ちょはん 2019年の初め頃編 次々とスイッチする画面は年が明けても相変わらず、異人町の様子を映している。せいぜいが画面越しの装飾がクリスマスから正月に変わって、飾りを片付け始めた店が出てきたくらいか。横浜流氓のシマの正月は旧正月だから、まだまだみんな浮かれていてお祭り騒ぎだ。年末年始の挨拶回りが終わったと思ったら自分の身内のご機嫌取りに奔走しなくてはならない。できれば今日の仕事もさっさと終わらせて、帰って風呂入って寝たい。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、俺はモニタールームで30分待ちぼうけをくらっている。
ゴツゴツ、と重い音がした。この部屋には今、俺以外はいない。
ゴツゴツと聞き慣れない音が「近づいてくる」ことに違和感を覚えた。毎度そつなくスマートで小憎たらしいコミジュルの参謀ハン・ジュンギは足音を立てないのだ。おそらく彼だとは思うが確信が持てない。万が一別人である可能性も踏まえて、手元の搬入書類を左手に持ち直し背に隠しながら慎重に振り返る。
あと5歩くらいの場所に、影が立っている。
目の前に居る。足音も聞いた。ただ、息づかいがしない。ソレは俺が振り返ったと同時に動きを止め、じっと見ている、気がする。黒いコートにズボン。そしてフードを目深に被り黒いマスクで顔が確認できない。目の前に在る人型の存在はコミジュルの人間である確率は限りなく100に近いのだが、確信を得られないことには、こちらもそれ相応の態度をとる他ない。
ゆっくり懐から拳銃を取り出し、セーフティーを外す。銃口を向けるとようやく目の前のソレの重さが認識できる。まるで小さなチリが集まって、空の容器に納まるかのようにじわじわと形が現れた。
「どうなさいました?趙総帥」
少し籠った声は、モニター室に吸い込まれた。目の前にいるのはハン・ジュンギ……だと思う。でも、塵の集まりかもしれない。現実的に考えて、そのようなことはありえない。ありえないのだが、俺にはそう見えている。拳銃を持った右腕を下ろすことができない。
「どうなさいました?趙総帥」
目の前のそれは一言一句抑揚まで、全く同じ言葉を繰り返した。まるで動画を10秒戻したようだ。そう長い付き合いでもないが、これまでとは異なる雰囲気に異様なものを感じ、撃鉄を下ろす。カチリ、と重い金属音が大きく聞こえた。
「どうなさいました?趙総帥」
3回目。どうする?
残念ながら「彼に遊ばれている」とは受け取ることが出来ない。一発足でも撃って確認しようにも、ここはコミジュルの中枢だ。仕方なく拳銃を振ってフードを外すよう促す。それでも目の前のそれは同じことを繰り返した。
「どうなさいました?趙総帥」
トリガーは指が掛かりっぱなしで、そろそろ腕も疲れてきた。このまま睨み合いというのも埒が明かない。やはり一発肩でも足でも撃って確認した方が早そうだ。出来れば赤い血を流してくれると助かる。人差し指を手前に折り曲げてしまおうか。
その時、ガチャリと金属音が耳に入った。
「おい、ここで何を始める気だ?お前たち」
声の主は、平時通りよく通る声で俺とそれに問いかける。カツカツとヒールを鳴らしながら近づくと、ソレの前に立った。彼女はふん、と鼻を鳴らして左手を腰にやり、懐から拳銃を取り出した。
「すまないな、趙。手違いがあったようだ。書類を渡して貰えないか?」
ソンヒの右人差し指は拳銃に添えられている。引き金に指がかかっていない事を目視で確認し、敵意は無いと判断して、俺は銃口を下げハンマーを押さえながら慎重にトリガーを引いた。その様子を見て、彼女は俺に背を向けて背後の影を抱きしめてどこかに電話をし始めた。
拳銃を懐に戻して、少し痺れた右手を軽く振った。五指を曲げては伸ばしつつ左手の書類に目をやると、案の定それは親指の力か加わったところを起点に皺くちゃになっていた。破れていない事だけが不幸中の幸いだ。
ソンヒと冷静に話をするため、右手を胸にあてて深く息を吐いて全身を整える。数度繰り返したことろで、見覚えのある白衣の人間が2人、モニタールームに慌てて入って来た。
俺はそれでようやくこの事態を理解した。
ソンヒがハン・ジュンギを彼らに引き渡すと、黒い影は名残惜しそうに彼女を振り返る。ソンヒはもう一度それを優しく抱きしめると、背を軽く叩いて体を離した。
医療班はソンヒと俺に深く頭を下げて、ハン・ジュンギを回収して出ていった。
「……なるほどね」
彼がこの町に来たのは2017年の今頃かその前の年末あたり。そんな時期だと聞いた気がする。ここに辿り着いてしばらくして、彼の頭目がどうなったのか聞いたという。
「説明が省略できるのは大変助かる」
済まなかったな趙、と会釈してコミジュルの女王は扉を見つめていた。