いつも通り昏見は皋宅に忍び込んだ。
そしていつも以上にむっすりした表情の皋にどうしたのか、と聞いて、返答が返ってきたとき、昏見は泣きそうになってしまった。
「おひゃしらつがいはい」
信じがたい滑舌である。
あの皋所縁が!
奥歯に物が挟まったような言い方って実際にあるとこんなにフニャフニャなんですね録音して逆タイムカプセルに詰め込んでイケイケだったころの所縁くんに聞かせてあげたいですきっと泣いて喜びますよ、と返してあげると、皋は不機嫌そうな顔をしたけれど何も言わなかった。
『おひゃしらつがいはい』
昏見の最新式・皋翻訳機だからこそ意味が分かる。つまり、
「親知らずが痛い」
ということである。
「うーん、親知らずって懐かしいですね。私も昔は毎日屋根の上に投げてましたよ。痛いって事は変な生え方をしているんじゃないですか? はい、あーん」
歯が痛い皋はツッコミを入れてくれないので自分でペースを調整しつつ、昏見は皋の顎を掴んで口を開かせる。ライトで照らしてみると、問題の親知らずらしき物が右奥に生えているのが見えた。それなりに頭が見えてきていて、特に斜めになっていることもなさそうだが、果たして実際はどうなのだろうか。口の中を見た程度で親知らずが正常に生えているのかなんて分かるわけがない。歯科医だってレントゲンを撮るのだ。
「私が大学で透視を学ばなかったせいで、所縁くんの親知らずをチェックしてあげられないなんて……無念です。ごめんなさい。その代わり投資は学んでいるので、老後の心配はしなくて大丈夫ですよ」
皋が眉間に皺を寄せてウニャウニャ呻きだしたが、奥歯が痛い上に口を開かれているので言葉にはならない。かわいそうに、と思いながら聞き流す。
「それはそれとして、歯茎が腫れちゃってるみたいですね。親知らずって歯磨きで綺麗にしづらいから、腫れちゃったりしちゃいがちなんですよ。私が磨いてあげます」
「いや、ひょっと待へ」
「はいゴロン」
顎を掴んだまま無理矢理に膝枕の体勢に移動させる。手には既に、細かいところを磨くための歯ブラシを握っていた。先端が筆のように尖っているこのブラシ、ワンタフトブラシって言うらしいですよ。なんで持ってるのか? こんなこともあろうかと思って準備しておいただけですよ。
皋の頭を膝の上に置いて、口内をライトで照らしながら奥歯を磨いてやる。くすぐったいのか痛いのか、皋は顔をしかめた。
「いやー、お医者さんごっこみたいで楽しいですね。私、小さいころの夢が『お医者さんごっこ』だったんですよ! 叶っちゃって感激です」
お医者さん、じゃなくて、ごっこ遊びが夢なのかよ。んがんがんぐぐ、みたいな皋の呻き声を昏見は脳内で補完してやる。
唇に触れられたり、毛先で腫れた歯茎を撫でられるたびに皋は体を強ばらせていて、怯えた小動物のようだった。右手が動かないってことは痛くないのだろう。だったらよし。正しい方法で歯を磨いてはいるものの、本当にこれが正解なのかは昏見にもわからない。だってこれはお医者さんごっこなのであって、昏見は歯の事なんて大して知らないから。
「はい、お口ゆすいでください」
歯科衛生士のモノマネをすると、皋は弾かれたように身を起こして昏見から離れた。警戒する猫にも似ている。かわいいですねーと言うべきか迷って、結局黙っておいた。
「どうですか? くすぐったくて気持ち良かったでしょ?」
笑顔で問いかけてみると、皋は思い切り顔をしかめた。
「痛かったよ……!」
耳まで真っ赤だったので、まあ、照れ隠しだろうと思うことにした。
「まあまあ。お昼ご飯は柔らかいおうどん茹でてあげますから。そのあと一緒に歯医者さんへ行きましょうね」
「一人で行けるわ、お前俺を何歳だと思ってんだよ」
「もちろん、二十二歳ですよ?」
歯医者はともかくうどんは食べてくれるらしい。やったね。