お好きなように。 好きなようにしろ。そう提案してみると、つり目がちな緑色の瞳が真ん丸になった。
鳩が豆鉄砲を食らった顔とは、こういう顔の事を言うのだろう。つい吹き出しそうになるのを堪え、平静を装う。
窓から斜めに射し込む光はオレンジ色に近くなっている。昼まで会議が入っていると今日の予定を告げていたが、帰ってきてからさほど時間は経っていないのにも関わらず、すでに部屋の中も薄暗くなってきていた。
サウスセクターの共用部のソファには、ブラッドとアキラの二人だけだった。ウィルとオスカーは植物で造形した動物たちで作った動物園、というコンセプトの展示があるとかで、開催記念に併設されたコラボカフェの抽選にも当たったのだと、二人で揃って出掛ける旨は聞いていた。
せっかくの休みなのだからアキラもどこかへ出掛けるのだろうと思っていたのに、約束をした訳ではないがどうやらブラッドが帰って来るのを待っていたようだ。もしかするとランチを一緒にとでも思ってくれていたのかも知れない。そう予想し、昼食は食べたのかと聞いてみれば、三〇分おきに一つずつホットドッグを食べたと返ってくる。電子レンジとは相性が悪いが料理はそれなりに出来るようなので、冷蔵庫にある食材を使って自分で作ったのだろう。だが、この時間までに食べた総個数は教えてくれなかった。
昼までっつってたのに。そう呟いたアキラは拗ねたような顔をしているが、怒っている訳ではなさそうだった。どちらかというと僅かばかりの寂しさも垣間見え、悪い事をしてしまったと気付かれない程に小さく息を吐く。
この数ヶ月で分かってきた。以前程ではないにしろ相変わらず大声で面と向かって文句も言うが、そういった際の不満は大抵は大勢の人間に聞かれても良いような、言ってしまえば、褒めて欲しい時や共感を得ようとしている時。本当に言いたい事がある時には逆に、相手の様子や状況を見てから飲み込む事も多いのだ。
どこまでも傍若無人そうに見えるのに、意外とそうでもない。言っても仕方ないと理解している事に関しては、我儘など言ってはいけないとでも思っているのか、言葉に出さずに目線を逸らしてしまう。そんなに寂しそうな顔をするくらいならば、言葉に出してくれた方が良いのに。
今だって、ブラッドが多忙な事は分かっているからだろう。ソファですぐ隣に座っているだけで、責める事はせず、目線を斜め下にしたまま少し俯いている。
その顔はまるで拗ねた子どもそのもので、後頭部へ指を滑らせ身体を傾けると、下から覗き込むようにして尖らせた唇へ唇を寄せた。
視界に突然どアップになった顔に、アキラは奇声を発しながら飛び上がる。唇同士が触れ合う直前に両手で顔面をガードされてしまった。ガードというより、手のひらでブラッドの顔面をぐいぐい押し返してくる。
ムスッとした顔で手首をまとめて掴んで退けると、耳まで真っ赤になってこちらを睨み付けていた。
「そうやってすぐ、好き勝手しやがって……っ」
ご機嫌を取ろうとでもしたと思われたのか、さらに唇を突き出しながら言われる言葉が心外にも程がある。
好き勝手していないかと言われれば答えは否だが、それにしてもまるでブラッドだけが事に及んでいるような言い種に、ふぅ、と鼻から一つ息を吐いて身体の位置を戻した。
「ならば、お前の好きなようにしろ」
ソファの背もたれに背を預け、静かに言い放つ。それが、今の状況である。
ポカンと口まで開けたまま目を真ん丸にしているアキラは数秒して我に返ると、あきらかに困惑し始める。
「は? えっ……?」
「こちらばかりが好き勝手していると思われるのは不本意だ。ならば、貴様も俺の事を好きなようにするがいい」
言いながら、掴んでいた手を下ろす。手首を解放して、そのままブラッドは微動だにしなくなった。
突然の提案に戸惑い続けている間に、何もしないのかと問われ、びくりとアキラの肩が跳ねる。
そのまましばらく様子を窺っていたが、本当にブラッドが動かないのを見て、やがて遠慮がちに先程下ろした指に触れられた。
前髪の隙間からチラリとこちらを一度見上げてくる。何も反応がない事を確認して、指先を掬い上げ手のひらの下に自らの手を滑らせる。もう一度前髪の隙間から猫のような翡翠の瞳で見上げてから、空いている方の手で手首を掴まれた。
胸の高さくらいまで持ち上げる。まじまじと見つめ、まるでエスコートするように手のひらを乗せていた方の手で。ぴたりと。床と水平だった手を縦にし、自分の手のひらとブラッドの手のひらを合わせた。
「おぉ……っ、やっぱりオレよりデカいな……」
重ね合わせた手同士をじっと見て、改めて気付いたと言わんばかりに感嘆の声を上げる。
まさか手の大きさを比べられるとは思わず、今度はブラッドがぱちくりと瞬きをしてしまった。
しばらく様子を窺うが、アキラはずっと二つの手を観察し続けている。「手のひらの大きさはそこまで変わらないのに……」「指の長さか……?」などとブツブツ言いながらも飽きる事なく重ねた手を眺めている姿に、肩透かしを食ったように徐々に目が据わってきてしまう。
「…………それだけか?」
「へっ?」
つい低い声で問うと、不思議そうに。言われた意味が本当に分からなかったというように。きょとんとした瞳が見上げてきた。
無駄に期待してしまったのが自分だけのようで面白くない。乏しい表情なのにブラッドが不機嫌になってきた事を感じ取ったのか、アキラは慌てて目線をあちこちにさ迷わせ、えっと、えぇっと……? と逡巡し始める。
「満足したならもう終わりにするが?」
「え、ちょ、ちょっと待てって……っ」
眉間に皺を寄せ一生懸命考えているが、残念ながらこちらもさほど気は長くないので先手を打つ。わざとらしく打ち切りを提案すれば、さらに困り顔で唸った後に、そうだ! とこちらを見た。
なのにその後には何も言葉が続かない。さらに数秒待ってみたが動く気配もなく、そろそろもう良いだろうと手を動かしかけると、じっとこちらを見つめるアキラの頬が少しずつ。ピンク色に染まってきた事に気付く。
唇が薄く開いて、すぐに閉じられる。一つ瞬きをするとさらに頬に赤みが差して、視線を逸らされた。
これは……と、こちらの意図する事にようやく少しは気付いたのか。先程の不機嫌そうな気持ちから一変し、ブラッドも大人しく動向を見守る。
落ち着きなく視線をあちこちに彷徨わせ、ブラッドの顔を再度見上げてから、一つ。アキラが深呼吸をした。それから、まるで覚悟を決めたように小さく頷き、腕を伸ばす。
ブラッドの腿へ、手のひらが乗せられた。ギシ、とソファのスプリングが軋む音を立てる中、アキラが腰を浮かせ、赤い顔でブラッドの膝の上へ乗り上げてくる。
熱に浮かされたようなアキラが、ブラッドを見下ろす。は、と目の前にいないと分からないほどに小さく、熱い息を吐いて、肩口に額をすり寄せてきた。
「……なぁ、マジで……? 何しても怒らねぇ…?」
布越しに伝わる熱が、さらに温度を上げる。
普段の喧しさが嘘のようにか細い声で聞いてくるので、ああ、と答えれば、数秒の沈黙の後アキラがまた深呼吸する。
おずおすとブラッドの腕の下から回される腕が、腕の真下くらいで止まる。きゅっと指先と腕に力を込め、腰の辺りの服をすこしだけ掴まれた。
好きにしろとは言ったが、そんないじらしい事をされるとは。せっかく本人が何かしてくれようとしているのに、その前にこちらの我慢が利かなくなってしまいそうで、どうしたら良いのか分からなくなる。
「……アキラ、」
自分が思ったよりも、ずっと掠れた声になっていた。
期待にこちらの心音もわずかに速まってきた時だった。
「ぬををおおおおおっ!!」
突然、ブラッドの肩にもたれかかっていた額が勢いよく動き、ぐりぐりぐりっっとまるで捻るように擦り付けられたのだ。
あまりに唐突すぎてブラッドが驚愕で体を跳ねさせる中、無意識に少し腕が上がった事により隙間が空いた脇から腕を回される。
「あ、アキラ……!?」
声が裏返りかけながらも何とか呼ぶが、背中に回した腕にはかなりの力が入っていて、ぎゅうぎゅうに抱きつかれている。その間にまたもや額をぐりぐり擦り付けられていて、行動の理由が皆目見当もつかない。
戸惑っているブラッドなどお構いなしなアキラは、ブラッドの香りを堪能するかのように息を吸い込んでいる。どう対処すべきか逡巡している間に、へへっ、と笑い声が聴こえてきた。
「へへ〜んっ。どうだっ、ブラッドを独り占めしてやったぜ〜っ!」
嬉しそうに抱きつかれ、眩暈がした。
「ぅ、ぐ、……っ、っ、」
おもわず脳内を様々な葛藤が巡り、とっさに出かかった声は奥歯を噛み締める事で何とか耐えた。
違う、想定していたものは、そうじゃない。
しかし、何だ。この愛らしい生きものは。むしろお前はいくつだ。つい、昔の幼かったフェイスに抱きつかれた時のような感覚に陥った。仮にも恋人を相手にしているというのに。
だが、やはりそうではないのだ。絶対的に、圧倒的に、望んでいたものとは違う。怒れば良いのか嘆いたら良いのかまったく分からない。
ご機嫌にブラッドの胸で笑っているアキラに、心も頭も痛い。情欲と親心の狭間で揺れ動く精神状態に、ひたすら眉間に深い皺が刻まれる。
しばらく好き放題に特等席を堪能していたが、ブラッドからのリアクションが何もない事にようやく気付いたアキラが顔を上げた。至近距離で見つめてくる澄んだ翡翠色の瞳は、不思議そうに瞬きながらブラッドを映していた。
「…………それだけで、俺を独り占め出来るとでも?」
いまだ複雑な相反する感情に苛まれながらも、憮然とした顔も搾り出した言葉も我ながら大人げないものであったけれど。
それでも、お子さまな恋人に気付かせるには効果的だったらしい。
こぼれ落ちそうな程に大きく目を見開いたアキラが、途端に林檎のように真っ赤な顔になった。言葉に出来ないのか、パクパクと魚のように口を動かし始めた。
「あ……、ぅ、あ、えっと……」
「せっかく俺を好き放題出来るというのに、お前はそれで満足なんだな」
「えっ!? い、いや、なんつーか……」
今さら羞恥心と戦い始めたアキラに、ちょっとした腹いせにわざと意地悪く追い討ちをかける。案の定、赤い顔のままさらにしどろもどろになるのが可愛くない訳がない。
しかしこちらとしても、せっかくなのだからもっと欲張ってもらわねば困る。
口角が上がりそうになるのをアキラ苦手な仏頂面でごまかす。正確には、ニヤけそうになる顔を堪えるとこの顔になってしまうだけなのだとは、目の前のお子さまにだけは教えてやれないが。
「そんな風に俺の上に乗っているのに?」
するりと腰を撫でる。こちらからは何もしないつもりではいたが、この際だ。こちらがその気でいる事くらいは、ヒントとして与えてやっても良いだろう。
びくびくとそれだけで身体を震わせるアキラは、顔の赤さが首にまで広がっている。
悔しそうにしばらく唸っていたが、ブラッドの思惑を完全に理解したのだろう。だーっ、もうっ!! と叫ぶと、一度両腕を背中から解いて身体を離した。
「……ぜってぇ、お前は何もすんなよ……」
目許まで赤く染め、睨んでくる。一度引いた両腕を上げ、今度はブラッドの首へと回してくる。
善処はしよう、と答えたブラッドの声は、塞がれた唇によって。
幸いにも、楽しそうな声色になっていた事は。この恋人には気付かれなかったようだった。