二十二時の隣人『お隣さん』を初めて見かけたのは、とある水曜の早朝、可燃ごみの日のことだった。
空も白んできた明け方。寝起きのぼさぼさ頭と寝間着とつっかけで外に出たところ、自分の部屋のちょうど隣から、同じように戸を開ける音が響いた。
バイカラーの髪に、明らかに上物のスーツをきっちりと身に纏い、その男は俺をちらりと一瞥した。
すらりと長い手足が映えるが、何より目が行くのが顔を横断する大きな傷痕だ。ワインレッドの眼差しは一瞬向けられただけで身が強張るような心地がする。こんな朝っぱらから見かけるにはやけに姿も視線も派手な男だった。
「……あ、どうも」
「おう。おはようさん。悪いな、越してきたのに挨拶もできてなくてよ」
「いえ……」
それだけのやり取りを交わし、俺はゴミ出し場へ、男は駐車場へと向かった。しゃんと着こなしたスーツに高そうな革靴。視界の端でとらえた車はドラマの中で見るような黒塗りの外車だ。古びたアパートには不釣り合いで逆に目立つ。
家賃が安くてふた口コンロで大学から徒歩十分。それだけの理由で選んだアパートは築年数もなかなかなもので、お世辞にもあちこち綺麗とは言い難い。
隣の部屋は俺が住み始めてからもしばらく空いていて、つい最近入居者が現れたとは大家さんから聞いていた。予想していた人物像とはまるでかけ離れていたのだけれど。
まあ隣人といえど然程関わることもないタイプだろう。この頃はそんな風に呑気に思っていた。
二度目の邂逅は、二十二時のベランダだった。
バイト先の居酒屋の客足がその日はまばらで、当初のシフトよりも早めに帰らされた。
特にやることもなく、風呂に入ってからベランダで涼んでいたら、隣人の男が現れたのだ。
一服しようとしていたのだろう。箱から一本煙草を取り出した男は、俺の姿を見て一瞬だけ気まずそうに眉尻を下げた。
「いいっすよ。気にしないんで」
そう言えば、男は柵に肘を置いたまま、じっとこちらを見た。ワインレッドの瞳はこうして見ると意外と大きくぱっちりとしていて、顔立ちだけならかなり若く見える。初対面の印象では間違いなく年上だと思っていたが、案外歳が近いのかもしれない。きっちりと着こなしていたスーツが今は部屋着に変わっている。
男はライターの火を咥えた煙草の先に翳す。白い巻紙が一瞬だけ赤黒く染まり、やがて吐き出された煙は夜闇を背景に、少し目を伏せた男の表情を魔法のように彩った。
「学生か?」
唐突に飛んできた問いかけに、反応が遅れる。辺りには男と俺以外に人は居ない。となると、この問いの向かう先は紛れもなく自分だ。
「そう、ですけど……」
「ふうん。そのわりにてめえ、昼間結構家に居るだろ」
ぎくりと肩が強張った。大学の授業を進級に響かない程度にサボっている自覚はあったので。
何故知られているのか、と思ったが、この薄い壁越しではプライバシーなどあってないようなものだ。現に俺も、隣人であるこの男が家に居るか居ないかくらいは知ろうと思えば生活音の有無でわかるので。
「はは……そういうあんたは、いつも朝早いですよね」
「あ〜、まあな。うるさかったか?」
「いや、俺も朝は試作で早めに起きるんで」
前までは夜にしていた料理の試作は、今のバイトが夜中心な関係で最近は朝にすることが多い。
最初はそこそこ名の知れたレストランでバイトしていたのだが、料理の勉強云々以前に内部の人間関係が億劫でやめてしまった。今のバイト先である居酒屋は、面接の際に料理するのが好きだと伝えれば、おおらかな店長に新メニューの開発など好きにやらせてもらえている。
「試作?」
「あ、ああ……授業の課題とかバイト先のメニューの」
「飯か!?」
ぱあっと男の表情が明るくなる。それとほぼ同時に、大きな腹の音が静かな夜に響いた。
あまりにジャストなタイミングに、笑いが噛み殺せない。くくっとこぼれた声に、男は機嫌を損ねるかと思ったが、小さく口を尖らせて、耳の端をほんのりと赤く染めた。
「……おい、いつまで笑ってんだ」
「いや、っふふ……さっきのは……っあ〜……その、さ」
ようやく息を整えて、ベランダの柵に片肘をかける。目尻にじんわりと浮かんだ涙の粒を拭いながら、尋ねてみた。
「好きなものとかあります? あんたさえよければ今から何か作るけど」
思い返してみれば、誰かに個人的に作った料理を振る舞ったのは、あれが初めてのことだったかもしれない。
隣人の男はあの後、吸っていた煙草を半端なところで放り出し、隣といえどベランダ越しに柵を越えてそのまま俺の家に乗り込んできた。
普通に玄関から来ればいいだろ、と口に出せば「こっちのほうが早いだろ」と当たり前のように返ってくる。その堂々とした言い様に『言われてみればそうかも』と流されたが、今考えると早いとか早くないとかいう問題ではない。
何はともあれ、部屋にやってきた男が発した第一声は「肉」だった。
端的だが、選択肢が多すぎる。
悩んだ結果、ありあわせの材料で作ったメインディッシュは柔らかさが自慢のポークソテー。ポテトサラダは甘辛いソテーの味を邪魔しないようにシンプルな味付けで、自分の夕食用に作っておいたミネストローネも温めて添えておく。
最後にほかほかの白米をお茶碗に盛り付け、椅子に座った男の前に置くと、男は待ってましたとばかりにこちらを見た。
「全部食っていいのか?」
「いいっすよ。ありあわせのもので作ったから、あんたの口に合えばいいけど……」
いただきます、の声とともに、男は意気揚々と料理に箸を伸ばす。
ひと口食べた瞬間、男はぴたりと箸を止めた。
しまった、口に合わなかったか? 声をかけようとした途端、男はワインレッドの双眸をじっとこちらに向けてみせる。どこか浮ついたような熱っぽい視線は、例えるならばずっと欲しかった玩具を手にした子供のようだった。
「……美味い!」
それからはもう、見ているこちらが胸がすくような食いっぷりだった。大きく開いた口の中に、俺が作った料理が次から次へと消えていく。男は豪快でいて、意外と丁寧な食べ方をする。米粒や肉片ひとつも残らない綺麗な皿を前に、俺はじわじわと己の中の何かが満たされるような、穏やかで果てしない高揚感をおぼえていた。
「っは〜……美味かった。最高の気分だ。なあおまえ、名前は?」
問われて初めて、そういえばお互いの名前も知らないことに気がついた。
「……ネロ。ネロ・ターナー」
隣人で、今後あまり関わることもないだろうと思っていた男。そんな男と縁が出来たのは、図らずしも趣味の料理を通してで。
この日から、俺とこの男──ブラッドリーとの二十二時の逢瀬が始まったのだった。
──肉が好きで野菜が嫌い。味付けは濃いめが好みで、スパイスのきいたものや、甘辛いものもよく食べる。
ブラッドリーと名乗った男の食の好みについては、この数週間でおおかた把握してきた。
俺がバイトに行かない日は、二十二時にベランダ越しに少し語り合っては、ブラッドリーがそのまま夕飯目当てにこっちに乗り込んでくる。どちらが言い出したわけでもない習慣は、驚くほど自然に日常に馴染んでいった。
唯一初めの頃と変わったことといえば、ブラッドリーが煙草を吸わなくなったところだろうか。ベランダ越しに遠慮しているのかと尋ねれば、「禁煙してんだよ」と返ってきた。理由を聞けば体に悪いだろ、とか至極真っ当で嘘だとわかる答えで誤魔化されたのだけど。
今日も今日とて出した皿の中身を綺麗に平らげた男は、頬杖をついて俺の方を窺った。
「ごちそうさん。なあネロ、今週はいつあいてんの」
「えっと……明日と水曜と金曜はシフト入ってるから、それ以外?」
「明日の晩は俺もちょうど仕事だな。じゃあ明後日はフライドチキンが食いてえ。前に作ってくれただろ。外側の衣はパリッとしてて、中の肉はジューシーで……あれ、めちゃくちゃ美味かったんだよなあ」
「まあ、いいけど。つけあわせの野菜もちゃんと食えよ」
「げ」
野菜という言葉を口にした瞬間、わかりやすく眉を顰める。ブラッドリーの第一印象は『どこか近寄りがたい、格好も振る舞いも派手な住む世界が違う男』だった。
しかし最近は意外と人懐っこいところがあることを知った。表情も案外コロコロと変わるし、元々話すのが上手なのか、それとも意外と波長が合うのか、会話が不自然に途切れない。この男とのやり取りは、つい最近知り合ったとは思えないような不思議な安心感があった。
「というかあんた、朝はいつも早いけど、明日は夜も仕事なのか?」
「まあな。たまにあんだよ、そういうこと」
「ふうん……」
ブラッドリーの仕事については、詳しく聞いたことがなかった。別に聞くなと言われたわけではない。ただ、仕事の話となると、なんとなく煙に巻かれる節はあった。
まあ、夜に会う時以外はスーツを着ているけれど、サラリーマンという雰囲気ではない。同じようにスーツを着た男たちがよく家を訪れているのは知っているが、わざわざ詮索する気にはなれなかった。
週に三、四日ほど、ベランダ越しに言葉をかわして、料理を振る舞うだけの関係。そこにお互いの立場なんてものは不要だったので。
昼休みの食堂は、様々な学部の生徒や教員たちで賑わっている。その中でもなるべく静かな隅の方の席に腰掛けて待っていれば、いつものように彼はやってきた。
ウェーブがかった髪に、バイオレットの瞳。整った顔立ちながらどこか生真面目そうな雰囲気のある彼は、俺の数少ない大学の友人、ファウストだ。
「ごめん。待たせた?」
「いいや? 俺もさっき来たとこだし。それより先生、ビッグニュース。見て見て」
「ネロ。僕はきみの先生じゃないと何度も…………かわいいな」
「だろ?」
スマートフォンに映っているのは、白い子猫たちの写真だった。ふわふわの毛に、揃いも揃ってくりっとした青い瞳が愛らしい。
大学構内にいる猫達は、名目上は野良だというのに毛艶が良く、まるまるとしている。さらに甘やかされるのになれているからか、警戒心が薄くて人懐っこく、少し近づくとにゃあと鳴きながら足元に擦り寄ってくるのだ。
「白猫か……学生会館の裏によく居る子の子供かな」
「近くの駐輪場に居たからそうかもな。なあ、ファウストはこのあと授業ある?」
「僕はないけどきみはあるだろ。ちゃんと出なさい」
「げ、なんで知ってんの……」
ファウストとは、学部は違うが一般教養の授業で知り合った。
最後列で睡眠時間にあてようとしていた講義だが、大学には同じようなことを考えている輩が何人も居るらしい。開始二分前に滑り込めば、空いているのは中央より前列の、学生からも教授からも視界良好な席ばかりだった。
その時に隣に居たのがファウストだ。いかにも優等生といった雰囲気だというのに、私物が猫柄ばかりなので、ちょうど売店で買った飲み物についていた猫のフィギュアを渡してみたのだ。それがたまたまファウストが集めていたシリーズのラストひとつだったとかで、それからなんとなく仲良くなった。
「ネロ、今日は次のコマまで?」
「そうそう。昼休み明けって一番眠いんだよな……」
「そう。じゃあ僕は図書館で自習してるから、終わったら呼んで。見に行くんだろう、子猫」
「あ、うん」
ファウストは俺と違って真面目で頭も良い。特に試験前なんかは、講義室でまるで呪文のような授業を繰り広げている教授たちより、よほど親身に勉強を教えてくれる。だからたまに揶揄いまじりに先生と呼んでみるのだけど、本人的にはその呼称はお気に召さないらしい。
結局睡魔との戦いに勝ったり負けたりしながら授業を終え、ファウストと合流して子猫を見つけた駐輪場へと向かう。ふわふわのちいさな猫たちは、今度は親猫のそばで揃って眠りについていた。
「やっぱりこの子の子供たちだったのか」
「みたいだな……よく寝てる。な、ふわふわだろ?」
「ふふ、ふわふわだ」
折角の昼寝を邪魔しないように、少し離れたところから眺めていたら、子猫の中の一匹がぱちりと目を開けてこちらに歩み寄ってきた。
警戒心が強いのか、じりじりと歩を進めながら唸り声をあげている。よく見ると、他の兄弟たちとは違い、その子猫はちょうど薄桃色の鼻の真上に大きな傷痕があった。
ふと、子猫は何かに気付いたように一瞬だけ足を止め、次の瞬間、俺のカバンへと飛びかかった。
「うわっ、何」
「随分とやんちゃだな……」
どうやらカバンからはみ出していた袋に反応したらしい。中身は午前中の実習で焼いたパンだ。焼き色も良く、表面はパリッと中はふわふわ。ほんのり甘くて会心の出来だ。
「あ〜……これは猫用じゃねえからまた今度な?」
子猫はしばらく『早く寄越せ』とねだるように鳴いていたが、やがて不貞腐れたように俺の足にもたれ掛かって眠りはじめた。小さいのになかなかの大物だ。
「なあファウスト、これ俺もしかしてしばらく動けないやつ?」
「かわいいからいいんじゃないか?」
「せんせー……撮ってないで助けてくんねえかな……」