ちょはん アメコミ編それなりに、やってることはやっている趙ハンです
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海からの風が混ざってなお蒸し暑い帰り道、習慣になってしまった程に見上げた続けた部屋に遂に明かりが灯っていた。
いざその光景を見ると案外と他人事のような感想しか浮かんでこない。どうしたものかと、両腕を組んでマンションの最上階にある明るい光が漏れる我が家を眺める。
確かに彼にはカギを渡してあるし、いつでも来ても良いとは伝えた。それでもなんやかんやで律儀なハン・ジュンギは必ず一言連絡を入れたうえで、上がり込む。カギを渡してある意味を分かっていないとは思えないが、伝わっていないのかもしれない。彼の言葉を借りれば「甲斐のない人」である。
厄介な侵入者の可能性もゼロではないが、わざわざ明かりを点けて待ち伏せる程度の刺客は俺のところには来ない。
異人三の3年弱で築いてきた上下関係はなかなか厄介だった。なるほど、ようやくそれらしい関係になってきたようだ。念のため、見逃しがないかメッセージアプリを開く。彼とのやりとりは先週の日付から何も変わっていない。それも自分のメッセージで終わったきり。とにかく今の彼は相当に忙しいのだ。
とても濃い2019年の年末の騒動は、早くも世間の記憶から風化しつつあった。
ソープの店長の死も、伊勢崎ロードの発砲殺人事件も、廃墟群の火災も、何もかも櫻川に放り込まれたのか誰も話題にしない。あの選挙ですら「そういえばそんなことあったな」と常連たちが話していたのを耳にして、なるほどそうゆうものかと妙に腑に落ちてしまった。
だが、組織の何もかもを変えるしかなくなった異人町の裏社会はまだまだ慌ただしい。横浜星龍会は故・星野会長の跡を高部が継ぎ、横浜流珉とコミジュル双方の新総帥となったソンヒは残った幹部たちと共に二つの組織を維持することに毎日奔走している。異人三は大きな資金源も稼ぎ頭も失ってしまった。もう自分は口出しできる立場ではないが、逢えば必ず愛でている律儀な参謀の愚痴から状況は察してしまうのだ。
そんな多忙極まっているハン・ジュンギがどうやら自分の家にいるらしい。明かりが灯る我が家を何度も見上げながら、夜食に何を作ろうか考えているうちにマンションのエントランスまで来てしまった。
わざわざインターホンで確認するのもセンスが無いか、といつも通りエレベーターに乗り、最上階のボタンを押した。ここまで浮かれていて、もし刺客だったらそれはそれで面白いし、店に貢献してくれる足立さんに話すネタが一つ増える。どちらに転んでも、良いことしか待っていないことに頬が自然と緩んでいた。
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「たっだいま~」
玄関にも明かりが点いている。ただいまなんて普段言わない。この部屋に来て初めてだ。
玄関だけじゃない。廊下も、先に続くリビングまでが明るい。普段の節電意識はどこにやったのだろうと笑うのをこらえていると、リビング手前の寝室の扉が少し動いた。
顔を出した男は、普段整えている髪をすっかり下ろされていた。仕事着ではなく、この家の寝室にあるチェストに仕舞ってあった部屋着に着替えたようだ。
「……おかえりなさい」
疲れているのか眠いのか、寝室の扉から半身だけ出したハン・ジュンギの表情は少し硬い。
「いいねぇ!おかえりなさいって言われたかったんだ~俺。恋人がいる家に帰ってこられるって、やっぱり良いもんだね~」
「連絡もなしに家に上がってしまったので……叱られるかと思いました。おかえりなさい、趙さん」
彼の顔に色が差す。カチャリとドアの蝶番が音を立て、見慣れた恋人が本を片手に廊下に出て来てくれた。どうやら、彼にとっても今日の行動は一種の賭けだったらしい。そういえば、プライベートなことを自発的に明かさない子だったなと思い出し、インターホンで試さなくて本当に良かったと安堵した。
抱きしめたハン・ジュンギからは自分が使っているシャンプーの香りがした。
「ところで、何読んでたの?」
そう尋ねると「あ、」と抱きしめられたままの彼は、片手に持ったままの本に顔を向けた。俺もつられて同じ方を見る。
少し大きめな本。その派手な表紙にはアルファベットのタイトルとアクロバットなヒーローの姿が描かれていた。
「アメコミじゃん。ハンくん、アメコミ読むんだねぇ」
「普段は読みませんけど、本棚にきれいに並べられていたのでその……」
彼は目を伏せながら、もごもごと続けた。
「その……趙さんが好きなものなら面白いのかなと、気になりまして。読みだしたら意外にも奥深くて止め時を見失ってしまいまして……」
耳が赤い。
その暖かい耳元に、唇を落とす。俺はこうゆうハン・ジュンギを見たかったのだ。抱きしめた腕の力を強めると、強めに体を離された。なぜここでそうなるのか、と抗議の眼差しが刺さる。ごめんごめん、と降参のポーズで拘束を解いた。
「で、どれ読んでたの?」
「とりあえず左端が古そうだったので、順番に読んでました。主人公は元より、敵もなかなかに魅力的でして。一言では表現できない奥深さで――」
水を得た魚のように目を輝かせて喋る姿を見たのは、初めてかもしれない。まさかこの部屋に住むまで、レンタルスペースに隠していた秘蔵のアメコミが、彼の心ここまで刺さるとは思ってもいなかった。
先程まで、今夜は朝までどうやって可愛がろうかフル回転していた脳内は、ハン・ジュンギに趣味を持たせるチャンスだとシフトチェンジした。有料放送の時代劇を見ている姿を見たことはあるが、筋トレと銃火器のこと以外を熱く語る姿は初めて見る。
いろいろとご高説賜っている様子だが、それどころではない。
平和に不慣れなハン・ジュンギを食事とセックス以外の方法で「こちら側」に留めるチャンスが到来したのである。チャンスの女神の前髪をつかみ損ねるわけにはいかない。
「ねぇ、ハンくん」
名前を呼ぶと、声が止んだ。首をかしげて不思議そうな顔をしている。
「このマンガ、そんなに気に入った?」
「えぇ、もちろん。あの……ところで趙さん、私の話聞いてました?」
「聞いてた聞いてた。もちろん聞いてたよぉ。実はそのマンガ、今無料で映画が見られるんだよねぇ~」
彼の眼が大きく開かれ輝いている。俺は彼のあたたかな手を引いて、リビングへと向かった。寝室なんてもったいない。この深夜の太陽を、朝日が昇るまで輝かせ続けてやる。