9.interval(side:C) カリードの父と母が出会ったのはまだ父が王位を継ぐ前のことで思い切って国を捨てた母もまさか自分の夫が王になるとは考えもしなかったようだ。しかし大国の王ともなれば情勢を安定させるために妻をたくさん娶らねばならない。そこからカリードの苦難は始まっている。王宮で若き日の父の不始末について八つ当たりをされながら育ち異母兄弟たちからいよいよ追い詰められ進退極まった時に顔を見たことすらない母方の祖父からフォドラへ呼び出された。カリードは王宮という閉ざされた世界からリーガン家を経由しクロードという名で学校という閉ざされた世界へ移り住むことになった。
綺麗事で秘密を覆い隠すセイロス教会のお膝元での暮らして何になるのかと祖父相手に粋がってみたもののガルグ=マクでの生活はクロードの想像を超えていた。閉ざされた未開の国と思っていたがとんでもない。紋章や英雄の遺産への興味は尽きなかったが何よりもクロードの心を動かしたのは士官学校という場に集う人々の来歴だった。
兵士ですらない孤児のツィリルが前線であるフォドラの首飾りからガルグ=マクまで流れ着いていることを知りクロードは己の無知さを恥じた。異国出身であろうと気にしないということを周りに示すため敢えてツィリルに身の回りの世話をさせているレアや孤児であり紋章を持たぬ身でありながら騎士団の団長を務めるアロイスそれに戦場をよく知る傭兵上がりの担任ベレトはクロードの蒙を啓いた。組織の長としてどう振る舞うべきか彼らから学べた気がする。
学友たちも負けていない。典型的なフォドラの貴族だと思って正直なところ見下していたローレンツは印象より遥かに懐が広いしイグナーツはフォドラの外でも通用するような素晴らしい絵を描く。ラファエルは許すことの強さを教えてくれた。レオニーと共に過ごさなかったら慎ましく生きることと誇り高く生きることが両立出来ることを知らなかっただろう。残り時間を見据えて必死に生きるリシテアの強さ、大きな秘密に押しつぶされそうになりながらも戦場を駆け回るマリアンヌの勇敢さには感銘を受けた。そしてパルミラの王宮にまでその名が伝わるホルストの妹ヒルダがいたことに、彼女が小柄で陽気であることに驚いた。
そんな人々に囲まれて子供でいられる最後の一年を満喫していたクロードだが穏やかな日々は終わりを迎えつつある。
「心当たりは全くないがエーデルガルトは会う前から俺が嫌いだったんだろうな」
クロードの言葉を聞いてディミトリがため息をついた。
「……確かに宣戦布告の内容は個人的な好き嫌いで始めたのかと思うくらい支離滅裂だったが……」
きちんと整理整頓されたディミトリの部屋で二人は今どうやって学生たちを全員無事に帰宅させるか相談をしていた。皆ペトラのように帝国の人質になるわけにはいかないからだ。青獅子の者たちは帝国軍の追跡を避けるためオグマ山脈を縦走し全員でまずイングリットの故郷であるガラテアを目指す。ところが金鹿の者たちは全員でというわけにいかない。クロードやマリアンヌのような北部出身の学生の他にアミッド大河沿いに自宅のある学生が沢山いる。だがクロードは何としても北上しデアドラに戻らねばならない。
「俺たちは冷静になって全員帰宅させてやろう」
「そうだな。こちらは全員一緒に動けるがクロードの方は二手に分かれるから大変だな。船は出してもらえそうなのか?」
だからクロードはヒルダとはここでお別れだ。クロードはダブネルまでディミトリたちと行動を共にするが東部出身の彼女はリシテアたちと共にガルグ=マクからアミッド大河を目指す。
「船は出してくれるだろうが対岸が帝国領だからなあ……」
「東に向かう者たちが心配なのは分かるが出来ることをやろう。彼らの無事は信じるしかない」
お気に入りの妃ティアナが産んだたった一人の王子が潜入中ということでクロードの父がフォドラ方面への軍事行動に制限をかけている。だからきっとゴネリル家には船と騎士団を出す余裕があるはずだ。
修道院の敷地内にいる者たちに敵襲を知らせる鐘が鳴り響いたその時、クロードは自室で寝台から敷布を剥がし切れ目を入れていた。山の中に何箇所か逃走用物資の集積場所を作って用意したが例え布きれ一枚であろうと余計に持ち込んでおきたい。少し手を加えておけばすぐに割いて包帯にできるし風避けに使いたいときはそのままかぶれば良い。冬山の中ではたった一枚の布が命を救う場合もある。
「クロードくん!先生が呼んでる!大広間だよ!」
「他の皆は?」
「寮に残ってるのはクロードくんだけだから迎えに来たの!」
ヒルダは僅かに見えている床の隙間を飛び石を伝うように器用に伝ってクロードの元へやってきた。白く小さな手が褐色の手首を力強く引っ張り寝台から立ち上がらせる。そのまま手を離さずクロードのを引っ張りながらすたすたと大股の急ぎ足で廊下を歩いていくので先ほど切れ目を入れていた布は畳む暇もなく左手で鷲掴みにしたままだ。
「待ってくれ!肩が!」
「え、でも急がなきゃ!」
よほど焦っていたのかヒルダは自分がクロードの手首を掴みっぱなしであることに気付いていなかったらしい。クロードとしても二人きりであったし手を離してほしくないような気もしたが肩が壊れては本末転倒だ。
「本当に力が強いな……腕がもげるかと思った……」
彼女の身に宿る紋章のせいだとわかっていてもこの小さな身体のどこから力が湧いてくるのかと不思議な気持ちになってしまう。
「ひどーい!」
「流石に大広間までの道は手を引かれなくても分かる。あと十秒だけ時間をくれ」
クロードは軽く肩を回し鷲掴みにしていた敷布を両手で広げた。先ほど入れた切れ目のところを持ち前後に引っ張って半分に割いていく。これで一枚の布は二枚になった。片方は素早く畳んで上着の隠しにしまいもう片方を不思議そうな顔をしてクロードを見つめているヒルダの桃色の頭に面紗のように被せてやる。彼女は頭から腰の辺りまで覆われるだろうと思っていたがヒルダが小柄なせいか布が顔に被さり口元まで隠れてしまう。
その姿がクロードにはパルミラで見合いに臨む貴族の女性を思い起こさせた。貴族の女性は見合いをする際に面紗で顔を隠す。当然前が見えないので兄弟やいとこが付き添い二人きりになることはないし正式に婚約するまで見合い相手といえども素顔を見ることは許されない。
「ささやかだけど餞別だよ。切れ目が入れてあるから包帯にもしやすいしこの大きさなら風よけにも使えるだろ」
ヒルダが頭巾のようになっている部分をそっと引っ張って顔を出した。ここはフォドラなのでヒルダの行為には何の意味もない。
「ありがとうクロードくん。怪我をしないで帰る自信がないからとっても嬉しい」
微笑んではいるが髪と揃いの桃色の瞳には闘志が宿っていた。クロードは以前、日頃出さない本気を出せ、とヒルダを焚きつけている。だがクロードはヒルダが本気を出して戦う姿を見ることはできない。ヒルダが東方面へ逃げる学生たちのまとめ役になってくれたようにクロードも北のダフネルを目指す学生たちのまとめ役になっているからだ。