乾いた心に、愛情いっぱい・2*沖縄そば*
日陰になっているビルの出入り口から外へ出ると、昼の日差しの眩しさに思わず目を細めた。じわりと感じる暑さに思わずため息を吐きながら、忠は足を踏み出す。
所定の休日出勤を終え、まだ日の高いうちに帰路につきながら、忠はほんの数ヶ月前の自分を思い返す。
所謂真っ黒な企業に勤め、過労死ラインを踏み越えながらも必死に働いていた頃が、もはや懐かしい。
本日は昼で終業したので、街にはこれからランチや買い物に繰り出そうとする家族連れやカップルが多く見られる。平日とは種類の違う喧騒に早くも疲労を感じながら、さてどうしたものかと考える。
休日に率先して出歩くタイプでは無いが、このまま帰宅しても昼ごはんは精々コンビニ弁当だ。折角外に出ているのなら、外食して帰るのも良いかもしれない。昼食の事を考え始めた途端に空腹を感じ始めて、我が事ながら現金なものだと苦笑した。
転職するまで空腹は殆ど感じず、むしろ効率が落ちるのが煩わしいと、渋々エナジードリンクやゼリーで済ませていたのが信じられない。
ーーあの少年のおかげだな。
終わらない仕事に、張り詰めていた何かがぷつりと切れた日。過度の疲労でまとまらない思考のままふらりとオフィスを出て、力尽きて座り込んだあの日。いっその事、もうこのまま目が覚めなくなっても良いと、そう思っていた自分に声をかけてきた少年。
普段であれば、そういった行為は余計なお世話だと煩わしく感じる方だが、やはり弱っていたのか、自分が座り込んで居たのが彼の店の前だった事もあって、少年に手を引かれるまま店の中に入り、促されるまま出された味噌汁を口にした。
あの味は、きっと忘れる事はないだろう。
じんわりと口の中に入ってきた塩味と、具材から滲み出たのであろう素朴な甘さ。しつこくもなく、油っぽくもない、炭酸のような刺激もない優しい温かさが、口から食道を通って胃にたどり着くのをはっきりと感じた。そうして、胃から全身にじわじわと優しい熱が伝わって。夢中で箸を動かして、気がつけば軽く汗をかいていた。厚意に甘えてお代わりまでして、もう倒れるなよと笑って送り出された。
代金を支払うと言ったのを固辞されて、代わりに営業日に食べに来て欲しいと言われ、頷いた。
ちゃんとした食事をすると、意識がはっきりして余裕が生まれる。そうして、ちゃんと物事を考えられるようになる。
社交辞令だとしても、約束を果たす為にはここで潰れるわけにはいかないと思った事が転職するきっかけになったのだから、あの少年には足を向けて眠れない。
ーー土日も、営業していたはずだな。
昼食の予定を決めて、通い慣れた道に足を向けた。
「……想定外だ」
見慣れた店構えが見えてきたところで、忠は思わず呟いた。その視線の先、すりガラスの引き戸には、シンプルな「準備中」の札が掛けられている。
まだ昼の営業時間だと思ったが、記憶違いだっただろうか。普段は夕食に立ち寄っているので昼の営業時間はうろ覚えだが、まさか営業時間が終わっていたとは。
すっかりここで昼食を取るつもりになっていたので、食べられないのは残念だが、営業していないものは仕方ない。また月曜日に来ようと諦めて踵を返したところで、ガラガラとガラス戸が開く音がした。
「あれ、菊池サン?」
後ろから聞こえた声に思わず振り返ると、印象的な赤毛の少年が、きょとんとこちらを見ていた。
「……昼食をと、思ったんだが」
少しの気まずさを覚えながら言えば、あぁと少年が頷いた。
「ごめん、今日お客さん多かったから、早仕舞いしたんだ」
申し訳なさそうに眉を下げた少年に、得心がいった。食材にも限りがある、客入りが多ければそういう事もあるだろう。
「そうだったのか。タイミングが悪かったな」
「折角来てくれたのに、ごめんな。っていうか、今日仕事?土曜に来たの初めてだよな?」
忠の服装に気が付いたのか、首を傾げる少年に頷く。
「……なぁ、またやばいとこじゃないよな?」
眉を顰めて言う少年に、慌てて否定する。
「元々決まっている出勤日なだけで、問題ない。今は毎日定時で上がれているし、良い職場だ」
「……なら、いーんだけどさ」
一番ボロボロな状態を見られてしまっているせいか、少年は忠の勤務状況を心配してくれているらしい。大丈夫だと繰り返しても、いまいち信じてもらえていないようだ。
「ま、最近はよく夕飯うちで食ってってくれてるし、大丈夫とは思うけどさぁ」
「……お陰様で、健康状態は良好だ」
「そりゃ良かった」
傍らの立て看板をぽんと軽く叩きながら笑う少年が眩しく感じて、目を細める。
「また、月曜日に」
言って立ち去ろうとしたタイミングで、ぐぅと腹が鳴った。最近、自分の胃袋は大分活発に動いているらしい。格好がつかないと内心舌打ちしながら、何事も無かったようにそのまま歩を進めようとして、自分を引き止める声に思わず足を止めた。
「なぁ、ちょっと待って!」
「……なにか」
「折角来てくれたんだし、何か作ろっか?」
腹減ってんだろ?と言われて、じわりと頰が熱くなる。営業時間外なら断るべきだとは思うが、少年からの提案なら甘えても良いだろうか。
「……迷惑で、なければ」
「おぅ!じゃあどーぞ」
ガラリとガラス戸を開いて手招く少年の厚意に、甘えることにする。微かに跳ねた鼓動は、きっと腹を満たせる喜びによるものだと、己を納得させた。
ちょっと待ってて、と少年が店の奥に引っ込む。この店は、昔ながらの住居を兼ねている設計らしい。1階の奥の間は住居スペースになっているようで、人気のない店舗側にまで、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
そこに少年の声が混じって、内容は分からないまでも、家族団欒と言った和やかな空気が伝わってくる。大切な時間を邪魔してしまったような、よその家庭のプライベートを覗き見てしまったような気まずさを覚えながらも、勝手に出て行く事も出来ずに席に座る。
ひと気のない店内をぼんやりと眺めていると、少年がひょっこりと戻ってくる。そして、いつもの通り角の席に座った忠を見て、少年は楽しそうに笑った。
「いっつもそこだよな。お気に入りなわけ?」
「……落ち着くんだ」
「へーえ」
キッチンで調理器具を出しながら、少年は相槌を打つ。雑な反応ではあるが、それが心地良い。大きな冷蔵庫を開いて、んーと唸りながら少年が振り返る。
「あのさ、しるてーは無いんだけど、そばなら出来そう。それで良い?」
「しるてー?」
「味噌汁定食のこと」
「あぁ、成る程。そばで構わない」
「ちなみに、好き嫌いってある?」
「……嫌いなものは、特にない」
「おっけー」
鍋に火を入れながら、麺や具材を出して手際よく調理をしていく。カウンター越しでよく見えないが、迷いのない手際は一人前の料理人のようだ。
まだ学生だと聞いたが、いずれはこの店を継ぐのだろうか。楽しそうに鍋をかき混ぜている姿は、見ていて微笑ましい。
「そばお待ち〜」
丼とコップを丸盆に乗せて、少年がやってくる。盆をテーブルに置くと、カウンターに戻ってピッチャーを手に取り戻ってくる。そうして、コップに勢いよく麦茶を注いだ。
「どーぞ」
忠の目の前にあるのは、ほかほかと湯気のたった、所謂沖縄そばだ。厚めに切られた三枚肉に、かまぼこ、しょうがと島ねぎがトッピングされた、昔ながらのシンプルなものだが、どれも彩りが美しく、ほのかに香る鰹出汁のスープと、つやりと光る麺が食欲をそそる。
「……いただきます」
「おう」
箸で麺を摘むと、ふぅと息を吹きかけて口に含む。平打ちで歯応えのある麺が、口の中で踊る。むぐむぐと歯応えを楽しみながら味わっていると、いつの間にか少年が前の席に座っていた。頬杖をついて、忠を眺めている。
「……何か、粗相があっただろうか」
口の中の麺を飲み込んでから聞けば、ぽかりと口を開いて首を傾げた。
「なんで?」
「視線を、感じたので」
「あ、ごめん」
あははーと頭をかきながら、少年が謝る。
「俺、人が飯食ってるところ見るの好きでさ」
照れ臭そうに笑う少年に、思わずぐぅと喉から変な音が出た。
「うちが店やってるからかなって思うけど、昔っからそうで。家族の事もすっげー見ちゃうから、よく文句言われてる」
「……そうか」
別に、自分に限らないからと言って、ショックを受けた訳ではない。他に話を広げられる程のトークスキルも無いので、黙って三枚肉を口に運ぶ。厚めに切られた肉は砂糖醤油の味がしっかりと染み込んでいて、噛むたびにじわりと肉汁と共に幸せが溢れてくるような感覚がする。
「……なんか菊池サンって、食べてる時にこう、幸せそうなんだよなぁ」
「……っ」
喉に詰まり掛けた肉を無理矢理飲み込んだが、汁が気管に入って咽せる。何度か咳き込むと、麦茶の入ったコップが差し出された。麦茶を口に含んで、何とか落ち着いてきたところで、背中をさすられている事に気が付いた。
「なんか、変なこと言ってごめんな」
少年が、忠の背中をさすってくれていたらしい。すぐ近くで空気が動いて、少年の気配を間近に感じる。じわりと熱が顔に集まったのは、咽せたせいだと自分に言い聞かせた。
「ていうか、俺邪魔だよな。ゆっくりしてって」
気を遣ったのだろう、忠が落ち着いたのを確認して、少年が席を外そうとする。その手を思わず取ってしまったのは、何故だろう。
「……邪魔では、ない」
だから、何だというのか。内心、自分で自分に突っ込みながらも、引き留めた明確な理由は分からない。ただ、少年が離れてしまうのは惜しいと感じてしまったのだ。
「……んじゃ、お言葉に甘えて」
すとんと席に座って笑う少年に安心して、箸を取る。
「……君は、もう昼食は済んだのか?」
「んー、まぁ」
付き合わせて申し訳ないなとは思うが、普段は接客担当として客席から客席へとくるくる動き回っている少年を、今は自分が独り占めしているのだと思うと、胸の奥がムズムズとして落ち着かなくなる。
「……今さら、だが」
「ん?」
首を傾げた少年に、ずっと尋ねたかった事を口にする。
「名前を、教えてもらえるだろうか」
「は?」
大きな目を更に大きくして、少年がぽかりと口を開け、その後思い切り吹き出した。
「あーそっか、そうだよな!ごめんごめん」
知り合いが多いから、気にしてなかったと謝りながら少年が続ける。
「喜屋武暦、よろしく」
「……よろしく」
「ついでに、菊池サンの名前も教えてよ」
「菊池、忠だ」
「キクチ、タダシサン」
覚える為か無邪気に何度か繰り返されて、自分の名前を示す音が彼の舌を転がっている事を不思議に思いながら、聞いたばかりの情報をしっかりと記憶する。
喜屋武暦。きゃんれき。声に出さずに、自分も少年の名前を繰り返す。以前、常連客から『れき』と呼ばれていたのを聞いて当たりはつけていたが、やはり本人から直接聞きたかった。
そう言えば、少年は何故自分の名前を知っているのだろうか。素朴な疑問を少年ーー暦に尋ねると、その真っ直ぐな視線が泳いだ。
「前に、おじちゃんに聞かれてたろ、名前」
「……あぁ」
この店に足を運ぶようになって数日、必ずと言って良いほど顔を合わせる常連客の男性に話しかけられた事があった。その際に名前を聞かれて、無難に苗字だけを答えたように思う。
「俺も、ちゃんと名前知りてぇなって思ってさ」
悪戯がバレた子供のような表情で白状する暦に、思わず箸を握る手に力が入った。
「うち、殆ど常連さんだから、新しく来てくれるお客さんで、さらに通ってくれる人って珍しいんだよ」
「成る程」
「これも、えいぎょーどりょくってやつ?」
「……成る程」
その営業は、間違いなく成功している。そう思いながら、スープを口に含む。鰹出汁の旨みをじっくりと味わってから、何事も勢いは大切かと口を開く。
「……少年は、学生だと聞いたが」
「暦でいいって。今、高3」
少年ってなんだよ、と眉を顰められて、すまないと謝って続ける。
「受験生か」
「まーね。と言っても、俺は気楽な身だけど」
「進路は決まってるのか」
「まぁ、大体は」
「やはり、料理の道を?」
「まぁ一応?」
「そうか」
「……なーんか、菊池サンてにーちゃんみてぇ」
プライベートな質問をし過ぎただろうかと思ったタイミングで、暦が吹き出す。肩を震わせながら言われて、思わず目を見開く。
「あ、ごめん。嫌だった?」
「いや、構わないが」
兄弟と言える歳の差だろうかとは思うが、あくまで印象の話なので、水を差すのは野暮だろう。
「うち、下は妹たちが居るけど、上は居なくてさ。先生っぽくもあるけど、でも、にーちゃんが居たらこんな感じかなって」
照れ臭そうに言う暦に、そうかと頷く。兄弟の居ない忠にも、何となく気持ちは分かる。弟が居れば、こんな気持ちになるのだろうか。
当たり障りのない会話を続けながら、ぼんやりと暦を眺める。会話といっても、忠から触れる話題は多くない。概ね暦が話して、笑って、拗ねて、怒ってみせる。忠は殆ど相槌を打つだけで、気の利いた返し等出来ないが、それでも気にした様子もなく暦は楽しそうに話を続ける。忠が気兼ねなく食事を進められるように気を遣われているのだろうか、と思うと心苦しくはあるが、掠れ気味の声が楽しげに弾むのが心地良く感じて、気づかないフリをして箸を進めることにした。
気がつけば、丼は僅かにスープが残るだけになっていた。本当は飲み干したいのを、飲み過ぎと少年に言われてぐっと堪える。少しの未練を残して両手を合わせると、少年はお粗末さまーとまた笑う。
「……付き合わせて、すまなかった」
店内に貼られたメニュー表を見て、本来の代金より多めに出した忠に、暦はいいよと笑う。
「営業時間外だから、いらねーって」
「いや、払う」
「いーよ、俺が作ったんだし、練習台になってもらったって事で」
「十分美味かった、店に出して問題ない出来栄えだ。なので、それに見合った代金は払う」
「定価より多いんだけど?」
「先日の、味噌汁分だと思ってくれ」
「いつの話だよもー!」
ぐぐ、と暦の手のひらに紙幣を押し付けながら、今度こそ払わせろと押し切ると、根負けしたのか渋々と受け取る。
「……じゃあ、間を取って定価でもらう」
「……仕方ないな」
お互いに渋々とではあったが、無事に妥協点を見出したので、渡された釣り銭を素直に財布に収めた。
「営業時間外に、すまなかった」
「こっちこそ、早仕舞いしててごめんな、良かったらまた来て」
「ああ」
「ありがとうございましたー」
形式的な挨拶に見送られて、見慣れたガラス戸を引く。いつもとは逆にあるのれんを潜って外に出ると、まだ日は高い位置にあって、見慣れた景色とは全く違って見えた。
たまには、こういうのも悪くはないなとガラス戸を閉めようとすると、暦がひょこりと顔を出して笑った。
「待ってるからな!」
これも、営業努力と言うのだろうか。
ひらりと振られた手にぎこちなく返しながら、忠は月曜日の夜に暖簾を潜る自分を確信したのだった。
完