犬の話(仮).3 ネヴァは自分と同じくらい足の早いパブロのことが気に入ったらしい。匂いも鳴き声も完璧に覚えていて公園で会うたびに握れんばかりに尻尾を振っている。パブロのパパ、であるローレンツにもすっかり懐いていた。パブロもクロードに懐いているので別に不思議ではない。
「ほら、取ってこい!」
「陸上でもやってたのか?」
クロードは持参したピクニックシートに横たわりつつ、わざわざ助走つきで棒を遠投するローレンツに語りかけた。長身の彼が身体全体を使って投げるとクロードが腕の力だけで投げる時より遥か遠くに棒が飛んでいく。ローレンツは二匹が風のように駆けていく姿を見てからクロードの隣に腰を下ろした。
「高校で陸上をやっていた」
犬のリードをつける必要がないエリアはど真ん中に大きなカラマツの木が数本生えている。墓の下で安らかに過ごしているであろう造園技師にはこの光景が見えていたのだろうか。立派に育ったカラマツの木は人間に木陰を提供し、犬には棒を提供してくれた。人間にも犬にも実に都合が良い。
「フリスビーも遠くまで投げられるのか?」
「君、円盤投げを見たことないだろう?同じ投擲競技でも全く違うのだぞ」
「ない。やっぱり背が高い方が有利なのか?」
ローレンツは無言で頷いた。一拍ためてから解説するつもりだったのだろう。だがそこにネヴァとパブロが駆け寄ってきたのでローレンツ先生による陸上競技講座は開講されずに終わった。どうやら競り勝ったのはネヴァのようで嬉しそうに棒を咥えている。
「勝ったのか、パブロが優しくて良かったな」
「ほら、パブロにはこっちのをあげるから」
パブロを撫でてから辺りに転がっていた別の棒をローレンツが渡すと今度は引っ張りっこが始まった。平日の昼間にこんな風に過ごす友人が出来たのだからネヴァには感謝しかない。ローレンツも遠目からは自由に見えても顧客に振り回され通しな仕事をしているので業界は違えど深く共感してくれる。
「ほら、美人なんだからゴミをつけて歩くな」
まだ遊ばせるので無意味なのだがクロードはネヴァの飾り毛にくっついた草の実を取ってやった。だが指では限界がある。当然、帰宅したらブラシで手入れしてやらねばならない。だが無心になってそういう作業をしている時に出てくる鼻歌が案外、窮地を救ってくれるのだ。
今日は晴れていればまた公園でネヴァそれにクロードの二人と合流できるはずだったが残念ながら雨が降っている。灰色の空の切れ目から黄色い光が瞬いているので数秒後には音が轟くだろう。
こんな日は住んでいるアパートの周りを一周だけ歩いてトイレを済ませ、後はパブロと共に大人しく家で過ごすしかない。持ち帰ったものをさっさとトイレに流し、お手製の黄色いレインコートを脱がせてから濡れた足や尻尾を念入りに拭いてやった。
良心的なブリーダーの元で生まれたパブロは人間を信用している。だから際どいところを拭いても反抗することがなかった。手入れの時間は飼い主と犬のコミュニケーションの時間であり、体調をチェックする時間でもある。
柔らかな毛並みの隅から隅までしつこく堪能してから解放するとパブロは巨大な犬用ベッドの上で丸くなった。これでようやくローレンツも部屋着に着替えられる。
部屋着や作業着それに出先や目的に合わせてコーディネートした外出着、とローレンツは一日に何度も着替えをする方だ。業界の重鎮にはそんな着道楽な時期を超えていつも同じ格好をしている者もいるがローレンツはまだその段階に至っていない。
「パブロ、そんな顔しないでくれるかい?」
上目遣いの度が過ぎて黒い瞳の下に白目が見えている。濡れた散歩用の外出着から部屋着に着替えたため今日の公園はなしでネヴァやクロードには会えない、とパブロは悟ったのだ。だがそんな風に凝視されても人間に天候は操れない。
ローレンツはブランケットにくるまって巨大なソファに横たわった。来客用のベッドにもなるソファの上にはクッションが山のように置いてあって、クッションの山に埋もれているとパブロがローレンツを掘り起こしにやってくる。
つまり救助犬ごっこだ。あまりに下らないので実家にいた頃からパブロと自室で二人きりの時にしかやったことがない。
外に出られない分、そうやって遊んでやろうとしたのだが救助される前にローレンツは自分からクッションの山を崩す羽目になった。テーブルの上に置きっぱなしにしたスマートフォンが鳴っている。ローレンツは長らく着信音をデフォルトのままにしていたが最近、着信音をクロードが作曲したものに変えた。急な仕事の知らせでもこれなら少しは心を慰められるような気がする。
こういう時は眠って待つのが一番良い。賢いパブロは飼い主が作業着に着替えるところを横目で眺めつつ大きな欠伸をした。