更呆れた顔で肩を竦めるのだった。
最初は傭兵として確かに、報酬と引き換えだったかもしれないが、なし崩しのように自分達の面倒を見る羽目になった相手が何を言うのか、と。
「(言ったらすねるか、怒るかだもんなぁ…、言わないでおこ)」
懸命な判断である。
「とにかく、いーい。手に入れたからって、いきなりたくさん食べるのはなしよ。倹約しないとね…大切に、無駄にしない…見えてきたじゃない、未来!」
「未来?」
「そうよ、未来の為に生き抜こうって気が湧いてくる。食べられるってのは、生存が上がるってこと。食べられるうちは、まだ何とかなるって思えるじゃない?」
ジルの掌は火傷やら治らない裂傷やらが目立つ。
その掌で、馬鈴薯をひとつ袋から取り上げると、咥え煙草ながらに頬には少女のような笑窪が浮き上がる。
サッチの小さな心臓がドキドキと飛び跳ねる。
「でしょ?」
「……う、うん…まぁな、じゃ、ジルはおれの作る飯を食べてりゃいいよ。ずっと…」
「えぇ?」
「だ…だってさ、……ジルの作る飯よりおれが作る飯のほうが美味いもんね!」
んべー!!と出す舌に、吹き出してから生意気だと小突かれるのもいつもの流れだった。
「そんなこと、あたしみたいに銃だの何だの扱えるようになってから言えっての」
「いでぇぇぇ〜〜!!そ、そのうちなるっての!」
「あははは!でもさ、あんたも夢を持つのは良いことだよ。あの子達も、皆…夢を持ったら良い。未来に希望を持つ!目標ができるじゃない」
「夢かぁ…ガキのころに言ったら笑われたからなぁ…」
「今だってガキじゃない」
「もっとガキのころ!」
丸太に腰を下ろして二人並びながら、夕陽を背負った子供達の笑い声に考えもしなかった思考を働かせる。
今日を生きる、それが、ずっと目標だった。
もしかしたらその先を願っても良いのかもしれない、そう思うと急に現実が途方もなく果てしないものに思えて目眩がするようだった。
「良いじゃない、教えなよ。誰にも言わないから」
「笑うよ、ぜったい」
「聞かなきゃ分からないな〜、でもサッチが笑ってほしくないって言うなら、絶対我慢する」
「本当か〜?」
「あ、信じてないな?その目。約束するって、ほら」
差し出される細長い小指に、笑われても良いかと小さな小指を絡め返す。
「…おれさ、信じてるの」
「何を?スーパーヒーロー?」
「いねぇよ、そんなもん。そうじゃなくて、むかし爺さんが言ってたんだ。海の向こう、北の海をずっと越えて…偉大なる航路の先…どこかに….、東西南北の全ての気候を兼ね備えた海があるって」
ジルの切れ長の瞳が、夕焼けに染まって綺麗だった。
今でも、サッチはその顔をよく思い出せる。
「─── オールブルーをおれは探すんだ、あらゆる海の食材が全部!集まる夢の海…!!…それでさぁ、皆で腹いっぱい食べるんだよ。美味いもんを、たくさん…」
「ふーん…」
「リアクション薄いな!?おれ、けっこう真面目に言ったんだけど!?」
「良いじゃないか、全然笑われるような夢じゃない。サッチらしくて良い夢だと思ったよ」
確かに予想外だった。
大人は皆、サッチの夢に対して笑ったものである。
この世の中の海の食材、全てが揃う海域があるわけない。夢のような世界は、結局のところ夢。
伝説というのは、実際の記録がなければ全て嘘のようなものだと、引き合いに"ノーランドの黄金郷"の物語すら出されて笑われた記憶しかない。
「そうだねぇ…それじゃ、まず…サッチは腕の良いコックになりな」
ジルはまだ吸える部分を掴んで砂利に押し付けると、サッチを見下ろして唇をにんまりと吊り上げた。
「そうすりゃ、お前を船に乗せてでも海に連れて行きたいってお偉いさんがきっと現れるさ。そうしたら、登り詰めないとねェ…トップを目指す」
「えっと、ジル、おれ別に皆に食わせられりゃ…そういうのは」
「バーカ、良いかい?夢を夢で終わらせるつもりはないんだろ?なら真面目な人生設計ってのをしなきゃね。権力ってのは、良くも悪くも武器になる。よく知ってるだろ」
「う、うん…けど、えらいヤツって…おれ好きじゃねェや」
偉い人間が、自分達に何をしたか。
サッチに政治だの国の在り方だの難しいことは分からない。ただ、自分がどちらに属していて、どうしてこういう生き方をしているかは分かっていた。
「じゃあ、言い方を変えよう。リーダーになりな。誰もが、お前の腕を認めて、こいつなら着いて行っても良いと思える男になればいい」
「リーダー?」
「そうだ。リーダーになって皆を先導する。それで、オールブルーをいっちょ見つけて来な!!ありとあらゆる魚料理を、たらふく食えるだけじゃ足りないよ。美味くなくっちゃあねェ」
「じゃあさ、じゃあ…ジルはその時、来てくれるか?」
「馬鹿言うなよ」
ピンっと弾かれた指がサッチの鼻先を襲う。
「いってぇ!」
「あたしを置いて、皆だけ呼んで美味いもんを食おうってのかい?させないねェ、お代は全部サッチ持ちだろ?」
「いや〜そこは、ジルは大人だろ?」
「その頃にゃ、お前らもいい歳の大人だろうが!!」
美味い料理を沢山食べよう。
オールブルーを見つけ出せるくらい、見つけて活かせるくらいに腕の立つ料理人になって、そうして皆を招待する。いつかの宴を、夢に見よう。
「約束だ、ジル」
小指に小指が絡まって、上下に強く振られていく。
「破るんじゃないよ、未来の一流料理人」
少し浮かれて、少しだけ忘れていただけだった。
人の夢なんてものは、結局は"夢"だってことを。
✳︎
その日は朝から雨だった。
横殴りの嵐ではなかったが、湿度が随分と増した夏の雨にその水滴だか、自分の汗だか分からない雫をサッチは手の甲で拭う。食糧庫から、使えるようになったキッチンに踏み台を使って背伸びしながら材料の選別を行っていた。
「えーと…こっちは保存用に回せそうだよな。あんまり塩使いたくないし…」
「サーっちゃん!今日のご飯の、手伝い部隊が揃いました!」
「おっ!よーし並べ!右から番号!」
「いち!」
「にーい」
「さん」
「じゃ、おれがよん!えーと、今日は知っての通り、ジルの誕生日だ。だから、いつもよりちょっとだけ豪華なもんを作ろうと思う!」
上がる拍手に答えながら、テープで繋ぎ合わせたレシピ本のページを高らかに掲げる。用意できる材料は限られていたが、近い味には出来るはずだった。誰でも一流コックになれる。この本は、それが売りなのだから。
「えー、ジルの故郷での料理が乗ってて…これこれ、"タラのスパイス煮込み"な!カレー粉が手に入ったから、もう絶対やろうって思ってたんだよ」
「からいカレーとちがうの?」
「あぁ、辛くはない。あくまで風味付けみたいな感じで…本当はトマトがメインだな。あと、玉ねぎー、にんにくー…オリーブオイルに…」
楽しげに、歌うように皆が材料を持ち上げる。
あと少しで、この戦争が終わると皆が感じていた。
特別な日に、何事も起こるはずがない。
根拠のない、曖昧な確信。
「よーし、美味いのつくるぞ!まず、玉ねぎの皮をむいてくれ。ニンジンの皮はこっちでむいちまうからな」
何の躊躇いもなく、皮を剥いて切り落としていく。
そとで少しずつ強くなる風雨の勢いも、気にならない程度には。
その日は皆が幸福だった。
ジルの誕生日の祝いのパーティーだったからだ。
子供達からささやかなプレゼントが贈られる、手作りの木や石で作った人形や、字をやっと覚えた幼い面々からの手紙が読み上げられ、女児達が作り上げた木の実のネックレスを首から下げて浮かぶ涙は汗だと言い張る姿に皆が母を重ねていたのかもしれない。
サッチがオールブルーを目指すと口にしたその時から、ジルの口元からはトレードマークのように常に咥えられていた煙草が見えなくなっていた。
「言っとくけどねぇ、あたしは金のためにやってるんだからね!別に、ガキなんかき、嫌いじゃないんだから…!!」
「えへへ、おれたちも、ジルのこと嫌いじゃないよ♡」
「あたしも嫌いじゃないわよ〜!!なんなのよ〜!」
サッチは形ばかりの乾杯の後に、こっそりとキッチンへと戻っていた。
─── へへっ、きっと驚くぞ…。
今日の為に、こっそりと作り上げていたケーキを冷蔵庫から慎重に取り出す。と言っても、果実やクリームたっぷりのそれとは違う。あくまで焼き菓子といった表現の方が近いケーキだ。それでも、ドライフルーツをたっぷりと混ぜ込んだ甘さの方は問題ない。
皆の一致した意見で、少しずつ自分達のオヤツとしての果物を取り分けておいたのもこの日の為に他ならない。
蝋燭を灯して、一気に吹いてもらおう。
今日の皆の願いは同じ、ジルの夢が叶うことだ。
─── 感動して泣いちゃうかもしれないなァ。
人数分にしっかりと切り分けて、人数分の皿は足りないから手掴みで良いだろうと気分良く持ち上げる。その瞬間、キッチンへと駆け込んで来た姿にケーキ用の皿を取り落とさんばかりに肩を跳ね上げる。
「おい君、駄目だ…!!待ちなさい!!」
「な、なにが…!?」
驚きこそすれ、男の姿は何度か見かけたことがあった。
自由軍のメンバーだった、サッチに突進してくるや否や、キッチン高くまで持ち上げてくるその男に身体が硬直する。
「な、何だよ、何だってんだよ…!!」
「食べるな!食べてないな!皆は!!」
「へ…?」
「今日の食事を取るな!!報告があったんだ、こちらにも運ばれてきた食材の中に───、」
血相を変えた男の言葉に、サッチの手からケーキを乗せた皿が落下する。急激に、両手の力が入らなくなっていった。言葉の意味を理解することを、頭が拒んでいるようだった。
割れる皿の音と、ケーキの潰れる鈍い音。
「君、待ちなさい!!行くんじゃない!!」
聞こえた気がしたが、振り切って走った。
全身の力が抜けてるのに、脚だけが広間へ向かって動く別の生き物になったようで、サッチは走る。
そんなことってあるか。
今日は、ジルの誕生日なんだ。
何も起こりっこない。
そうだろ?
─── 何も起こるはずがない、何も…!!
「全部吐かせろ!!体格が小さい子供からだ!毒が回る!!」
数十分前まで、ほんの数十分前だ。
皆が輪になって、母とも思える人の誕生日を祝ってたんだ。それだけだった。本当に、それだけだったのに。
喉元を抑え地に転がる姿も、白目をむいて痙攣する姿も、地面に伏したままピクリとも動かない姿も。泣きじゃくる声も、嗚咽も、何もかも。
「あたしは大丈夫…大丈夫よ、だから、子供達を…お願い、子供達を…!!!」
さっきまで全部、笑っていたんだ。
「サッ…チ……、」
「─── アクラ!!アクラ、おれだ、おれだよ…!」
飛びつくように駆け寄って、口から血を流す少女の片手を握り締める。
「だい…だいじょぶ…だから…ね…」
「アクラ、喋るな!!血が……、」
震えが自分からなのか、それとも重たい瞬きを繰り返す少女のものなのかも分からないまま、そのままサッチを視界に映して少女は息を引き取った。
「…………アクラ…、……?」
兄と慕った少年の腕の中で、わずかに微笑んで。
TO BE CONTINUED_