あとしまつ編⑥ 19時に差し掛かるころ。「さすがに何か食わせた方が良いだろう」と、いつまでも降りてくる気配のなハンくん用の食事をマスターから託された。点滴が必要なほど疲労が溜まっているのだから、とマスターが用意してくれたのは塩粥と玉子豆腐に蜂蜜レモンのお湯割りだ。そこは、たまご酒ではないのだな、と考えながら膳を運ぶ。
和室の電気を点けてみれば、彼は定位置である、和室の手前隅でカシューナッツのようになっていた。またミノムシと化している。
「ハンくん起きて〜。マスターが夕飯作ってくれたよ〜」
俺の声が虚しく響く。この程度で起きるとは思っていないし、正直なところ起こすのは悪いなと少し悩んでさえいる。
彼の場合、単純に「仕事に精を出しすぎて3徹明けで倒れた」のでは無い。神室町での自由行動で散々楽しんだ後から寝てないというのはさすがに……いや自業自得か。俺も悪いが、あいつも悪い。最後は珍しく足に来てたし帰るのが大変だった。
極短時間のぶつ切りでなら仮眠を取っていただろうとは思っているのだけど、それなら唯一の暇人と言って差支えのない俺を呼んでくれればよかったのだ。上下関係に厳しい環境が長かったのだろう。こういう時に立場を重んじて俺に相談しないのは如何なものかと思う。
夕飯の乗った膳をちゃぶ台に置いて、シルバーアッシュの髪がはみ出ている布団を覗いた。彼は布団を抱き込むように包まって、顔まで潜っている。苦しくはないのだろうか。やや考えて彼の体を揺らす。
「ハンくん起きられる?薬飲まなきゃいけないんでしょ?なんか腹に入れて薬ちゃんと飲んでから寝な〜?」
布団から唸り声が鳴った。彼は少し身じろいで顔をのぞかせると、眩しかったのか目をぎゅっと閉じて顔を突っ伏した。仕方なく部屋の明かりを2つ落として豆電球だけに調整した。オレンジの常夜灯でなら大丈夫だろうか。
「ほら豆電球だけにしたから眩しくないよ〜」
声をかけるとハンくんはそろそろと顔を上げた。夜行性の小動物みたいだ。
「すみません趙。目が痛くて」
思っている以上に眼精疲労と肉体疲労の蓄積が重くのしかかっているらしい。
「ちょっと自分の体力を過信しましたね今回は」
そう言ってゆっくりと布団から這い出てきた。彼の顔色を確認しようと近づいたが、さすがに暗くて掛けているサングラスを上げた。両手で彼の耳から顎まで探るように触れる。顔色はオレンジ色のせいではっきり分かるわけがないが、指で触れた首筋のリンパ節が腫れているように感じる。
「体温計探すから、ちょっと待ってて」
手を離そうとしたが、それを阻まれた。右の手首が熱い。
「熱があるのは分かっています」
「分かった。で?食欲ある?」
「う〜ん……口に入れれば進むんじゃないですかね」
食欲は無いが、食べたいといったところだろう。どうにかして何か食べないとヤバいという認識なのだろう。本当は食欲がない時は無理して食べない方が良いのだが、服薬を考えると胃になにかあった方が幾分かマシだ。
「よし。じゃあ明かり戻すから、食べて休みな」
「えぇ……?眩しいのはちょっと……頭痛が……」
これは起こさない方が良かったかもしれない。自然に起きるまで待ってからの方が正解だったなと肩を落とした。俺もハンくんの体力を過信していたし、仕事量やこの一件の後始末を軽く考えていたと気付かされた。
「分かった。起きられそうになってからにしよう。ごめんな、起こしちゃって」
カランカラン、とドアベルが耳に入る。続けて足立さんの声と複数人の声が混ざった。春日くん達だろうか。
「春日さんたち、ですかね。起きないと」
掴まれた右手が解かれる。慌てて、解かれた手をそのまま肩に置いた。
「春日くんたちには俺が言っとくからさ、ハンくんは寝てな」
「何でです?趙は私ではありませんが」
「そうなんだけど、」
———春日くんたちが心配すると続けようとして、言葉に詰まった。間違いなく疲労で高熱が出ていて、普段と違う格好のハン・ジュンギ。ここでの雑魚寝である程度見慣れているが、今このまま1階に送り出すのは憚られる。心配されるよりも、本人が熱に浮かされてテンションが上がって症状が悪化する危険の方が高い。
「……春日くんたちには、明日都合のいい時に顔を出してもらうように伝えるよ。それならOK?」
おそらく、春日くんに自分の言葉で伝えなければならないことがあるのだろう。目指す背中を失った者同士にしか分からない、心遣いはあるのだ。間違いなく。
「ありがとうございます趙。では春日さんには、そのように伝えてください」
「分かった。じゃあ、起きたらスマホで呼んで。すぐ戻るから」
それがいい。1階に降りようとして、階段で足を踏み外されても困る。睡眠を2度も妨害した手前、ばつが悪かった。
「いえ、春日さんに伝えたら戻ってきてもらえませんか?」
「え?いいけど、ちゃんと体休ませた方が」
「その……側にいて欲しいんです。あなたのせいで、人肌を思い出してしまいました」
オレンジ色の明かりで表情ははっきりと見えない。だがそのせいで神室町での出来事を鮮明に思い出してしまった。あの日、かなり良い思いをした記憶と感触はまだ鮮明だ。
「あと、私が体力切れになったのは半分あなたのせいです」
「それは、自業自得じゃないの?」
「とにかく!春日さんに要件を伝えて、さっさと戻ってきてください趙さん」
ハンくんはそう言い捨てて、また布団にくるまってしまった。
趙さん、か。あの日の昼間に囁かれた、白昼夢のような声を思い出す。彼の頭を撫でると、あの日よりも軋んで傷んだ髪と少し油の浮いた頭皮に不思議と離れ難くなる。
「分かった。すぐ戻るから」
撫でていた頭がこくりと動いて、そっと手を離す。仲間の声が大きくなった気がして、顔を上げた俺は、静かに1階へと向かった。