星明かりに花は咲む「はぁ……」
密やかなため息は淡い星の輝く夜空に溶ける。エリオスタワーの屋上の庭園に出て、まだ制服姿のウィルは重い足取りでお気に入りの花壇に向かっていた。
今日は朝から散々だった。珍しく寝坊して慌てて支度をしていたら棚の上の鉢に手が当たってひっくり返してしまい最低限の掃除だけしてリビングに出て、急いでトーストを焼きながら紅茶を淹れれば砂糖が切れており甘くない紅茶を飲むことになってしまった。
午前のパトロールではサブスタンスの出現もイクリプスの襲撃もなく穏やかな時間を過ごしたものの、もう少しでタワーに帰還というところで通りかかった道路工事現場で開いていたマンホールに危うく落ちかけブラッドに助けられた。
叱られはしなかったが体調を心配されあのアキラさえも神妙な顔で無理すんなと言ってくるものだからいたたまれず、いつもならパトロールを頑張ったご褒美と何かしら甘いものを買って帰るところだがそんな気分にもなれずさっさと帰り、午後のトレーニングも身が入らず先に上がらされる始末。
「何やってんだろ、俺」
だから寝る前に少しでも気分転換をとやってきたこの屋上で、ウィルは普段ここで会うのは珍しい相手を見つけ、花壇の少し手前で一旦足を止めた。
「オスカーさん」
ウィルが丹精込めて育てる花壇の縁に腰掛けて夜空を見上げていた彼は、自分の名を呼んだウィルの声にゆっくりと振り向く。そしてここがウィルの気に入りの場所だと知っているため驚く様子もなく、ウィル、といつも通りに名前を呼び返してきた。
「俺がここにいては邪魔だろうか」
オスカーも今日のウィルの様子はよく見ておりこの場所に来た理由も察してくれたらしく腰を上げかけるが、ウィルはそれに慌てて首を振った。
「邪魔だなんてそんな、後から来たのは俺です。俺の方こそお邪魔じゃなければ、……一緒にいてもいい、ですか」
名前を呼んでくれたオスカーの声は優しかった。この夜空のように深く静かで穏やかな、大人の男の声。そんな彼に無性に甘えたくて不慣れながらもおねだりをしてみれば彼は頷いて隣を指し、ウィルはそこに座って一緒に空を見上げた。
「オスカーさんは、星を見ていたんですか?」
自分たちのいるエリオスタワーはニューミリオンで一番高い建物で、その屋上ともなれば空に手が届きそうなほど。月も星も街の明かりもまとめて独り占めできるこの場所は好む者も多く、遅い時間とはいえ他に誰もいないのが不思議なくらいだ。そしてオスカーが天体観測を趣味としていることはウィルもよく知っている。初めて聞いた時に意外とロマンチストなんだろうかとこっそり考えたのを思い出し、ウィルの頬は少しだけ弛んだ。
「ああ。少し時間が空いたもののトレーニングという気分でもなかったからな。だから気にすることはない。お前の方こそ今日はずいぶん疲れただろう? ゆっくりした方がいいはずだ」
「ありがとうございます。……オスカーさんは、優しいですよね」
星を見るのが好きで、やんちゃなハリネズミを可愛がっていて、ルーキーのことも課せられた職務以上によく見てくれている。上背があって体格も良くぱっと見では厳つい印象を与えるものの物腰は落ち着いていて、穏やかな低い声は安心感すら覚えさせる。そんな彼に抱くイメージをウィルがそのまま口にすれば、オスカーはきょとんとして首を傾げた。
「そうなんだろうか。俺からすればお前のような人間こそ、優しいと言えるのだと思うが」
その言葉の素直さも好ましく、しかしそれを手放しでは受け取れない自分にウィルは困った顔で笑い返す。自分の性格が穏やかな方であることは自覚しているが優しいかと言われると悩むところがあるのだ。
誰かのためにと身を粉にしてきたつもりがそれは自分のエゴでしかないと何度も思い知らされてきた。最近はだいぶマシになってきたつもりだが今でもアキラやレンに思わず保護者ぶったことを言ってしまい後から反省することも多々ある。
けれどもオスカーは顔を曇らせたウィルにあたたかな眼差しと笑みを向け、励ますように肩に触れてきた。
「お前に助けられて嬉しかった者は多いはずだ。実際俺もよく助けられている。アレキサンダーのこととかな。あいつがお前に懐くのも理解できる」
「オスカーさん……」
その手と言葉の温もり、そして注がれる普段よりも柔らかな眼差しに、ウィルの視界はじわりと滲む。
「っ、ウィル!? すまない、気に障ることを言ってしまっただろうか!?」
「いえ、違います。……嬉しくて」
心底驚いた顔で慌てて手を引くオスカーが何だか可愛らしく見えてウィルは首を振りながら小さく笑った。その様にオスカーも自分が傷つけてしまったわけではないと理解して胸を撫で下ろす。本当に素直な人だとウィルはさらに微笑み、彼の好きな星空にもういちど視線を向けた。
「オスカーさんも見ていたと思いますけど俺、今日いろいろヘマしちゃって、凹んでるというか自己肯定感がどん底で……。そんな時にオスカーさんが褒めてくれたからすごく嬉しくて、すごく安心したんです。でもそうしたら、涙が出ちゃって」
彼相手に強がる必要はない。何せ彼はウィルのメンターで、情けない姿など数えきれないほど見せてきたし、それでもヒーローにあるまじき行いをしない限りは間違いなく味方でいてくれるのだから。今も真剣な顔で話を聞いてくれる彼だからウィルはなんの衒いもなく胸の内を曝け出せた。
「そうか、なら良いが。……俺でいいならいくらでも話そう。十三期が入所してきてから今までお前のことはずっと見てきた。課題もまだまだあるが、それ以上に良い所もたくさん見てきているつもりだ」
どん底に落ちていた自己肯定感もきちんと自分を見てくれる頼れるメンターのおかげで、萎れていた植物が水を注いでもらったようにまた顔を上げる。そうして見せたとびきりの笑顔に、オスカーはなぜだか驚いたような顔をした。
「……花」
「え?」
「ああ、いや。お前のその笑顔はお前が大事に育てている花に似ているなと思ったんだ。訳がわからないかもしれないが」
口にしている本人が一番困惑しているような空気にウィルも一瞬戸惑い、しかし、いっそうその笑みを深めると緩やかに首を振ってみせる。
「いいえ、わかりますよ。花のような笑み、なんて言葉もありますしね。俺がそんな可愛らしいものかは微妙ですけど」
花屋の息子として生まれずっと花に囲まれてきたウィルにはその言葉の示すものがどれだけ美しく好ましいものかがよくわかる。それが自分に向けられることに多少の気恥ずかしさはあるが、好意的に見てもらえていることがありありと伝わってきて、しかもそれが普段そんなことを口にしないようなオスカーからの言葉であるから喜びもひとしおだ。そんなウィルにオスカーも目元を和らげ大きな手のひらでウィルの頭をそっと撫でる。
「俺からすれば可愛いさ、年下で後輩で初めてのメンティーで、……大事な、……」
その眼差しに、見たことのない色が混じるのにウィルは気付いた。温かく、優しく、そしてどこか甘やかな色。しかしオスカーはそこで言い淀むと再び困った顔をして、頭を撫でていた手をゆっくり下げてウィルの肩をそっと包む。
「すまない。その、何と言ったらいいかわからないんだ。仲間、というのは少し違う気がする。いや、仲間であることに変わりはないんだが。友人、とも違う……、もっとこう、大切な……」
「オスカー、さん……?」
そのまま二人は見つめ合う。交わす視線が帯びるのは戸惑いと、名前を知らない熱。静寂を彩る星の瞬きや微かな夜風とほのかな花の香りに包まれた二人はこの次に何をしていいのかわからずに、ただただお互いの瞳を覗き込む。
「何でもない、忘れてくれ。俺はもう戻る。ウィルも長居しすぎて体を冷やさないようにな」
もどかしい沈黙の中、先に動いたのはオスカーだった。肩に置いた手を名残惜しげに離して立ち上がると急かされるように踵を返してその場を立ち去る。ヒーロー能力を使いでもしたのかすぐに後ろ姿も見えなくなり、残されたウィルはぽかんとして穏やかな宵闇の中に座ったままでいた。
「……何だろ、これ。胸がドキドキ言ってる……」
再び訪れた静寂の中でウィルは心臓のあたりを手で押さえてみた。オスカーと二人になるのも言葉を交わすのも何気なく触れ合うのももはや日常のことだったはずなのに、今夜は何かが違った。高鳴る胸と火照る頬の意味を彼はまだ知らず、しかしこれまでとは違う感情が確かに胸の奥にあって、ウィルの鼓動を速めていく。
「次、どんな顔して会えばいいんだろ……」
ひとまず今夜はきっとオスカーが先に寝室に戻っているだろうから良いとして、まずは明日の朝だ。朝食の時に会わなかったとしてもどの道パトロールにトレーニングにと顔を合わせる場面はいくらでもある。その時自分は何事もなかったように振る舞うべきか、それとも。
「……笑っていたら、喜んでくれるかな」
まだ彼の体温が残る肩に指先で触れてウィルははにかんで微笑む。花のようだと褒めてくれた笑顔をまた見せれば、またさっきのように触れてもらえるだろうか。あの熱い瞳で見つめてもらえるのだろうか。
思い浮かべるだけで頬が熱くなり、少しでも冷ましてから帰らなければとウィルが花壇の縁から腰を上げ手摺に身を預けて空を見上げれば、ふいに物静かで穏やかなメンターの顔が重なってまたとくりと胸が鳴るのであった。