昼つ方の雨にまぎれて「……なんだ、君も来ていたのか」
軒下でばったり顔を合わせた男を見て、ベレトは静かに微笑んだ。言葉は短くても、その声音にはどこか安堵が滲む。互いに待ち合わせをしていたわけではない。ただ、同じことを考えていたので考えていたことに少しだけ驚いた。
ベレトは空いた時間を利用して厩舎に軍馬の様子を見るために此処にきたものの、空がまたたくまに曇り、湿った風がひとつ吹いたと思えば、次の瞬間には雨粒が音を立てて地面を叩き始めた。つい先ほどまでは、空に青みが見えていたので急な通り雨など、予想すらしていなかった。そのため対応が少し遅れてしまい、気づいたときには、もう引き返す機会を逸していた。
ひとまず雨宿りしようと厩舎に駆け込み、そこでディミトリに遭遇し、今、わずかに張り出した軒下に、共に並んで立ち尽くしている。
「……まいったな」
ぽつりとつぶやいたのは、ディミトリだった。深い蒼に黒を溶かしたような精悍なつくりの外套は、すっかり雨に濡れて重たく沈み、肩口からは水が静かに滴り落ちている。濡れた髪からも、しずくが頬を伝い、まるで涙のように流れ落ちていた。
「随分と盛大に濡れたものだな。水も滴るなんとやらだ」
ベレトは僅かに笑いながらそう言って外套を脱ぎ、何度か軽く振って水気を飛ばした。同様に髪を振るった後、濡れた髪を手ぐしでかき上げると、そのまま隣に目を向け、ディミトリにも外套を脱ぐよう目で促した。
ディミトリは何も言わず、促されるままに外套に手をかけた。雨に濡れた生地は重たく、肩から滑らせるようにして脱ぐ間にも、髪先からぽたぽたと水滴が落ち続けていた。
その様子を目にとめたベレトは、ふと自分の外套の端を持ち上げ、そして、何のためらいもなく、それでディミトリの濡れた髪をそっと拭った。
「……って、それで拭くのか? 他になにか持ってないのか?」
驚きと笑いが滲んだ声に、ベレトは肩をすくめた。濡れた前髪が静かに揺れる。
「持ってたら、とっくに使ってる。濡れっぱなしよりは、ましだろう。……もしかして、君は持ってるのか?」
問い返す声は落ち着いていて、どこか楽しげでもあった。ディミトリは口を閉ざしたあと、すこしだけ眉尻を下げて苦笑する。
「いや、俺も…。すぐ戻るつもりだったからな」
「……なら、同じじゃないか」
あまりにもあっさりとした返しに、思わず肩の力が抜けてしまった。そんなところが、どこかベレトらしいと思う。
几帳面な人なのに、ときどき不思議なくらい無頓着で、でもそれが冷たいわけでもなく、こちらを雑に扱っているようにも感じない。ただ自然にそこにいて、必要なときには黙ってそばにいる。なにひとつ構えたところがなくて、どこまでも静かで、どこまでもやさしい。
おそらく、それは自分勝手な解釈なのだと、分かってはいるが、それでも彼の隣にいると、自分のすべてをそのまま受け入れてもらえているような気がして、胸の奥がふと、穏やかなあたたかさで満たされていく。
ディミトリは、気づかれないほど小さく笑った。
隣に目を向けると、ベレトもこちらを見ていて、自然と目が合う。それだけなのに、なんとなく気恥ずかしくなって、どちらからともなく、曖昧な笑みを浮かべた。
急に降り出した雨に驚きはしたものの、濡れて困るようなものはなく、急ぎの用もなかった。だから、雨が止むまでは、ただこうしてふたりで、並んで雨宿りをしていればよかった。
そして、今は、こんな時間があることが、ただ嬉しかった。
□
肩と肩が、ほとんど触れそうな距離で、ふたりは並んで空を見上げていた。雨は強すぎず、弱すぎず、しとしとと地面を打ち続けている。その一定のリズムが言葉よりも深く、心を落ち着かせてくれる。
「こうして、何もしない時間って、案外久しぶりだな」
雨垂れを見つめながらディミトリが、ふとそんなことを言った。
「たしかに。君は特に常に何か仕事をしていないと落ち着かないといった顔をしているからね」
「……言われてしまったな」
ディミトリがバツ悪そうに呟くと、互いに微笑み、空気がやわらかくほどけた。しかし、そのあと、会話らしい会話が浮かばず、ふたたび静かな沈黙が落ちる。やたら相手のことを意識してしまい、何を話せばいいのか分からなくなって、どちらからともなく、ほんのわずかに視線をそらした。
屋根を打つ雨の音は、相変わらずやさしく一定のリズムを刻んでいた。軒先から滴るしずくが、ぽとん、ぽとんと地面を打つ。二人はそれを視線で追いながらも、常に隣の存在を意識していた。
笑いあったはずなのに、今は言葉が見つからない。ただの雨宿りなだけなのに、どこか気恥ずかしい気持ちになる。
「先生」
しばらくの沈黙の後、ディミトリは静かに口を開いた。
「…ん?」
ディミトリを見上げると、彼は少しだけ驚いたような表情を見せた。すぐに咳払いでそれをごまかし、顔にかかった前髪をひとつ払う。
その仕草のあと、隻眼がまっすぐにベレトを見つめていた。
「このまま、もう少しだけ、雨が止まなければいいのにって……そんなことを思っている」
一拍、迷ったような呼吸。唐突に落とされた言葉だったけれど、不思議と、胸の奥にすっと沁みていった。それが冗談ではなく本心だということは、言葉の選び方と、その実直な声音が物語っていた。
「君がそんなことを言うなんて、めずらしいね」
「雨が、そうさせるのかもしれない」
「雨ね…」
ベレトはそう呟くと、目を細めてディミトリを見つめた。
「雨が降らないと、君は腹を割って話してくれないのか?」
「いや、そんなことは!」
ディミトリはどこか慌てたように両手を大仰に振った。
「本音で言えば……お前のせい、かもしれない」
ぽつりとそう言ったあと、ディミトリは再び視線をそらした。身なりこそ逞しくなり、風格も備わったというのに、そうして目を逸らす横顔を見ていると、自然と出会った頃の彼が思い出される。
あの頃のディミトリは、驚くほど真面目で、清廉で、そして親切だった。
教師として右も左も分からなかった自分に、まっすぐな眼差しで言葉をかけてくれたことを、今でも覚えている。
けれど、いざ彼自身のことを聞こうとすると、いつも困ったように目を泳がせ『自分はつまらない男だから』と、必要以上に卑下する姿をとても不思議に思っていた。
──君がつまらない男なら、世の中の大半はつまらない人間ということになってしまうだろうに。
そう思った出来事すら、つい昨日のことのように思えた。
その後、彼は多くの苦しみを背負い、地獄を歩き、闇に囚われそうになりながらも、再び戻ってきた。今ここにいるのは、あの頃と変わらない瞳をした純粋で優しい青年だ。
そしていま、こうして再び肩を並べている。そう思うと、不思議な感慨が湧いてきた。ただひとつ、あの頃と違うのは、自分の中の心持ちだ。頼りになる級長だとおもっていたあの頃とは間違いなく違う想いが胸の中にあった。
――この想いに名前はあるのか。
けれど、それはただの信頼や友情とは、どこか違っている気がした。
はっきりとは言えないその感情は、雨粒の音に紛れるように、少しずつ、静かにかたちを成していく。
ディミトリが自分に対して、なにかしらの情を抱いていることはわかっていた。
それが教師としての敬意なのか、深い信頼なのか──それとも別のものなのか。
けれど、たとえそうだとしても、互いのあいだにあるこの感情に、明確な名前をつけるのは、どこか憚られるような気がしていた。
(彼をあるべきところへ導く。それが叶った暁にはあるいは…)
肩が、ほんの少し触れた。
互いの存在を感じながら言葉を発することなく、雨垂れを静かに見つめた。
「……止みそうにないな」
静かな雨音にまぎれて、ベレトはぽつりと呟いた。けれど、すぐさま、それを否定するような声が返ってきた。
「止まなくていい」
その即答に、ベレトはわずかに瞬きをした。視線を向けると、ディミトリもまたこちらを見ていて、どこか照れたような、けれど心からのやわらかさで、静かに微笑んでいた。
「止まないうちは、こうして二人でいられるだろう?」
ベレトは何も言わなかった。けれど、言葉の代わりに、ふっと胸の奥にあたたかいものが灯る。
──ああ、ふたりきりなんだ。
今さらのように、そんな当たり前のことを実感していた。
その静けさの中にある、甘やかな空気に、ほんの少しだけ心がざわめく。
──こんなの、尊敬でも、親愛でもない。
ベレトは、そっと隣にある手のほうへと指先を近づけた。けれど、触れそうで触れない、そのわずかな距離だけを残して、とどめる。そのかすかな間が、どこか心地よかった。けれど、ディミトリは迷うことなく、その手首に触れた。そしてためらわずに、ベレトの指に自分の指を絡めてくる。
ゆっくりと、指先が重なり合っていく。そのひとつひとつの動きが、まるで言葉のかわりに心を伝えようとしているようだった。
ただ指を重ねているだけなのに、息が詰まりそうだった。
呼吸が少しだけ浅くなって、喉が鳴る。ただ、指と指とが交差する。
それだけだ。…なのに、雨音に紛れ交わされる、ふたりだけの秘密の仕草のようだ。
この関係に名前はない。
いや、そんなのは嘘だ。名前はある。
ただ、それを今はまだ知ってはいけない。
気づいても気づかせてもいけない。
鼓動が早くなるという感覚をベレトは知らないが、おそらくこういう時に感じるのだろう。自分の感情をうまく制御することができず、ただ、心が不安定になった。
ディミトリをチラリとみつめると、相変わらず雨垂れを見つめながらも、どこか落ち着かないようすだった。それがどうにもおかしくて、ベレトはふっと笑う。
「…なんだ」
少しだけ拗ねたような不服そうな声を聞き、ますますおかしくで肩を揺らす。
「いや、なんでもない」
ベレトがそういうと、ディミトリはようやくこちらに視線をこちらにむ向け、「そうか」と小さく呟いた。
「そうそう、なんでもない。…今のところは」
「そうだな。…今のところは」
そうは言いながらも、ディミトリは手を離さなかった。指先に絡められたぬくもりが、静かに想いを主張していた。ベレトはなんとなく察しながらもそれに何も言わず、空を見上げた。
濡れた屋根の向こう、灰色の空が少しずつ明るさを帯びはじめていた。
「……雨」
ぽつりとこぼれた声に、ディミトリも同じように空を見上げる。雲の隙間から、かすかな光が差し込んでいた。雨のはどこか弱々しく、光を浴びて煌めいていた。
「……やみそうだな…」
ディミトリの呟きは、かすかに滲んだため息のようだった。その声の奥に潜む名残惜しさに気づいて、ベレトもまた、静かに頷いた。
──このまま、もう少しだけ。
止みかけた雨の下で、ふたりとも同じことを思っていた。言葉にせずとも、触れた指先が、それを静かに物語っている。けれど、降り続いていた雨は、すでに音を失いつつあった。
「……戻ろうか」
しばらくして、ベレトがそっとそう言った。その声を合図にするように、ディミトリは、ゆっくりと指をほどく。ベレトは、その手元を見つめていた彼の横顔に目を留めたまま、しばらく黙っていた。
「……風邪をひいてはいけないからな」
「…そうだな。それもそうだ」
雨の合間のひとときは、言葉にできぬ想いをそっと包むには、十分すぎるほど優しかった。それぞれの胸に、まだ形にならない気持ちを抱えたまま、ふたりは並んで厩舎を出る。
濡れた地面にできた水たまりには、晴れ間の空が静かに映っていた。
その淡い光が、ただ、ふたりの足元をやわらかく照らしていた。