【龍羽】未分化(続き) なにかが裂けるような音で目覚めた。
それがいったい何の音だったのか、もう分からない。耳のそばで確かに聞こえた、裂けるような破れるような少し高くて短い音。布や紙のようだと思ったが、断定はできそうになかった。
自然とまぶたが持ち上がる。視界の先で、あかりが消された部屋の闇のなかで、白いはずの天井とランプシェードがぼんやり見えていた。あたりは静かで、人の足音や声や衣擦れは聴こえてこない。外もただただ風がふいているくらいで、海が遠いから波音も届いてこなかった。
状態を起こした。見下ろすと、自分の身体に被っている布団がある。手でふれてみたが、布が裂けている様子もなさそうだし、近くに紙が落ちているようでもなかった。耳に届いたあの音はいったい何だったのだろう。
布団を手でなでる。ポリエステル繊維の柔らかくなめらかな感触。そのなかにつまっている綿。どれもこれも現実でしかない。
ではあの音は夢だったのだろうか。そうだとしたら、夢はなんだったのだろう。
「……」
眠気が飛んでいってしまった。食堂におりて、もしフランソワが起きていたら飲み物を用意してもらってもいいかもしれない。
そう考えて布団をはがし、ベッドからおりた。足音をたてないようにして部屋から出ようとしたそのとき、さきほどは聞こえてこなかった何かの音が、背中のほうから聞こえた。
かすかな衣擦れだった。
なにかを裂くような鋭い音ではなく、ともすれば聞き逃してしまいそうな音だった。しかし今の自分が、その音を聞き逃すはずがない。
部屋を出ようとしていた足の向きが逆になる。つい先ほどまで自分が使っていたベッドを過ぎて、その奥にあるもうひとつのベッドに向かう。さっきの衣擦れのわずかな音。ありかを見付けるために視線がさまよう。外の、本当に僅かな光をたよりにした。
そこのベッドに眠ったまま、日中はすこしも身動きをしなかった人間が、暑苦しそうに布団を胸辺りまではがしていた。手が枕の横まで投げ出されている。
「……あつい」
ぽそ、と呟く。その声は枯れていた。しかし確かにその唇がそう呟いたのを、龍水は見逃さなかった。
手を伸ばした。前髪がみだれて無防備になっている額に、自分の手のひらをあてる。肌にその温度が伝わる。人並みの体温のうちだが、やや平熱よりは高くなってる気がする。指先に汗がついたのが分かる。
発熱しているのだろう。汗もかいているから、軽度の脱水症状にもなっているかもしれない。
額に触れられたほうの人間は、なにも言ってこなかった。よく見てみれば視線もあっていない。まだ意識が朦朧としているのかもしれない。
「起きれるか?」
「……」
「水がそこに置いてある。貴様のものだ」
返事はかえってこない。龍水は手をその額から離すと、近くに置いてあった椅子に座って、水のボトルを手に取った。起き上がれるかどうか分からず、しばらく様子を見ていた。
あいかわらず言葉で返事はかえってこない。代わりに、投げ出されていた手が動いた。何かを探すようにふらふらと動く。力なく彷徨うように、シーツの上で動いたり時々持ち上がったりする。水が欲しいのだろうか、と考えてボトルを近づけた。ぴと、と指先がボトルに触れる。しかしそれでも手はしばらく彷徨ったままだった。爪の先が龍水の手に触れた時、やっとその手が、なにか確信をもった動きに代わった。ボトルを持っている龍水の手を、力のない指先が掴まえた。
指先まで熱のこもった手が、またシーツに落ちる。龍水の手も連れて。
「……僕……どのくらい寝てた?」
「……。二十時間ほど」
「ごめん……」
なにを謝っているのかは龍水には分からない。しかしそれを問い詰める気にならない。声は相変わらず掠れているし、視線も合わない。おそらく意識はまだ朦朧としているのだろうが、龍水がここにいる、ということは理解しているようだった。
「水は飲めるか?」
「いらない……」
「汗をかいている。多少むりしてでも飲むべきだ」
「身体が動かない」
龍水の手を捕まえている指先に、少しだけ力が入った気がした。それでも充分に強いとはいえない。代わりに龍水がその手を握り返した。手の中があつく、灼けているようだった。
「……海のまんなかで、遭難した船のうえで、どうすれば生き残れるか考えた。夜を三日間、眠らずにむかえた……。世界一の船長なら、こういう時どうするだろうってずっと考えてて……今ここに龍水がいる」
「そうだな」
「……夢みたいだ……」
声が途切れそうになる。瞼がおちていく。
龍水は、自分を捕まえていた手から離れた。一度は手放していたボトルを手に取って、キャップをあけた。自分の口に流し込むと、人肌よりもわずかに冷たく、それでもぬるい、甘い水を感じた。
あと少しで意識が途切れるだろう相手の、顎の部分に手を添えた。軽く口をあけさせて、顔を近づけて、唇を合わせた。自分の口にふくんでいた水を流し込んだ。ぬるいものが自分の口内からでていって、拒まれることなく移り変わっていく。終わってからすぐに離れた。
皮膚がうすい唇に、熱い体温がと柔らかい感触がずっとのこっている気がする。ぼんやりとそれを感じながら、水を流し込まれた相手の喉が動くのを確かめた。
一度は落ちた瞼が持ち上がる。やっとその視線がこちらを向いた。二、三度の瞬きが見えた。白いまつげが、わずかな光でちらついた気がした。
「……夢だ」
そう言われても、返事はすぐにはしなかった。前髪をかるく整えて、はがされていた布団をもう一度被らせた。
「貴様がそう思いたいなら、今はそういうことにしておいてもいい」
「……」
「眠っていろ。明日、起きれそうならフランソワに食べられるものを用意させる」
「……やったあ」
ふ、と笑う気配があって、しばらくしてから再び瞼は落ちた。静かな寝息が耳に届いてから、龍水はボトルを置いて、立ち上がった。
足音をたてないようにして、自分のベッドに戻った。横になって、目を閉じる。
静かな夜のままだった。明日になればもう少しだけ、賑やかさは戻るだろう。