White Whale白い鯨
「ここで働かせて下さい───!!」
「何も聞こえねぇよい」
二回目の挑戦は、金髪の少年の足払いによる退場で終わった。そのまま船縁に激突したサッチは頭に派手にたん瘤を作った。手当をしてくれる船医の舌打ちは今まで聞いた舌打ちの中でダントツに恐ろしかった。
「船長さん!おれの話を、聞…」
「今虫が飛んでたよな?」
二十三回目の挑戦は、腰に青い布を戻した少年からの肘打ちで失敗した。鳩尾とは、間違いなく人体の急所であると身をもって知れたは良いが、悶絶するサッチを無情にも海賊達は笑って跨いで行く。
「だから、まずは話をっ、おっ、お、おわ〜〜!!!」
「馬鹿が一人落っこったよい、誰か拾いあげてやってくれー」
五十八回目の挑戦は、最難関の少年の居場所を確認して嘆願に駆けた筈だった。船尾楼甲板で見張りをしているのを、出し抜いた筈が船長室に辿り着く前に海原へ蹴落とされていたサッチの衝撃と言ったらない。せめて、助けてくれよ!とは思ったが、懲りない奴だと笑う面々と少しは面識が出来たものである。
サッチが、白ひげ海賊団の一員になりたいのだと天晴れにも臆さず宣言してから十日の間に繰り広げた騒動の回数、実に六十四回。嘆願実績としては、最初の一回を覗いては六十三戦、六十三敗───。
マルコという最大の敵を前に心折れない姿が、最近は船員たちの良い暇潰しとして賭け事の対象になりつつあった。
✳︎
「何でかな〜!!アイツ、化け物みたいに素早いんですよ。目立つじゃないっすか、あのパイナップルみたいな髪型で!んで、こっちに居たな〜…って、走って行くと前にいるんですよ!?二人いるんじゃないかな…もしかしたら…」
「エッヘッヘ、サッチよ。"その"ニンジンはどうも美味くならなそうだなぁ」
野菜の皮剥きは基本中の基本だ。
空樽を椅子代わりにして、苛立ちをぶつける様に包丁を動かしていたのをやんわりと諭されればサッチは肩に入っていた力を意識して深呼吸と共に抜いていく。片腕を固定しての作業だが、もう慣れてしまっていた。
「っス…さーせんした、今、邪念入ってました」
「作業が速いのは良いんだけどなぁ、うんうん」
料理長、ガルニ。
サッチの隣の空樽に腰を下ろして、にこにこと笑みを絶やさずに皮剥きを正確に高速でこなす初老の男の名前である。
血気盛んな。時に殺気の漂うキッチンは料理人達の戦場と言って良い。サッチが乗っていた客船の料理長、ガルニは唯一の例外と言ってよく、実に温厚な気質の男だった。
まず、小柄である。サッチは自分のことをまだまだ成長期だと思っているが、既にガルニの身長を超えている。客船内では、自分がどこにいるのか分からなくならないようにと特注の長い長いコック帽子を被っていたが、今は騒動で失くしてしまったのか。ちょん、とサッチの隣で仲良く腰掛けながらの皮剥き作業で被っているものはない。
頭上を、渡り鳥達が列を成して飛んでいく。
波の音、途絶えることのない船員たちの掛け声、話し声、そこに鳥の声が混ざってはサッチの釣り上がっていた眉も徐々に下がっていく。
「ってか、料理長〜〜。料理長が皮剥きなんてしなくったって…おれやりますよ。全部。これくらい剥けない量じゃないし」
「いーのいーの、ワシの方が速いもん」
「もんって…そ、そりゃそうっスけどね?けど、あっちさんも言ってたじゃないっスか。厨房に入ってくれて構わないって」
「入らせてもらう時には入るさ、拗ねてんじゃねぇのよ。船頭が多ければ船は沈む。ワシのやり方で合わせてきてくれた奴らが、変に混乱しないように出来ることを出来るだけ多く手伝ってるつもりだなぁ」
「……っス、そりゃ、そのおかげでおれぁ助かってますよ。ものすごく」
にっひっひ、と笑うガルニにサッチは手の甲で側頭を掻く。
あの日、あの最初の挑戦の日。
皆が唖然とする中で、唯一驚きを見せなかった人だ。
─── おれをこの船に乗せてくれませんか!!
─── そりゃあ、お前…おれの船に乗るってことは、海賊になりたいとでも言い始めるんじゃねェだろうな。
─── 海賊になりたい…って言うよりか、乗せて欲しい!おれ、北の海から出て、具体的には偉大なる航路を旅したいんだ…!!
─── ……理由は。
─── 理由は…、理由はちゃんとある!!…けど、今は言えねェ!!
ドーン!!とあまりに断言するにはサッチの中身のない演説に、船長たる白ひげではなく見習いであるマルコがその場で止めに入っていた。聞くに耐えない、と。
白ひげは、その三角帽子の下の瞳を何を言うでもなくサッチに落としていたが特に何事かを返すでもなく船室に戻って行ってしまった。残されたのは、サッチの軽率さを両頬を伸ばしにかかることで締めにかかる涙目のアロゼ達料理人と。そして───。
─── うちは便利な旅船じゃねェよい。…少しは、仁義だのを分かってるやつだと思ったんだけどな。
冷ややかな、少しの失望と侮蔑を含んだマルコの視線だった。
✳︎
「なぁ、サッチ。あの船長さんなら、ワシは笑わないと思うぞ。言ってみたらどうだ?」
「…理由をっスか?」
「それ以外におめぇ、何があるのさ。理由は言えない、ただ連れてってくれ…じゃあ、海賊じゃなくても馬鹿言ってんなでおしまいよ」
丁寧な手仕事に見惚れて自分の作業が止まってしまわない様にしまわないように、サッチは次のニンジンに手を伸ばす。
次の島で降りて新たな生き方を探す、というのは何も無謀ではない。
生き残った客も客船側の人間もまずは連絡を各自取り合わなくてはならないだろう。基本的に自己責任の世界とはいえ、まずは帰郷から始まる。それこそ、船の手配やら頼れるならば自国の行政組織次第とはいえ、全財産を奪われたのでもなければやり直しは効く。
だから、そっちの方が圧倒的に簡単だ。何も難しいことではない。ある程度のマニュアルに沿って行動すれば、そう酷いことにはならない。
だから、サッチは別に楽な方に逃げたのではないのだ。楽な方より、希望を見出した方に手を挙げた。それが散々世話になったであろう仲間や職場を捨てて、自分だけ中身も見えない目的の為に───と言われてしまえば、正論過ぎてぐうの音も出ない。
「(…アイツの冷ややかな目がな〜、心臓に悪かったなぁ…)」
それと、もう一つ。これは明確な後悔だ。
あの時、差し出してくれた掌を、自分はまず取るべきだったのではないか。
ガシガシと頭を搔くサッチに、幼く元気な声が交互に投げ掛けられる。
「サッチにいちゃんー!いた、いたよ!」
「わたしが先、サッチ、船長さんが居たの見たよ!えっとね、えっと、ソーダの部屋に居たわ!」
「お!プリモ!ピアット!本当か〜?」
客船に乗っていた家族連れの中の、兄弟。厳密には姉弟である。
走り方が多少まだおぼつかない弟のピアットが抱き締めているぬいぐるみは、この船に来てから誰かにもらったらしい。
「ほんと、ほんとうだよ…わ、わわ!あ、僕のくまちゃん…」
姉のプリモの鼻先にはソバカスが日差しの下でキラキラと眩しい程に健康的だった。歳はそんなに離れていないらしいが、まだ十の歳にも満たないとはいえ、随分と姉の方がしっかりとしているのが微笑ましい。落とし掛けたぬいぐるみを、しっかりしなさいと大人びた口調で叱りながらも払ってから弟に抱かせてやる仕草がそこにはあった。
重なる面影が懐かしい光景に、サッチは感傷的になる自分の鼻を潮風が擽ったせいにして啜り上げる。子供同士というだけで、随分と親しくなれた子達だった。サッチの方が、いくらか歳上ではあるが些細な違いらしい。
「ソーダ…ソーダ……操舵、か。よく入れたな〜教えてくれてありがとな!下拵えが終わったら、早速突撃かますぜ!」
「えぇ〜!いま、いまじゃないと、いなくなっちゃう…かも…」
「そうよ、サッチ!チャンスは逃しちゃダメよ。ね、おじいさん。少しくらい抜けたって大丈夫だよね?こーんなに野菜があるんだもん!むき終わるころには、船長さん居なくなっちゃってるわ!」
おじいさん、とは料理長のことである。
ただ髭の下の口元から穏やかな笑い声を弾ませるガルニはおじいさん、海賊船の親分だとしても船長さん。無邪気な子供達にとっての違いはあまりないのかもしれない。
「そーいうわけにはいかないのよ、プリモちゃん。あくまで仕事は仕事。合間にいくら自由にしていいとはいえ、料理人が料理に手を抜いちゃいけないのさ」
「えー、ちょっとも?ちょっとだけも?」
「ちょっとも。二人ともいいかげんより、美味い飯の方が良いだろ?情報感謝!おれと、料理長にかかればこんなのすーぐに終わるからさ、怪我しないように気を付けながら遊んできな」
折角なのに、と頬を膨らませる少女の頭を手の甲で撫でてやる。頼んだことではなかったが、見付けやすい大男を船内で探す子供達の行動は船員たちの気に触るものでもなかったらしい。
娯楽のない、現状は穏やかな船旅での遊びになっているならそれで良かった。
「……はーい。お仕事がんばってね!」
「サッチ、サッチ、あのね、また"ソラ"のお話聞かせてね、やくそくだよ」
「おう、約束だ!!海に落ちたりするなよー!」
「サッチじゃないから、大丈夫ー!!」
「は、はは…おれ、わざと落ちてる訳じゃねぇのよー…」
やはり、この年代の子供は女子の方が少しマセているというか、何というか。サッチに向かって大きく掌を振って去っていく少女と、追いかけて躓く少年と。
それを船体、遥か後方から手摺に腰掛けて見下ろす姿があった。
「………」
「どうしたァ、マルコ?気になることでも…あぁ、また"見張って"んのか」
「見張ってなんかいねぇよ、一応…仕事中は流石に弁えてるみたいだからな」
自分の肩を抱く古参の船員に、暑苦しいと肘でぞんざいに押し返しながらもマルコも本気で突き飛ばす気はない。
ラクヨウ、白ひげ海賊団の中でも十の指に入る優秀な戦闘員だ。マルコよりはそれなりに年嵩だった筈だが、本人が推測でしか覚えていないなんてのは、この船ではざらにある。
「んん〜〜、ならそんなに目くじらを立てなくたってよくねぇか、見てて面白いけどよ」
「ラクヨウまで何言い出すんだよ、この船は漁船でも客船でも何でもねぇのに」
「確かにありゃあ面白かったよな〜、ハハッ!良いじゃないか、乗せてやりゃあ。コックが一人増える、それだけだろ?」
眉根を寄せるマルコに対して、ラクヨウは楽観的だ。
「これだから南の海出身のヤツは…」
「お、お?それブラメンコにも同じこと言えるか、マルコちゃんよ?」
この船には東西南北、あらゆる海出身の仲間達が集っている。マルコ自身は偉大なる航路出身であるし、白ひげは偉大なる航路の更に新世界と呼ばれる海域出身だった。
南の海出身は、陽気で楽観的。血液型や星座の当てにならない占いよりは当たっているとマルコは感じている。勿論───例外は何にでも存在するが。
「う…だって腹が立ってくるんだよ、海賊になるつもりもないくせに。しつこいんだアイツは、オヤジ煩わせやがって」
「あー…何回目だったか?」
「今日の一回入れて、六十…四」
「根性あるじゃねェか。その回数は、お前が防いだ回数だろ?海に突き落とされるわ、マストから吊るされるわ、デッキに叩き付けられるわ、それでもめげない」
こちらに気付きはしないだろう、子供達が話し掛けにいけば笑顔で言葉を返すものの、話題の少年は黙々と作業を続けていく。この船の中で、調理を担当する存在としては一番の歳下だったが考慮したのは怪我の度合いだけである。
普通にコックとして加わったなら最初に任せられる仕事を与えられている筈だった。それがこのモビーディック号の"料理長"の指示である。
側に凄まじい包丁さばきで次々に下拵え用の野菜を積み上げていく"料理長格だという男"が手伝っていると言えばそれまでだが、観察している限りサッチという少年は自分の職務に実直な男としてラクヨウの目には映っていた。
それは決して、自分が楽観的だからという理由ではない。だからこそ、パッと無理やり組んでいた肩を離してマルコを解放してやる。大方、怠けるだの手を抜くだの、何かしらの粗を見付けるつもりだったのだろう。
潮風が心地良く頬から首筋へと抜けて、ラクヨウの束状に編まれた髪を軽く揺らしていく。
「お前、オヤジと一緒で…そういう要領の悪い馬鹿正直なヤツ、好きじゃねぇの」
「……そんなことねぇよ」
「嘘吐け。せめて理由くらい聞いてやれよ、連れて来たのはお前だろ。毎回毎回、海から引き上げる連中の身にもなれ。あのサッチって坊主、頭下げて回ってたからな」
「─── ラクヨウ、お前…さては偶然通りかかったんじゃねぇな?はなから、おれに説教かますつもりだったんだろ…!」
二、三度マルコの肩の上で掌を弾ませて、噛み付く間もない。
既に猫背に両手をズボンのポケットに突っ込むいつもの後ろ姿は、あっという間に荷運びの横断に紛れたかと思えば煙の様に消えてしまうのだ。
「………ったく、言いたいこと言って消えやがって…!」
ムスッと唇をへの字にしたところで、見透かされた様な心地が晴れる訳でもない。
北の海は、退屈だ。
分かっている。実際には、ノースの闇と呼ばれる程に海自体は他の三つの海に比べて不明瞭なことが多い区域だ。戦争の最中の国も、貧困に喘ぐ国も多い。果たして濃霧の様に実態が掴めない、その闇の中では行われているのか。
とはいえ、その深淵を覗き込みさえしなければ、本当に寒冷な地域が多いとはいえ明らかな動乱のない海域を渡ることになる。
─── 大きな諍いじゃなくとも、小競り合い程度があれば…ビビって馬鹿な考えも…、
マルコは頭に浮かんだ意思とも言えない、ぼんやりとした考えを即座に打ち消す。子供達が船には乗っている。無害で、無邪気で、可能性に満ちた無垢な子供達。その子供達を危険に晒すのとは違う。
「…って…何やってんだあいつ…」
顔を左右に振って、自分の頬を叩いたマルコだったが余程考えに耽っていたのか。
彼方下方のデッキでは籠を片手で器用に持ち上げていた少年が、真っ直ぐこちらを見上げている。内心、肩が飛び上がる程驚いたマルコの気持ちも知らず、笑顔で片手を高く振って何のつもりなのか。
毎回、野望だか夢だか知らないが、嘆願の邪魔をしているのは誰だと思っているのか。
マルコは無意識に振り返しかけた片手をズボンのポケットの中にしまい込み、踵を返す。落胆されたとしても構わない。さっさと諦めれば良い。
─── アイツは…鯨に呼ばれてなんかいねぇんだ。
最早、これがただの意地に近い物になっているのは、マルコが一番分かっていた。
✳︎
咳払いをして、部屋のノックを三回する。
頭の中で繰り返し練習するにしては、単純な行為の筈だったが、最初の咳払いから緊張のあまりむせ返っていたのでは練習の成果もあったものではない。
それでも、派手に咳き込みながらの乱れたノックにも関わらず部屋の主からは入室の許可を短く返されたので、おずおずとサッチは船長室へと顔を覗かせていた。
「あのー…すみません、船長さん…おれです、船に乗せてもらってる、コックの見習いで…」
その態度が、いつもの突撃と違い妙にしおらしいものだったので机上の海図に目を走らせていた男、白ひげは口元をニヤリと釣り上げるのだった。
「グララララ…いまさら何だ、今日の突撃は方法を変えてきたか?」
「違うっス、違います!今回は、例の件じゃなくて…頼まれたんですよ、太い葉巻咥えた…えぇと、デッカくて、刀持ってて…強そうな…クルーの人から…船長さんに運んでくれって!」
サッチは慌てて両手を横方向に激しく振る。
「思い当たるのは何人か居るが、運ぶ…?」
「そう、運んでくれって頼まれて!今日暑いからっすかね…、ヌガーグラッセ…だそうです。へへっ、おれ作ってないからあれですけど、めちゃくちゃ美味そう」
白ひげの眉が訝しげに上がったのは一瞬である。
いそいそと大きなガラス皿に乗った氷菓を差し出すサッチが気付く前に表情は戻されたが、いつになく雄弁な少年の浮き立ち具合では気付くものも気付かなかっただろう。
「ヌガー…何だって?」
「ヌガーグラッセっすよ、知りませんか?」
「……あぁ、おれは食うもんは全て任せっきりだからな。美味いもんは美味い、それしか分からねぇよ」
「へー…じゃ、おれ作ってないけど…簡単に説明しま…しても良いっすか…?」
サッチと呼ばれる少年が、自分に直談判しようとして阻まれるのは既に三桁に迫ろうとしている筈だった。敢えて白ひげはマルコの阻止を止めようとはしない。息子の心の中の燻りを、ある程度は理解しているからだ。
実際、コックが一人増えた所で構わない。
ただ、この船は白ひげだけの船ではない。
白ひげが家族と認めた者達だけで海を進む、家なのだ。
だから、理由はともかく猛反対が一人でも居るならばそれを押し切ってまで人員を増やそうという気にはならない。
「あぁ、おれにも分かる様に説明してくれ。菓子のことは…さっぱりだ」
「じゃ、溶ける前に簡単に…ヌガーグラッセっていうのは、ヌガーは本来…砂糖と水飴、蜂蜜なんかを低音でゆっくり煮詰めて作る菓子のことで…グラッセは人参のグラッセとかとまた別で氷とか、凍らせた、とかの意味でしてね。この菓子の場合、砂糖じゃなく蜂蜜で甘味をつけるのと…ヌガー単体の様に歯に残る感じはなくて、口当たりがふんわりとしてるのが特徴なんです。粉雪みたいな、口溶けで…!」
くるくると、少年の表情が明るくなって言葉を紡いでいく。千載一遇の機会だというのに、それをすっ飛ばしていかに美味い菓子なのか饒舌に楽しげに語る姿は、年相応のものだった。
白い滑らかな生地に、所々艶を帯びたナッツやドライフルーツが顔を覗かせる。表面には、
頬杖をついて、成程そういうものなのかと真面目にまだ幼い声の解説を聞き入れるが、恐らくはと思い当たる息子の姿はあった。
だが、厨房に関しては料理の腕に自信がある面々に本当に一任してある。ましてや、自分に対して供されるものがあるなら、この船の料理長たる男が何かしらの采配をしている筈である。白ひげは、甘いものをわざわざ食べようとは思わない。出されれば、味わって口にするがその程度だ。
─── なァ、息子達よ……一体、何を考えてやがる…?
「ってわけで、キャラメリゼしたナッツも食感が香ばしくて、……って感じになってると思うんで…」
「あぁ、説明ありがとよ。コイツは指で摘んで食って良いのか?」
「いや、指の熱で溶けちゃうんで、スプーンで…、……あ、あの…」
「んん?」
饒舌にペラペラと語っていた少年の身振り手振りが収まれば、まだ何かあるのかと掌の大きさにあったフォークを早速握っていた白ひげの瞳が瞬く。
「あ、あーはは…あの、味見とか…しても良いかなーなんて。厚かましいっすかね…、ほんの少しで良いんで…」
「……グラララ!構わねェよ、そら」
「あっ、こんなに多くじゃなくて良いんで!舌先位あれば!」
何を言い出すかと思えば、指先を突っつき合わせておずおずと口にする言葉に白ひげは切り分けたその端を突き付ける。言っておきながら、ギョッとその大きさにサッチの頭は振られ過ぎて、すっかり短髪とはいえ暴風に晒されたかの様な具合になっていた。
「そうは言うが、おれぁこれ以上小さくなんか切れねェよ、いらねぇか」
「い、いただきます、いただきます…!!んじゃ、おれは…手使っちゃいますけど…、……」
いるのか、いらないのか。
引っ込められそうになるフォークに、少しずつ使える様になってきた左腕まで伸ばしてサッチは掴み上げた氷菓を持ち上げる。
鼻先を寄せて香りを、見た目を上から下へじっくりと眺めてから口の中に運び込み、舌の上で、歯列で硬さを確認しながら咀嚼する。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「………………おい、味は?」
「─── 美味いっす。……キール酒かと思ったけど、これラム酒…なんだ、レモンピールだけ、別にラム酒で漬けてある…多分」
唇を指先で撫で、舌に残る風味を追憶しながら呟く言葉と見目がどうにもそぐわず、白ひげは一周回って感心した眼差しで解析を続ける少年を見下ろす。
「あとは…メレンゲの底にこれは…、酸味と深み…」
「………」
「……分かった!マスカルポーネ…って、うぉぉぉぉ!?す、すす、すんまっせん…!!ありがとうございます、ありがとうございます、大丈夫でした、食って下さい、どうぞ…!いやもう本当に、失礼しましたぁ!」
最早土下座を通り越して、土下寝の勢いでサッチは平伏する。口にさせてもらっただけでも幸運なところ、欲が出過ぎていた。自分が携わってはいないとはいえ、仮にも食事を提供する側に属しているならば、食する相手は客である。
指導役のアロゼでなくとも、この現場に居合わせたならサッチの頭をこれまた彩りにガラス皿に乗せられたフレッシュミントより派手に叩いていたかもしれない。
だが、今更ながら恐縮して硬直するサッチに対し、白ひげは問題はそこではないとフォークの先を向けていた。
「サッチ…だったな、おいサッチ」
「は、はははははい、すんません!!!」
「おめぇ、何でこの船に乗りたいんだ。野望とか大層なもんを口にしてたが、そんなもんがお前にあるのか?いくつなんだ」
「……十三になってます、理由は…この船を逃したら、おれの…チャンスを逃すのと一緒だからで…」
「だからそれだ、野望の中身を頑なに見せねぇってんじゃ、おれも判断の仕様がねェ。言ってみろ、変に言わねェから、マルコの奴も煙たがる」
そこまで、料理に情熱をかけられるのであれば疑問は尚更だったのだ。
この船に乗る。
コックの見習いとして置いて欲しいと嘆願する。
理由が分からないではないか。
この船に乗らずとも、見習いのまま励めばそれなりの経験を積んでいつしか一人前の料理人になれるはずである。嫌々仕事をしたところで先は見えているが、白ひげが見て取る限り、そして息子達が様子を見る限りどうやら真面目に下っ端の雑用をこなす様な少年である。
腐ることなく、黙々と。ただ、勿論嫌な作業はある様で生ゴミの処理の時などはバケツを抱えて臭いに閉口している様だったが、とにかく懸命だった。
だからこそ、違和感は生まれる。
その歳で、何故。仕事を仕事と思わない、天職であり生き甲斐とする人間なら多く見てきたが歳があまりに若過ぎる。この世の中で労働を始めるのに早過ぎる歳ではないが、大まかに見て早い方に入るだろう。
北の海には闇が多い。
それが、白ひげが問い掛ける理由のひとつだった。
何かしらの訳があるならば、いや、何かしらの理由がなければ"あんな目"にあっておいてまで、海賊と関わろうとするものか。
「……探してるものがあるから、まぁ、それで…偉大なる航路を進みたいって…」
「探してるもの?そりゃあ、何だ」
サッチは頭を掻く。
本当なら、伝えても良い筈だった。自分を助けてくれた少年の目を盗んでの訴えが果たして正解なのか分からなかったが、おそらく今が何かの分岐点だ。
「………おれの欲で…、」
「あぁ」
「………笑いますよ、多分」
「笑うかどうかは聞くまでは分からねェだろ。だが、お前が笑われたくねェってんなら、おれは笑わねェよ」
どんなに滑稽でも、どんなに夢のような話でも。
だから話せ、と言われてサッチに拒む理由はどこにもなかった。
「─── 探してるんです、おれの夢、おれの…生きている理由が、それだから。…聞いたことありませんか?海の彼方には…きっと───……、」
✳︎
普段ならば、頼まれずとも自分から挙手して勝手に飛び出していく程、マルコは偵察が好きだった。何せ、自分の得意分野と言って良い。冒険心は誰よりもある。大きなヘマをやらかさなければ、はじめの一歩を踏み出す名誉を与えられたようなものだ。
それを、逆手に取られた気分だった。
─── 油断してた…!!アイツが、作業中は勝手に抜けたりしねェ…って勝手に思ってたおれが間違ってた…。
「おい、見習い!!作業中にオヤジの部屋まで押し掛けるたぁ、どういう根性してるんだ!」
「………へ?」
「へ、じゃねぇ!しらを切るなよい、お前が船長室から出て来たっていう情報も、時間帯も、こっちの耳には入ってるんだ!」
既に太陽は沈み、夕方から夜への間を揺蕩う時間帯になっていた。戻ってくるや否や、定位置のように甲板の隅で飽きずに野菜の───今回はジャガイモの山と格闘していたサッチの顔が、間抜けなものだったので益々マルコの感情を逆撫でにする。
「あー、あれ!」
「あれ!じゃねぇ、おれが偵察で出てるからって裏を掻いたつもりか、あぁん…?」
「いや、おれ、そもそもお前、どっか行ってたの?おかえり、おつかれ」
「おう、ただいま。まぁ、そんなに疲れるような件じゃ……じゃねぇ!!」
マルコが喧嘩腰で掴み上げた白い服の襟首だったが、上がる様になってきた左手と共に労いの言葉を掛けられれば、どうにもペースを乱される。
「ちょっと、マルコ!子供に絡むんじゃないわよ、恥ずかしい」
「うっせぇよい、ベイ!」
「なぁに、マルコ。今、アタシに、まさか…うるさいって言った?」
「ぐぬぬ……、」
通りすがりの姉気分に嗜められれば、噛みつき返す言葉へ上回る圧で押し込まれる。離してやれ、と更に視線一つで促されれば手を離してやる他にない。
この船で破ってはいけない掟は一つだけだが、守らなくてはならない掟は別にある。それとはまた別に、ホワイティ・ベイに下手に逆らうなとは鉄の掟だ。
マルコも身を以て知っている。
パッと寄せられていた身体を突き飛ばしたと言う程、強くはなかったが急に離されサッチの身体が二、三歩よろめく。
「うわっ!!と、危ねぇ…」
「…お前は」
「刃物持ってる時は、やめろよな…なんだよ」
「お前は、なんかムカつくんだよ!」
ピシャーン!!と指先と共に突き付けられる言葉に、サッチは瞬きをする。なんか、なんかムカつくって、何だ。
「なんかムカつくって…お前何歳だよ、おれと同い年のくせして子供みたいなこと言って…」
「大体、お前にゃ帰るところがあるだろ!オヤジは優しいが、そういうところシビアだからな!」
「ちょい、ちょいちょい待って…お前がおれのこと嫌いなのは、よーく分かりました。分かったけどな、それとこれとは別だろ!」
「何が!」
「オヤジさんが船の船長で、お前ただの見習いじゃん!副船長とか、甲板長とか、航海士でもねぇじゃん!言いすぎじゃね?」
「なっ…」
「そもそも、助けたのはお前でも決めるのは違うだろ、船長さんがやめろって言ったらやめるけどなー、やめろって言われてないからなー」
「何だってぇ…?」
ザザン…、と波の音が響く。
離したはずの首筋をもう一度掴まえられれば、サッチは振り解こうとはしなかった。命を助けてもらった、船に乗せてもらって衣食の補償もしてくれている。海賊は慈善事業ではない、分かっている。
だからといって、作業中に突っかかってくるのは許せない。そうだ、サッチは感情が先走った心の中で再確認する。仕事の途中で、邪魔をされるのは、どうにも我慢ならなく腹が立つのだ。
「思った通りのこと言ったまでですぅ〜、おれは仕事サボったつもりはねぇし、乗せてもらってることに恩を感じてるよ。けど、それとこれとは別だって言ってんの!大体、今おれの作業邪魔してるのお前じゃん!」
「……絶対…次の島で下ろしてやるよい、いいか、お前はな!この船はな…お前みたいにのほほんと生きてるような奴が乗って良い船じゃねぇんだ!受けた義理ってのが、周りの面子にあるだろうに…海賊の暮らしってのは、お前が思うより甘くねぇんだよ!」
もう陽の光は届かない。
アンカーランプに次々と灯され、ガラスの中で炎が踊る。
何事かと次第に集まってくるギャラリーに、売り言葉に買い言葉は止まらない。作業の妨害をしている、と言われればそのままだったが、そもそも次の島の偵察に行っていたのだ。このままの調子で行けば、明日の昼にも無事に上陸を果たすだろう。それがマルコを焦らせた。
「…なにお前、おれが楽して、楽しそうだから、この船に乗せて下さい…って言ったと思ってる?」
「違うなら理由を言えよ!ずっと聞いてるだろうが!」
「……笑うから、皆が笑うような夢だから、言うタイミングと相手選んでんだろ!船長さんには…、言…」
「笑われるような夢なら、尚更乗る資格はねぇ!」
「にゃにおう!!」
「いいか、一般人は…!!」
マルコの掌が、咄嗟に掴んだのはジャガイモの樽だった。誰かの屈強な腕が、やり過ぎだとそれを止めようとしたが、投擲の速度のほうが上だった。押し倒した樽がデッキの上を転がる、中身が溢れる、サッチに目掛けて大振りのが三つフルスイングで襲い掛かる。
「─── 陸に帰れる場所があるやつは、恵まれてる奴は……船なんか乗るんじゃねぇって……、言ってんだよい!!」
スローモーションだった。
少年の顔面に当たって跳ね返った馬鈴薯が、勢い余って外に向かい放り出された瞬間───、マルコはサッチの身体をコマ送りに捉えていた。
瞬きの間に、動きを変える。
皆と自分の動きは、まるで時間が停止したようで。
手を伸ばす。伸ばしたのはマルコだ、あまりに遅い。自分の指先が、視界に入るよりも前にサッチの伸びた腕がジャガイモを掴もうとする。指先が、触れた先で弾いた。取り損ねたそれを追った姿が躊躇いなく舷墻の縁を踏み越え身を踊らせる。
「……うそだろ……?」
馬鈴薯だ。たった一つの、ただの馬鈴薯だ。
訳が分からなかった。意味が分からなかった。
「なんでお前…、なんで…」
夜の大海に身を踊らせてまで、追い掛ける理由が分からずに立ち尽くすマルコを超えて、数人の船員が既にロープを抱え甲板を走り始めていた。
TO BE CONTINUED_