司レオ【執着、或いは】 天界には、天使たちが暮らす集合住宅と呼べるようなものがある。別の土地に自らの家を持つ天使もいたけれど、大体はこの集合住宅で暮らすことを選択する。かくいう自分も他の場所に住まう理由もなかったので、他の天使たちと同じ選択をしていた。
「住み心地も悪くないですしね」
天使の中でも、天界や他の世界の守護を担当している天使たちがいる。そういった天使たちにしてみれば、何か問題があった際にすぐに動くことができるこの場所は都合がいい。まさにその守護を任されている一人である司は、自分に与えられた部屋に満足していた。
基本的には平和であるのがこの天界のいいところだと言える。天界に住まう者はみな、善人である。そもそも清らかな心の持ち主しか天界に住まうことは許されないのだ。それなのに、罪を犯す者が現れるわけがない。
それならば、欲を持つ人間たちはどうだろう。そんなことを考えたこともあるが、ここまで辿り着くことができる者の方が稀であるから問題はない。問題があるとしたら、それは魔界に住まう悪き者たちだ。彼らたち悪魔は、人間や他の清らかな者を堕落させることを目的としている。それ故に、たびたび人間界やこの天界に忍び込んでは惑わせようとしてくるのだ。
「本当に、腹立たしい」
司はぽつり、と呟く。別にこの仕事が嫌だとかそんなことは思ったことはない。しかし、悪魔さえいなければこの世界はどこまでも平和で、どこまでも清らかなままでいられるはずなのだ。悪魔が人間を誑かさなければ、人間たちが罪を犯して地獄に堕ちることもない。全て、悪魔のせいだ。人間の欲深さにも問題はあるが、大罪なのはそれを助長する悪魔の存在である。罪を憎んで人を憎まず。そんな言葉に従って考えれば、全ての悪は罪自身である悪魔のせいだ。司は、そんな風に考えていた。
例外なんて在るわけがない。悪魔は等しく大罪であり、消し去るべきもの。幼い頃からこの仕事を担うことを義務とされてきた司にはその思想が根強く植え付けられている。だからこそ、司はほんの少しの罪だって許すことはない。等しく、罰してきた。それは今までも、これからもずっと変わるはずのない大前提。
そう。そのはず、だったのだ。
その日も、司はパトロールをしていた。姿を消した状態で人間界を見て周り、万が一悪魔に憑かれている人間がいればその悪魔を排除するのが司の使命である。自分では対処できない状況に陥った場合は迷わず天界に連絡することも大切である。無謀にも、自分よりも格上の相手と対峙して無事に帰って来れなかった例だって少なくはない。司は気を引き締めて任務にあたるのだった。
ふと、視界の隅に何かふよふよと浮遊する存在を捉える。よく目を凝らしてみれば、その背中に天使の羽は確認できない。そして、極め付けには頭にある黒い羊のような角。――――悪魔だ。
「おや、最近では減っていましたのに。珍しいですね」
司たちの活躍のおかげか、最近では悪魔の姿を見かけることは稀であった。まぁ、その代わりに人間に擬態をし、こそこそと隠れて堕落させようとはしているみたいだが。それでも、こうやって真っ昼間に姿を隠そうともせずに堂々としている悪魔は本当に珍しい。自分の力に自信があるのか、それとも余程の馬鹿なのか。現時点では司には判断がつかない。万が一前者であった場合には早急に応援を呼ぶ必要がある。そう考えれば、簡単には手出しできない。せめて、何をするつもりなのかを突き止めてからでなくては、司はそう考えるとこのまま気配を消して尾行する方が最善だと判断したのだった。
しばらく動向を見張っていたのだが、その悪魔は一向に人間たちに手を出そうとする素振りは見せない。生憎、司はそこまで気が長いわけではない。何かしでかすなら早くしてくれませんかね、なんて天使にあるまじき発言すら口から飛び出そうとしていた。
「できたぁっ!」
「!?」
不意に、少し離れた自分のところにも鮮明に聞こえるくらいの声量で悪魔は声を発する。何ができたのだろうか。もしや、自分が油断していたことに気付いてずっと対策をしていたのかもしれない。そうだとすれば、何もせずにただ見ていただけの自分のなんと愚かなことか。司は悪魔の次の行動がなんなのか、予想することができない。ゴクリ、と唾液を飲み下す音が異様に大きく感じる。
「やっぱり人間界はいいな! 適度に欲に溢れてて、霊感が刺激されるっ」
しかし、次に悪魔が発した言葉は本当に司が想像すらしていなかったものであった。手元をじっと見つめてみれば、そこには音符が書き込まれた五線譜のようなものがある。「傑作ができた」なんて嬉しそうに身体を揺らす様子をみるに、どうやらこの悪魔は何かを作っていたらしい。
「魔界でもいいけど、陰湿な曲ばっか浮かぶしな〜……バレたら怒られるだろうけど、作曲は人間界が一番楽しいしな」
「……作曲をしていた、と?」
人間を誑かすことを生業としている悪魔が、作曲をしていたという事実が受け止め切れない。よくよく考えてみれば、自分たちもパトロールばっかなわけではないのだから当たり前だ。しかし、この時までの司は本当に思っても見なかったのだ。悪魔が、わざわざ人間界で娯楽を優先させるなんて。
なんて、なんて悪魔らしくない。
司の存在に気付くことなく、目の前の悪魔は楽しそうに楽譜に書き込んでは無邪気に笑い声をあげるのだった。その姿が、何故か司の網膜に焼き付いて離れない。バクバク、とうるさく響く鼓動は誰のもの? まさか、私のもの?
「あぁ、楽しいなぁ。ずっと、こうしてたい」
うっとりと、楽譜を見つめる視線は先程までとは異なり、妙に熱っぽい。ドクン、と一際大きく跳ねる鼓動のせいで心臓に痛みを感じる。まるで、身体中の血液が沸騰しているかのように錯覚する程の感覚に動揺してしまう。今までの人生の中で、初めての経験であった。こんな、全ての価値観が書き換えられてしまいそうな、こんな感覚を私は知らない。知ってはならない!
「……ッ、」
司は堪らず踵を返し、その場を後にする。もしかしたら、感覚の鋭い人間であればその姿を視認されてしまうかもしれない。そんな、簡単なことすら考えられなかった。それ程までに、司を襲った感覚は異様だったのだ。
天界に戻り、司は身を清める泉へと直行する。幸いにも、自分以外は誰もいなかった。行儀が悪いとは思いつつも、司は勢いよくその泉へと身を沈める。
バシャン。
大きな飛沫を上げ、司は神聖力で満たされた泉の中で膝を抱えるようにしてその身体を震わせる。少しずつ、人間たちの欲に触れた身体が清められていくのを感じていた。しかし、清められるのは泉に触れている身体だけだ。その心までは、変えられない。
「いや、嫌です。私は天使なのに、どうして」
脳裏に浮かぶのは、名も知らぬ悪魔の表情だった。悪魔だというのに、どうしてあんなにも無邪気な顔で笑えるのか分からなかった。まるで、天使のようだとすら感じてしまったのだ。ほんのりと頬を朱に染めて笑う姿は、司が今まで見てきた何よりも綺麗で。
「綺麗、なんて」
思ってはいけない? ……どうして?
「だって、あれは悪魔です! 私が忌むべきもの、で」
でも、何も悪いことはしていない。あの悪魔はただ、作曲していただけ。それは見ていた自分が一番知っている。あの人は、ただ自分の欲のままに曲を作っていたいだけなのだろう。きっと、そう。
「悪魔は、人間を堕落させようと」
なら、人間をさせないで済む方法があるじゃないか。
悪魔は何故、人を堕落させようとするのか。司はその理由を知っている。それは彼らの地位を決める基準こそが、人間たちを堕落させた実績だった。その基準は人間の数であったり、どのような人物を堕落させたかなんていう難易度であったりと色々だ。とにかく、堕落させた対象が清らかであればある程、悪魔たちは自分たちの住まう魔界での権力を得る。つまり、彼が人間を堕落する必要がないくらいに、高い地位を与えてしまえばいい。
「そうすれば、私はあの人を手にすることが、できる……?」
司は天使の中でも特に真面目に、直向きに使命を果たしてきた。その魂が、清らかでないはずがない。つまりは、人間なんかを堕落させるよりも自分たち天使を堕落させた方がその地位は跳ね上がる。それも、代々一部の天使たちを取り仕切る役割を担っていた朱桜家の嫡男であれば、尚更。
きっと、この考えは本来いけないことだ。しかし、司はあの一瞬で、あの悪魔に魅入られてしまったのだ。あの人を手にしたい。自分だけのものにして、ドロドロになるくらいに可愛がりたかった。私以外、求めないように囲ってしまいたい。そんなことを、実現できたら……なんて、幸せなんだろう? きっと、これが愛というものなんですね。
「あぁ、見たい」
あのうっとりした熱っぽい顔が脳裏に、網膜に焼き付いてしまって離れてくれそうにない。きっと、もう自分は戻れないと悟っていた。だって、天使は本来こんな欲を抱くことはしないのだ。
「あの顔が歪む様を、この目に焼き付けたい……」
自分の下であの人が組み伏せられることを想像し、司はうっそりと口元を笑みの形に歪ませる。高鳴る鼓動と熱をもつ頬をそのままに、司は泉から抜け出す。ピリピリ、と肌が刺激を感じてしまうのは、きっとこの泉も司がもう清らかな心を有していないことを見抜いているからなのだろうか。でももう、そんなことすらどうでも良かった。
「私、欲しいものができてしまいましたので」
今まで自分を支えてくれた泉に向かって、恭しく礼をする。そして司はにこり、と笑みを浮かべて楽しそうに言い放つのだった。
「コレ、もう必要ないです」
その日、清らかで平和であるはずの天界で一つの事件が起こったという。数多の天使たちが身を清めるために通う泉が、浄化しきれない程の穢れのせいで濁ってしまった。原因は不明。犯人も不明。しかし、泉の傍には何者かにむしられた天使の羽が大量に霧散していたと言われている。その天使がこの件に関与しているのかは、まだ誰も知らないのだった。
本編に続