「どこかへ行くのか?」
天才クラブのメンバー「貴金の神」鍾離は自らの監視者に問いかけた。
かつて人々が夢見た『真の錬金術』を実現し、それを以て神の一瞥を受けた天才は現在スターピースカンパニーの監視下に置かれている。呼吸のような気軽さで希少金属を造られては星間市場に悪影響が出ると判断されての処置だ。
「調和セレモニーに招待されてね。俺が行くことになった。」
監視者…戦略投資部の高級幹部タルタリヤは答える。
海に沈む夕陽を思わせる橙の髪と深い海の底のような瞳。かつて雪に閉ざされた星に暮らした『海屑の民』の特徴だった。その民も民族抗争で殆どが死亡。タルタリヤは現在確認された唯一と言っていい生き残りであった。
「俺も行こう。」
「珍しい。そういうことに興味ないと思ってたのに。」
「ピノコニーは興味深い星だ。それに、お前と一緒にバカンスなるものも楽しめる。」
「俺は仕事で行くんだよ、先生。」
「俺と過ごす時間くらいはあるだろう。それにピノコニーにはマネーベンダーなる玩具があると聞く。学習の成果を見せたい。」
その場で貴金を量産できてしまう鍾離の金銭感覚は目下の課題であった。浪費癖の割に信用ポイントというものに慣れておらず、タルタリヤが立て替えるのが常だ。鍾離は貨幣経済に慣れてきたことを証明したいのだという。
「夢の国のおもちゃが出てくる時点でマイナスだよ、まったく…先生の分の部屋とか用意するよ。」
「お前と同室でもいいが。」
「一応自分の身分は弁えてよ。先生はヌースの一瞥を受けた本物の天才なんだよ。俺達もファミリーも気を使うさ。」
「言い方を変えよう。伴侶と同室がいい。」
「あはは、また冗談?『海屑の民と一緒になれば碌なことにならない』って、知ってるでしょ?
…ほら、部屋取れたよ。警備も手配済み。流石は大物だね。」
一瞥もくれずにタルタリヤは告げる。
それで良かったのかもしれない。
飢えた鰐の如き鍾離の獰猛な瞳に睨めつけられずに済んだのだから。
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ーーーヤリーロⅥ 下層 機械集落。
「スヴァローグ、左手を出して。」
『テウセルの要望を承認。』
橙の髪と深海のような瞳の少年と一つ目の機械生命体が掌を合わせる。
この行為の意味をスヴァローグは問うたことがある。
『よく覚えてはいないけど、もっと小さかった頃に誰かとやった気がするんだ。僕よりおっきくて、柔らかな手で。この赤いストールとナイフも、その人がくれたんだ。』
幼子が腰に帯びた無骨なナイフ。その鞘には一角を生やした鯨の意匠が施されている。スヴァローグのデータベースに知見が存在しないということは、テウセルを託したナナシビトの巡った星のどこかの文明のものだろう。その偉大なる航跡も今は冷たい土の下だ。
「鯨が再び空を飛ぶ日が来ますように」
「永遠を廻る血が穏やかな終焉を迎えますように」
「騎士の秘密が決して露見しませんように」
テウセルの言葉に合わせてスヴァローグもまた祈りの言葉を唱える。
「…へへ。ありがとう、スヴァローグ。」
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【覚え書き】
○海屑の民
『空鯨』を信奉する少数民族。橙の髪と深海のような色の瞳が特徴。人好きのする性格をしており、民族のためならば老若男女問わず気高く戦う生粋の戦闘民族。
カンパニー市場開拓部の策謀により、他民族との衝突でほぼ全滅している。
公式で確認されている唯一の生存者は現在カンパニーの戦略投資部の高級感部として「貴金の神」の監視を担っている。
○非公式の生存者
海屑の民最期の戦闘の直前、あるナナシビトが少年兵から物心つく前の弟を預けられた。この幼子と共に戦場を脱したナナシビトは、ヤリーロⅥ逗留中に裂界生物の襲撃に遭い死亡。幼子は機械生命体スヴァローグに保護された。
保護された幼子は赤いストールと一角の鯨の意匠が施されたナイフを所持しており、名をテウセルという。
テウセルの兄はアヤックスといい、現在海屑の民の最後の生き残りと目されていることをテウセルは知らない。
○空鯨
海屑の民が信奉する正体不明の一角の鯨。
彼らが行う「左手合わせ」における祈りの言葉についても謎が多いが、ほぼ失伝状態となっている。
○「貴金の神」
天才クラブ#81鍾離に対するあだ名のようなもの。ヌースの一瞥を受けた研究が「真なる錬金術」であり、それによって莫大な富を錬金出来るようになったことに由来する。
鍾離は己の研究結果をすべて正確に記憶しており、その成果を何かに残しているわけではない。