「ここらで、一人で飲むのにいい店って知ってます?」
会議がようやくはけて退出する廊下、大きく伸びをした男は、その手を頭の後ろで組んで振り返った。羽根が窮屈そうに震え、大人しく背を覆い直す。
「……珍しい質問だね」
「アテのありそうな人に聞いてるつもりなんですが」
曰く、考えごとに適度なノイズが欲しいのだという。キャンパスのカフェに居座る学生を連想し、相手が正しくその年頃なのに気づいて、ジーニストはクスリと笑いをもらしかけた。好奇心旺盛な人間ではあるのだろうが、「モラトリアム」という時間が壊滅的に似合わない。
確かにアテならあったので、行きつけの店をあげてやる。
「ただ、今日の予定だというなら一点問題が」
「なんです?」
「私の今夜の予定もそこだな」
ああ、となんでもなさそうにホークスは肯いた。続く言葉は、協調性という概念に真っ向ケンカを売る代物だったが、ジーニストはジーニストでそこに難を覚えない人間だった。
「一人で飲んでるヤツが二人いたって、別に問題ないでしょう?」
◇
物慣れない風でもなければ、かといって背伸びをした様子も見受けられない。知らないことは知らないと素直に口にする聞き手に、カウンターの主はシングルモルトの講釈を引き出されている。常ならボトルの陰影に徹する男には珍しい長話だ。羽根をジャケットに収めた同僚を、ジーニストは興味深く横目に眺めた。
ゆっくり呑みたい、というリクエストに、バーテンが選んだのはバースプーン数杯の水で酒質を丸めたハーフショットだった。形をなくした琥珀のような一杯が、チョコレートに干しぶどう、シェリー樽のきいた香りを隣のジーニストにまで届けてくる。
「……あまい酒だったんですね。知らなかったな」
口元を綻ばせたホークスに、嬉しげに頷いたバーテンは、四本腕を滑らかに動かし続ける。優雅に見える所作からはその実、無駄の一切が除かれている。ツマミのカマンベールが切り出されるのと同時進行で、ジーニストの前にも生ハム仕立てのカジキとキリリと冷えた白ワインが並んだ。
ところで、食べ物の趣味が全く合わないのは互いの共通認識だ。
考え事、との言葉の通り、男は酒棚に視線を投げてグラスを口へ運んでいる。特に構わず、ジーニストは定石よりも低いワインの温度と肴のマリアージュを賞賛し、立ち上るパッションフルーツに似た芳香を愛で、酒を供する側を邪魔しない程度に世間話を楽しんだ。
さて、ファッションリーダー・アーティストでもあるジーニストは、服飾に限らず文化芸術全般に関心を持つ。酒精を軸に語られる文化史だってその例外ではない。加えて彼は、自他共に認める説経臭い人間だった。それらが合わさるとどうなるか。
蘊蓄が、長くなる。
当人にも自覚はあり、所長としての彼は「所員の慰労を目的にした会で、彼らを疲れさせては本末転倒」と自戒している。だが今、前にいるのは同好の士で、隣にいるのは自称一人飲みの男。彼は気兼ねなく、グラスの中身の歴史やテロワールに思いを馳せていた。
「……その辺りって、酒、大丈夫なんでしたっけ?」
セラーから取り出された中東産の一本に、酒を受け取るとき以外はぼんやり黙り込んでいた男が呟いた。ジーニストは、おや、と瞬く。BGMにされているものとばかり思っていたが、まぁこの男なら、頭の隅でBGMを処理し続けるくらいのことはするだろう。
「フランス領だった頃の影響だ。それに、酒との関係を辿れば数千年は遡れる地域だよ。アランビク、蒸留器の原点さ」
アルケミストの領分だな、と嘯いて、ジーニストはグラスを傾けた。余韻のミネラル感が面白い。地産の古代品種の影響だろうか。
「君が口にしている酒もその末裔だ。ウィスキーは、とりわけ炎と縁深い。蒸留の熱はもちろん、木樽の甘さは火に炙られて初めて生じるものだし、それに……」
タイミングを見計らったように、ホークスの前に新たなグラスがそっと置かれた。鼻腔を掠めた香りに、ジーニストは、粋な計らいだ、と笑みをこぼす。ホークスは、趣向を変えた中身を不思議そうに揺らした。
「……けむい?」
「麦の発芽を止める炎、その煙香で愛されるボトルさ。……そうだな、『炎が手織った香り』と言っても、あながち間違いではなさそうだ」
バーの薄暗がりで、アルコールランプに赤がチカリと瞬いた。ホークスの耳元だ。羽色に合わせたワンポイントと思っていたが、こんな話をしていると別の色にも見えてくる。
「……その昔、蒸留酒には火の精が宿るとされた。だから『スピリッツ』と。どこに行っても、魂になぞらえられるのは炎だな」
グラスを手にした男の目元に、見慣れない感情が掠めた。瞬きの内に跡形もなく消え失せた柔らかさに、ジーニストは見間違いだったろうかと自問した。
「……これ、なんていう銘柄です?」
家で酒を開ける趣味はないのだという男が名前を尋ねたのは、その一本だけだった。
後日、その飲み会(仮)の話を聞いた人間の実に全員が、「盛り上がったりするのかその面子」と疑問を呈し、当事者側は二人して「特には」と口を揃えた。そんな「一人飲みを二人でやる会」は、どういうわけだか、それからもう一度開催されることになる。
数年後、ジーニストが生きたまま全身を防腐加工され、ホークスの扱いが「お前」に落ち着くなどとはまだ知るよしもない、ある春の夜の出来事である。