いいから寝てくれ! これでいい加減寝てくれ───
隠し刀は暗い天井裏から切に願った。
その手には香炉が握られており、煙が下へ下へと滝のように流れている。
周りを見渡せばあちらこちらに蜘蛛の巣が張り巡らされ、鼠が埃っぽい天井板をうろちょろと走っている。
なぜこの様な状況下にいるのか、事の発端は数日前に遡る。
隠し刀は気になっている事があった。それは彼の目の下に携えている隈だ。
勤めの他に西洋医学、語学の勉学、居合の鍛錬などなど、多忙極まりない日々を送っているのは知っていたが、更に最近、労咳を治す薬のきっかけになるかもしれないと金色の花を咲かせた竹の根元の土を拝借したばかりで、今はその研究にも勤しんでいる。
日に日に疲労が濃くなっていく顔に、自身も忙しく走り回っている身ではあるが流石に心配になるほどだ。
「…なぁ、あれは大丈夫なのか。」
勝海舟に頼まれていた用事を終え、その報告に来た隠し刀は依頼主越しに見える福沢へ、ちらりと目線をやる。
「大丈夫って…何がでえ。」
後ろへ振り返り、対象の人物を確認した勝が問う。
「何だか、どんどんやつれてないか。」
ああ、その事かい、と首をやれやれと左右に振り、呆れ半分に話し始めた。
「奴さん、きちんと寝てねえ。忙しいのはわかるが、何をするにも体が資本だってえのに…ずっと部屋から明かりが漏れてやがる。」
「だから此処へ来る度に隈が酷くなってるのか。」
「お前さん、やつに言ってやってくれねえか。俺が言ったところで聞きやしねえだろうしなぁ。」
「そうか?お前で駄目なら私が助言したところで聞かなさそうだが…まぁ、やってみよう。」
そう言って、文机の前で正座し、本を読んでいる福沢の元へ近付く。
「福沢、その後どうだ?」
「ああ!あなたですか!先日はどうも。例の土の事ですよね?お陰様で少しずつわかった事がありまして…」
まるで宝を見つけた子供のようにキラキラと目を輝かせながら話し出す彼の言葉に、小さく相槌をうちながら顔を見ると、隈がまた濃くなっていた。
「あ…すみません、僕ばかり話してしまって。」
申し訳なさそうに後頭部をバツの悪そうな顔で掻いている様子にさほど気にかけず、楽しそうに語る姿をもう少し見ていたい気持ちになった。
「いや、いい。お前の話は分からない事もあるが、聞いてて面白い。」
労咳で苦しむ人々を救いたい気持ちも勿論あるのだろうが、彼の性質なのだろう、知的好奇心をそそられ、寝る間も惜しんで顕微鏡を覗き込んでいるに違いない。
…でないとこの彼の目がバッキバキな事に理由がつかない。キラキラのバッキバキである。
「…なぁ、研究もいいがちゃんと身体を休めてるか?顔が凄いことになっているぞ。」
「え?ああ、平気ですよ。仮眠はとっていますし、何よりやる気が漲っていてじっとして居られないと言いますか…」
「仮眠ではなくて布団の上でぐっすり眠れ。そのうち体を壊すぞ。」
「ご心配ありがとうございます。…善処します。」
そう言うものの、視線を外しそう答えるのを見て、これは寝ないと悟った隠し刀は、今夜は天井裏で彼がきちんと寝るか確認する事にした。
夜も更け皆が寝静まる頃、勝邸に一つの影が落ちる。足音を立てずに背の高い草むらに隠れ、見張りに気付かれぬよう目的の場所へ駆けていく。蹴った砂が小さく渦を巻いて風と共に舞い上がった。
福沢の部屋の天井裏に無事忍びこんだ隠し刀は慎重に天井板をずらし、彼を視界に入れるやいなや心の中で呟く。
(やはり寝ていない…)
昼間とまったく同じ位置で書物を参考に何か書いている。薬の研究か何なのか、異国の文字で書かれたそれは、学のない隠し刀にはさっぱりわからなかった。
しかし、彼にも一つだけわかる事がある。それは書物と紙とを行ったり来たりしている真剣な眼差しの福沢が、眠ることを忘れているというものだった。
もうすぐ丑の刻だというのに全く眠る気配が無く、只々刻が過ぎてゆく。時折、立ち上がるので、眠る準備をするのかと思いきや、凝り固まった体を解すように首や腕を回したりするばかりで、結局その日は一睡もせず朝を迎えた。
流石に勤務中に居眠りはしないだろうと踏んだ隠し刀は、福沢が勤めへの準備に取り掛かるところで監視をきりあげ、寝かせる為の対策を何か取らねばと、思案しながら勝邸を後にした。
そういえば、前にフォーチュンが植物には癒しの効果があると話していたのを思い出して、早速、馬に乗り植物園へと向かった。
道中、輩から商人を助けたり、こんぴら狗と戯れたり、寄り道しながらも小石川植物園へ着いた隠し刀は、フォーチュンのいる硝子張りの小屋へと駆け込んだ。
水をやったばかりなのだろう。数多の植物の葉に水滴が零れ、土がしっとりと濡れていて生き生きとしている。水と土と葉の混ざった匂い───生命の匂いとでも言うのだろうか、狭い空間で濃くむせ返るこの香りが隠し刀を出迎えてくれた。
なるほど、この湿気を含んでいるにも関わらず爽やかな空気…これは確かに癒されるかもしれない。
赤日が小屋に差し込み乱反射している。徹夜明けの隠し刀には眩し過ぎたのか、目を細めているとフォーチュンが声をかけてきた。
「おや?君か!どうしたんだい?何だかお疲れのようだね。」
「ああ、実は…」
昨日の出来事を話し、何か興奮を抑えて心が穏やかになるような植物はないかと相談する。
「そうだなぁ…植物を部屋に置くよりも、ハーブティーを飲ませた方が効果があると思うよ。」
「はーぶてぃー?」
初めて聞く言葉に隠し刀は軽く首を傾げ、フォーチュンに詳しい説明を促すようじっと見つめる。
「そう!ハーブと呼ばれる植物を煎じて煮出したものさ。カモミールなんか安眠効果があるから福沢さんにぴったりじゃないかな!」
僕の持っているもので良ければ分けてあげるよと、勧められるまま貰い受けた。
これを使って今夜は寝かせるぞと、奮起しながら福沢の勤務が終わるのを待つのだった。
再び勝邸を訪れた隠し刀は、まず勝海舟に挨拶がてら昨夜見た一部始終を説明する。それを聞いた勝の表情は、若干引き攣っていた。
「……福沢に言ってやれとは言ったが、お前さん…わざわざ天井裏で見張ってたのかい。暇だねぇ…」
「?忙しいが?」
「…なら、なんでそこまでして奴さんが気になるんでえ。」
そう言われると何故だろうか。隠し刀自身も良くわかっていないのだが、彼には放っておけない何かがある様に思う。
腕を組みながら考えてみるが、納得する理由が見つからない。勝の問いに答えようとしてみるも、やはり放っておけない、としか答えようがないのだ。
「……よく、わからないな。母性?」
「……………そうかい。ま、そのうちわかるかもしれねえな。」
何かを察したかのような話しぶりで勝は隠し刀の肩をぽんと叩いた。
隠し刀は訳が分からないという表情を浮かべながら、福沢を寝かしつけるまでしばらく天井裏で監視したいと勝に申し出ると、お前さんの気が済むまでやんな、と快諾してくれた。
邸の主に許可を取った隠し刀は早速、福沢に声をかける。
「福沢、フォーチュンからハーブティーなる物を貰った。一緒に飲まないか。」
「ハーブティーですか。欧州では薬の用途で飲まれていると聞いた事はありますが…何事も経験です。折角なので頂きましょう。」
「では台所借りるぞ。」
そう言い、お茶の用意をしに土間へ下りた。
二人分のハーブティーを湯呑みになみなみと注ぎ入れる。動線上に人の背丈ほどの本の山が幾つかあり、気を付けなければぶつかる恐れがあるのだが、隠し刀は器用に間を縫って福沢の元へ辿り着いた。片付けが苦手なのか収納場所が無いのかは分からないが、よく倒さずに生活出来るなと感心する。
「熱いから気を付けてくれ。」
相手に湯呑みを手渡すと、上品に手で湯気を扇ぎ、香りを嗅いだ。
「あぁ、なんだか甘い香りがしますね。…林檎でしょうか。」
「いや、カモミールと言う花の匂いだそうだ。」
フォーチュンから受けた説明をそのまま目の前の相手にする。
「そうですか。カモミールとはこのような甘い香りがするものなんですね。花の香りをまじまじと嗅いだことが無かったので新鮮です。…たまにはこういった息抜きも良いですね。」
頂きます、と一口飲むと、続けて隠し刀も湯呑みに口を付ける。すると、何とも不思議な感覚である。というのも、匂いは甘く香っているにもかかわらず、味自体に甘さが全くなかったからだ。
福沢もそう思ったのか、不思議そうに目を瞬かせ互いに顔を見合わせて笑った。
マツムシの鳴く涼夜の中、茶を飲み干して体も温まり、和んだ空気が流れる。福沢の目も先程より穏やかになっていて、体の力も良い感じに脱力しているように思える。
このまま寝てくれるかもと期待に胸を膨らませ、和んだ心地よいこの空間に別れを惜しみつつ、長屋へ帰るふりをして天井裏へ忍び込む。まだ眠るには少し早い時間だが、今までの睡眠時間を取り返す絶好の機会だ。
天井板を外し下を見ると、隠し刀の期待は外れ、残念ながら書物を読み始めていた。しかし、いつもとは違ってだいぶゆっくりと頁を捲っている。暫く眺めていれば、こくりこくりと船を漕ぎ始めたではないか。
(いいぞ、そのまま寝ろ)
がくり、と大きく俯き動かない様子を見て、思わず口角が上がる。ハーブティーの効果は絶大だったらしい。こうも易々と寝てくれるとは思わなかったが一件落着だ。だが、この体制のままでは体が辛いだろうと思い、布団に寝かせようと部屋へ降りようとした時、福沢がむくりと顔を上げた。
慌てて降りるのを止め、その姿を観察していれば、目を擦って立ち上がる。押入れの方へ向かって行くので、自分で布団の用意をするのかと思いきや、お目当ては煙草だった。しかも隠し刀が福沢に渡した西洋煙草ではないか。
手際良く火を点し一通り喫んだ後、よし、と呟く福沢に
(よし!じゃない。寝ろ)
と心の中で突っ込まざるを得ない。
もちろん目が覚めた様で、再び文字の海に飛び込んだのを見た隠し刀は、今度から差し入れは別の物を贈ろうと決意したのは言うまでもなかった。
その後も寝そうになると紫煙を燻らせ、夜が明けた。
このように何度か寝かせようと、酒を一緒に飲んでみたり(これは酒豪の彼には愚策だった。私が先にへばってしまった)、肩や腕を揉んでみたり(揉んでいる最中はうとうとしていたが、施術後すっきりしたのか益々眠る気配が皆無だった)、色々と試行錯誤するも寝てくれず、彼は特別な訓練でも受けたのだろうかと疑念を抱くほどだ。
勿論、隠し刀は研ぎ師によって訓練を受けているので、数日間なら全く寝ずとも起きていられるのだが、今回は相手に見つからないよう神経を研ぎ澄ませながらの監視な上に、自身の仕事や福沢を寝かせる作戦を練って情報収集の為に奔走したりと、自分の睡眠をも削り行っているので疲労がだいぶ溜まっていた。片割れと共にいた頃は交代で寝ていたが、流石に一人だと限界が近かった。
しかし、それは福沢も同じで、日に日に疲れが蓄積されていくのがはっきりと分かる。
自分の経験上、今日あたり寝ないと限界が来て倒れる事は目に見えているし、何より彼の体が心配だった。
(出来ればこれは使いたくはなかったが、やむを得ん)
今夜も眠らないと予想していた隠し刀は、予め用意していた香炉を音を立てずにそっと天井裏に置くと、冒頭の心情が伝わるよう福沢に念を送った。
話は少し戻るが、フォーチュンからハーブティーを貰った時、ついでに良い情報は無いかとすぐ近くで小さな店を広げていたモローの元にも訪ねていた。
「ああ、お前か。いらっしゃい。」
「…ちょっといいか?少し相談があって…お前の専門は毒だったよな。見当違いかもしれないが、相手を強制的に眠らせる物なん……」
「あるぞ。」
喋り終わる前に返答がかえってきたうえに、そんな物が存在するという事実に驚愕する。西洋にはこんなにも進んだ技術があるのかと感服しっぱなしだ。
「香なんだが、私なりに使いやすいよう改良した。効果も強力にしてあるから人間なら数分で眠る。」
頼もしすぎる言葉に敬服の念を抱かざるを得ない。しかし、改良したという事は誰かで実験したのかと疑問を抱いたが、なんだか恐ろしくなり、訊くのをやめた。
「……永遠に目が覚めないっていうオチではないよな?」
「それは無い。そういう想定で作ってないからな。」
その言葉を聞いて安心した隠し刀は、その香を売ってくれないかと頼み込むと、モローは数秒考えた後、お前達には世話になったし少し安くしてやろう、と意地悪そうな顔をしてお香を木箱から出して手渡したのだ。
こういった経緯で眠りの香を手に入れていた。安くしてやろうと言っていた割には値が張り、懐に大打撃を受けてしまったが、これも福沢を寝かせる為だと自分に言い聞かせて財布の紐を緩めた。
既に煙が天井板をずらした穴から匂いも音も無く、下へと流れていく。
今日一日の大半を、鍛錬に付き合ってもらったので相当疲れているはずだ。夏とはいえ、秋の気配が近付いている時期で夜は少し肌寒く、戸は締め切っており煙が外へ漏れる事もなさそうだ。それに熱心に土の研究をしているお陰か、畳の上を滑る煙に少しも気付いていない。
あまりにも周りの変化が見えなくなっている様子に、隠し刀の心労が溜まっていく。こんな状況で刺客にでも襲われたらひとたまりも無いだろう。
そんな事を考えていると、ふと、背後から気配を感じ、急いで太い柱に身を隠す。息を殺して様子をうかがっていると、忍び装束を着たいかにも暗殺者といった風貌の男が屋根を登り入ってくるところだった。普段であればここまで近づかれなくとも気付けた筈なのだが、なにせ寝不足で注意散漫な隠し刀である。
(まさか本当に刺客が来るとは…)
この邸の誰を狙っているのかは不明だが、ここで死人を出したとなれば皆も居心地が悪いだろう。流血沙汰も然りだ。すると武器を使わず片をつけるしかない。
相手に見つかれば戦わざるを得なくなる。ここは一撃必殺でなければ。
一瞬で考えを巡らせ、漏れた光に吸い寄せられた刺客の背後をすかさずとる。じり、と爪先が梁の砂埃を拭うと同時の事であった。相手は隠し刀に気付くも既に遅く、首に衝撃を受けて気絶している。幸い、微かな唸り声をあげただけで、煩く騒がれる事もなく済んだ。
刺客を邸の警備にあたっている者に引き渡し、引き続き福沢が寝るまで監視していようと、伸びた男を運びだす一歩を踏み出した瞬間、梁から足を踏み外してしまった。その動揺から、腕の中の刺客を明かりが漏れでる穴へ放り込んでしまった。
「あぁ……」
その場に尻もちをついて梁に座り込む形になった隠し刀の口から失態の声が天井裏にぽつりと生まれると同時に、本の山に男が落下した音がした。
「うわぁ…!な…何事ですか……!」
福沢は顕微鏡から顔を上げ、倒れ込んでいる男を見つけると急ぎ刀を手繰り寄せる。その間も男から目線を離さず、恐る恐る刀で突き、気絶してるのを確認すると、突然現れた男の出処を探し上を見上げた。すると砂埃と共に隠し刀が疲れきった顔でひょっこり顔を覗かせたところだった。
「……すまない、福沢…大事ないか。」
「…あぁ…あなたでしたか…どこも怪我してません。しかしこれは一体、どういう事なのですか…?」
度々、何処からともなく現れる隠し刀に慣れているせいか、天井から彼が登場する事にさほど驚きもせず、冷静に受け答える。
「うん…これは刺客ではないだろうか。誰を狙ったかまでは分からないが…兎に角、目が覚める前に縛り上げてしまおう。」
そう言って畳へ向かって飛び降りたが、倒れた男の装束を踏みつけてしまい盛大にすっ転んでしまった。その時に畳を漂う煙を少し吸ったようで、慌てて咳をして体外に出そうとしたが既に遅かった。
「…………大丈夫ですか…?昼間も思いましたが、隈が酷いですし顔色も良くありませんよ。」
いつもと様子が違う隠し刀を心配しつつ、手を差し伸べる福沢に、誰のせいでこんな事になったと思っているんだ、と心の中で悪態をつく。
「……心配してくれるのは嬉しいが、お前がそれを言うか?前にきちんと寝ろと言ったはずだが。」
差し出された手を取らずに、上半身を起こして腰に付けていた縄をするりと解く。何かあった時の為にと用意してあったそれで素早く刺客の腕と足をきつく縛った。
いつもと変わらない話し方だが、その態度と声色から静かに怒っているのが分かる。騒ぎを聞きつけた警備の者がやっと来て縛り上げた男を引き渡すと、福沢の方へ向き直り、戸の方を見もせずぴしゃりと閉めた。
「すみません…熱中するとつい、寝るのを忘れてしまうもので……」
自分をぞんざいに扱い、言い訳する福沢に隠し刀の堪忍袋の緒が切れた。
「きちんと睡眠をとって、しゃんとしていれば刺客にも気付けたのではないか?」
「私が居なかったら死んでいたかもしれないんだぞ。」
福沢に小言を浴びせる口調が徐々に厳しくなっていく。
隠し刀に怒りの感情を向けられた事のなかった福沢は、気迫に飲まれ、その場に俯いて佇む事しか出来なかった。
すると、福沢へずいずいと近付いてくる隠し刀の足が、雑多に散らばった殴り書きの紙を踏んづけ、滑らせる瞬間を目撃したと同時に、彼が胸の中へ飛び込んできた。視界が反転して隠し刀に畳へ押し倒される形になったのだ。
倒れ込んだ衝撃で舞い上がった煙を吸い込んでしまい、口元を押え咳き込んでいると、はっ…と目を見開いた。隠し刀の顔が、焦点が辛うじて合うところまでに迫っていた事に気付き、驚いて心臓が煩くなる。
目の前の彼はと言うと、何かに耐えるように眉間に皺を寄せていた。
それもそのはず、お香の効果が出てきたのか、隠し刀は降りてくる瞼を必死に開こうと抵抗しているのだ。だがもう限界が近い。
眠気で力が抜け、段々と顔が降りてきて焦る福沢をよそに、
「お前が…無事で、本当に…良かっ……た。」
先程まで怒っていたのが嘘のように、安心しきった声でそうぽつりと呟くと、首筋に顔を埋めてきつく福沢を抱き締めた。
そこまで自分を心配してくれていたとは思ってもみなかった福沢は少し罪悪感が湧き、隠し刀の背中に腕を回して相手を落ち着かせるように優しく撫でる。
「…ご心配をお掛けしました。今度からきちんと寝るよう努力します。……しかし、なぜここまで僕の事を気にかけてくれるのですか?」
「それ、は…お…まえ、が……………す………ぅ…」
「…………?」
言葉の続きを待つも、聞こえてくるのは安らかな寝息だった。
「……もしかして…寝てしまったんですか…!?」
この状況を誰かに見られたりでもしたら変な誤解をされかねない。困った福沢は、起きてください、と隠し刀の背中を軽く叩くも微動だにせず、腕を解こうと試みても本当に寝ているのか疑う程の強い力で、びくともしなかった。
暫く隠し刀の下で必死に藻掻いたが、どうにもならないと分かると諦めて、彼の体温に溶けていくよう次第に瞼が重くなるのを感じていた。微睡んだ頭で、誰かに強く抱きしめられるのは子供の頃に母にしてもらった以来だなぁ、などと昔を懐かしんでいるうちに、意外と隠し刀に抱き締められるのも悪くないと思った自分に少し驚いた。眠気のせいだと、誰かに言い訳して、彼の匂いに包まれてそのまま眠りに落ちた。
「あいつ…派手にやりやがったな…」
仕事を終え朝方に邸に帰ってきた勝は、警備の者から刺客の話を聞き現場の福沢の部屋に入るやいなや、その有様を見て呆然と立ち尽くしていた。
上を見れば天井板は外れ、下は砂埃で汚れている。更に本や紙が散乱しており、しっちゃかめっちゃかになっていた。極めつけは大の男が重なって、すやすやと気持ち良さそうに眠っているこの滑稽な様だ。
勝は深く溜息をつきつつ二人を起こさぬよう近付く。まるで父が子を見守るような表情を浮かべて、押し入れから掛け布団を取り出してそっと掛けてやるのだった。
◇◇◇
数年後、高杉の病を治すべく白川で労咳の薬を開発したと噂される侍の元へ訪れた。その侍を見た隠し刀の顔は前に一度だけ彼に見せた形相をしており、共に居た伊藤は後に「あれほど真剣な顔をして怒った隠し刀さんは見た事がない」と語る。
高杉に試薬品を飲ませたその日に再び侍の元を訪れた隠し刀は、ずかずかと無遠慮に小屋の中へ入り、いつかのように説教を食らわせていた。
その最中、怒っているのか照れているのか分からない声で、
「お前が好きだからだ!」
と、愛の告白が外まで聞こえてきたそうだが、この恋が成就したかは霧の中で揺れている草木だけが知っている。