セッしなくても出られるがその場合片方の記憶が戻らない部屋に閉じ込められたくりんばの話 気づくと、見知らぬ場所にいた。
己の体へと目をやる。黒を基調とした装束、褐色の手、動かしても異常はない。全く予期せぬ事態にまず全身を検分したが、少なくとも身体機能は損なわれていないようだ。
辺りに視線を向けると、白い壁に囲まれた真ん中に、大きなベッドが一つ鎮座していた。
ひらりと何もない宙から降ってきた紙を、隣に立つ布を被った男士――山姥切国広が拾い上げた。その紙を凝視したまま動かない彼のそばに半歩近寄る。握りしめられた紙には、到底理解しがたいことが書かれていた。
『セックスしないと出られない部屋』
無機質な紙のど真ん中に印字された文字の下には、つらつらと仔細が書かれていた。
曰く、ここにいる者同士で交合しなければならないこと。
片方の記憶が奪われていること。
仮に行為に及ばなくとも制限時間が来れば出られるが、失われた記憶は戻らないこと。
それらの文字を読み終えると同時に、ボワンと機械が起動するような音が響いて、壁の向こうから数字の形をした光が浮き出るように現れた。そこに表示された時間が一秒ずつ減っていく。与えられた時間は三時間ということらしい。
黙していたとなりの男が、こちらを見た。身を隠すような格好をしながら、その表情は存外陰鬱ではなかった。
「一つ聞く。昨日の出来事で覚えていることは?」
真っ直ぐな視線にややたじろいでしまったのを隠しながら答える。
「……覚えているも何も、今日この姿を得たばかりだが」
「……なるほど、そうか」
ひとり納得したように男――山姥切国広が頷く。なんのことだと聞き返す前に山姥切国広が口を開いた。
「勘づいているとは思うが、記憶を奪われたのはあんたの方だ。俺の知る大倶利伽羅はもうここへ来て五年になる」
「……そうか」
人の身を得てからの己を形作る記憶がほとんどないのだから、そうだろうとは思っていた。それに、うまく言えないが、つい先程鍛錬所で得たばかりの自分の肉体とはどこか違う気がした。山姥切国広は更に続ける。
「ならば説明すべきは俺ということだな。……ああ、自己紹介がまだか」
顕現したときに、審神者に付き添っていた彼とは挨拶程度の会話はした。名前は知っている答えると、山姥切国広は、そうか、と頷きながら、ついでのように口を開いた。
「ああ、それと、昨日は祝言の日だったんだ」
「…………は?」
何の、と聞く前に山姥切国広がひたと目を見据えてきて言葉に詰まる。
「俺と、あんたの」
「…………」
「改めて言う。俺は山姥切国広。昨日付き合って三年になる大倶利伽羅と晴れて祝言を挙げ、あんたの伴侶になった刀だ」
告げられた言葉をうまく飲み込めないでいると、山姥切国広がさらに続けた。
「顕現して間もない状態で、そんなことを言われても理解できないとは思う。だが、それが事実なんだ。少なくとも俺にとってはな。……まあ、証明する術もないが」
被った布を引き下げながら山姥切国広が視線を落とす。ひとりで戦うことを是とする己が、まさか自分と運命を共にする相手を自らの意思で持つとは考え難かった。だがだからこそ、それが嘘ではないのだろうとも思った。もし嘘なら、俺相手にそんな嘘を選ぶのは悪手でしかない。ありえないからだ。山姥切国広の言うとおり、俺がここで顕現して本当に五年経つのなら、そういう己の性分をこの刀が理解していないということはないだろう。
「確かに、にわかには信じがたい。だが、否定できる根拠も俺は持ち合わせていない」
「……信じてくれるのか?」
「そもそも、事実として俺はあんたより持っている情報が圧倒的に少ない。それで持論を押し通そうというのは無理な話だ」
そうか、と山姥切国広が安堵したようにため息をつく。
「ならば一つ、頼みがある。俺は、あんたの記憶を取り戻したい」
「……俺は別に」
「なくても困らない。そうだろう。だからこれは単なる俺のわがままだ。もちろんこの指示に従ったところで、記憶が戻る保証はないことも分かっている。言うまでもなく、感情を伴わない行為はあんたに負担を強いることも、承知している。それはすまない。償いは必ずする。だが少しでも可能性があるのなら、今はできる限りのことをしたい。頼む」
こちらをまっすぐ見据えた山姥切国広が頭を垂れた。体の横で拳が握りしめられていた。茶化すような素振りはなく、そこにはただ俺の、山姥切国広が知る“俺”の記憶を取り戻したいという強い意思だけがそこにあった。
特定の相手と深く関わりたくはない。そんな慣れ合いは死んでもごめんだ。でも、きりりとした真剣な眼差しと固い意思を張り巡らせた表情を前にすると、用意していた断り文句はどれも口から出なかった。
「なに、あんたはそんな深く考えなくていい。そこに座るか寝転がるかして、人型の本能に任せてくれれば、それで」
こちらが二の句を継げないのをどうとったのか、山姥切国広が少し笑いを混ぜた声色で言う。役割分担は俺が挿入する側らしい。
「豪語出来るほどの経験はないが、あんたに比べればあるはずだからな。あんたは気楽に構えていてくれ」
「……悪いが、勃つ気が全くしない」
「それもどうにかする。扱いには慣れてるからな」
「扱いってあんたな……」
「おしゃべりは終いだ。もう十分も経ってるじゃないか。時間切れになったら困る。早く始めよう。そこのベッドの端に腰掛けてくれないか」