落ちた涙の二元論 ───ここまでが今日の記録、以下余談!
今日はマルコと盃の兄弟になった記念すべき日だ。祝い事に必要なのは、飾り付けられた豪華なケーキ!!…ってェのは勿論無理だけど、海の男達にとって兄弟の契りを交わすのは、海賊の掟を新しく結ぶのと同じくらいデッカくてすごいことだってのは分かった。……って書きはしたけど、ここでおれは顎に羽ペンを押し当てながら考える。ぶっちゃけ、義兄弟になろう!って、おれは結構軽い気持ちで酌み交わしちゃったりしてた。船長さんと盃を交わして配下になりたいって海賊達が、かなり物々しい面持ちであんな小さな盃を両手に押し抱く光景に仰々しいなァ…って思ってたのが本音。
義兄弟、義理の兄弟って言うとよそよそしい。じゃあ何だっておれなりに解釈してみた。
─── で、こいつはスヤスヤ寝てますよって…あらら、良い夢でも見てんのかな。珍しく笑顔で寝てる。
二階建てベッドの上階を覗き込むと、安らかに寝てる兄弟の姿がある。あまりにも静かなものだから、呼吸を確かめようかな、なんて思ってやめた。指先骨折した理由が、寝てる兄弟にちょっかいを掛けたからです。なんて言ったら、そのマルコにまず往復ビンタでも喰らいそうだし、ヴァレリー先生に背骨真っ二つにされちまう。
脱線した話を戻して、盃兄弟ってのは本来は水を盃にして行われる行為だ。だから、ある意味でおれ達は正式な作法で結ばれたと言って良い。(ニュアンスがちょっとアレで、厳密には炭酸水だったけど)じゃ、何で今は酒が主流になってるのかって?答えは簡単、海上で真水を手配するより酒瓶引っ張り出してくる方が遥かに簡単だったってことだ。腐りにくい酒を酌み交わしての縁なら、その後無礼講になったんだろうな。その方がスムーズで流れに沿ってる。じゃ、どうして濾過装置の整った今でも酒なのかって、そりゃ神酒としての意味があるだとか何だとか言うけど、結局は飲みたい奴が多いんじゃないかな〜って。
それじゃ、またまた逆に何で本来は水だったのか。
それは、血よりも濃いものがあるって示したかったんじゃないかな、と。
赤い血の繋がりを持って兄弟家族と言うなら、同等のもしくはそれ以上の関係を無色透明の究極に澄み渡った水で誓い合ったなんてロマンチックじゃないか、とか。だとしたら、おれは何だかしみじみしちゃうんだ。まだ実感ないけど、おれ達きっと上手くやっていける。そんな気がする。
何だか今日は気分よく眠れそうだ。結局、豪華なケーキはなかったけど余った材料で(ちゃんと許可は取った!)作れたのはたった三枚のパンケーキ。それでもマルコは笑ってくれたから、オールオッケーブルー!これおれの最近の流行り。
ってなわけで、おれは寝る!!
そうそう、マルコと盃を交わしてようやくお前の名前がちゃんと思い付いたんだ!だから今までの暫定の名前達は一旦供養しよう。昨日までの炎の料理人日誌よ、さらば。お前は辿り着く世界に向けての───熱烈な、おれからのラブレターなんだ。
だから焦がれて止まないお前に、こう名付けよう。
"World Blue "
✳︎
着せられたヘンリーネックの薄手のシャツは若干だったが自分の体格よりも勝っていて、間取りの少ないリビングルームという言葉が似合わない部屋の床に胡座を掻いたままサッチはおずおずと顎を上げて挙手をしていた。
「あの、マルコ…"さん "」
「…………」
「うわ、すげェ〜〜イヤそうな顔!!」
タオル越しに見える男の顔が、イヤそうとしか言えない独特な表情に変わるののにサッチの方がガビーン!と表情を引き攣らせる。
「何だその、マルコ…さん…ってのは」
「口ひん曲がってる、曲がってる!!あんたの名前でしょ、マルコさん。ただの呼び掛けにそこまで反応しますかね…、ハサミ貸してもらえますか?さっきは、何も言わずに剃刀借りちまったのも結構…軽率だったって反省してて…」
「……あるにゃあるが、何に使うんだよい」
「いや、こうして怪我してるからって…毎回乾かしてもらうわけにもいかんでしょう。短くすりゃ、自分でも何とかなりそうなんで」
何も間違ったことを言ってはいない、そう思う。サッチの頭は今、まさにブラッシングの後に厚手の柔らかなタオルによってマルコに髪を乾かされているところだった。髪を乾かしてもらう行為自体は親子のみ許される気がしていたが、どうにも随分と年嵩に見えるとはいえ自分は鏡で見る限り少年と言える歳でないのは確かだろう。それに、だ───。
「それと…おれ……、あんたを怖がらせたくねェけど…おれ、堅気の人間じゃないと思うんだ」
ソファに座るマルコの返事はないが、サッチはぎこちない片腕だけのシャワー中にずっと頭に浮かんでいたことを素直に伝えることに決めていた。どう考えても、行き倒れを助けて手当と風呂まで与えてくれた人間は善人だ。自分も途方に暮れてるとはいえ、そんな恩人に迷惑を掛けるのだけは嫌だった。
「………、」
自分の髪を無言でわしゃわしゃ水滴を拭い続けるマルコは無言だったが、その沈黙が逆に恐ろしい。だが、どうにも記憶を失う前の自分も余程の正直者だったのか、迷惑をかけてしまうと思えば言わないでおくのはどうにも座りが悪い。真っ直ぐに前を向いたまま、サッチは片腕を男にも見えるように軽く持ち上げる。ステファンと呼ばれる白犬は散歩という名の見回り、もしくは見回りという名の散歩に出ていた。
「手当の時に見たなら分かるだろ、この身体は…至る所が傷だらけだ。よく分かんねェけど、コレだけはよく分かる。おれは、斬ったり刺したり…なんか派手に争う場所に身を寄せてたってことだろ」
サッチは袖を捲った自分の腕を見下ろす。
風呂場に入って片腕でどうにか服を脱ぎ捨てた時、自分の姿に卒倒しそうになる程度に、身体中の至る所に出来た傷跡。一番ショックだったのは、鏡の中の自分が困惑した面持ちで見返す目元の傷だった。
「顔だってさ、こんな大きな縫い目で…相当にヤバいやつだったのかも。…海賊だったり、山賊だったりしたのかな…」
「───確かにひでェ傷ばかりだ、切創なんてもんは複数、左下肋部に挫滅創。前大腿部及び左後下腿部に…、爆創があるが右肩甲、肩甲間から脊柱部に掛けての熱傷の範囲が広い。それ以上増えなくて良かったな」
自分の言葉で落ち込んでいたサッチの頭が、さらさらと続けられる男からの言葉に思わず勢い良く向けられる。
「あとはコイン程の若禿げが…」
「嘘ォォ!?」
「冗談だ」
眼鏡越しの真顔がまた恐ろしい。
「そこで冗談挟むのかよ、オッサン!!?」
「ちなみにおれは元海賊だが、再生の焔の力がなかったら無茶な戦い方ばかりしてたんでな。四肢吹っ飛んでてもおかしくなかっただろうよ。じゃ、後はそのうち乾くだろ。寒い季節じゃなくて良かったな」
「…………へ?」
ソファから立ち上がりざまに、ポン、と背中を叩いた男の言葉は自分への励ましである。それは分かっている。しかしついでとばかりに続けられた言葉が一拍おいてもたらした衝撃にサッチの口があんぐりと開いて閉まらなくなる。
海賊。
今、すんげェさらりと…。
海賊だって……!?
「とりあえず朝飯にするか、そこのバスケットから貰いもんのパン出してくれ」
「まっ、待て、待て待て…か、海賊…!?あ、あんた海賊だったのか…!?」
「元、海賊だよい。現役はとっくに退いて…戻る場所もねェから…まぁ廃業した身だ。今はこの村で医者の真似事をしてる」
「………駄目だ、何から混乱すれば良いのか分からなくなってきた…、」
こういう混乱時に出来ることは、素直に相手の言うことを聞くことだと学習したサッチは眉を上下させながらバスケットに手を掛ける。それでとりあえずのところは上等だと、マルコも数少ない食器を納めた棚の扉へと指先を伸ばしていた。
✳︎
自分の住処に誰かを招くのは、別に久しぶりという訳ではなかったが。自分の家とするにはまだしっくりと来ない家の中に、誰かしらが滞在するのは───しかもそれが、"サッチ "だという現実感のなさ。夢ならば醒めてほしくない、陳腐な言葉は既に昨夜浮かべ尽くしていた。覇気なんてものは使わずとも、食器棚のガラスに映る青年はバスケットから取り出した黒パンを両手で持ち上げ、その大きさに瞳を輝かせている。鼻先を寄せて、両掌に乗せたライ麦の香りに顔を綻ばせて。酒では中々酔わない男が、芳香に人の良さそうな顔をうっとりと崩す。
「( ここまで高度な幻覚は……流石にねェだろ、きっと) 」
サッチが殺されてから、二年の月日にあまりに色々なことが起き過ぎていた。最初は、自分が誰かも分からないとパニックを起こす青年をどうにか宥めたものだったが、もしあの時に青年の方が混乱を顕にしていなかったら自分の方も相当危なかっただろう。
恐らく、抱き締めていた───、
目に焼き付いてはならない光景を裏書きする様に、自分より小柄な体躯を抱いて血の通う、生きた人間であることを全身で感じたなら涙を流したことだろう。
死んだ人間が生き返ることは、果たしてあり得るのだろうか。
自分達は、最大限の礼と感謝の気持ちを持ってサッチの遺骸を母なる海へと葬った。その日は空が殊更に青く澄んでいて、雲一つない晴天で誰の頬にも涙はなかった。
仲間殺し
白ひげ海賊団の唯一の掟だ。勿論、細かな約束事は挙げればキリがない。甲板での取り決め、戦闘時の心得、船上で年齢も種族も生まれ育ちも違う者達が一つ船の上で暮らすともなれば誰もが間違って、その上で体感で覚えていくルールがある。ティーチが破ったのは、その中で"絶対に許されざる、血の掟 "───。
船の上で、それが破られたのである。
皆が皆、哀悼の心の他に筆舌に尽くしがたい感情が渦を巻いていた。それをどうにか内に押さえ込んだのも、サッチが目を掛け可愛がっていた青年を想ってのことでもある。怒りの炎に自分自身を燃やして、サッチが誰に命を奪われたか分かった瞬間に、所持するストライカーに飛び乗りモビーから海原へと身を躍らせようとした激情の焔を止めるのに隊長達は数人がかりだった。
火拳のエース。
誰よりも生き急ぎ、誰よりも繊細な青年だった。
若いからこそ、熱く愚直で、
若いからこそ、真っ直ぐな男だった。
父たる男が諭した言葉でさえ。
唯一の父親と胸を張って慕った男の言葉さえ、あの不器用で頑固で誠実な青年を引き留める鎖になり得なかった。
引き留めることは可能だった。
マルコの能力から、すぐに翼を広げエースを海に突き落とし、頭を冷やせと引き摺り上がることは充分に出来た。それを、どうしてか掌しか伸ばさなかったのは───、
エースがサッチのことを、最初の家族として心許しているのを知っていた。
そして、同じくらいにティーチを信頼していたことも。
サッチとティーチが元々親友同士だったことも、仲間に加わったエースが、倍ほども歳が違う二人の間で年相応に浮かべる笑顔も。
その全てが崩れ落ちた時に、どうして思わないでいられただろうか。
行かせてやれ、止めてやるな。
そうでもしなけりゃ、エースの心は壊れちまう。
行かせてやれ!止めてやるな!
でなけりゃ殺されたサッチの魂は、何処に行くんだ───?
小さく唇を噛む。
だが、おれだけは何があっても……止めてやるべきだった、それが役目だった───。
繰り返したところであの日々は戻って来ない。
「マルコさん、これ中に一緒に…、」
「───あ?」
「読むつもりなかったんスけど、見えちゃって…なんかこう…すんません」
視線をどことなく泳がせながら、またどことなく笑みを隠そうとしながらこちらを見上げる姿が食器棚のガラスに映っては、マルコは扉をしっかりと閉めなおし振り返る。
「あぁ、ルルゥからの…、」
「なんか微笑ましいっスね〜そういうの!ねェねェ、村の子?」
「おまえはそのあやふやな敬語は一旦置いておけ、聞き取り辛くて仕方ねェよ」
楽しげに覗き込むサッチを手の甲で邪魔だと押し除けながら、マルコはパンと共に収められていたカードを手に取っていた。手に当たる感触に、意識を持っていかれない様に振る舞うのも落ち着かない。
本当は少し距離を取るべきなのだろう、落ち着くまでは。
だが、そんなことをしている間に消えてしまったら?
───マルコへ、いつもおばあちゃんをみてくれて、ありがとう!こんど、ゆうごはんにおねまきしたいです。だいすき!───
おねまき、は、お招きのことだろう。
一生懸命にクレヨンを握って書いたのは、その筆圧からもよく伝わった。文字を囲む様にして散らされた青と黄色の同じくクレヨンの星がマルコの引き結んでいた唇をほんの少しだけ挙げさせる。
「かわいいラブレターじゃん、マルコさんモテんのね」
「モテてたら今頃独り身じゃねェよ、そのさん付けもやめろ」
「でも、それは…歳上に対してどうかな〜って、」
むむむと唇をまた尖らせて、流石に礼儀が云々口にする所にマルコの肩からゆっくりと力が抜けていく。深呼吸と共にカードは一旦カウンターの片隅に避難させてふと気付く。
「サッ───、」
「……え、ど、どうしたの固まっちゃって」
「……若造、」
「若造。」
くるりと振り向いたマルコが立てる人差し指に、サッチは瞬きを二つ落とす。確かに、相手からしてみれば若造も若造だが、なかなか呼びかけられる言葉ではないだろう。
いや、元々海賊稼業という相手なら普通なのか───
「おれが外に出てる間に、他の部屋入ったりしたか?」
「外出て…あぁ、ええと…バスルーム。トイレも借りたし…」
「そりゃ分かってる。他だ、他」
やかんを片手に振り返る男に、サッチはえぇとと短い記憶を手繰り寄せる。
「…いや?他には何も、だってここマルコさんの家だろ。他に誰も居ないのは…なんとなく分かったけど、勝手に入ったりしてねェよ?」
「……そうかい、まぁこの島で暫く暮らすんだったら、ある程度の便宜は図ってやる」
「……あの、マルコさん」
「何だ?」
今度はサッチが両手を胸前で彷徨わせる。
「あんた、なんでそこまでしてくれんの───?」
拾ったから。
そんな単純な理由で、記憶がない得体の知れない男を保護して良いものか。底抜けのお人よし?そんな気配は、最初の詰問からは感じ取れなかった。
「ありがたいけど…元海賊って言ってたろ、今が医者だとしても…マジでおれがやばいヤツだったらどうすんの?」
「どうするって?」
「いや、だから…!悪いヤツかもしれねェじゃん、この島…島だよな?島を襲いに来た、悪い海賊の下っ端とか…、」
「だとしたら、その時におれがお前さんを島の外まで蹴り飛ばして終わるだろうねい。───そんなことより、若造」
「若造。」
何故伝わらないかと力説するサッチに、マルコは腕組みして一頻りは聞いてやったと区切るように冷蔵庫から取り出した何かをサッチの掌に押し付けていた。一瞬、ヒヤッとした感覚にサッチに緊張が走る。続いて、おっかなびっくり見下ろした手のひらの中身に、別の意味で割ってしまいそうだと指先が強張る。
「え、ちょ、」
「一個はおれの、もう一個はお前のだ。好きにしろ、朝飯に食えるようにしてくれ。おれァちょっと外す」
「外すって……オッサン!!」
「フライパンの類は右下の棚だ、調味料は…そんなにねェが右上の扉。食材は好きに使って良い、あと任せたぞ」
「無視!?いきなり言葉通じなくなってる〜〜!?」
二つの卵を割らないように落とさないようにと慌てふためくサッチの姿に、いつぞやの光景が頭の中に蘇る。
─── お前な!人が包丁握ってる時は、喧嘩ふっかけてくんのやめろよ!?切ったらどうすんだよ、危ないだろ!?
「…怒るのはそこじゃねェってなぁ……、」
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「料理作っておけって…いや、朝飯だろ!?朝飯って…いや〜多分、朝飯って、肉と…卵と…あ、パンはあるか…、」
自分がやるのか、と数少ない部屋の扉を閉めてしまう男に挙げた声は怒りではなく、ただの困惑である。その戸惑いが、確かに座って飯が出てくるのを待っているだけの存在より価値があるかとすぐに思い直せるのがサッチの美点の一つであった。すぐに卵をそっと、柔らかな布巾の上に孵化する予定でもあるかのように下ろしてやっては、腰に手を当て冷蔵庫を覗き込む。
不思議なことに、記憶はないにはないが、記憶と言えない知識や常識の類は身に付いているものらしい。例えば、生まれも育ちも分からないが靴を見れば脚に履くものだとわかる。確かに頭を整理するには、自分も一人になりたかったのかも知れない。ステファンという犬は、実に人懐っこく世話を焼いてくれたが、同時に別の考え事をするには難しい。
「( 食事の時に、オッサンに色々と聞いてみよう…、) 」
ちらりと一度だけ背中越しに振り返る。
特徴的な髪型の男は居ない。もしかしたら、自分がいない間になくなっているものや荒らされている物がないか確認しに行ったのかも知れないが、それはそれでよかった。寧ろ、当然のことだろう。
けど、何か隠している。
自分が言えるような立場ではないが、何かしらをこの家の主は隠している。じわじわとした、いくつかの細やかな違和感がサッチに告げていた。だが、その違和感を全て繋ぎ合わせてもまだまだ答えに辿りつかない不明瞭な点が多過ぎる。
本当におれは誰なんだ?
「………サッチ、…傷だらけ、…真新しい怪我は腕に…髪は長い、……栄養状態は良さそうで、髭はもうない」
マジマジと自分を見下ろしてから、持ち上げたボウルの表面に間延びして見えた自分に笑う。瞳は緑、歳は多分若い。とりあえずの情報として、それだけは分かっている。限りなく暗闇には近いが、足元だけはギリギリ照らされている。考える時間があって、頭を休められる場所がある。その上、今の所は衣食住付き。
「……うん、仕事探そう。おれ、何が出来るかな〜。結構良い身体してっから、肉体労働とか?この島の経済ってどう回ってるんだろ」
とりあえずは手洗い、指の爪の間から膝までしっかりと洗って清潔そうな布巾で拭う。これは、食材には使わない。いくら使って良いとは言え、冷蔵庫をひっくり返すわけにもいかないが、あまり手間が掛かってもいけないだろう。卵だけは使え、というより話題を切り上げるためのちょっとしたトリックだった気もするが、本当に一人暮らしらしい冷蔵庫の中は酒の瓶が大半なのは見ないことにして、意外と悪くない。あれと、これと、それも。大きなチーズには心が踊る。扉を閉める頃には、すっかりやる気に満ち溢れたサッチの顔があった。
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「………で?」
「か…カッとなってやったって言うか…手がなんか自然と動いてたって言うか…、」
「わふ〜〜!!わふわふ!わふん!」
ご馳走の香り!!と尻尾を羽箒か何かのように派手に揺らす犬は大喜びだったが、向かい合うテーブルに座した男が片手で眼鏡を押し上げる仕草にサッチの背筋が伸びる。確かに頼まれたのは朝食の支度だったが、それにしてもあまりに手が動くのだ。自由自在、あれもこれもとサッチが置いていかれそうになるくらいで、正直に言ってしまえば楽しかった。途中、あれがない、これもない、と浮かんではそれで代わりになる、それならこっちの方法だって上手くいく、と。
だが、サッチも言わせて欲しい。鍋をある限り引っ張り出して、冷蔵庫を結果としてほぼ空にしてまで料理を作り上げるとは自分でも思っていなかったのだ。夢中になる自分をせめて止めてほしかったものである。犬と一緒に、気配を消して部屋の隅に座って待つのではなく。
「ひ、昼の分と夕飯の分と…余ったら明日にでも…、」
「これは?」
「そ、それはトマトのコンフィで…」
「隣から順に」
「悪かったって…、ネギとパプリカのマリネに、ラタトゥイユに…、」
食材を使い切ったことに対しての怒りなのか、大した反応がないのが却って凄みを感じてしまう。一つ一つ、これは何だあれはと聞いてくるサッチはそれでもまだ一つ提供には間に合わなかったと時折使用形跡のなかった備え付けのオーブンを覗き込みながら、いつしか重ねたタオル越しに口元を覆う。
「……!!おれ、何でこんなに、料理作れるんだ…?」
「とりあえず、食っていいか?」
「ど、どどどどうぞどうぞ…!!」
男の手が、少しばかり色とりどりの食の花畑となったテーブルの上で迷ってから中央のサンドイッチを手に取る。朝、焼きたてだったパンは今はしっとりと落ち着いている。よくもまぁ、こんなにも皿を引っ張り出してきたとも思うが、食べる前から浮かんでしまう小さな微笑みは、大きな頬張りシンプルにハムとチーズとレタスと、そして芥子を混ぜたバターが丁寧に塗られたパンの間で喧嘩することなく混ざり合う。
「………」
「………」
男の無言の咀嚼に、緊張の面持ちでサッチの咽喉が鳴る。
「……………」
「……………」
「………………、」
「( えェェッ!!泣いてらっしゃるゥゥ!!?) 」
味の好みは千差万別。
既に勝手に食材を好きに使っておきながら、あれだったが口に合わないだのは受け入れる覚悟が思わず構えた姿勢になっていたのをあたふたと両手を彷徨わせることとなる。黒パンのサンドイッチを皿に下ろし、代わりに赤眼鏡下の目元を指先で摘む男の反応は大分想定外だ。
叱られこそすれ、泣かれるとは。
「な、何か嫌いなもんでも入ってた…!?芥子!?芥子ダメな大人だった!?ごめん、聞かずに入れちまった…!」
─── ここに居たのか、マルコ〜!拗ねんなって、ヴァレリー先生もお前に怪我させたくねェから叱ってるんだしさー。
─── え?拗ねてなんかない?あっそ、いや別におれも励ましてやろうとかそういう気持ちは特にねェよ?自分のことだもんな。…けど、なんつうか…。
─── ……だよな?叱ってもらえるって嬉しいよな?でも素直に聞けるほどおれ達歳食ってねェもんな〜!あはは!
─── ってそれとこれとは別だわ!!飯はちゃんと食えよ、ほらサンドイッチ。これなら皿なくても食えるだろ?ちなみにお前だけさ…こっそりハム多め…!サッチくんに感謝して、今度はちゃんと昼飯の時間に来いよ?
─── じゃないと心配すんだろ…お節介ってなんだ、お節介って…!
「……いや、昔を懐かしくなっちまってな…、悪ィ…歳取ると涙腺が脆くなっていけねェ…、」
「そりゃオッサンはオッサンだけど…、」
「情けねェな、昔は堪えようと思えばどうにかなったんだが…。一度落としちまうと止めるまでにちょいと時間が掛かる、気にしねェでくれるか、」
泣く、とするよりは静かに涙を溢すとした方が正しかった。
後から後から、青く透き通った瞳から前の涙を追い掛けるように瞳から溢れて頬を滑り落ちていくそれを指先で追い払おうとする男の仕草に、きっとそうして涙を溢れさせるのは初めてではないことをサッチは知る。
察した瞬間に、ゆっくりと膝を折ってその場に屈み込んでいた。
「─── サッチ……?」
「うん、あのさ…おれ何も全然分からないどころか、あんたのこともおれ自身のことも分かってなくてさ。だから聞き流してくれて全然構わないんだけど……、何でだか、汗ってなんで出るか知ってるんだよ。雑な豆知識」
唐突な話題に、男の瞬きでまた一つ涙が落ちる。
「………は?」
「暑いと汗が出て、それは身体の表面で蒸発して熱を取ってくれるんだって。汗なんて煩わしいからすぐにでも拭っちまいたくなるけど、それ聞くと、身体がちゃ〜んと反応してくれてんのに勿体ねェ〜って気がする」
「今何でそんな話を、」
「涙も同じだと思うよ、おれ」
誰が教えてくれたのか分からないけど、とサッチは右手の頬杖に顎を押し付けながら白い歯を見せて笑う。椅子に座るマルコを見上げて、何も分からないから分かることを口にしてるのだと緑の瞳が柔らかに細められる。
その左手は、マルコの眼鏡を押し上げたままの掌にそっと添えられていた。
「泣いたって良いじゃん、泣きたい時に泣くのは身体が必要としてるから。喉が渇いた時に水を飲むように、涙だって理由があるから出て来てるんだよ。それをさ、情けね〜とか、みっともね〜とか、少なくともここにいるのは…ステファンとおれだけじゃん」
記憶も何もない若造だと、笑って見せるサッチは純粋に悲しむ姿に痛む心を持ち合わせていて。取るに足らない自分相手に、堪えることも我慢することはないのだと───励ますつもりでの発言だったことに違いはなかった。
「だから、今泣いても…別に良いと思うけど…おれはね?おれは。泣けって言ってるわけじゃないけど…、」
だが、躊躇いの面持ちから表情の読み取りにくい眼鏡を掛け直したマルコの続く無言に、余計な世話だったかと謝罪と共に掌をそっと下ろそうとして動きが止まる。
「………、」
掌が緩く掴み返される。決して強い力ではなかったが、その指先の冷たさに思わず払い除けるのではなく手首を返すようにして体温を分け与えようと反射的に握り返す。サッチの記憶があろうとなかろうと変わらない芯からの性分だった。雪のように指が冷えている、そう口にしようとしてマルコを見上げたサッチの喉奥が鳴る。
青い瞳が、間近にあった。
いつのまにか、組み合う指先同士が繋がれていく。
涙の跡が頬から消えない、金色の睫毛がそのせいで何本か束になり透明な膜を張ったようでもある。
視線を、逸らせない。
「……サッチ、おれは───、」
何かを望まれている。
脳より先に、触れる肌の熱から伝わる欲求に身体が震える。
厚い唇が何かを求めて再び動く、その前に。
「……おっ」
「……"お "?」
サッチの唇が動いていた。
「オオオオオオーブン……!!そう、オーブン!!」
するりと指先を解き、オーブンの元へとダッシュする。
「───、」
「あ、あぁ〜〜無事だった…、は…はは、ちゃんと見ておかねェと…、でも丁度良い頃合い…、の、アッシ・パルマンティェ…、」
「……美味そうだな、サンドイッチも美味ェよい、ステファンもそうだろ?」
「わふん!!」
両手でタオル越しに耐熱皿を掴み掲げるサッチ。
焼き目の付いたマッシュポテトから上がる湯気で顔が隠れたのは何よりの幸いだった。湯気が収まる頃には、何一つ動じていない男の姿と、嬉しげに尾を振る犬の姿があるばかりである。
「だがまぁ、流石に作り過ぎだな…村の皆に挨拶ついでに配りにでも行くか」
「あ、あの…、了解ッス」
黙々と食事を進めるマルコに、涙の跡は既にない。
立ち尽くし、取り残されたサッチの心臓ばかり不規則に、ドギマギと今にも胸の内から飛び出しそうに跳ねていた。
落ちた涙の二元論
TO BE CONTINUED_