慣例打破【オル相ピストロパロ】 人の口ん中を散々に舐め回した舌がゆっくりと引き抜かれる。その海のような色をした目は俺を見ているようでいて、きっと自分の世界に入っている。
テイスティングとはよく言ったもんだ。この人は俺にディープなキスをしてるつもりはないんだろう。俺の口の中に残ってるワインの風味を納得がいくまで探っているだけだ。
酔った勢いで唇を触れ合わせて伝えた方法は向上心の塊のような人のお眼鏡に適ったらしい。再び求められれば断る理由はどこにもなかった。濡れた唇を重ねて微かに残る香りを味わうだけだったのに、最初に舌を差し込んだのは向こうからだった。
あの時は求めていた手応えが得られなかったのか難しい顔をして眉が寄せられていたから、風味がわかりにくかったのだなと思った。入って来た舌は上右頬の内側と歯の間からゆっくりと左端まで動いた後、そのまま下に移って反対へ戻って行く。その後、気を散らすまいと身動きを止めた俺の上下の歯の間から奥へ滑り込んで来る。真ん中に平たく寝転んでいる俺の舌を一周、猫の挨拶みたいにさらりと流して舌は離れた。
それがいつもの仕草になった。
今夜もぞく、と首の裏に寒気が走る。
不快なものじゃない。寧ろ、それは逆の兆しだ。
最初、酒の席で唇を触れ合わせたのは俺からで。
次に、深く探って来たのは向こうからで。
「……味、わかりましたか」
黙り込んで答えないのは俺には見えないこの人の頭の中で、目紛しく食材と調味料とワインのマッチングが行われているからだ。
俺とキスしたくてしてるわけじゃない。
その舌が味わっているのは俺じゃなくて俺の口に残った余韻でしかない。酒を飲めないこの人の、仕事のための行為なのだから。
「うん。今のは、いいね」
定まらない視線は心ここにあらずに感じるけれど、口元に笑みすら浮かぶ力強い返事に、ああもう新しいメニューが思い浮かんでいるんだな、とわかる。
「そうですか。良かったです」
俺は目を伏せてグラスに手を伸ばした。
余計なことは言わない。
余計な気配も見せない。
ぷかりと胸の奥に浮かんだ、縁取りもできない曖昧な何かを同じワインで沈める。
「……ごめん、もう少し」
意識を向けるより先にくいと顎を持ち上げられて心構えのできていない状態で触れて来た唇に、俺はほんの少し焦ってしまった。
嫌がっていると思われるのは困る。
求めていると思われるのも、困る。
黙って俺から欲しい情報だけを削ぎ取って行ってくれ。
なのに決められたルーティンを破った舌を、俺はどう受け止めれば良いんだろう。