18.sequel:C&H ヒルダはパルミラ王国の公文書に独自の視点を持った剃刀のように鋭い王妃であった、と記されている。
「クロードくん、どうやって帰るの?」
クロードは新生軍の中でヒルダにだけは真の身分を告げていた。ガルグ=マクから母国パルミラに帰るにはアミッド大河沿いに東へ進むか北上しデアドラ港もしくはエドマンド港から船で東に向かう二つの道がある。デアドラに戻ってしまえばクロードはナデル以外の家臣たちに囲まれて船に乗るのも一苦労だしエドマンド港に行けば辺境伯の耳に入ってしまう。
「飛竜かな」
明日、大司教代理であるベレトの名において新生軍の解散とフォドラの統一それと首都がデアドラであることが宣言される。ようやく帰郷できることもあり皆、浮き足立っていた。残務処理があるのでと言ってベレトとリーガン領から連れてきた兵たちを先にデアドラへ送り出し上空警備が緩やかになったら誰にも告げずそっと単騎で出発するつもりでいる。
その道程はこの先の孤独を象徴している気がしてならない。クロードは友人が多い人気者だが七年間も王宮に姿を現さなかったカリードを父と母以外に気にかける者はいるだろうか。
「あの子を置いていくなら私にちょうだい」
クロードの腕の中で怠そうにしているヒルダが言うあの子、はクロードがいつも騎乗している白い飛竜のことだ。元々の気質のせいなのか白子であったせいなのかは分からないがとにかく兄弟仲が悪く除け者にされている姿を見てクロードが引き取った。クロードにも懐いているがヒルダにも懐いている。
「元から頼むつもりだった」
あの白い飛竜に乗って帰れば名乗りを上げながら東へ移動しているのと同じなので別の飛竜を見つくろう予定だった。幸い路銀には困らないので宿場町ごとに飛竜を確保することも可能だろう。
「あのねぇクロードくん、怠けるのってすっごく気を使うんだから!」
それまでクロードに背中を預けていたヒルダは真っ白な身体の向きを変えた。褐色の喉元で輝く翠玉の首飾りを弄りながらツィリルが聞いたら本当に機嫌を悪くしそうな話をし始める。
「喜んで仕事を引き受けてもらうには日頃から好かれなきゃいけないしどれくらい仕事を押し付けられる人なのか見極めなきゃいけないし!」
言っていることは本当にひどいが全ての仕事を自力でやるわけにいかない立場であるクロードにとって実に示唆に富んでいる発言だった。そしてこのヒルダに部屋の片付けを手伝わせるマリアンヌはやはり大物なのではなかろうか。
「真理だな」
「船がいいよ。クロードくんがいなくなったってわかったらセイロス騎士団の人たちはきっと空しか見ないだろうから」
学友たちがいればクロードが敢えて船や馬を使う可能性に気付くだろうが共に戦った貴族の嫡子たちは連れてきた兵たちを連れて自領に戻らねばならない。新生軍結成以来一度も帰省していないラファエルはベレト、クロード、ローレンツ、それにマリアンヌから書いてもらった紹介状を手に入れ妹と祖父を安心させるため一日早く出発した。帰路の補佐を、というわけでレオニーはマリアンヌにイグナーツはローレンツに雇われているためクロードの捜索はセイロス騎士団が主体となって行うことになる。
「参考にする」
「じゃあそろそろ自分の部屋に戻って。クロードくん明日は大変なんだからもう眠らないと」
こんな風に同じ寝台で夜を過ごせる日が次にいつ来るのかクロードにもヒルダにも全く分からない。これまでずっとヒルダは修道院ではちょっと、と言っていたのに今晩に限ってお許しが出たのはそういうことだろう。クロードは白い肌の手触りや汗と香水の混ざった匂いをヒルダの部屋でもう少し楽しみたかったのだがどうやらヒルダはお開きにしたいらしい。
「こう言う時って普通、離れたくないから私も一緒に行く、とか無駄だって分かってるけど行かないで、と言うもんじゃないのか?」
クロードがそう言って茶化すとヒルダは褐色の手を臍の下辺りに導いた。褐色の指を吸い付くような白い肌の上で遊ばせようとしたが強く掴まれる。
「私にはいつか命を賭ける日が来るの」
フォドラでもパルミラでも貴族の娘が子を望まれるのは変わらないし出産が命懸けであることも同じだ。だがその前の段階でクロードがしくじって王宮内での政争に負ければクロードもヒルダも毎日命を狙われながら暮らすことになる。ヒルダはクロードの子を宿す日のことを真剣に話していた。妊娠出産以外で危険な目に遭わずに済むよう地均しをしておけ、と言っている。
本気を出したヒルダはすごいのだ。こんなに精神的な興奮を掻き立てられる「部屋から出ていけ」の言い方が世の中に存在するとクロードは知らなかった。頭や体に溜まった熱を逃すために大きく息を吐く。
「何の憂いもないように整えておくよ。そうだ、こいつも預かってもらえないか?」
クロードは首飾りを外してヒルダにつけてやった。しかし鎖が長く翠玉は小柄な彼女の豊かな胸の谷間に挟まれている。見張り役にはちょうど良いのかもしれなかった。母から餞別として指輪を持たされているが人によって指の太さは違うしパルミラ育ちのクロードに指輪はどうにも馴染まない。
「あのね、クロードくん。こう言う時って普通、指輪を渡すもんじゃないの?」
「パルミラだと交換するのは首飾りなんだよ」
ヒルダが桃色の瞳を見開いた。クロードが首飾りを服の下に着けていた理由がわかったからだろう。フォドラで言うならば結婚していないのに薬指に指輪を嵌めているようなものなので本当に居た堪れない気持ちになるのだ。特にツィリルに見つかって気まずい雰囲気になることを絶対に避けたかったので襯衣の内側に隠していた。このように両国では文化の違いがある。砦でヒルダから首飾りを着け直して貰った時は黙っていたが明るい未来を先取りできたような気がしてクロードはとても嬉しかったのだ。
「じゃあ次会える日までに私もクロードくんの分を用意しなきゃ。鎖の長さは少し短めにするからね」
ヒルダの趣味は宝飾品作りだからきっとクロードに似合うような首飾りを作ってくれるだろう。会えない間、彼女が喜びそうなものをたまに贈ってそれに手紙を添えるのも楽しいかもしれない。
王宮は上空も含めて手練れの衛兵に守られ何者の侵入も許さない。安全が確保されているからか王子は開放的な気分が味わえる外で昼食を取るのが好きだ。召使いたちは昼になると中庭にいつも絨毯を敷きそこに大きな銀の盆を置いてその上に飲み物や食べ物を用意している。
王子は庭の出来になど目もくれなかったが数ヶ月前のある時、庭師に庭を花でいっぱいにしろと命じ、いつなら花が満開になるのかと問うた。庭師が恐る恐る六月には、と答えると王子は庭師に聞き取れない言葉で何事かをつぶやいた。王子の瞳はパルミラでは珍しい緑色だ。パルミラでは人を食い殺す化け物の瞳が緑色だと言われており七年も失踪していた彼には数々の怪しい噂がある。恐ろしい王子の機嫌を損ねてしまったかと思い庭師が怯えていると彼は懐から取り出した金貨を渡した。
六月は王都が最も美しい月と言われる。花が咲き乱れ雨は滅多に降らず真夏ほど太陽の光は眩しくない。太陽の下でも月明かりの下でも快適に過ごせるのだ。そんな雲一つない真っ青な空で真っ白な飛竜が一頭、気持ちよさそうに飛んでいる。王宮の周りを旋回し何かを探しているようだ。しかし衛兵たちが弓砲台で狙おうとしないのでどうやら許可は取っているらしい。
飛竜に気づいた王子は用意された昼食には目もくれず色とりどりの花で溢れかえる中庭の真ん中に立ち親指と人差し指を口に咥えると指笛を鳴らした。その音を聞きつけた真っ白な飛竜が王子を目掛けて一直線に降下し始める。騎手は飛竜が急に自分の言うことを聞かなくなったので一瞬焦ったようだが何が起きたのかを悟り手綱から手を離した。旅装から察するにパルミラの者ではない。騎手が外套の頭巾を外すと桃色の髪が風に煽られた。真っ白な顔は遠目に見ても喜びに染まり髪と同じ桃色の瞳が潤んでいるのか先ほどから手袋をしたまま目元を拭っている。見た目からしてどうやらフォドラの者のようだ。
王子は先ほどから周りにかしずく召使いたちが分かる言葉を一言も発していない。だが召使いたちにも王子がずっと口にしているヒルダ、というのが騎手の名前であることが分かった。王子が大きく手を広げ彼女が着地するのを待っている姿を見れば立太子の礼を経たというのに喉元に首飾りを巻こうとしない理由も分かろうというものだ。
飛竜はまだ降下している最中でまだ王宮の二階にある露台くらいの高さがあるというのにヒルダは鎧から足を外している。右足を外し鞍に手をついて左向きの横座りになると手を広げて待っている王子目掛けて飛び降りた。
彼女は小柄だが勢いがついているので流石に王子も支えきれず二人は絨毯の上に転がってしまった。はしゃぐ二人の間に飛竜が白い鼻先をつっこむとそれがくすぐったいのか二人揃って笑っている。
「クロードくん本当に久しぶりだね、元気だった?」
「まあな。来てくれて嬉しいよ。こいつの面倒も見てくれてありがとな」
「置いていかれた者同士すっごく仲良くなったんだから!」
召使いたちは言葉を理解できないというのにそれが分かっていないのかヒルダは王子の耳元に口を寄せた。
「それでパルミラ語が全くわからないふりは何ヶ月くらいすれば良いの?」
通常であれば立太子の礼を経た王子が結婚すれば国を挙げての祝事となり王太子妃はそこで披露される。だが王太子妃が当時はまだ和平条約も締結していないフォドラ出身であったためお披露目はカリード王子の即位と同時となった。それまでも王太子夫妻のご学友とやらは非公式に度々フォドラからパルミラを訪れていたがとにかく変わり者揃いであった、と文書官の個人的な備忘録に記されている。パルミラとフォドラの国交は個人同士の強い結びつきがきっかけとなって樹立されたがその詳細な経過はエドマンド辺境伯となったグロスタール伯夫人の手記にも残されている。
"小鳥が西風に乗って飛んでいった。辿り着いた東の地でどう羽ばたいたのかは皆も知る通りなのでここには記さない。ただ細やかながらフォドラ=パルミラ和平条約に携わった者として、あの二人の学友として、知っていることをきちんと書き残し時の流れに抗っておきたい。意志を持って残しておかねば全てが時の流れに覆い隠されてしまうことを私は身を持って知っている。ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリルは和平の証として異国の王に嫁いだのではない。学友クロード=フォン=リーガンの元に嫁いだのだ。二人は元から愛し合う恋人同士であったし何よりも気があう親友同士であったのだ"