逆光体中にまだ人間達の怨嗟が纏わりついている気がする。
凍えて死ぬ程度、炎にまかれるより楽だろうに。人間は死に方にさえ注文をつける。
冷気と怨嗟がまとわりついた外套を使い魔の雪だるまに渡す。翌夜には綺麗になっているだろう。
「おとうさま!」
階段の上から、十歳前後の少女の声が響いた。
大声を出すなどはしたない。やめなさい。
などという注意はしなかった。
「おかえりなさい、おとうさま!」
「ただいま、私の愛しい仔」
転げるように階段を降り脚へと抱きついてきた癖毛の子供を抱き上げる。
柔らかい身体の中から聴こえるひたすら遅い鼓動。
それでも聞こえてくる小さな心臓の音に氷笑卿は微かに微笑んだ。
※
子供──クラージィには過去も記憶もない。
ノースディンが、そうした。今はなんの疑問もなくノースディンを父と信じている。
ノースディンの館を襲撃した後、悪魔祓いであった彼──クラージィは馬鹿正直に神への問いを口にしたのだろう。
監視の鼠の目を通して観た。
異端審問という暴力の末、人間のクラージィの最期は火炙りの後の消し炭の有り様だった。それでも彼の心の臓は微かに脈打ち、焼け爛れた気管は必死に血の臭いのする空気を取り込もうとする。同じく焼け爛れ機能しない肺へと。彼の意思を確認することは無かった。鼠の目を通して観た、炎に炙られる彼はそれでも神への恨みを口にする事はなかった。
ノースディンはふとした瞬間に、牙を突き立てた首筋の炭化した肌の苦さを思い出して顔をしかめた。
※※※
男であったクラージィは、なにが原因か、現在は少女だ。 彼……いや彼女は少しずつゆっくりと成長している。
何が原因か、などわかりきった事実を曖昧に表現しようとする己をノースディンは嘲笑する。
彼を彼女に変化させたのは己のエゴだ。子供であれば、女であれば、ノースディンのかいなの内で護れる。
その時は、護るためだけだと信じていたのだ。
※※※
歩かないと。
旅をしないと。
靴を擦り減らし、人々の冷たさに心を擦り減らし。
それでも、私は歩かないといけない。
そうしないと、ならないのだ。
※※※
「おとうさま、この本はなぁに?」
真白の肌にうっすらと桃色に色付く唇が、その両手に持った分厚い本をノースディンに差し出しながら問う。
古びて黴た紙の臭い、虫食いだらけで埃を被っていただろう本は出来うる限り最大限に綺麗にされていた。
本──聖書など、どこにあったというのか。
処分しわすれたか、それとも昔の己がしまいこんで忘れてしまったものか。
ノースディンは愛娘の手から本を受け取ろうとしたが、クラージィは渡そうとはしなかった。不穏な気配を感じ取っているのだろう。常なら父に逆らわない仔が本を大事そうにかかえ直した。
「……読みたいのか?」
「はい」
「私達には必要ないものだ。それどころか毒になるかもしれん。それでもか?」
「はい!」
黒い癖毛の下、夜と夕焼けが混じった瞳のクラージィは真っ直ぐにノースディンを見つめる。父は願いを聞き遂げてくれると信じている瞳だった。
「……新しい物を調達してこよう。それより読みやすいだろう」
深々とした嘆息と共に、ノースディンはそう口にした。