お互いさまだよ 店内に流れているジャズの音楽に紛れて鳴った微かなベルの音が新たな客の入店を教える。それを聞き漏らさない店主は、自然と入り口へと目を向けた。
初めて来たのだろう、男は店内を見回して、それでも迷う事なくカウンターに着いた。
この『ベネットの酒場』は、海に抱かれた街と呼ばれる西半島の歓楽街に在る。住民だけでなく、束の間の非現実を味わいたいリゾート客で常時賑わっているのだが、どう見たって男は現地民でも無ければ海水浴を楽しむために来た訳では無さそうだ。夜空の色をしたクラシカルなインバネスコートはこの辺りの住民が好んで着るものでは無く、持ち物も使い古したトランクが一つ。仕事でこの街を訪れたという所だろう。
「ご注文の前にどうぞ外套をお掛けになって。北の方からお越しになられたのですか?」
温暖な気候のこの街をその格好で歩いたのだとすれば、随分と蒸されただろう。男は壁際に設置されたハンガーラックに外套を掛けると、一息長く吐いた。
「北には仕事で訪れただけさ。ここ最近は飛び回っていて落ち着かない。自宅も引き払ってしまったしね」
低めの落ち着いた声で男は答え、億劫そうに額に浮かんだ汗を払い、それから襟元を寛げた。浮き出た鎖骨に汗がつたうのを見て、店主はそっと目線を逸らす。
「もしファーストドリンクをお決めで無いようなら、お任せ頂けないでしょうか」
「うん、お願いしようかな」
その返事ににっこりと微笑み、ソーサー型のシャンパングラスの縁にカットしたレモンの切り口を当てて一周させ、広げておいた塩を付着させる。雪が凍り付いた様子に見える事からスノースタイルと呼ばれる技法だ。この土地は雪とは無縁だが、つい最近北に居た人なら鮮明に情景が浮かぶ事だろう。
用意した材料をシェイクし、スノースタイルに仕上げたグラスに注ぐ。そして最後にはカットしたレモンを飾って完成だ。
その工程の一部始終を、男は猫のように目を細めて眺めていた。
「“月明かりの逢瀬”です。お口に合うと良いのですが」
「……菫の香りがするね、紫色なのはそのせいか。それからこの塩は雲で、レモンを月に見立ててる?」
「当たりです。どうぞお飲みになって」
柔らかく勧めると、男は塩が塗られたグラスの淵に口付けて澄んだ色のカクテルを味わう。口の中に広がるサッパリとした味に、ピリっとした塩の味がアクセントになっていた。流した汗で失いかけていたナトリウムが体に入り込むのを感じ、ほっと息を吐く。
「……調べてくれば良かったよ、ここがこんなに暑いとは思っていなかったんだ」
「それなら早くコートを脱げばよろしかったのに」
日中に比べれば気温が下がるとはいえ、コートを着て歩くなど正気の沙汰では無い。一目で男は変人のレッテルを貼られ、他の客はカウンター席を使おうとしない。店主から最も近い席を独占した男は、周りの目なんてちっとも気にしないでハンガーにかけたコートを指差す。
「荷物が増えるのと天秤にかけた。脱ぎ捨てるのも検討したが、これしか防寒着を持っていなくてね。また北上する時に薄着では死にに行くようなものだろう」
「その恰好でこの街を歩くのも命知らずですよ」
「……どの国も一定の気候なら楽なのに」
「それはそれでつまらないと思うのでは?」
「その通りだ」
余程喉が渇いていたのだろう、男はあっという間にグラスを空にしてしまうと次の酒を求めた。適当に、というオーダーで。
この街で採れる果物を使ったフルーツカクテルを出すと、男はカクテルの名称も聞かずに口を付ける。酒を飲みに来たというよりも話に来たという印象を受け、店主は会話を促すように問いかけた。
「この街には仕事でいらしたんです?」
「いや、ちょっとした寄り道だよ。知人からこの店のことを聞いてね、いつか来てみたいと思ってたんだ」
「いつか、ですか。すぐお越し頂けなかったのは研究のため?」
「ご明察。俺の事を以前から知っていたような口振りだね。サイエンスジャーナルを読むタイプには見えないけれど」
ふ、と笑って店主は男の胸元を指差す。スーツの胸ポケットに飾られた小さなバッジを見て、男も得心する。北の国で行われた表彰式で着けさせられたものだった。そのバッジの意味を知っている店主に「これはすまなかった」と謝った男は愉しそうに笑う。
「人を見かけで判断してはいけないね。受付で無理矢理着けさせられたのを忘れていた、これはもう要らないな」
言いながら金色に光るバッジを外すと、粗雑にテーブルの上に置かれた。その冷たい輝きを望む者は多くいるのだろうに、残念ながらこの男の手に渡ってしまったのがバッジの不幸だろう。
「ようやく自由の身になったところなんだ、すぐ研究所に戻るつもりでいたんだが……きみの事を思い出してね」
「どうして興味を持たれたんです?」
「どうしてだと思う? ……ああ、面倒だと顔に出ているよ。はは、聞き返して悪かった。ただきみと話がしたかっただけさ、この土地に根ざし、どんな客も皆気分良く帰してしまう話術を持った店主がひとりで営んでいる酒場があると聞いてね」
「ご感想は?」
「思っていた通りだった!」
男は底に溜まったフルーツを一口で飲み込むと、愉快そうに次の杯を求めた。あまり強くは無いのだろう、徐々に幼さを見せる表情に店主は目を細める。
「ここは君の城だね、それとも牢なのかな。でも君がこの孤独を愛している内は城なんだろう。潮水に浸かった君はどこにでも行けるのに、どこにも行かない。ここでしか生きていけないみたいに」
「まるで詩人のようですね」
「惜しいな、詩人じゃなくて哲学者だ。だがまぁ似たようなものかな。一冊いかが?」
トランクの中から表紙が折れ曲がった自著を取り出し、店主の前に置いた。ハードカバーの本だと言うのに角折れしていない角が無いし、中々に状態が悪い。古本屋だったら買い取り拒否されるだろう。男が自著を大切に思っていない事しか伝わってこず、不要品を渡された店主は溜息を吐いた。
「多才な人だ、あなたのような人は何処にも根付く事は無いのでしょうね」
「ここにも根付く事は出来ない……?」
そう言って見上げる大きな瞳は飲み込まれてしまいそうな程に美しくて、店主は動かしていた手を止めた。格好や話し方は年齢を感じるのに、表情や目の輝きは少年のようだ。止まらないお喋りをずっと聞いていたいような、黙らせたいような気持ちが波のように交互にやってきて、店主はふっと煙を吐き出す事でしか形に出来ない。
自分を一言で表すのなら、『矛盾』であると店主は感じる。
いつから自覚したのかはとうに覚えていないが、自分の全ては二面で出来ていた。綺麗なものを愛でるのが好きなのに汚いものが観たくて駆け出したり、美食を好みながら悪食でもあり、静寂を選び取りながら賑やかさを目で追う。人を愛するのにも愛だけじゃ全然足りなくて、どこか一部分でも別の感情が入り込まないと愛する事が出来ない。純粋なんて最も遠くて、混沌が一番近い。
目の前に座っている男の見透かすような目を、憎らしいと思った時点で負けだった。
男が席を立ったのは、日付が変わって少し経った頃だ。電車もバスも最終便が去って行き、店を出ると静けさが広がっている。男が今からどこに向かうのかは聞かなかった。この様子ではホテルを取ってはいないだろうが知った事では無い。
「また来るよ」
片手を上げた男が闇と同化していく。さっきまで空に浮かんでいた月が隠れて、数歩離れただけで男の表情は見えなくなった。月が男を攫ったようにも、男が月を連れて行ってしまうかのようにも見えて、店主は伸ばしそうになる腕をもう片方の腕で抱きしめた。
「……来なくても良いんですよ?」
「来てくれと言われるまでは来よう」
切り揃えられた髪が潮風に揺れて、灯りの無い方へと消えていく。場違いのインバネスコートとトランクを持って。
嗚呼、あなたは何も変わらない。