兵法と口紅 陽が傾いて辺りが暗くなりはじめていた。雲ひとつない空にちらちらと星が瞬いている。
「ちと帰りが遅くなったな」
私邸の目前までたどり着いた賈詡は、深い紺色に沈んでいく空を見上げて呟いた。
仕事を終えて帰宅して早々に妻の部屋へ続く廊下を足早に歩く。目的の部屋の扉の前で足を止める。
賈詡の手には、蓋が付いた磁器製の小さな容器が握られている。蓋を開けると中には鮮やかな赤色が伺える。染料が練り込まれたそれは口紅であった。
「気に入ってくれるといいんだが」
普段ならば職務を終えて直帰する賈詡だが、昼間の急務で市井に赴いた際に、通りがかった店先に色とりどりの装飾品や粧品が並べられていた。
そのなかのひとつの口紅に目を惹かれた。妻によく似合うと思った。その時は店を通り過ぎただけだったが、用を済ませ宮中へ戻って全て仕事を終わらせたあと、再び店へ赴き口紅を手に入れたのだった。
賈詡はなんでもないおりにも、妻に贈り物を贈る。この口紅もそのひとつだった。
賈詡は曹魏に降った経緯から、曹操軍旗揚げからの将の中には、彼をよく思わない者もいた。主君や軍師達からはその才を認められている一方で、そうした目を向ける者も少なくない。そして賈詡は謀略に長けている。頭が切れるのだ。いつ主君を裏切り反旗を翻すやもと注視される存在であった。
そういった輩から、疑いの目を向けられないよう、仕事外の交流は最低限に留めているのだ。
それは妻も同じだった。賈詡は妻にも私的な交流は控えるよう言いつけている。それは疑われないためとは別に、自分を疎む者の標的にならないよう妻を守るため配慮でもあった。妻には言っていないが。
そういったこともあり、妻にすくなからず窮屈な思いをさせているという罪悪感から、賈詡は自身で品を見繕ろい贈っている。
扉の前で立ち止まっていた賈詡は、口紅を懐にしまい、うんと軽く咳払いをし、「帰ったぞ」と一言声をかけ部屋の扉を開いた。
目に入ったのは、妻の後ろ姿だった。薄暗い部屋の中心、椅子に座り机に向かう姿が燭台の灯りでぼんやりと照らされていた。机上には裁縫道具と縫いかけの生地があり、卓の半分ほど占めている。卓の端には化粧箱といくつか積まれた書簡。
妻は手元の書簡に目をやっていた。熱心に読んでいる様子でこちらには気がついていない。すっと姿勢良く伸びた背筋、ひとつに結われた髪に簪が刺してある。耳元にはきらりと一粒光る耳飾り。薄暗い部屋には浮き上がるように照らされる彼女の白いうなじがよく映えている。
賈詡はほんの少しの間、見惚れていた。おっと見惚れすぎたなと我に返り、おそらく相手の耳に届いてなかったであろう一言を再度放った。
ようやく気づいた妻が座ったままゆっくりと振り返る。
「お帰りでしたか」
「おう、ただいま」
応答もそこそこに賈詡は妻に歩み寄った。
彼女が夢中になって読んでいた書が気になったからだ。妻は日頃から着物を縫ったり刺繍を施して過ごすことが多い。黙々と縫う姿は見慣れているが、書を読む姿は珍しかったため余計に気になったのだ。彼女の趣味趣向は把握しておきたい。賈詡は先ほどまで読まれていた机上の書簡を手に取った。
「読書か。なにを読んでいたんだ?」
そこには、そらんじられるほど覚えのある文字が並んでいる。
「孫子です」
「へえ、あんたが孫子とは意外だね」
「ええ。少し難しくてあまり進みませんけれど」
「その割には、夢中だったようだがね。しかし兵法とは驚いたね」
「少しばかり勉強を。今使い道はなくとも知っていて損はありませんから」
「そうかい。んーそうだな、俺が孫子に注釈をつけたもんがあるんだが、読んでみるかい?そっちのがわかりやすいだろう」
「助かります。曹魏の軍師様が書かれた注釈書、さぞやためになるでしょうね」
妻はほんの少しおおげさに言った。口元に弧を描いて微笑む。
本心かからかいか、おそらく両方の意味を含んだ言葉に「褒めてもなにも出んぞ」と表情には現れない照れ隠しを呟いた。
どんな言葉にせよ惚れた女に褒められるとうれしい。自分はこんなにも単純だったのか、と目を細めて笑う妻を見ながら賈詡は思った。
賈詡はひとつ引っかかっていたことを正直に言った。
「尋ねてもいいか?なぜ兵法を学ぼうと?」
「この乱世ですから、女人も学が無ければ渡れません。篭りきりの私には特に…」
少しの沈黙が流れる。
「……窮屈か?」
賈詡が言う。主語を言わずとも、妻はそれが邸に篭りきりの生活を指していることは容易に想像がついた。外に出たいのか?と賈詡が暗に含ませた意味を汲み取って答える。
「いえ、そうではありません…」
燭台の灯りがゆらゆらと揺れる。何かいいたげで、でも言葉が出てこないといった様子で思案している。賈詡は静かに妻の言葉を待った。
「私は守っていただいてばかり。門を閉めて交流を控えるよう仰せなのは、私へのお心遣いもあるのでしょう。ですが私は、文和様のお役に立つどころかご負担になっているのではと不安だったのです」
伏せられた瞼、言葉尻が次第に弱く、ぽつぽつと紡がれる。まるで独り言のように。
「ああ、違いますね。私は文和様に見離されるのが恐ろしかったんです」
ほんの一瞬、言ってしまったとでも言いたげな表情をしたと思えば、次第に視線を床に落としてしゅんとしていく。
「んー、気づいてたか。そんな顔をさせてしまうとは…まいったね」
片手を腰に当てて小さく息を吐いた。
賈詡は顎髭を撫でながら考える素振りをする。どうすれば妻の不安を除けるか。両目を瞑り一拍おいて目を開く。
賈詡は相対するように妻のすぐそばに近づいた。そしてその頬に両掌をゆっくりと伸ばす。
その手で頬を包みこみ、俯いた顔をやさしく上げさせる。
「俺が見離す、と言ったな?……ずいぶんと笑えない冗談だ。あり得んね」
言葉は鋭いが、頬を包む手はやさしい。
ふにと柔らかにゆがむ顔に、賈詡は自らの顔をぐいと近づけて言った。
「逆だ」
鋭い視線が妻の両目を射抜く。瞳の奥は、彼女を捉えて離さないとでもいうような圧があった。賈詡は低く、それでいて優しい声色で言った。
「俺があなたを逃すと思うか?」
逃がさない、という圧。
独占欲か執着か、あるいはどちらもか。ほんの少しだけ賈詡は己の内を妻に見せた。
賈詡はパッと身を離し「ま、離れたいというなら話は別だがね」と普段の軽い調子に戻って言った。
妻はそんな賈詡の一面にどきりとした。普段は本心を滅多に出さない賈詡が、真偽は不確かでも自分のために一瞬でも心を晒してくれたという事実が嬉しかったのだ。この人は決して離してはくれないのだという安心感を覚えることができた。自分はてっきり……
「はぐらかされるのかと思いました」
「心外だね。妻の不安ひとつも拭えんようじゃ、乱世も渡りきれんよ」
むとした表情で言った。妻の表情が綻ぶ様子を見た賈詡は続けて言う。
「人にはそれぞれの役割がある。俺はあんたが側にいてくれりゃそれでいい。ま、兵法を学ぶ理由が俺だったのは素直に嬉しいよ。それでもまだ不安というなら、俺直々に兵法をご教授しよう」
妻はふふと笑みをこぼし「ありがとうございます」と一言返した。
「文和様」
妻のぽつりとこぼすような呼びかけに賈詡は、ん?と疑問符を浮かべて言葉を待つ。
「……私は逃げませんよ」
賈詡はほんの少しだけ目を細めて笑う。
「あっはっはあ!さっきまで見離される云々言っていたとは思えないね!あんたも変わり者だ。ま、俺としてはそうしてもらえるとありがたいよ」
────
「そういえば、今日はずいぶんと遅かったですね」
「ああ、そうだった」と懐から口紅を取り妻の前に差し出して、遅い帰宅の顛末を説明した。
「これをあなたにと思ってね」
「まあ口紅ですか!…ありがとうございます」
「せっかくだ、ちょっとつけてみてくれないか?」
妻は賈詡の言葉を受けて、化粧箱を開ける。中に入っている銅鏡と化粧筆取り出した。筆で小瓶の中の紅を取り、片手の銅鏡を見ながら唇に丁寧に紅を塗っていく。その所作ひとつひとつに賈詡は見惚れていた。
「どうですか?」と妻がこちらに顔を向ける。
「俺の見立て通りだ」
賈詡はゆっくりと妻に近づき、妻の頬を撫でる。
「沈魚落雁とはこのことかね…よく似合ってる。本当に俺にはもったいないくらいだ」
賈詡は目を細めて微笑む。
頬に添えられた手、親指の先で、まるで綿を撫でるようにやさしくゆっくりと唇に沿わせた。
その感触が甘い刺激となったのか、妻は瞳に欲を宿し切なげな表情に変わる。
妻は頬に添えられた手を自らの掌を重ねるようにして持ち、賈詡の無骨な手を己の唇に押し当てた。
そして口を開いたかと思えば次の瞬間には賈詡の人差し指と中指を咥えていた。
「!?…なっ…にを…」
妻の行動に驚いた賈詡はそれ以上何も言えなかった。
始めは指先を、しだいに指根まで咥え、舌先から舌の根全部を指に絡ませ舐めている。
指から伝わる舌先の感触とぬるい熱、そして扇情的な光景に、賈詡は目の前がチカチカした。腹の底に沈んでいる欲が疼く。賈詡がピクと指を動かした直後、妻は指を口から離した。
「……それは、誘ってるのか?」
「文和様も初めからそのおつもりでしたでしょう?」
「はあ……その気にさせるつもりだったが、先手を打たれたか」
「お嫌でしたか?」
妻はふふと妖艶な笑みを浮かべる。
「惚れた女の誘いを嫌がる男はいないだろう。だが、まんまと嵌められてしまったわけだ……少しばかり悔しいね。それに」
賈詡が小さなため息を吐く。そして一拍のちに、妻の腕掴み身体をぐいと引き寄せた。
「あんたはこうしてとんでもないことをしでかすんだ。どこぞの馬の骨かわからん奴に盗られでもしたらたまったもんじゃない。だから外に出したくないんだ。まったく……ま、そこがあんたの良いところでもあるんだが」
一息に吐露された言葉に「えっ…」と目を丸くして驚く妻。その隙をついて賈詡は鼻先同士が触れるほどに顔を近づける。
「俺を謀ったんだ。やり返される覚悟があるってことでいいんだな?」
間近で視線が交わる。その目の奥に獣を宿している、と妻は思った。否、思い終える間もなく唇が重ねられた。
賈詡は唇をぐぐと強く押し付け舌先で口をこじ開ける。舌先を絡め合う。力が抜けてとろんと柔らかくなった舌にやさしく吸い付く。ときおり上顎を舌先でやさしく擦ってやると、「んっ…」と声を洩らして妻の身体がぴくと反応する。唇や舌先が次第に脱力して彼女はされるがまま身を委ねる。深い口づけを続けながら、片手でうなじをつつと撫でるとびくと身体が反応した。「あっ」とか細く漏れた嬌声を聞いて、賈詡は唇を離す。妻の目は涙で潤みとろんと溶け、頬は上気して耳まで赤く染まり、はぁはぁと息が上がっている。その吐息には熱がこもっていた。自らの手で彼女の恥態を暴く高揚感といったら。なんてたまらないのだろうか。
「さっきのお返しだ。嫌だったかい?」
してやったりとでもいいたげな、ニヤリとした表情で賈詡は言った。
とろんとしていた妻の顔が、むっとした表情に変わる。
「……」
「あっはっはあ!嫌じゃないと顔に書いてあるぞ」
「ずるいです……」
「そんな顔で言われてもね」はははと再び賈詡は笑った。
賈詡は妻を愛しげに見つめる。
彼女の頭を撫で、次いで耳、唇に指先で触れる。結えた髪に刺してある簪、耳元で光る耳飾り、そして唇を彩る紅ひとつひとつに目をやった。これらは全て賈詡が贈ったものだ。彼女がそれらを身につける姿をみて、賈詡はほんの少しだけ安堵する。それは妻が自分のものという証だからだ。
賈詡が妻に品を贈る理由は窮屈を強いている罪悪感からだけではない。自分の元に留まってほしい、離れてくれるなという祈りと枷だ。もっとも、意味を成さないことはわかっているが。
実のところ、賈詡が最も恐れているのは妻の心が自分から離れてしまうことだった。
妻から向けられる好意が大きければ大きいほど、その不安は増していく。妻には先ほど「逃すと思うか?」などと口走ったものの、不安なのは賈詡のほうだった。それに、俺を慕う妻の心がいつ変わってもおかしくない。人の心は思うようにならない。手のひらを返すように心は変わるのだ。逃げられないよう知恵こそ絞るが、私邸に留め贈り物を贈る、情けないことにその程度だ。
変幻自在の策を持つこの俺が、女ひとりに嵌って抜け出せないとはね。
…これも惚れた弱み…かな。
賈詡は妻を抱きしめた。その肩首に顔を埋めるように。そしてぽつりとつぶやく。
「あんたが謀るのは俺だけにしといてくれ……なんてな」
「文和様…私にはあなたしかおりませんよ」
妻は賈詡の頭を優しく撫でた。顔を埋めたまま賈詡は答える。
「……はは、ありがたいね」
再び向き合う姿勢を取り、賈詡は目を細めて微笑む。
「このままあなたに溺れても?」
「…ええ」という妻の声を聞き、賈詡は再びその唇に深く口付けた。