wonderlandばさ、と窓の外から大きな音がした。眠れなかったミスタは、そっとカーテンを開いた。静かなサナトリウムの周りには建物なんて一切ない。整備された庭と、裏の林と、下の街へ続く道があるだけで、不気味な程に静まり返っている。鳥の羽ばたきと、猛禽の鳴き声と、風と葉の擦れる音と、それから、リノリウムを踏み鳴らす足音。夜のサナトリウムを構成するのはたったそれだけだった。明かりもなければ、娯楽もない。星がチカチカとしていて、勝手な星座を作ることばかり得意になりそうなくらいだ。ミスタの小さな部屋にはベッドと机とものを仕舞うタンスだけ。ささやかな花瓶に活けられた生花は、きっと今晩で枯れてしまうかもしれない。看護師が持ってきたチューベローズとエゾキクが、花弁を数枚落として俯いている。何となく気になって、ミスタは窓を開けた。ふわ、と涼しい風が吹き込んで髪を揺らす。ばさ、ばさ。また頭上を鳥が飛んだのかと上を見上げれば、ばさ、と一際大きな音を立てて真っ黒な鳥が横切った。
こんな夜中にカラス?
確かに夜行性の鳥は多いけれど、ミスタはカラスが夜に飛ばない事を知っていた。下の部屋にいる物知りの老人にそう聞いたのだ。カラスは早く寝る変わりに、どんな鳥より早起きするのだと。もしかしたらカラスじゃないかもしれないけど、でも、ミスタはあんなに真っ黒な鳥はカラスしか知らない。カラスが飛んで行った林の方を見て、ミスタは窓から少し身を乗り出す。
「……何かあったのかな」
「オヤ、こんな時間に起きているなんて、夜更かしな悪い子がいるね」
「え、」
ぼそりと呟いた言葉に、返事が返ってきたことにびくりと驚く。ばっと反対側を向くと、そこには見知らぬ白スーツの男が一人。窓枠に腰をかけて、肩にかけた黒と赤の不思議な服を風に靡かせている。
「Good Evening。いい夜だね」
「あ、えっと……Good Evening」
「ン、返事が出来るのはいい事だ」
ニコリ、と笑った男の事をミスタは知らない。知らないけど、何だか初めて会った気はしなかった。
「坊やはここで何をしているのかな?」
「えっと、音がして、寝れなくて……外見ようかなって」
「そうかそうか。一人で寝るのは……坊やには些か寂しかろう」
「そ、そんなんじゃない!そんなんじゃ、ない、けど」
「けど?」
月みたいな色の目をした男がじぃ、と見つめて来るのを少しばかり居心地悪く感じる。
「…………寝れない、もそうだけど。寝れないというか、寝にくいっていうか、こう、もぞもぞして、そわそわする」
はっきり言って、ミスタはサナトリウムが好きじゃなかった。昔から多動的で精神が不安定だったミスタは、一年前からこのサナトリウムで過ごすことになった。入所してから母親が会いに来たことなんて一度もなかったし、ミスタも母親に会いたいとはあまり思わなかったけれど。でも、ここは静か過ぎるし、暗すぎる。サナトリウムなんてそんなもんだと思うかもしれないけど、ここには死が多すぎるのだ。死者の沈黙と生者の沈黙じゃあ、あんまりにも意味が違う。
「……人はね、それを『寂しい』っていうんだよ」
「……そうなの?」
「あぁ、そうさ」
不思議な男は、相変わらず甘く微笑んでいる。何だか彼と話していると落ち着く気がしてきた。得体の知れない懐かしさが、ミスタを落ち着かせているような。
「……ねぇ、名前、名前なんていうの?俺は、」
「知っているとも、ミスタ。ミスタ・リアスだろう?」
「え、なんで知ってるの」
「私は少しばかり……そう、少しばかり長生きでね。人より知ってることが多いのさ」
ばさ。三度目の羽ばたきが二人の前を横切った。それを見て男は眉間に皺を寄せた。
「……ん、せっつかれてしまったかな。すまないね、坊や。名残惜しいけれど、今日はここまでだ」
「?」
きょとんとするミスタを置いて、男はひらりと窓から身を投げる。
「え?!」
「ハハ、また明日会おうね、坊や!」
何ともなさそうに着地した男は、暗闇に紛れて消えてしまった。
「…………ここ、二階なのに。足平気なのかな」
▫
「や」
約束通り、男は今日も来た。今度はご丁寧にミスタの部屋の窓をノックして。相変わらずどうやって二階の窓辺に来ているのかよく分からないけど、「人より少しばかり長生き」らしいので、なにか方法があるのかもしれない。
「そういえば昨日は名乗り損ねてしまったね。私はヴォックスというんだ」
「へぇ……ヴォックス、さん?」
「さん、なんていらないよ。ヴォックスでいい」
「ふぅん?」
言葉に甘えて、ミスタはヴォックスと呼ぶことにした。ヴォックスは、それからミスタに色んな話を聞かせた。
旅路を祝う狐の話。
裏社会を支配するマフィアの話。
不思議な話ばかり書く文豪の話。
月の空から来た竜人と、太陽の空から来た竜人の話。
御伽噺のようなそれを、ミスタは毎晩楽しみにしていた。たまに来ない日もあったけれど、そんな時は決まって窓に赤い花が挟まっていたから、寂しさは感じなかった。花瓶を毎日手入れして、花を飾る。
そうして一ヶ月がたった頃。
「坊や、今日は散歩をしよう」
「え……でも、俺、ここから出ちゃダメって。みんなに迷惑かけるから、大人しくしてなさいって」
「そんな事ないさ!私は坊やの行動を迷惑だなんて思ったことはないよ。それにね、」
「それに?」
「……いや、これはお楽しみに取っておこうか。サ、私の手を取って」
差し出された手を、ミスタはもどかしく見つめる。
何となく、ミスタは察していた。
ヴォックスが、自分をここから連れ出す気だと。でも、自分は絶対に誰かに迷惑をかけるから、ここに居た方がいい。誰にも怒られないように、迷惑をかけないように。自分は、ダメな子だから、ワガママだから、そうやって、言われてきたから。幸せになるなんて烏滸がましいし、なる権利もない。ずっとこのまま、そう、このまま。何のためにママが自分をここに入れたと思ってる?俺がダメな子だからに決まってんじゃん。知ってるよ、俺。ママが俺がいると困るからだ。じゃあ、出ちゃダメじゃん。悪い子なんだから。
でも、ヴォックスはそんな事言わない。でも、でも、でも、でも。
思考のでも、を繰り返し続ける。
ばさ。
カラスが空を横切った。あぁ、早起きのカラスが、鳴き声をあげる前に決めなければ。
ミスタは、きゅっと白い服の胸元を握りしめる。少し俯いて、声を絞り出す。
「……………………………………、約束、してほしいんだ」
「なにかな?」
ごめんね、ママ。俺やっぱり悪い子だ。
「よる、ひとりにしないで」
「お易い御用だよ、MyBoy」
窓枠に足をかける。夜明けに向かって、手を伸ばす。後ろめたさに花瓶を振り返って、それから。
ミスタは恐る恐る、足を踏み外した。
朝露に濡れた羊歯を踏んで、どこへももなく手を繋いで歩いていく。上機嫌なヴォックスは蕩けるような甘い声でミスタに囁いた。
「さぁ、どこに行こうね。どこにでも行こう。世界は全部、君のものだよ」
もう一人じゃないと思うと、ミスタは怖いくらいに幸せだった。