アザレア(仮) まずい、と思った時には視界が揺れていた。右側に倒れようとしている姿勢を修正することができず、せめて転倒の衝撃に耐えるために目をつぶって覚悟を決めた。
が、いつまで経っても衝撃は来なかった。
派手な音は左手に持っていたタブレットが落下した音だろう。その左腕を掴まれている。
「あ・・・ぶなっ・・・大丈夫ですか?ハインライン大尉」
右に傾いた体を引き戻してくれたが立っていられそうにない。
敏感に察知してくれたノイマンが、左腕を掴んでいた手を脇に移動させてその場に座られてくれる。
「すみません」
ノイマンの時間をもらってシュミレーターを動かしていた。二人きりのドッグは静かで、吐き出した謝罪も相手にはっきり届いただろう。
壁にもたれかかるようにして床に座る。その場を離れたノイマンはすぐに戻ってきて、水のボトルを差し出してくれた。
「少し落ち着いたら医務室に行きましょう」
「いえ、大丈夫です。データー収集もまだ途中だ」
ノイマンは呆れたようにため息を漏らす。
「顔色悪いですよ。シュミレーションはまたいつでもお付き合いしますので今日はもう終わりにしませんか」
水を飲むために頭を少し動かしただけでまた視界が揺れた気がした。悔しいがノイマンの言う通り、これ以上の作業は無理らしい。
ファウンデーション戦でアークエンジェルが撃沈され、やっとコンパスの活動再開となった今も新造艦の目処は立っておらず。ノイマン始めアークエンジェルクルーはオーブ軍やミレニアムに出向という形で任務に就いている。
ノイマンはミレニアムに乗艦しており、任務をこなしながらマグダネルなど後進の指導にあたっている。
「お時間をいただいたのにすみません」
目の前にしゃがんだノイマンは、目を開いてから表情を和らげた。
「いえ、気になさらないでください」
そのままの姿勢で他愛もない話をしていると幾分めまいも治ってきた。そのことを伝えると先に立ち上がったノイマンがこちらに右手を差し出す。
「行きましょうか」
手を取れということらしい。
一瞬考えたが右手を伸ばすとその手を掴まれる。ぐ、と力を入れて立ち上がるのを手伝ってくれ、離されるかと思った手は繋がれたままだった。
ドッグを出て居住区へ足を向ける。
「あの、もう大丈夫ですよ」
半歩前を行くノイマンに声を掛ける。廊下に出ても手を繋がれたままだったのだ。ちらりと目線が向けられにこりと微笑みかけられる。
「また倒れるといけないので。幸いこの時間なので人目もありませんし」
ミレニアムの設定時刻は現在深夜近く。さきほどのドッグもであったが廊下にも人気はない。
先ほどの醜態を思い出すと強く拒否ができないまま、しばらく手を繋いで歩く。左に行けば士官室のある居住区、右に行けば艦橋という場所で、ノイマンの足が迷わず右へ向いた。
「ノイマン大尉」
「はい?」
「医務室は結構です。常備薬があるので部屋に戻ります」
艦橋までには医務室もある。ノイマンはそこへ行こうとしているのだろう。部屋に戻りたいという言葉に、こちらを向いたノイマンの顔が訝しげなものになる。
歩みを止めたノイマンは体ごとこちらを向いた。真正面から顔色をうかがわれている。
「まだ顔色が戻っていません。本当に常備薬で大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。たまにあることなので薬で治ります」
そこまで言うなら、としぶしぶ納得してくれたノイマンに手を引かれ士官室へ。ロックを解除すると当然のようにノイマンも入ってきた。
部屋に入って左側にある備え付けのベッドに座らされる。立位から座位になったせいでまためまいがぶり返した。
「薬はどこにあるんですか?」
「デスクの、右の一番上の引き出しです」
ああ、駄目だ。ベッドに横になる。
「水も取らせてもらいますね」
ベッドに近づいてきたノイマンは、頭元の方で膝をついた。水とピルケースから出した薬を剥いて渡してくれた。
「起きられます?」
頭を起こすのを手伝ってもらわなければ内服できなかった。ノイマンの手を借りてやっと錠剤を飲み込む。ごくりと喉が鳴ったのを確認してから、ノイマンは持ち上げるのを手伝ってくれていた頭を枕へ下ろしてくれた。
「もし違っていたらすみません」
ふと、静かな声がする。
「ハインライン大尉はSubですか?」
「え?」
思ってもみなかった質問に、具合の悪い頭では上手い返答ができなかった。
「この薬、Subの抑制剤ですよね」
抑制剤は一見しただけでは何の薬か分からないようなシンプルな見た目をしている。今まで目にした人間にも指摘されたこともなく、今回も「めまいの薬です」とでも言って誤魔化すつもりだったのだが、どうして分かったのだろう。
すぐに答えられなかったので、それを肯定ととったのだろう。ノイマンは続ける。
「体調不良はダイナミクスの乱れだったんですね。抑制剤でよくなりますか?医官に言って適切なplayをしてもらった方がいいのでは?」
「医官も知らないんだ」
余計なことを言ってもらっては困る。その一心で思わず出てしまった言葉で全て肯定してしまったようなものだった。
ここまで来てしまえば隠し事などできないだろう。
抑制剤の効果か少し気分が良くなってきた。横になり目を閉じたままではあるが、ぽつりぽつりとノイマンに話す。
「確かに私はSubですが、コノエ艦長しか知らないのです」
ノイマンは驚くでもなく尋ねてくるわけでもなく、黙って聞いている。
「設計局にいた頃にcommandを使われて重要機密を引き出されそうになったので、限られた人間しか知らないんです。医官にも伝えていません」
「体調不良のときはどうしているんですか?」
ダイナミクスを明かしていない人間は珍しくない。それは分かっているようでノイマンも深くは聞いてこなかった。
「時々コノエ艦長に簡単なplayをしてもらっています。しばらく戻られませんが大丈夫だと思っていました」
コノエはひと月半ほどの予定で艦を離れている。今までもふた月ほどplayせずに過ごしたこともあったので油断した。抑制剤が上手く効いてくれることを祈るしかない。
思わず出てしまった舌打ちはノイマンにも聞こえただろう。
「あの、このことは内密にお願いします」
ちらりと目を開くと、ノイマンはなにやら考えているようだった。
「ノイマン大尉」
念を押すように名を呼ぶ。ノイマンはやっとこちらに目を向けた。
「ああ、それはもちろん。センシティブなことをべらべら喋る趣味はありません」
長くない付き合いではあるが、ノイマンの誠実なところは分かっている。きっとその言葉にも偽りはないのだろう。取りあえず今は彼の言葉を信じるしかなかった。
「ハインライン大尉」
「はい」
目線が絡む。ノイマンは穏やかにこちらを見ている。
「もしよかったら私とplayしませんか」
「へ?」
ノイマンから発せられる言葉は予想を遙かに上回るものばかりで、今夜ばかりはらしくない音の羅列しかできていない気がする。
「あなた、Domなんですか?」
ダイナミクスに関する開示は大っぴらにされていないのが現状で、ハインラインのように特定の相手にしか明かしていない人間の方が圧倒的に多い。
ダイナミクスを持つ者同士であれば相手の性質がなんとなく分かったりもするが、ノイマンの雰囲気や言葉遣いなどから彼がDomであるとは露ほども思わなかった。
ノイマンはにこりと笑う。
「意外ですか?これでもアークエンジェルでは時々クルーのcare目的でplayすることもあるんですよ」
なので安心して任せてください、とでも言いたげである。
「性的な接触はしません。commandもあなたが嫌がりそうなものは使いません、普段から私が使うのは『座って』や『おしゃべりしよう』みたいにどんな相手でも抵抗がなさそうなものばかりです」
「だが・・・」
「ナチュラルの私とplayするのは抵抗があるとは思いますが、ハインライン大尉、あなた本当に具合が悪そうです。抑制剤で改善するならいいですが、そのままだと仕事にも支障が出そうだ」
そう言われればそうなのである。
抑制剤が効く保証はなく、効かなければplayしかないのだが、コノエはまだしばらく戻ってこない。考えれば考えるほど己には選択肢がないのだと実感する。
「うーん・・・」
選択肢はないのだが素直に頷けない。
先ほどノイマンに話した過去の経験が頭を過ぎる。医官にすら告げていないほどに警戒してきたものを、いくら一度命を共にしたとは言えさほど付き合いの長いわけでもない相手に自らを委ねるのは抵抗がある。
「もちろん無理にとはいいません」
答えが出せないでいると、ノイマンは笑って話を終わらせようとした。
すぐに逃げ道を与えてくれ、あくまで選択肢はこちらに委ねてくれる姿勢にノイマンらしい誠実さを感じる。そう、彼は過去出会ったDomとは根本から違う。本心で心配してくれてcareを施してくれようとしているのが見て取れた。
「では、お願いします」
抑制剤の効果でめまいはなんとか治った。体を起こして座る。
「分かりました。ベッドに座っても?」
「どうぞ」
立ち上がったノイマンはそのままベッドに腰掛けた。
「セーフワードを決めておきましょうか」
「では『red』で」
「了解しました。先ほども言いましたが性的な接触はしません。それ以外でNGはありますか?」
ノイマンの言葉はカウンセラーのようで、彼がcare目的のplayをしているというのも頷けた。
「いえ、特にありません」
「では楽にしてください。ちなみに私はザフトの重要機密には興味がありませんのでご安心を」
ノイマンはふふ、と笑っていた。暗に「過去無理強いをしようとした相手とは違う」と宣言されたようで、つられるように笑ってしまった。
ぽんぽん、とノイマンが隣りを軽くたたく。
「Come。こっちに来てください」
そう言われた瞬間、頭がふわっと軽くなった気がした。ベッドの上をゆっくり移動してノイマンの隣りに座る。
「Good。よくできました」
傍のノイマンが優しく笑った。褒められた、そう思うとじんわりと喜びが広がる。
「気分は悪くいないですか?続けても大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
ふわふわする頭にノイマンの声が心地いい。
「よかった。じゃあ・・・私はあなたのプライベートをほとんど知らないので・・・ハインライン大尉のことを教えてもらえますか?」
プライベートなこと、と言われて一瞬ぎくりとした。このふわふわとした頭では何を聞かれても話してしまいそうだった。例えば秘密にしたい体のことや、知られたくない貴重品の場所。ノイマンがその気になれば強請のネタになりそうなことを吐露させるのは簡単だろう。
こちらの気持ちが分かったのか、ノイマンは安心させるような穏やかな顔をしている。
「そうだな・・・好きな食べ物は?Speak。教えてください」
ほう、と出てしまったため息は安堵からかノイマンのcommandに対する心地よさからか。
「時間が惜しいので食事にはあまり時間を掛けません。好きな食べ物と言われてもこれといったものはありませんが・・・敷いて言うならチョコレートが好きです」
「チョコレート?」
ノイマンがちょっと驚いた顔をしてからふわりと笑う。
「子供っぽいと笑いますか?チョコレートは素晴らしい食べ物だと思います。一粒で糖分もカカオポリフェノールも食物繊維も摂取できるんです」
「そういう風に考えながらチョコレート食べている人を初めて見ました」
今度こそノイマンは笑った。
「ハインライン大尉らしい」
「おかしいですか?」
「いえ、いいと思います。私も好きです、チョコレート。Look。こっち見てください」
顔を向けるとノイマンの濃緑と目が合う。
「Good。よくできました。じゃあついでに大尉のオススメのチョコレートを教えてください。Speak」
いくつか商品名を挙げる。世界的にも出回っているメジャーなメーカーばかりで入手もしやすい。ノイマンも知っているようで、うんうんと頷きながら静かに聞いてくれている。
「プレアデスという、プラントで有名なショコラトリーがあります。私のお気に入りです。ミレニアムに乗っているとなかなか出向く機会がありませんが、入手できた暁には今日のお礼にプレゼントさせてください」
「それは楽しみです。プレアデス・・・オーブの言葉で『昴』ですね。どんなチョコレートなんですか?」
「店名の通り、星をモチーフにしたものが多いです。私は普通にプラリネチョコレートが好きです。箱の中にたくさんの綺麗なチョコレートが入っていて、どれから食べようか選ぶのも楽しい」
「ああ、子供の頃弟妹と取り合いになったタイプのやつですね」
ノイマンと顔を見合わせて笑う。彼に言われて思い出した。確かに己にもそんな幸せな子供時代があった。
「Good。教えてくださってありがとうございました。私も機会があればオーブで有名なチョコレートを大尉にプレゼントしますね。今の気分は?Say。言えますか?」
「頭がほわほわしています」
柄にもなく抽象的な表現しかできなかった。ノイマンの方も同じように思ったらしく、苦笑いのような表情をしている。
「気分はいい。あなたのcommandはすごく優しくて気持ちがいい」
「・・・Good。よく言えましたね」
ノイマンは静かな声を出した。
playを始めてからめまいはすっかりと消え失せ体調はよくなっている。代わりに胸の中を占めているのは満足感、幸福感というものばかり。
コノエからのplayは過分なく満たされる感覚が得られるが、ノイマンのそれは全く違う。幸福や穏やかさはコノエからは得られないものばかりだった。
「体調はよくなってきましたか?」
「ええ、すっかり」
「よかった。では、私のplayはこれで終わりです」
そう告げられて少しだけ残念な気分になったのは悟られなかっただろうか。ノイマンは最後ににこりと笑いベッドから立ち上がった。
「大尉はあと10時間の休憩がありますね。顔色も戻っていますが少し眠った方がいいですよ」
「ご忠告痛み入ります。そうします」
「シュミレーションはまた後日。いつでもお付き合いしますので。では、おやすみなさい」
「本当に買ってきてくださったんですか?」
ミレニアムがアプリリウスに入港するタイミングで下艦許可が出た。普段なら休暇が与えられたとしてもあえて艦を離れることはないのだが、今回ばかりは真っ先に外出許可をもらい、車を飛ばして目的の店へ。
人気のショコラトリーであったがタイミングよく空いており、30個入りのプラリネチョコレートを購入した。
チョコレートが手に入り、逸る気持ちを抑えるようにしてミレニアムにとんぼ返りして、同じく休暇中のノイマンの部屋を訪ねた。
ノイマンにも下艦許可は出ているが、ナチュラルのクルーには、プラント内では安全を期してコーディネイターを同伴させるよう指示が出ている。そこまでして外出する用事もないのだろう。ノイマンは与えられた士官室でのんびり過ごすと話していた。ベルを鳴らすとすぐに応答があり、パーカーにスウェットというラフな格好のノイマンが出てくる。チョコレートの箱を差し出すと、やや驚いた様子ではあったが「ありがとうございます」と素直に受け取ってくれた。
「よかったらどうぞ」
にこりと入室を勧められ部屋に入る。
士官室なので造りは同じだが、ノイマンが過ごしているというだけで自室とは空気が違うような気がするから不思議だ。
入ってすぐのデスクの椅子を勧められて腰を下ろす。座る場所と言えばここかベッドしかない。部屋は広くはないので、ベッドに腰掛けたノイマンとはさほど距離はない。
「開けてもいいですか?」
「もちろん」
大事に抱えていたチョコレートの箱からリボンを解き、包装紙を丁寧に外す。箱を開けたノイマンはため息のような声を漏らした。
「綺麗ですね」
先ほどショウウィンドウの中に見つけたチョコレート。30個一つ一つがまるで星のように綺麗で迷わず選んでいた。
「食べるのがもったいないな」
「せっかく買ってきたので召し上がってください」
チョコレートを眺めていたノイマンの視線がこちらを向く。深緑が細められた。
「もちろんありがたくいただきます。コーヒーをいれるので一緒に食べましょう」
有無を言わさない仕草で、ノイマンは部屋の奥でケトルを準備している。
あまり他人との交流が得意ではないのでこういうときどうすればいいか分からない。一般的に友人の部屋を訪れるときは手土産を持参し、持参したものを共に食べるものなのだろうか。
あれこれ考えていると目の前にマグカップが置かれ、そばに立ったノイマンがチョコレートの箱を差し出してきた。
「どれにします?」
「いえ、ノイマン大尉からどうぞ。あなたにプレゼントしたものなので」
「そうですか?じゃあ・・・これ」
ノイマンが選んだのはスカイブルーの丸いチョコレート。
「ハインライン大尉の瞳と同じ色ですね」
あ、と思う間もなくチョコレートはノイマンの口の中へ。
「ミルクだ。美味しい。大尉はどれにします?」
再び差し出された箱の中でひときわ目を惹いたもの。そっと指で摘まむ。四角のチョコレートの外側は藍色、中央は深緑で彩られている。まるでノイマンのようだ、と思ったら食べづらくなってしまった。しばらく指で摘まんだままチョコレートを見ていると、上から笑い声がした。
「溶けますよ」
そう言われて思い切って口に放り込む。歯をたてるとコーティングの中のチョコレートが口に広がった。
「ヘーゼルナッツですね。美味しいです」
「もう一つ食べますか?」
箱を差し出されたが丁重に断った。
「私ももうやめておきます。一度に食べるのはもったいない」
大事そうに蓋を閉めたノイマンは「仕事の後のご褒美にします」と笑った。シュミレーションを共に動かしているときなどは仕事中であるので、あまり雑談はしない。こちらに向けられるノイマンの色んな笑顔を見るのは新鮮である。
チョコレートを仕舞いに部屋の奥へ向かうノイマンを見ていると、ふと彼が振り返った。
「そうだハインライン大尉」
「はい」
「これ、口止め料ですか?」
これ、と言って軽く持ち上げたのはチョコレートの箱。
「ノイマン大尉、あなたべらべら喋る趣味はないっておっしゃってましたよね」
「はい、もちろん」
「あなたの言葉を信用しています。ですのでそれは口止め料ではなく単なるお礼です」
真面目に答えたが、ノイマンは目を開いて見せてからくくっと笑った。
「口止め料っていうのは冗談です。お礼なんてよかったのに。私で役に立ったのならよかった。もしまた必要なら声を掛けてください。口は固いですよ。オーブに亡命していた頃は誰にも身分を明かさず暮らしていたくらいですから」
ノイマンのジョークは笑えないものも多い。
「もしそのタイミングがあれば・・・よろしくお願いします」
もうすぐコノエも戻ってくる。そうなればノイマンにplayを頼むことなどないだろう。
元の状況に戻るだけなのだが、ふとノイマンが行ってくれたplayや彼の優しいcommandを思い出すと残念なような寂しい気持ちになるのだ。
チョコレートを一緒に食べたからかplayを経験したからか、ただの同僚であったノイマンとは少しだけ距離が近くなった気がする。
食堂で、目の前に座るノイマンに目を向けた。こちらの視線に気付いていないのか、ノイマンはトレイのジャガイモをフォークで刺し、大きな口を開けて食べた。
以前は一緒に食事を摂ることなどなかったのだが、時間が合えば食堂に誘われる。こちらから誘うこともある。コノエ不在の今、もしかするとノイマンは体調を気遣ってくれているのかもしれない。
「食べないんですか?」
「え?ああ」
もぐもぐ咀嚼するノイマンの口元をぼんやりと見つめてしまっていた。声をかけられて箸が進んでいないことに気付く。
「他人が食べているとうまそうに見えますもんね」
二種類ある日替わりランチを、お互い違うものを頼んで食べている。ノイマンのランチを物欲しそうに見つめていると思われたようだ。心外である。
「そういうわけではありません」
否定するとノイマンはおかしそうに笑う。
「ミレニアムの食堂はどれもうまいですもんね」
「食事の質はクルーの士気にも影響する、というのがコノエ艦長の考えです」
肉を口に入れる。恐らく成型肉だろうが味付けは悪くない。宇宙を長期航行する戦艦で提供されものとしては充分であろう。
「その考えには賛同しますね。連合時代の食堂はあまりうまいものではなくて、取りあえず腹に入れるって感じだったんですが、オーブ軍所属になってからの食堂は結構美味しいものを出してくれるようになって、食事の時間が楽しみだったな。食事がうまいとやる気にもなる」
「ノイマン大尉のお好きなものはなんですか?」
ふと尋ねる。尋ねられたノイマンはなんだか驚いた顔をして手を止めている。
「どうしたんですか?」
「いや・・・仕事以外の私自身のことを聞かれるとは思わなかったので」
「そんなに意外ですか」
ノイマンは苦笑いをするだけで何も答えなかった。確かに己の評価は己でよく分かっている。「他人に興味がない」「人付き合いが恐ろしく悪い」「興味のない相手とはコミュニケーションをとらない」全て間違いではないのだから。
言い返せばノイマンに対して興味があるということだ。それに気付くと自分でも驚いた。
「まあそれはさておき。私の好物ですが・・・肉が好きですね。特に焼き肉が好きかな」
「・・・焼き肉」
「皆でわいわいバーベキューもいいですが、炭火でこう、焼く肉。米とビールも一緒に・・・考えていたら食べたくなりました」
どうしましょう、とノイマンが困ったように笑うので、つられるように頬が緩んでしまう。
「今度下艦許可が出たら食べに行きますか」
「一緒に行ってくださるんですか?」
ぽろりと出てしまった言葉に、ノイマンが嬉しそうに頷く。
彼は下艦許可が出たとしてもコーディネイターを伴わなければ外出できないのだ。
「私は焼き肉に行ったことがありませんが、アプリリウスに店はありますね」
「行ったことがない?焼き肉に?それは大変だ」
何が大変なのだ。特に支障なくこれまで生きてきた。
「ハインライン大尉、人生損してます。是非行きましょう」
有言実行で、次の休暇には焼き肉会が実行された。
外出許可を出し、事前にノイマンが予約してくれていたアプリリウス市内の焼肉店に赴く。翌日も休みの日を選び、飲酒をすることにしていた。曰く「焼き肉にビールは必須」なのだそうだ。
注文をすませると肉はすぐに運ばれてきて、慣れた手つきでノイマンがそれを網の上に乗せる。炭火の火力はなかなか強いようで、いくらもしないうちに肉が焼けた。
「はい、これもういけます」
ノイマンに指示されるままに肉を口に入れる。
「ご飯欲しくなりません?」
「確かに肉と白米・・・合いますね」
「あー、ビールうまい」
ジョッキを豪快に傾けたノイマンは満足そうに息をこぼした。
向かいの席で、次々と焼けた肉を口に運ぶノイマンの食べっぷりは見ていて気持ちがよかった。大盛りだったご飯も半分くらいに減っている。
「ほら、アルバートも食べてくださいよ」
空になった皿に肉が盛られた。
艦を離れるにあたり、市中では階級で呼ばないことをお互い確認していた。誰が聞いているか分からないので、軍関係者だと知られない方がよい。さらに、ハインラインの名前は有名であるためファーストネームを呼ぶように念押しした。
最初は戸惑ったようなノイマンだったが、順応というか対応は早かった。
「食べています。あなたのペースに合わせるのはつらいのでどうぞお構いなく」
「焼き肉は豪快にいくもんですけどね」
操舵士というポジションからか連合時代のブラック勤務からか、ノイマンの食事スピードはかなり速い。肉を焼くスピードもそれを食すスピードにも、合わせていたら胸焼けしそうだ。
網の隅っこになんとなくハインラインの陣地ができており、そこでゆっくり肉を焼いて食べた。ちびちびビールを飲んでいる間にノイマンはジョッキを空にしてしまっており、2杯目を注文している。
「ひとつ伺ってもいいですか?」
「どうぞ」
追加のビールがやってきて、ノイマンは早速口をつけている。
「私にしてくださったみたいに、よくcareやplayはされるんですか?」
「時々、ですよ。専門家ではないので。アルバートのときみたいに、普段は専門の施設でcareを受けているけどイレギュラーで対応が必要になったときなんかですね。どうして?」
逆に尋ねられて言葉に詰まった。聞いてもいい質問なのか迷ったが、酒の力も借りてということにして口を開く。
「パートナーがいらっしゃったらその方に申し訳なかったな、と思いまして」
ノイマンはふ、と笑う。
「心配ご無用です。そんな相手はいません。なので、私にとってもplayさせてもらえるのはありがたいと言いますか。あなたこそ、相手はいないんですか?」
「いたら艦長に頼んでいません」
今度こそノイマンは笑った。
「それもそうか。失礼」
腹が満ちてきたのかノイマンの肉を焼くペースが落ちる。
「お互いダイナミクスのせいで苦労しますよね」
ぽろりと零された言葉を聞いて、DomにはDomなりの苦労があるのだろうと知れた。Subのハインラインには想像がつかないが。
「確かに。面倒なものです。normalであったのならもっと自由だったのでしょう」
「でも、操舵士というポジションは意外とDom性を満たされるものですよ」
ノイマンの言葉にほう、と興味をそそられる。
「先の戦いであなた方の艦を拝借したでしょう。あのときもそうだったんですが、艦の命運を握っているポジションというのはcommandを使ったときのような高揚感があるんですよね」
「はあ、そういうものですか」
そう言われれば、ハインラインのポジションは艦長の指示通りに動く、いわば戦闘中常にcommandを聞いているようなものだ。
「確かに。私も今のポジションが合っているのかもしれません」
ミレニアムに乗艦してからダイナミクスに左右されることが少なくなり、抑制剤を内服するだけでやり過ごせていた。ノイマンの言う通り普段の職務が影響しているのかもしれない。
「興味深いお話です」
普段誰にもダイナミクスのことは明かしていない。こうして誰かと語り合うのは新鮮だった。
ふと、入り口の方が騒がしくなった。
「どうしたんでしょうね。トラブルかな」
ノイマンも気になったようでそちらに目を向ける。
不穏な空気は徐々に大きくなり、ある瞬間に体に衝撃が走った。
手にしていたジョッキを落としてしまう。幸い中身はほとんど入っていなかったため床を少し塗らした程度であった。くらくらとめまいが続き目の前の机に突っ伏しそうになる。腹の底に沸く畏怖の念に押しつぶされそうになる。皿が何枚か落ちて割れた。
「アルバート!」
ノイマンがすぐに立ち上がって傍にやってきた。しゃがんでこちらを覗き込んでいる。めまいのせいで俯いたままの頭を上げられなかった。
「大丈夫か?」
「駄目、です、これは」
ノイマンも気付いているだろう。入り口でまき散らされているのはDomの強いグレアだ。Subにとって見知らぬDomのグレアはかなり体に堪える。
「出ましょう」
「う、」
ノイマンの腕力で無理矢理立たされてめまいが酷くなった。
「ちょっとだけ我慢して」
肩を借り、半ば引きずられるようにして入り口へ向かう。入り口にはグレアをまき散らしているDomがいるのだが、ふとノイマンが耳元で囁いてきた。
「アルバート、俺の声だけ聞いて。listen、そう、大丈夫そのまま聞いて」
ノイマンのcommandが耳に届く。ふ、と体が少し楽になった。
「good、上出来。そのまま歩いてついてきて。前を見なくていい。大丈夫、支えてるから足だけ動かして、そう、good」
手早く会計を済ませたようで店を出る。ノイマンに言われた通り、俯いたまま足を動かすだけしかできない。例のDomと物理的な距離ができ、多少楽になったとはいえまだ体の不調は治りそうになかった。
「ミレニアムに・・・戻れそうにないか」
ノイマンがぼそりと呟く。
端末を取り出しメールを打ったようだ。その後画面を開き、何か調べている。
「よし。もう少しの我慢だ、頑張れ」
「・・・すみません」
「大丈夫、アルバートのせいじゃない」
引きずられるようにして歩き、しばらくして到着したのはホテルのようだった。ロビーのソファに座らされ、その場を離れたノイマンはチェックインをしている。手続きを終えて戻ってくると腕を引かれる。
「さ、もうすぐ横になれるから」
ソファから立たされ、またノイマンの肩を借りてふらふらと歩く。
エレベーターに乗り廊下を歩いて部屋に辿り着く。ノイマンがカードキーで解錠し、中へ誘導されてベッドに座らされた。ノイマンの体が離れると座っていられなくて後ろに倒れる。
「水でも飲みますか?」
「・・・いらない」
差し出されたボトルはそのままベッドサイドのチェストに置かれた。
ツインの部屋のようで、ノイマンは向かいのベッドに腰を下ろしてこちらを心配そうに見ている。
「あなたには、みっともない姿を見せてばかりだ」
ノイマンに背を向けるように横向きになる。情けなくて顔を見せられなかったのだ。
背後でノイマンがため息をついたようだった。
「そんな風に思っていませんよ」
優しい声がする。
「ハインライン大尉、playさせてもらえませんか」
先ほどは緊急事態だったため了承も得ずcommandを使ったノイマンだったが、どこまでも相手の意志を尊重してくれるようだ。こんな状況下でもハインラインの意にそぐわないplayはしないのだと暗に伝えてくれる。
「・・・お願い、します」
現状で一番早く楽になれる手段。
了承の意を伝えると、ノイマンはベッドから腰を浮かしたようだった。
「そっちに座ってもいいですか?」
背を向けたまま頷く。
ぎ、と隣のベッドが小さくきしむ音がして、すぐに背後に重みが乗った。
「セーフワードは『red』でいいですか?」
頷く。
「前回と同じです。性的接触はしない、あなたの嫌がりそうなcommandも出しませんが・・・頭を撫でさせてほしい」
ノイマンに頭を撫でられる。それを想像すると背がぞくりと震えた。嫌悪ではない。そうされたらさぞ気持ちがよいのだろうと思ってしまった。
「構いません」
ようやくそれだけ返すと、背後から「ありがとう」と聞こえた。
「じゃあこっち向いて。look」
commandに体が反応する。体を反転させて寝転んだままノイマンを向いた。見上げたノイマンは優しくこちらを見つめており、視線がかち合うとその手が伸びてきて頭を撫でられた。
「goodよくできました」
命令を下しているはずなのに穏やかな、こちらを慈しんでくれるような声音である。やはりノイマンのcommandは優しい。
「焼き肉美味かったですね。ハインライン大尉はどうでした?初めて食べてみて。speak、教えて」
「美味しかったです。たれが美味しいのか。あなたの言うように焼き肉にビールは必須でしたね」
ノイマンは笑う。
「でしょ。私も普段はあまり飲まないので、たまにああいう機会があると生き返る気がするんですよね」
お互い軍属であり、特にノイマンのような操舵士などはいつ招集がかかっても支障がないように、よほどのことがなければ飲酒習慣はないようだ。
「ただ・・・」
言い淀む。
「ただ、なんです?」
「・・・いえ」
「言いかけてやめるのはずるいですね」
見下ろしてくるノイマンはにやっと笑った。
「speak」
「commandを使うのもずるいと思うんですが?」
「お互いさまですね」
本気で嫌がっているのではないと分かった上でのcommandだろう。ノイマンはいたずらっぽく笑っている。命令されると従わざるを得ない。
「ただ、あなたはもう少しゆっくり食事をされてもいいと思います。早食いは体に悪い。きちんと噛んでいますか?・・・と言いかけたんですが、あまり親密でもないのにおせっかいかと思って黙りました」
結局は言わされているわけだが。
「good」
ノイマンは笑いながら褒めてくれた。
「よく言われますよ。心配してくださってありがとうございます。職業病ですね、改善できるように気をつけます」
ノイマンはふ、と笑顔を潜めた。
「顔色が良くなってきましたね。体調はどうですか?say教えて」
「随分よくなりました。ありがとうございます」
「good、よかった。じゃあ体起こせますか?sitこっちへ座って」
ノイマンの隣を促され、体を起こして少し尻を移動させてそこへ座った。
「good、よくできました。ハインライン大尉」
「はい」
隣りに座ったことで距離が近くなり、その近い距離でノイマンが覗き込んでくる。
「今日はすみませんでした。焼き肉に付き合っていただいたせいでこんなことになって」
しょんぼりしている表情が幼く見える。
「いえ、ノイマン大尉のせいではありません。私の方こそ面倒をかけてすみません」
「今日は嫌な思いもさせてしまったと思うので、今度仕切り直しさせていただいてもいいですか?」
また食事に誘ってくれるという。素直に嬉しかった。
「今日のことも嫌な思いをしたとは思っていませんが、また行きましょう」
そう言うとノイマンは安心したように微笑んだ。
「よかった。次はハインライン大尉の好きな物を食べに行きましょうね」
ところで、とノイマンは表情を引き締める。
「今回のようなことは前にも経験があるんですか?Domのグレイにあてられるような。興味本位で聞いているのではなくて、もし次に同じようなシュチュエーションになったときに大尉のことを上手くかばえたらと思って」
どこまでもこちらのことを考えてくれているらしい。
「いえ、あまり経験がありません。あれほどグレイをまき散らしているDomに出会ったこともないし、私の体質なのかDomであれば誰のコマンドでもきくわけではなく相性があるようなので」
コノエとは幼少期に出会い、ダイナミクスの相性の良さはなんとなく分かっていた。
「私とは相性がいいですか?」
「え、ええ、まあ」
ノイマンとの相性の良さには自分でも驚いている。実感はしているものの改めてそう尋ねられるとなんとなく恥ずかしい。
「じゃあ今回のようなケースでも私がコマンドを使えばやり過ごせそうですね。同じような場面に遭遇しないことを祈るばかりですが。ハインライン大尉?どうかしました?」
「え、ああ」
声を掛けられるまでぼんやりしていた。
「私にコマンドを使われるのは気が進まないかもしれませんが」
「いえ、違いますノイマン大尉。そうではなくて」
ふとひらめいてしまったのだ。通り一遍のコマンドではなくもっと他のコマンドを使われたらどうなるのだろう、と。
最初に言っていたようにノイマンが出すコマンドは誰が相手でも抵抗なく従えそうなものばかりだ。コノエから受けるものも同じようなもので、パートナー同士が使うような強めのコマンドを聞いた経験がない。体感ではノイマンとはコノエ以上に相性がいい。そのノイマンから一歩踏み込んだコマンドを使ってもらえたら。それに従って褒めてもらえたら。
そう考えるとぞくぞくした。きっと頭を撫でてもらう以上に気持ちがいいのだろう。一度思いつくと止められない。
「できればもっと違うコマンドを使ってみていただけませんか」
「違うコマンド、とは」
突然の申し出にノイマンは戸惑っているようだ。
「あなたのコマンドは全部優しくて多幸感が得られて充分満たされるんですが、あなたが嫌でなければもう少し、例えばパートナーに使うようなコマンドを聞いてみたいと思ってしまいまして」
「パートナーに?それは、性的な接触がしたいということですか?」
首を振る。
「そういう訳ではないんですが、コノエ艦長から受けるコマンドも簡単なものだけで経験がないものですから、興味がわいたといいますか」
いつもはいくらでも回る口がおかしいくらいに動かない。しどろもどろで言い訳のような言葉を並べると、ノイマンは納得してくれたのかどうなのか、頷いた。
「あまり上手くできるか分かりませんがいいですか?」
こくこくと頷くとノイマンは笑う。
「そこまで言うなら試してみますか。でも嫌だったらセーフワードを使ってくださいね」
「ありがとうございます」
ごくりと自分の喉が鳴るのが分かった。どんなコマンドを使われるのだろう。これは不安ではなく期待だ。過去のトラウマとも言える経験とは全く違う。知らない間に己の中でノイマンに対する信頼が生まれて育ってしまっている。
ノイマンは少し考えた後、口を開いた。
「じゃあ、kneel」
「・・・っ」
跪け。そう言われ、体は自然にベッドを降りて床にぺたりと座っていた。
「good、よくできましたね」
ノイマンの手が伸びてきて頭を撫でられる。ぞくぞくと満足感でいっぱいになる。
「look、あなたの目、よく見せて。一度じっくりと見たいと思っていたんですよね。晴れた日の空の色だ。綺麗ですね」
「あ、なたの瞳も、美しいと思います」
ノイマンがこちらの瞳を覗き込んでいるのと同じように、こちらからもその深緑を見つめる。引き込まれるようだ。
「翡翠みたいで、光に当たると色が変わるところも宝石みたいだ」
「初めて言われました。ありがとうございます。goodよくできました」
絡んだ視線が解かれ、思わずふう、と息を吐く。
「瞳の色と言えば、いただいたチョコレートに金色のものもありました。大尉の髪の色ですね。大尉の金髪も美しいと思いますが、うなじも見てみたいんですよね。普段は襟足で隠れているじゃないですか」
目を上げるとノイマンはうっとりした表情をしている。Subを従わせて悦に入っているのか。
「後ろを向いてうなじ、見せてもらえます?attract」
魅せろ、そう命じられた。ノイマンに背を向け、少し俯いて襟足を左手で掻き上げて首を晒す。
「good、襟元を少し下げてもらえます?そう、good」
右手で着ていたニットの襟を背中側へ引き下げうなじを見せる。
「触ってもいいですか?」
思ってもみない言葉だった。
「・・・どうぞ」
気持ちがいい。
ただのケアとは違うコマンドもそれに従うことも褒められることも、ノイマンの声が普段よりも少し低くなって囁くように潜められていることも。普段であれば晒すことのない部分を見せることにも。
触りたいと言われ、期待で心臓がうるさい。
早く触れてほしい。触れて褒めてほしい。コマンドが欲しい。
「・・・ん」
うなじにノイマンの体温が触れ、思わず肩が跳ねた。吐息混じりの声が漏れてしまう。
「stay、そのまま」
指がゆっくりと首を撫でる。
「good、上手にできていますよ。大尉は色が白いですね。ここは普段日に当たらないから余計か」
「・・・っ」
うなじから頸動脈を撫でられてくすぐったい。ただくすぐったいだけではなく体に走ったのは快楽だった。
「今どんな気分ですか?speak」
「気持ち・・・いいです。あなたの声もコマンドも、指も」
「good、私もですハインライン大尉。あなたの言う通り相性がいいのかも」
ノイマンの声もうっとりとしていた。
「ん」
ノイマンの手がするりと喉元に回って喉仏を撫でる。思わず体が震えて声が漏れた。急所に触れられている。支配されているのだという気持ちがぞくぞくと背筋を上がり、もっと触れて欲しいと喉元を差し出すようにしていた。
「good、goodboy」
ノイマンの歌うようなすべらかな声が褒めてくれた。
喉元を優しく撫でていた手がゆっくりと離れる。
「あ・・・」
思わず振り返る。見上げたノイマンは上気した頬で少し困ったように笑っていた。
「good、よくできました。このあたりで終わりにしてもいいですか?」
どうしてだろう。撫でられる手は気持ち良く、ノイマンとの相性の良さを肌をもって感じている。ノイマンも同様にDom性を満たされているのだろうことは表情を見ても分かる。
お互い同じ気持ちであるのなら、もっと触れてほしい。喉だけではなくもっと。
「これ以上プレイすると止められなくなりそうなので」
物欲しそうな顔をしていたのだろう。ノイマンは一層困ったように眉を下げた。
「そう、ですね・・・」
パートナーでもないのに無理を言ってコマンドを使ってもらった。ノイマンが止めたいと言うなら素直に飲むしかないだろう。
「あの、もう一度だけ頭を撫でていただけますか?」
ちらりと目線を上げるとノイマンはにこりと頷いてくれた。
「goodgoy、よくできましたね」
温かい手が何度か髪を撫でて離れた。
ホテルに入る前にノイマンがミレニアムに外泊の連絡をとってくれていたらしい。翌日二人で戻るとトラインに「楽しかった?盛り上がったんだね。今度は僕も誘ってほしいな」とのんびり声をかけられた。
何から何まで世話になりっぱなしだったノイマンとは部屋の前で別れ、別れる際までこちらの体調を気遣ってくれた。
「明後日にはコノエ艦長も戻られますが、もし必要ならいつでも声をかけてください。ああそうだ、ハインライン大尉の食べたいものを考えておいてくださいね。今度行きましょう」
ノイマンの人柄には感心するばかりだ。礼を言って部屋に戻った。
ノイマンと食事をするのは楽しかった。嫌がらずに話を聞いてくれる姿勢は好ましかったし、大して面白い話もできなかったとは思うのだが、こちらの言葉によく笑顔を見せてくれた。聞き上手でもあるが話も上手く、連合時代の苦労話も面白おかしく聞かせてくれた。
また行きたいと、一緒の時間を過ごしたいと思った。
イレギュラーで受けることになった二度目のノイマンのプレイも、コノエのものとは違いとても気持ち良かった。支配される本能的な喜び、幸せ、快感、どれをとっても今までに経験したことのないもので。ノイマンが終わりにしようと言わなければもっと受けていたかった。
性的接触はしないと言っていたノイマンに、もっと親密なコマンドを使ってほしいと願うほどに、気持ちは求めてしまった。
思い出すとぶるりと震える。物足りなさを自覚してしまいそうで、これ以上ダイナミクスのことでノイマンに迷惑をかけたくなくて、思考を追いやった。
レクリエーションルームにノイマンの後ろ姿を見つけ、声をかけようと戸口まで行ったところで踏みとどまる。
ノイマンの傍にもう一人。軍服とくせのつよい髪から、一緒に出向してきているチャンドラ中尉だとすぐに分かった。二人は飲み物を片手に雑談をしている。
「でもさ、そろそろ地上が恋しくならない?」
チャンドラの声である。
「まあ確かにな。お前はあれだろ、飲みに行きたいだけだろ」
「ばれた?」
二人は楽しそうに笑っている。普段ノイマンから聞くことのできない砕けた口調である。親しい相手とはああいう風に話すのか。
「この前トノムラと飲みに行ったんだよ。今度はノイマンとパルも集まれたらいいなって話してた」
「おー、いいな。トノムラ元気にしてたか?」
「それがさ、彼女できたらしい」
「嘘だろ」
「地上勤務のやつはいいよな。俺らどんだけ頑張っても遠距離だもんな」
ノイマンは「違いない」と笑っている。
楽しそうにリラックスして話している二人の間に割って入る気にもなれずその場を後にしようとした足は、チャンドラの発した言葉で止まった。
「そういやノイマンもちょっといい感じだった子いたじゃん、どうなったんだよ」
会話の流れ的にノイマンに恋人候補となる相手がいたようで、二人に存在を気付かれてもいないのに息を飲んで身を潜めてしまう。
「え?ああ、トノムラの知り合いの子か?」
「そうそう。軍本部の総務の」
「あの子とは何もないよ」
ノイマンの返答に何故がほっとしている自分がいる。
「嘘だぁ、ご飯行ってたじゃん」
「あれは、相談に乗ってただけ」
「えぇ、あやしいなあ」
茶化すように追求するチャンドラにノイマンは笑っている。
「ダイナミクス関係の相談だよ。お前を喜ばせるような話は何もないね」
「お前、ケアだけじゃなくて相談にも乗ってるの?殊勝なこと」
「俺もダイナミクスのことで悩むこともあるからさ、同じような人には力になりたいだろ」
チャンドラは「はあ」と息を吐いた。
ノイマンはどこまでも他人思いのようである。それは短い付き合いでもよく分かった。
「ノイマンのケアも人気があるもんな。専門家より優しいって聞くけど?」
「さあどうかな」
ノイマンは笑って言葉を濁したが、実際に受けた身としてはチャンドラの言葉に同意であった。
しかしノイマンはダイナミクスについてチャンドラに明かしているようだ。彼らはアークエンジェルを最初に発進させたときからの仲間で、その絆の強さは見れば分かる。普通ダイナミクスのことを他人にべらべら喋る者はおらず、ノイマンがチャンドラにいかに心を許しているかが知れた。
チャンドラの口ぶりから、ノイマンがDomとしてのケアを数人に施していることも知れ、それを聞いて心の中にもやりと黒い影が立つ。
誰にでも。急を要せば行うのだ。ハインラインが特別というわけではなかったのだ。
当然か、と思いつつも面白くなかった。面白くないと思ったがその気持ちの理由までは分からない。
二人は話題を変えオーブで流行りのアニメの話を始めたが、結局声は掛けずにその場を離れた。
コノエの元を訪れたのは翌日のことだった。
「ずいぶん体調が悪そうだね、何かあったのかい?」
艦長室に入るなりそう指摘され、心当たりはあったものの素直に口を割る気にはなれない。
「いえ、何も」
昨日からダイナミクスの乱れを自覚していた。
コノエの言うように「何かあった」のなら、きっとノイマンとチャンドラの会話を聞いてしまったからだ。
言い表しがたいこの気持ちは恐らく嫉妬。
ノイマンがチャンドラと親密にしていること、見たことのない表情をチャンドラに見せて笑っている場面を見て、強烈にチャンドラが羨ましいと思ってしまった。
極めつけは、ノイマン自身も申告していた通り、必要があればケア目的のプレイを複数人に施しているということ。自分だけではなかった、いわばその他大勢の中の一人にすぎなかったという精神的打撃。
もやもやした気持ちの正体を理解しようと考えに考えた結果分かってしまった。
ノイマンの特別になりたいのだ、己は。
彼にだけ笑いかけてほしい。彼を自分だけのDomにしたい。もっとコマンドが聞きたい。従わせてほしい。
「アルバート?」
コノエの声がしてはっと思考が引き戻される。
執務机の椅子に座りこちらを見る目は心配そうに細められている。執務机の前に置かれたソファからコノエを見つめ返した。
「すみません。少し考えごとをしていました」
「ならいいんだけど、顔色があまり良くないな。私のいない間も問題はなかったのか?」
コノエは鋭い。表面的に隠しても無駄であることは昔から分かっている。下手に誤魔化して後で知れたときの恐ろしいことと言ったら。
「実はダイナミクスの乱れがあってノイマン大尉に二回プレイをしていただきました」
「へえ、彼Domなのか」
ミレニアム艦長とはいえノイマンのダイナミクスについては知らなかったようだ。
「一度は体調不良で。もう一度は知らないDomのグレイにあてられてしまって。応急処置です」
あの濃密で気持ちの良い時間を思い出してしまった。
「ふうん。相性も良かったようだね」
「そう・・・ですね」
「そのへんのDomのコマンドじゃ聞かないきみがねえ」
コノエが感心したように言った。
「きみは信頼する相手じゃないとコマンドが聞かないだろう。ノイマン大尉のことは随分信頼しているわけだ」
「それはそうでしょう。ミレニアムを預けるに値する人物です。信頼がないと無理です」
コノエはまた「ふうん」と言って黙る。
「僕の耐熱耐衝撃結晶装甲を信頼して正面から突っ込んでくれた人です。僕も全面的に彼を信頼しています」
コノエに向かって言ったつもりだったが、同時に自分の中にも落ちてくるものがあった。そうだ、きっと共闘したときから彼に全幅の信頼を寄せていたのだ。操舵士としてのノイマンの技術に興味を持ち魅了されたが、それだけではなく彼自身に惹かれていた。
「先生、僕は思った以上にノイマン大尉のことを好きになっていたみたいです」
ぽろりと本音が漏れた。
コノエは笑うでもなく驚くでもなく、穏やかな顔を崩さずに頷いてくれた。
「きみもそういう相手を見つけられたんだね」
「僕はSubとして彼を好きになったんじゃない。人として好きになったんだ」
独り言のような言葉をコノエは静かに聞いてくれている。
「我々はダイナミクスのお陰で本質が見えにくくて困るね」
「そう、ですね」
ノイマンに気持ちを告げたとしてDomとSubだ。コマンドが欲しいだけではないのかと疑われる可能性だって充分にある。気持ちを見せる術はないのだから。
「アルバート、きみはどうなりたいの。ノイマン大尉と友達になりたいの?それともDomとSubとしてのパートナー?」
「僕は、」
この「好き」はどういう気持ちだろう。ダイナミクスに影響されたものではないと思う。チャンドラのように親密な友達になりたいか、そう言われると少し違う気がする。
特別になりたい。DomとSubのパートナー関係だけではなくもっと近しい関係でいたい。
「恋人になりたいです」
「そうか」
コノエは笑っていた。昔から道を示してくれる教師としての顔で安心したように笑っている。
「ありがとうございます先生。先生と話したお陰で気持ちの整理になりました」
「うん。よかった」
ノイマンに信頼を置いている以上にコノエのことを信頼している。何を言っても受け入れてくれるという信頼があり、間違ったことは正してくれるという確信がある。コノエにはいつも自分の気持ちを正直に言える。
「きみの気持ちがノイマン大尉に伝わるといいね」
そう言われて返答に詰まった。
「告げてもいいものでしょうか」
「どうして?」
「ノイマン大尉は魅力的な人です。人間性も高く誰に対しても思いやりがあります。きっと女性にももてるでしょう。そんな彼に男の僕が恋人になりたいなんて受け入れてもらえるはずがない」
コノエはふふ、と笑った。
「そんなの分からないじゃないか。相手がどう思うかなんて聞いてみないと分からない。きみはコミュニケーションをすっ飛ばすところがあるから損をしているよ。はなから諦めているならどうせ叶わないものだと思って当たって砕けてみたら?」
コノエの言いようは気になったが確かに一理ある。
「きみが勝手に望みがないと思っているだけで、案外受け入れてくれるかもしれないよ」
「そうでしょうか」
ノイマンの態度は他のクルーに対するものと変わりはない。ということはノイマンはこちらのことを何とも思っていないということだ。コノエが言うように楽観的に告げてみる気にはなれないのだが。
「それに、Domのノイマン大尉が僕と肉体関係を持ってくれるとは思えません」
コノエは目を開き驚いたようであったが、すぐに眉を下げた。
「Dom性であれば当然トップでしょう。僕はSubですがボトムではありません」
「きみがそこまで考えているなら余計に告げた方がいいと思うよ」
コノエの目は生徒を見るような柔らかいものだった。
「私の知る限り、きみがそこまで深い関係になりたいと言った相手なんていない。ノイマン大尉はすごいね、きみをそこまで変えてしまうなんて。そんな相手に出会えたんだ。せっかくだからぶつかってみたらいい」
コノエは笑う。
「確かに男同士はハードルが高いね。ノイマン大尉がどう答えるかは分からないけど、きみのためだけを思うならいい経験になると思うよ。私はきみが成長するチャンスを生かしてほしい」
「当たって砕けたらどうするんですか」
適当に助言をしているようにも聞こえるが、きっとコノエはハインラインのためを思ってくれている。
「当たって砕けたらそのときはそのとき。傷心の酒に付き合ってやるし、その後きみは新しい出会いを探したらいい」
ふう、とため息が出た。
「そんなにすぐに新しい出会いを探せる気がしません」
「まあそうだな」
コノエは笑っている。
「僕は深酒はしません。酒よりシュミレーションに付き合ってください。あなたがキャノピーを使うデータを取ってみたい」
「ワーカホリックだなあ。まあいいさ、マグダネル中尉にも付き合ってもらうか」
「約束ですよ」
コノエが頷いた後、今日ここにやって来た本来の目的を思い出す。
「プレイをしていただきたくて来たんです。昨日からダイナミクスが乱れていて少しつらい」
「ノイマン大尉に頼まなくていいの?」
じろりと睨む。部下を震えさせる視線はコノエには効果がない。
「冗談だよ。でもこれが私との最後のプレイになるといいね」
「そうですね」
セーフワードの確認はしない。技術局にいる間からコノエには度々ケア目的のプレイをしてもらってきた。何度行われたか分からないプレイの約束事は昔から変わっていない。
「じゃあおいで。come」
ソファから立って椅子に座るコノエの傍へ。いつものコマンドだが違和感があった。
「good」
コノエは机を指す。
「sit」
こういうときのコノエは悪い顔をしている。あいにく両親からも机に座って良いという躾をうけてこなかったので、眉を潜めてしまう。コノエにも伝わったらしい。
「悪いことをあえてやる方がコマンドの達成感があると思うよ。ほらsit」
机に座るとDomは満足そうに笑った。
「good。きみは今日、私に色々聞かせてくれてえらかったね。手を貸して、give」
両手を差し出すときゅ、と握られた。
「きみの気持ちが上手く伝わるように祈っている」
「・・・ありがとうございます」
手からじわりとコノエの体温が伝わり気持ちは穏やかなものになるはずが、ボタンを掛け違えたときのような気持ち悪さも感じていた。
コノエはふと表情を真剣なものに変えた。
「今日のきみにはコマンドが上手く届かないみたいだ」
「・・・そうでしょうか」
コノエにも違和感は伝わっているようでその表情は硬いものへ変わっていく。
「やはりノイマン大尉を呼ぼうか」
そう言われて慌てた。
「いえ、大丈夫です。続けてください」
「でもアルバート」
名を呼ばれた瞬間、目の前が暗くなった。バランスを崩しかけた体をコノエが素早く支えてくれ、机の上からコノエが座っていた椅子へと誘導される。
「これはいけないな」
ぽつりとコノエの声が聞こえたが、暗転した視界の中で目を開けることができない。脱力感に襲われて、椅子の背に体を預けるのがやっとだった。
「やはりノイマン大尉を呼ぼう。きみはサブドロップを起こしているよ」
「でも、先生からのコマンドなのに・・・」
前髪にコノエの手が触れて撫でられた。
「きみの中で順位が変わったんだろうね。一番大事なDomのコマンドに従いたいと思うのはおかしなことじゃない」
静かな声で慰めるように言われ、コノエの気配は傍を離れる。
通信を繋いでいるようだ。
「ノイマン大尉。いきなりすまないね。いや、職務のことではないんだが艦長室まで来てもらえるかな。ああ、ありがとう」
短いやり取りが終わりコノエが戻ってくる。
「すぐに来てくれるそうだから、もう少し辛抱するんだよ」
ものの数分でやってきたノイマンは、コノエから事の顛末を聞かされていた。ハインラインの気持ちについては触れず、コノエのコマンドを上手く受け付けずにサブドロップを起こしているという内容が耳に入ってくる。プレイしてやってくれないかという依頼も。
「長い付き合いの大佐のコマンドでも駄目なのに、私で大丈夫でしょうか」
「大尉には私の留守中に世話になったそうだが、相性が良かったと聞いているよ。きっと大丈夫だと思う。試してやってみてくれないか」
ノイマンは少し考えた後で「分かりました」と了承してくれた。
「ハインライン大尉」
近づいてきたノイマンに名を呼ばれ、薄ら目を開く。
「大丈夫・・・ではなさそうですね。私がプレイさせていただいてもいいですか?」
「・・・お願いします」
「セーフワードは『レッド』でいいですか?」
「大丈夫です。それより、場所を変えたい」
コノエが席を外すと言ってはくれたが艦長室である。どうにも落ち着かない。それはノイマンにも分かったのかすぐに頷いてくれた。
「分かりました。ではstandup」
早々に始まったノイマンのコマンドを聞いて立ち上がる。前回と同じように肩を借りるようにして艦長室を後にする。
「good、よくできていますよ。私の部屋?それともあなたの部屋がいいですか?」
ノイマンのコマンドに従い褒められる。今まで感じていた脱力感が少しマシになった気がした。
「私の部屋で」
「分かりました。確かにハインライン大尉の部屋の方が近いですね」
艦長室からほど近い自室に着く。足取りは重かったので普段の倍くらいの時間がかかったが、幸いにも誰ともすれ違うこともなくたどり着けた。
ロックを解除して中に入る。
「初めてあなたにプレイしていただいたときと同じですね」
苦笑いをするとノイマンも笑ってベッドに促してくれた。そこに腰掛ける。
「本当ですね。あのときからあなたとは縁があるようだ。座ってもいいですか?」
「もちろん、どうぞ」
礼儀正しい男はきちんと了解をとってくれる。了承するとすぐ隣りに重みが掛かった。
「さて」
ノイマンは考え込んでしまう。
「コノエ大佐のコマンドが効かなかったとなるとどうするかなあ」
独り言のように呟いている。
「あの、あなたが嫌でなければ前回のようなコマンドが欲しいです」
「前回・・・ああ」
ケアのようなものではなくもう少し命令色の強いもの。前回味わったコマンドの気持ちよさを思い出して期待が膨らむ。
「そうですね・・・普通のコマンドが効かなかったのならそっちの方がいいのかも知れませんね」
ノイマンは暫く考えた後、嫌だと感じたらすぐにセーフワードを言うように念押ししてから口を開く。
「kneel」
ぞくっと背筋が震えた。
ベッドを降りて床に座る。目線を上げるとこちらを見下ろすノイマンの深緑と目が合った。
「good、come」
床にぺたりと座った姿勢のまま、尻を移動させて、ノイマンが指した彼の足の間に移動する。
「good、よくできました」
ノイマンが頭を撫でてくれる。
「撫でて大丈夫ですか?」
「だいじょうぶ、です。きもちいい」
「good、よく言えましたね」
「私も触れてもいいですか」
ノイマンから拒否の言葉はない。そっとノイマンの膝に触れ、頭を寄せる。その頭をノイマンがゆっくりと撫でてくれ、しばらくその感覚を味わった。
「ハインライン大尉の髪、綺麗ですね。細くて柔らかくて」
「あなたの髪も綺麗だと思いますが」
顔を動かしてノイマンを見上げる。ノイマンは驚いた顔をしてからにこりと笑った。
「ありがとうございます。でも触ると結構ごわごわしてますよ。あなたの髪とは大違いだ」
髪を撫でてくれる指先が気持ち良かった。
「ハインライン大尉の指も、私のとは違って綺麗ですよね。白くて長くて。見せてもらえます?服の袖を捲ってattract」
魅せろと言われ、ノイマンの膝に寄せていた体を離し、片方ずつ軍服の袖を捲る。ゆっくりとノイマンの注意を引きつけるような仕草で。両方の手首を晒すとノイマンの視線は満足そうに釘付けになっている。
「そんなに白いですか?自分ではあまり感じませんが」
手錠を掛けさせるようなスタイルで、手首同士を合わせてノイマンへ差し出す。ノイマンの喉がごくりと音をたてた。
「good。白くて綺麗だと思います。手首も普段は見えないので他人に指摘されることはないと思いますが」
ノイマンもそうだがハインラインも、普段はきっちりとした軍服で職務にあたっている。前回の首筋にしてもそうだが、肌が晒される部分は限られている。その、普段は見えない場所をノイマンに曝け出して暴かれているのだ。それを思うとぞくぞくと快楽が走った。ああ、今このDomに支配されているのだ、と。
「触れてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
答えるとノイマンの手が手首を優しく握る。親指が手のひら側を撫で、指の腹で撫でられている部分は橈骨動脈が走っているところだ。深く傷つけられれば生命に関わる急所でもある。ノイマンもそれを理解して触れている。
「stay」
一瞬身じろぎしたのが分かったのだろう。
「good、よくできています」
ノイマンの指はなおもそこを優しく撫でる。生命を握られているような気分にもなり、Sub性が満たされていくのを感じる。
ノイマンでなければこんなこと許さない。触れることはおろか手首を見せることだってきっと許せない。目の前のDomの持つ空気と、彼自身の人間性がハインラインに全てを許している。
近い距離でノイマンの伏せられた睫毛を見つめる。
もっとコマンドが欲しい。支配して欲しい。自分だけを見て欲しい。
そう思った瞬間、ノイマンが目を上げた。深緑とがっちりぶつかる。
「good、ちゃんと触れさせてくれてえらいですね」
「あ・・・」
その瞬間、今までのプレイでは感じたことのない感覚に陥った。満足感、多幸感、快感、全てが混ざったようなふわふわした感覚だった。
「ハインライン大尉?」
「・・・っあ」
「大丈夫ですか?」
ノイマンが心配そうな顔で見つめてくる。大丈夫だと伝えたかったのにしばらく言葉にならなかった。
「だ、いじょうぶ、です」
「本当に?」
こくこくと頷く。
ふと、ノイマンの視線がこちらの顔から下へ向けられていることに気付いた。何を見ているのだろうとその視線を追い、辿り着いたのは股間で。目に入ってやっと自覚した。
「・・・~っ、これはっ」
無意識のうちに勃起していた。思わずノイマンに握られていた手を振りほどき股間を隠すように手で覆う。ノイマンの顔が見られなくて俯いた。
さっきまでのふわふわした快感がさっと引いていき、心臓がばくばくと何も考えられなくなってしまった。
どう取り繕えばいいのか頭が回らない。軽蔑されるのではないか、気持ち悪いと思われるのではないかと思うと動悸が治らない。
「あの、違うんです、その」
おもしろいほどしどろもどろで何か言おうとするが言葉は出てこなかった。
「ハインライン大尉、大丈夫ですよ」
ノイマンの優しい声が降ってくる。
「コマンドを受けた快感を体の快感と混同してしまう。時々あります」
「すみません。気持ち悪いですよね。すみません」
「ハインライン大尉、大丈夫です」
「ごめんなさい」
性的接触はしないと最初から明言していたノイマンのコマンドでこうなってしまうなんて、裏切ってしまったような気分になって酷くショックだ。
「ハインライン大尉」
「僕はなんてことを」
ふらりと体を離す。
「ハインライン大尉、落ち着いて。stay」
ノイマンの強めの声にはっと顔を挙げた。コマンドを使ったノイマンはその声に反して穏やかな顔をしている。
「stay、good。私の言葉を聞いて。大丈夫だから。look、こっち見て。大丈夫だから、気持ち悪いなんて思わないから」
「ノイマン大尉」
「good、そのまま。大丈夫」
「僕は、」
ノイマンの優しい顔に全てを吐露してしまいたくなってぐっと堪える。
プレイ中に気持ちを告白するなど、それこそダイナミクスに左右されていると思われる。Subとして好きになってしまったのだろう、と。
「つらい気持ちにさせてしまってすみません。コマンドも、行き過ぎましたね、すみません」
「違います、ノイマン大尉のせいじゃない」
どこまでも優しいノイマンはハインラインの後ろめたさを自分のせいだと言ってくれる。
「今日はこれで終わりにしましょうか。come」
コマンドに従ってノイマンから離した体を再び彼の足の間に収める。
「good。よくがんばりましたね。私のコマンドを聞いてくださってありがとう」
頭を撫でた手はすぐに離れた。
ノイマンが体をずらしベッドから立ち上がる。手を差し出され、素直に握ると力を込められ引き上げられた。立ち上がる手助けをしてくれたようだ。
「体調はどうですか?」
「ああ、すっかり良くなりました。ありがとうございます」
ノイマンはにっこり笑う。
「よかった。でも今日は無理せずもう休んだ方がいいですよ」
「そう、ですね」
ドアを出て行くノイマンを引き留めることなんてできなかった。コノエに後押しされたものの、醜態をさらしてしまった以上何を言っていいのか分からず。礼を言うのが精一杯だった。
眠れない夜を悶々と過ごしたが残念ながら朝は来る。
今日は以前から決定していたノイマンとのシュミレーション予定が入っており、嫌でも顔を合わせなければいけない。
昨日の礼を言わなければいけないとは思っているが顔を合わせるのが憚られる。気まずい。
ノイマンは気にしなくていいと何度も言ってくれたが、いくらなんでも欲を丸出しにした姿を見られ、どうやって元の関係に戻ればいいのか、さらにはどう気持ちを伝えればいいのか考えていたら眠れなかった。
それに加えて深刻な問題もある。
コノエのコマンドを受け入れにくくなった以上、なにかあったときにプレイを受けられる相手がいない。またノイマンに頼むのか、ならやはり気持ちは伝えない方が得策ではないのか、考えてもいい答えは出なかった。
シュミレーターのある格納庫に行くと待ち合わせの時間にはかなり余裕があるというのにノイマンの姿がすでにあった。
「おはようございます」
声を掛けるとノイマンはにこりとする。
「おはようございます。ハインライン大尉、体調はいかがですか?」
「もうすっかり。ありがとうございます」
よかった、と言うノイマンを促し早速予定していた作業を行う。何かしている方が気が紛れて楽であるし、相変わらずノイマンの操舵は素晴らしかった。
目の前に示される素晴らしい数値の数々を見ているといつの間にか二時間ほど経っていたらしい。キリのいいところでノイマンに休憩を打診された。
「コーヒーでも入れましょう。ノイマン大尉は休んでいてください」
部下が見ていたら驚く光景であろう。なにせ普段はやるべきことを目の前にすると休憩をおろそかにしがちで、他者を休ませても自分は作業を続けることも多い。
シュミレーターを置いている傍に小さなラボがあり、そこのソファにノイマンを座らせて部屋の一角に置いてあるコーヒーメーカーの電源を入れる。いくらもしないうちにコーヒーが落ちて、マグカップ二つにコーヒーを入れるとノイマンの元へ。
「どうぞ」
「ありがとうございます。いい匂いですね」
一つ手渡し、テーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろした。
「昼までにやっておきたいものがあります。もう少しよろしいですか?」
「もちろん。これを飲み終わったら早速やりましょう」
同じようにコーヒーに口をつける。
「あの、ノイマン大尉」
口を開くとノイマンがこちらを見た。
「昨日はありがとうございました。あなたには何度もご迷惑をおかけして・・・すみません」
「迷惑なんて思っていません。私で役に立てたのならよかった。昨日のことはもう気にしないでくださいね」
マグカップが置かれる。
「ハインライン大尉」
「はい」
ノイマンがじっとこちらを見ている。
「大尉は私のせいじゃないっておっしゃってくださいましたが、やはり私のコマンドが行き過ぎていたところがあると思うんです。必要なら声を掛けて下さいと言ったのは私の方なのに申し訳ないのですが、大尉とのプレイはしばらく控えたいと思いまして」
思ってもみなかった申し出に、しばらく言葉が出なかった。
傷つけないように言葉を選んでくれているようではあるが、実質あなたとはプレイしませんと宣言されたようなものだ。気にするなと言いつつやはり昨日のことが不快だったに違いない。可愛らしい女性ならまだしもハインラインは男で体格もノイマンと変わりはない。そんな相手が性的に興奮している様を見て気分がいいはずがない。
「分かりました」
昨日気持ちを伝えなくてよかったのかも知れない。これであなたが好きだと告げていたらノイマンにどう思われたか。
やっとそれだけ返答すると、緊張していた面持ちのノイマンはふっと表情を緩めた。
「あの、別に大尉がどうこうという訳ではないんです。私の問題で・・・申し訳ないです」
「こちらこそすみません。ノイマン大尉とプレイをする前は抑制剤でコントロールできていたんです。なのでどうぞお気になさらずに」
「プレイは控えたいんですが、よかったらこの前の仕切り直しで食事に行きませんか?」
そう言われて数日前の出来事を思い出す。
一瞬断ろうかと思ったが、心の奥の本音がノイマンと出かけたいと訴えていた。プレイを断られたとしても一度自覚した好きだという気持ちは消えてくれない。
「いいですね」
「よかった。今度はハインライン大尉の好きなものを食べに行きましょう」
ノイマンは嬉しそうに笑う。その顔だけを見ていると勘違いをしそうだった。
「明日、ハインライン大尉も休みですよね。予定がなければどうですか?」
「予定はありません」
よかった、と笑うノイマンの顔を見てじんわりと穏やかな気持ちになる。
「食べてみたいものはあります。お付き合いいただけますか、ノイマン大尉」
「もちろん!」
ノイマンは即答する。
「ちなみに何が食べたいんです?」
「・・・笑わないでくださいね」
「笑う?そんなにおかしいものなんですか?いいですよ、笑いません、約束します」
「パンケーキ」
「・・・パンケーキ」
復唱するノイマンに頷いて見せれば、笑わないと言ったはずの男の顔がにやけていた。
「笑ってますよね」
「笑ってません」
なんだこれ。楽しい。
そう自覚するとこちらの頬までにやけてきた。
「ハインライン大尉も笑ってますよ」
「これはあなたのせいです」
「店の目星はついているんですか?」
そう言われ、傍にあったタブレットを開いて画面を出す。
「艦橋で女性クルーたちが話題にしていました。このチョコレートクリームに使われているチョコレートが有名店監修のもので食べてみたいと思っています」
「うわ甘そう」
画面に出てきたパンケーキには、山かと思うほどのチョコレートホイップが乗っており、チョコレートホイップの上にはさらにチョコレートソースがかけられている。
「一人では食べ切れなさそうなのでお願いします」
ノイマンは画面から目線をこちらに移した。
「男二人で浮きそうですね。こういう店は恋人と行った方がいいのでは?」
「そういう人はいません。いたらあなたにお願いしていません」
それもそうか、と言われたが失礼なことだ。
「分かりました。お供します」
ノイマンは手早く待ち合わせ時間を決めてしまう。コーヒーもなくなって、そろそろシュミレーションを再開するか、と思ったところで尋ねられた。
「不躾な質問だったらすみません。答えたくなければ無視していただいて構わないんですが、ハインライン大尉はパートナーは作らないんですか?」
言いにくそうに口を開いたノイマンは空になったマグカップをテーブルに置いた。
「パートナー?それは恋人ということですか?それとも特定のDomということでしょうか」
「・・・両方です。パートナーがいた方が、プレイのことで悩まなくてもすむんじゃないかと思いまして」
ノイマンの言いたいことは分かる。今のように不安定さを抱えたままケア目的のプレイ相手を探すより、特定の相手がいた方が楽に決まっている。
「今のところはそういう相手を持つつもりはありません。私の一族はDomばかりで私は唯一のイレギュラーです。ハインライン家の汚点と思われている」
ノイマンが眉をしかめる。
「失礼、言い方が悪かったかもしれません。あなたには理解できない事情でしょうが実際そうなのです。ハインライン家の者が支配を受ける側であるなどとんでもないと。幼い頃からそう言われて育ちました」
三つ上の兄とは違い、幼い頃から両親の風当たりもきつかったように思う。Sub性を補うように、優秀であれ勉学に努めろ、常にトップであれと教育されてきた。それが当たり前であったので気が付かなかったが、今目の前にいるノイマンの、痛ましさをにじませた表情を見ていると異常なことなのだろう。
「ですので、私が大っぴらにDomのパートナーを持つのは家としてはかなり体裁が悪い。それも相手がいない理由の一つです」
「・・・すみません」
「・・・どうしてあなたが謝るんです」
ノイマンはますますつらそうに顔を歪める。
「大尉には大尉の事情があるのにデリカシーのないことを聞いてしまって」
「気にしないでください。別に私は何とも思っていません。あなたがそんなに胸を痛めることではありません」
優しい男は言葉を失ったように、じっとこちらを見るばかりである。
「なら、あなたの罪悪感を少しでも軽くするために、私からもあなたに同じ質問をしましょうか。ノイマン大尉はパートナーを作らないんですか?」
ふ、と口角を上げた顔で尋ねると、ノイマンもつらそうな顔を解いた。
「好きになっても報われないことが多いもので」
「意外ですね、あなたは優しいからもてそうなのに」
ノイマンは首を振った。
「我々はどうしてもダイナミクスに左右されてしまう。好きになった相手がDomだったらどうしても相容れない部分が出てしまう」
「・・・そうですね」
「いつか、ダイナミクスも含めて共にありたいと思う相手に出会えたらいいなとは思っています」
「で、パンケーキに行くのか」
目の前のコノエはおかしそうに笑っている。
「いけませんか。パンケーキ」
「いや、この前艦橋で話題になっていた店だろう。戻ったら感想を聞かせてもらいたいね」
艦長室である。執務机に座ったコノエは端末を操作し、提出した下艦届と外出届を認証してくれたらしい。操作を終えたコノエは、机に片肘をついて頬を乗せ、こちらを見上げる。
「体調はどう?」
呼び出された目的は体調確認だったようだ。コノエにも迷惑を掛けていたので頭を下げた。
「もうすっかりいいです。昨日はありがとうございました」
「よかった。やっぱりノイマン大尉とのプレイの方が効果があったんだね」
頷く。
「で、きみの気持ちは上手く伝えられたのかな?」
苦笑いを返したのでコノエには伝わったのだろう。
「キャノピーのシュミレーションをする・・・?」
気遣いながらもおそるおそる尋ねられ、その様子がおかしくてふ、と笑みが出る。
「シュミレーションに付き合っていただくかは微妙なところです。伝える前に、僕とはもうプレイをしないと言われてしまいました。パートナーにしたいと思う相手とも巡り会えないとも言われていたので、僕の気持ちは胸にしまっておくことにします」
せっかく相談に乗っていただいたのにすみません。そう付け加えるとコノエは微妙な顔つきをしていた。
「きみとプレイしないって、何かあったの?」
コノエの疑問は当然だろう。
「僕はそうは思わなかったのですが、行き過ぎたコマンドを使ってしまった、とノイマン大尉はおっしゃっていました。自分の問題だとも言われていました」
「そうかあ・・・」
「プレイはしないと言われましたが食事に誘ってくださったし、同僚として仲良くしてくださるつもりなんでしょう。なので今はこれでいいかと思いまして」
「それできみは苦しくないの?」
コノエの瞳が真っ直ぐこちらを見つめている。
「分かりません。気が変わって突然打ち明けてしまうかもしれませんが、ノイマン大尉と話をするのは楽しいので、今はこの関係のままで過ごしたいと思います」