ひとりぼっちのヒーローと幽霊の相棒【加筆修正版】「おやすみ、KK」
鳥居を抜けた後、自身の右手から彼の気配が無くなったことに暁人は気がついた。
未練が無くなれば成仏するとKKは言っていたが、彼が宿っていた右手から彼の気配がしないということはもう心残りはないということなのだろう。
全て、終わったのだから。
KKから託されたパスケースを開き、彼の写真をもう一度眺める。笑顔の彼とその家族がそこには映っていた。笑ったらこんな顔をするのかと、つられて暁人も笑顔になった。パスケースをポケットにしまい、暁人は再び前を向く。
「現世に、帰らないと」
暁人は最後の鳥居をくぐり抜けた。
――鳥居を抜けると急に真っ白な光に包まれて、その眩しさに思わず目を閉じる。やがて光が収まり薄らと目を開くと、目の前にはあの夜引き剥がされたKKと再び融合を果たした神社、広川神社があった。
空を見上げるとあの明けない夜に包まれていたはずの渋谷には朝が来て、澄み切った青空と白い雲、そして夏の日差しが照らし始めていた。
あの世の霧によって肉体が消滅し行き場をなくした衣服は綺麗さっぱりとなくなっていて、まるであの夜の出来事が嘘のように思えるほどだった。
暁人はポケットの中のパスケースの膨らみに触れ、決して夢ではなかったんだと確信しながらスマートフォンを取り出し日付を確認する。どれだけ時間を過ごしても変わることのなかった日付が変わり、時計の表示も正常に戻っていた。
「本当に……元通りになったんだ……」
もしかしたら、麻里も凛子も…KKも無事なのかもしれない、と暁人はこの時少しだけ期待をしてしまった。その瞬間、スマートフォンが鳴り出し画面には麻里が入院している病院の番号が表示される。まさか、もしかして、もしかすると…!と暁人が少し明るい声で通話に出る。が、その僅かな希望を打ち砕く言葉が電話口から発せられた。
『伊月さんですね…先程、妹の麻里さんが…………』
あぁ、やっぱり…
――暁人の瞳から光が消え失せた。
それから、数日が経った。
あの夜霧によって突如消滅してしまった人々は少しずつ街に戻ってきているようで、テレビのニュースやワイドショーでは連日行方不明者が発見されたとの話題で持ちきりだった。
発見された人達は揃いも揃ってあの夜の記憶が全く無く、気づいたらその場所に立っていた、というのである。少し状況は違うが、暁人が現世に戻ってきた時と同じように渋谷の人々は戻ってきたということになる。
あの夜、暁人が渋谷中を駆け回り回収した魂はすべてエドの元へと転送した。おそらくそれで少しずつ戻ってきている状況なのだろう、彼が時間はかかるが必ず元に戻ると言っていたがそれは嘘ではなかった。これで霧によって肉体を失った魂たちは救われ、再びこの世を生きることが出来る。だがそれは、あくまで暁人が転送した人間の魂のみの話である。
あの夜、般若に殺され魂だけの存在になったKKも、霊体となったあとも絵梨佳を探し続けた凛子も、父親である般若に命を奪われてしまった絵梨佳も、暁人に本心を伝えるまで生きようとした麻里も…暁人が知る人々は誰一人としてこの世には戻ってこないという事実を、暁人は改めて痛感した。
毎日のように戻ってきた渋谷の人たちへのインタビューとその謎についての解明で盛り上がりを見せるテレビを眺めて、暁人は虚しい思いになる。
この盛り上がりもあと少しすれば落ち着き、やがて話題にもされなくなるだろう。世の中は目まぐるしく変化していき、そのうちこの渋谷の大量消失事件についても世間から忘れられる日が来る。裏で活躍した人達の記録は正史には残らない。
暁人はリモコンを取りテレビの電源をオフにすると、大学へ行く準備を始める。先日、麻里の葬儀や諸々の手続き等がようやく終わり大学に復帰できるようになり、大学生活は残り少ないものの今後のためにも出来るだけのことはしておきたくて休学はしないことにした。
卒業までの単位は取れているし、就職先もほとんど決まっているため行かなくても良かったのだが、家で一人何もせずにいるのは今の暁人には苦痛でしかなかったのも理由の一つだった。
卒業したら単身者向けのアパートに引っ越すつもりで、少し早いが荷造りを進めてそれももう終わってしまった。即席で拵えた机の上に両親と麻里、そしてあのパスケースを置いて暁人はその目の前に座り手を合わせる。
「おはよう…じゃあ、行ってきます」
暁人が静かに呟き目を閉じて念じたあと、カバンを持って玄関に向かう。ガチャリ、と玄関のドアを静かに開いた。
暁人が現世に戻ってきてから気づいたことがある。やはり自身が適合者だからか、あるいはKKの力がそのまま引き継がれたのか定かでは無いが、霊視が出来るようになっていた。
夕刻、街中で猫又に偶然出会ったことがきっかけでその事に気がついた暁人は、今度は指先に意識を集中させエーテルの流れを感じ取ることができるか試してみる。
すると、微量で威力も足りないがエーテルを宿すことには成功した。本格的な戦闘には向かないが、もし今後怪異やマレビトに出くわしても逃げ切れる程度には力が使えそうだと暁人は思った。この力がまだ使えるということは、つまり"厄介事"に巻き込まれる可能性も高いという意味でもある。
その予想は見事的中し、夕刻を過ぎたあたりから街中で怪異を見かけることが増えたのだ。もちろん、基本的にこちらからなにかしない限りは怪異も干渉してくる様子はなく、しばらくは問題なかったのだが夜間のバイトを始めた頃から状況は一変した。
やはり夜は怪異も活発になるようであちらから誘ってくるようになり、さすがに無視し続けるのも限界になってきた。こんな時、KKがいればどれだけ頼もしいだろうともう自身の体に宿っていない相棒の存在を思い出しては胸が痛む日々を送っていた。
幸いグラップルやグライドが問題なく使えたのは有難いことで、怪異に巻き込まれかけたら烏天狗の力を借りることで難を逃れ、一反木綿や塗り壁は暁人を乗せたり隠したりすることで協力し、他の妖怪たちも何かと暁人に力を貸してくれるのもあって僅かなエーテルでも何とか切り抜けることに成功していた。
次第にエーテルの流れを上手く体に取り入れることが可能になり、あとは実戦経験を積んでいくのみだった。KKが筋がいいと褒めてくれたのは決してお世辞ではなかったことに暁人は少し嬉しく思う。
彼がいたらきっとまた褒めてくれただろう、ついついそう考えてしまう。怪異に出くわす回数が増えていくにつれて、暁人自身もこの状況を楽しむようになっていた。「KKだったらこういう風に戦うかな」とか「KKならここは逃げるな」とか、もう居ないはずの相棒のことを考えながら、まるで現実逃避をするようにほぼ毎日、怪異やマレビト相手に夜を駆けていた。
――これは少し前の話。
力が使えることに気がついたあと、暁人はすぐにKKのアジトがあるアパートに向かったがそこはもう空き家になっていた。あれだけ沢山あった資料も、モニターも、ゴミの山もすべて綺麗さっぱりになっていて暁人は呆然としてしまった。
それを見た上階の住人が親切にも数日前に引っ越したことを教えてくれたあとから、あまり記憶がなかった。眼鏡をかけた男性と腕に刺青を入れた体格の良い男性とで引っ越し作業をしていたという話はなんとなく覚えていて、それがおそらくエドとデイルなのだろうと暁人は察した。住人が去った後、1人静かにアジトだった扉を見つめて暁人は呆然と立ちつくしていた。
両親もいない、残された妹も失った。あの夜最悪の出会いをしたものの互いに分かり合える相棒という関係にまでなったKKも、今はもういない。240万人という魂を救った渋谷のヒーローは誰にも称えられることなく、ひとりぼっちになってしまった。
それから暫くして、今に至る。
いつも通り夜間のバイト帰りに怪異に出くわし対処するも、この日の怪異はかなり厄介なものだった。誘い込むように怪異のほうから近づいてきたのをいいことにそこへ踏み込んだ暁人は途端に直感でマズイと判断した。
だが時すでに遅く、怪異のテリトリーに一度入ってしまえば出ることは叶わず、暁人は窮地に立たされた。どこかに突破口はないかと僅かなエーテルや札を用いて出口を探すも見つからず、ついに怪異の核となる悪霊がその姿を現す。その悪霊の姿を見た瞬間、暁人の全身がぞわりと震えるのを感じた。目が合ってしまえば途端に体は動かなくなり、冷や汗が止まらなくなる。
『つぅカまぇタぁ…』
悪霊が暁人の両肩をガッと掴み、不気味に笑うと
『そのカラだ、ヨこせ、ヨコセ!』
と黒く濁ったものが悪霊の両手から暁人の身体へと入り込んでいく。それは想像を絶する痛みで、KKと融合する時の痛みとは全く違ったものであった。身を裂かれるような、自分がバラバラになっていくようなそんな感覚に暁人は絶叫した。脂汗が止まらなくなり、次第に意識が薄れていく。
――あぁ、僕の最期はこんなものか
暁人の中で走馬灯のように記憶が流れていく。薄れていく意識の中で、あの時家族に約束したことを思い出す。みっともなくても生きていく、そう家族に約束したのに叶えられそうもない。彼の、KKの生き様を家族に伝えると約束したのに、それも叶えられない。
「KK………ごめん……約束、守れないや……」
だってもうこの世には未練は無い、自分には何ひとつ残っていない、それならいっそ…と意識を手放してしまいそうになったその時、『彼』の声が聞こえた。
『おいおい、オレの相棒はそんな弱っちい奴じゃねぇだろ。なぁ――』
暁人。
その声が聞こえた瞬間、暁人が飛びかけた意識をなんとか取り戻し深呼吸をする。悪霊の気に触れてつい弱気になってしまった自身を奮い立たせ、最後の1枚となった札を取り出す。その札を悪霊の額に貼り付けてやれば途端に動きが止まり呻き声を上げる。
「お前なんかに…くれてやるかッ!」
即座に印を結び、断末魔を上げながら悪霊は浄化されていった。最初は簡単な印も結ぶことができず、KKに任せることが多かったもののそれをしっかり観察することを忘れないでいた暁人はまたもやKKに感謝することになる。
「ちょっと、危なかったな…」
ふぅ、と一息ついたあと、キョロキョロと辺りを見渡す。間違いなく、近くに『彼』の気配を感じる。
「…KK、そこにいるんだろ」
…返事は返ってくることはなく静寂が流れる。それでも気配が消えていないのを感じ取った暁人は辛抱強く待ち続ける。どれくらい経っただろうか、暁人が痺れを切らしたように霊視をするとすぐ近くで反応があり、朧気な霊体の姿は次第に人型へと変わっていく。見覚えのある黒いジャケットに身を包んだ『彼』がそこに立っていた。
「KK………」
『…オマエなぁ、ヒヤヒヤしたぞ』
「…ごめん、油断した」
『あんな悪霊如きに死を覚悟するんじゃねぇよ』
「………うん」
『……オレの相棒なら諦めるな、暁人』
触れられないはずのKKの手がそっと暁人の頭に置かれると、不思議とぬくもりを感じた。半透明でふよふよと中に浮くKKを見て、暁人の肩の力がすっと抜けていく。
「………………KK」
彼にもう一度会えたら言いたいことがあった、文句を言ってやりたいこともあった。次にあったら言ってやろうと心に決めていたことがなかなか言葉に出来ず、代わりに暁人から溢れ出たのは大粒の涙だった。
「…いつから近くにいたの?」
まだ鼻声の暁人がKKに尋ねる。
『オマエがノコノコと悪霊のテリトリーに入っていく少し前だな、この辺りを漂ってたらたまたま見かけたんだよ。まったく、ヒヤヒヤさせやがって』
「…あの時、成仏したんじゃないの?未練が無くなればそうなるって…」
『そのつもりだったんだがな、あの世の門番に追い返されちまったよ。オレの席は極楽にも地獄にも無いってよ』
酷い話だろ?とKKが笑うと「なんだよ、それ」と暁人もつられて笑い出す。いつの間にか半透明だったKKはまるで実体化したようにはっきりとその姿を現し、再び霊視をしなくともこうして姿を保っている。それに、普通に会話することも出来ている。
『驚いたな。まさかオマエがオレの力を引き継いでるなんてな…どうだ、使いこなせているか?』
「僕は普通の大学生だぞ、KKのようには使いこなせていないけど…僕なりに頑張ってたよ」
『そうか。だったら、オレの助けは必要…』
ないよな、とKKが続けるよりも先に暁人が食い気味に「僕にはKKが必要だよ」と答える。KKが少し驚いた表情で暁人を見つめた。
「そうだよ、今の僕にはアンタが必要なんだ。このまま、さよならなんてしないよ」
『…オマエ、マジで言ってるのか』
「うん、大マジで言ってる。必要なら喜んで僕の身体を貸すよ」
少しの沈黙の後、KKがクククッと笑いだした。
『オマエのその素直さ、嫌いじゃないぜ…だがなぁ、言っておくが今のオレはあの時のオレとは違う、身体を借りても動かすことはできねぇ。本当にただの幽霊だ、その辺に彷徨いてる奴らとなんら変わりない。オマエに何のメリットも無いぞ』
「僕の話し相手になってくれれば、それでいいんだ」
お互いに、真っ直ぐと目が合わせる。
「ひとりぼっちは寂しいんだよね。僕結構参っちゃってさ。少し前まで僕の身体にいたんだから、きっと居心地はいいはずだよ?優良物件」
『…はっ、後悔すんなよ?』
「後悔なんてしないよ、ここで何も言わずに別れた方がずっとずっと後悔すると思うから」
二人が顔を見合わせ笑う、暁人は抱きしめるように両腕を広げてKKを迎え入れる。同じ融合でも痛みはなく、むしろ欠けたものが戻っていくような感覚で暁人は心地良ささえ感じた。ひとつになって溶けていくように、欠けたパズルのピースを埋めるように。ふたつの魂は再びひとつとなった。
***
「KK、夕飯は何が食べたい?」
暁人が自身の体に宿る相棒へ声をかける。
『月見蕎麦一択』
相棒は食い気味に答えた。
「蕎麦かぁ…仕方ないなぁ。いいよ」
傍から見ると独り言にしか見えない光景だが、暁人とKKにしてみればこれは普通の会話なのである。今のKKの声は暁人にしか聞こえず、KKはよほど居心地がいいのか暁人の身体から出ようとしない。
暁人がキッチンに向かい、冷凍の蕎麦を冷凍庫から取り出し沸騰したお湯で茹でて生卵を乗せれば月見蕎麦の出来上がり。
「はい、まずはKKから」
『おう、いただきます』
融合状態だと味がわからない、と言っていたのを暁人はしっかりと覚えていたようでこれは暁人なりに考えた"食事方法"である。今のKKは完全なる幽霊、つまりお供え物をすれば味だけでも感じるのではないかと仮定した。結果として、実際に食べることは出来ずとも味や香りを楽しむことができることが判明し、それからはまずKKにお供え物として食事を出し、その後暁人がそれを食べるといった方法にした。
小さな机の上にお供えするように、できあがった月見蕎麦を置く。
すると暁人の身体から黒いモヤモヤが飛び出して、月見蕎麦の周りを漂う。
『…ん、美味い。卵の感じも悪くないな』
「あれ、もしかして…食感も伝わるようになった?」
『なんとなくな』
この"食事"を重ねていくにつれて次第にKKが味だけでなく食感まで感じられるようになったことを、内心暁人はとても嬉しく思った。もしかするといつか一緒に顔を合わせて食べられるようになったりして…と淡い期待を胸に抱く。
KKが『ごちそうさま』と言えば暁人が「いただきます」と蕎麦を食す。
『…少し前にも言ったが』
暁人が蕎麦をすすりながらもKKの言葉に耳を傾ける。
『毎度お供えしてオレに食わせてくれなくてもいいんだぞ、別に腹が減るわけでもないしよ』
「KKが良くても、僕がこうしたいんだよ。あの時は味が分からないって言ってたけど今は違うだろ?それに…こうすると一緒に食事しているみたいだから」
だからこれは僕の我儘なんだ、と呟けば『随分と可愛い我儘だなぁ』とKKがクククッと笑う。
「もし僕とKKが喧嘩したら、KKが苦手な料理をわざと作って無理やりお供えするからね」
ニヤリと意地悪そうに暁人が笑うと『オマエ、それはねぇだろ』とKKが抗議する。
「だから、覚悟しておいてよKK」
僕と過ごす日々を、これからの人生を。
KKと二人で歩んでいくことを誓って。
たくさんのおはようと、おやすみを言い合って。
帰ってきてくれて、ありがとう。