寒室からはまだ明かりが漏れていた。
江澄は少しだけ上がった息を整えて、開いたままの門扉をくぐった。
就寝前の時間に訪ねる非常識は、たぶん許してもらえる。
「藍渙」と戸口から声をかけると、がたんと派手な音がした。常ならば、藍氏の常識で考えればありえない音である。
「江澄?」
手燭を掲げて、藍曦臣が姿を現した。
その顔は驚きに満ち、嫌厭の色はない。江澄は胸をなでおろした。
「遅くにすまない」
「いえ、それはいいのですが、なぜ、こちらに」
「……あなたが、言ったのだろう。その、夜に来いと」
自分でも苦しい言い訳だと分かっていたが、それ以外に言いようがなかった。半ばは八つ当たりでもある。
藍曦臣をうかがい見ると、彼ははっきりと喜色を示した。
「嬉しいです。江澄、さあ中へ」
しかし、昨夜のように手を取ることはしない。江澄はこぶしを握りしめて、静かに後に続いた。
揺れる明かりの下で、江澄は藍曦臣と向かい合って座った。いつもなら、なんだかんだと触れてくる藍曦臣が隣に来ない。苦笑が漏れた。
「藍渙、すまなかった」
「はい?」
「昼間、あなたの手を払っただろう」
「ああ、そのことでしたら、私が」
「聞いてくれ」
江澄がさえぎると、藍曦臣の顔に緊張が走った。つられて、江澄の声も震えた。
「俺は、その、こういうことに慣れてない。ああいう人の目がある場所で、あんなふうに触れられるのは、正直なところ、やめてほしい」
「……わかりました」
藍曦臣の声が沈む。江澄は慌てて言葉を継いだ。
「だけど、い、いやじゃないんだ」
今も距離を取られているのが、さみしい。
「二人のときは、できたら、隣にいたいし、手をつないだり……」
口付けをしたり、抱きしめあったり、そういうことがしたい。
さすがにそこまでは口から出すことができなくて、江澄はうつむいた。首から上が全部熱い。
自分の顔をさらすことがおそろしい。藍曦臣がどんな顔をしているか見ることもおそろしい。ずいぶんと勝手なことを言っている自覚はある。失望されたら、という不安がうずまく。
「よかった……」
大きなため息とともに、藍曦臣が言った。
「昨日は無理を言ったので、嫌われてしまったかと」
「は?」
嫌う、とは誰が誰をだ。
「あなたに手を払われるまで、浮かれていたのは間違いないのです。軽率なことをしたと後悔していました。だから、無理だと言われてもしかたがないと思っておりました」
藍曦臣は目を伏せていて、そのまなじりからひとすじ、涙が流れ落ちていく。
浮かれていた、のか。
後悔した、のか。
どちらもが江澄の息を止めにかかって、あまりの苦しさに江澄は小さくせきをした。
なにを、なんて言えばいい。
自分のしたことで、藍曦臣がそんなに苦しむとは思わなかった。思い悩むようなことだとは思っていなかった。
空転する思考の糸はすっかりからまって、玉になってしまった。
江澄はだまったまま立ち上がり、藍曦臣の傍らにひざをついた。ぽかんと見上げてくる藍曦臣に腕を伸ばす。
その頭を胸に抱いた。
「すまん」
「江澄……」
「泣かないでくれ」
やっと出てきた言葉はそんなもので、江澄は自分に呆れた。けれど、他には思いつかない。代わりに腕に力を込めた。
手を離すなんて考えられない。嫌うなんてことも、ありえない。
軽く腕をなでられて江澄が体を離すと、黒い瞳がじっと見ていた。
江澄はおずおずと顔を近づけた。
藍曦臣の唇はやわらかく江澄を迎えてくれた。
江澄は自分の前に回された腕をなでた。
藍曦臣に背後から抱きしめられて、もうずいぶんと経つ。とうに亥の刻に入っているが、彼は離そうとしない。
このままでは寒室に泊まることになるが、江澄は(まあそうなるだろうな)と思っていた。
昨日と違って焦りはない。
藍曦臣は嫌だと言えばきちんと聞いてくれるから、身構えなくて済む。
江澄は指先で袷をなぞった。
「藍渙、なあ」
「なんでしょう」
「もうひとつ、あなたに言っていないことがある」
藍曦臣は江澄の肩にあごをのせると、少し低い声で「何を」とささやく。
きっと、杞憂に終わるということはわかっている。胸の傷を見せたところで、この人がそれを気にするはずがない。
江澄は顔を傾けて、藍曦臣の頬に口づける。
「まだ、言いたくないんだ」
だけど、不安にならないように。あなたのせいではないから、と思いを込めて、もう一度唇で触れる。
「もう少し、待ってくれるか」
「待ちましょう」
藍曦臣はすぐに答えた。
あまりに早くて、江澄のほうがそれでいいのかと眉根を寄せる。
腹に回された白い手に、自分の手を重ねた。
「あなたがいてくれるだけでいい」
「寡欲だな」
「望みがないとは言いませんが」
「どっちだ」
「どちらも本当のことです」
白い人差し指が、重なった指にからむ。
「大切にしたいと思っているのですよ」
今度は藍曦臣が江澄の頬に口づける。
胸の奥がしめつけられた。
(俺は大切にできるだろうか)
鼻の触れる近さで視線が合った。
江澄がまぶたを落とすと、唇が触れる。
「あなたの望みを聞いてもいいか」
「ええ」
藍曦臣はもう一度口づける。
「あと一時はこうしていたい」
「一時でいいのか」
「では、あなたは?」
三度、唇を交わして、江澄はささやいた。
「……卯の刻まで」
手をつないだまま、目覚めるまでを一緒に過ごしたい。
藍曦臣の腕にぐっと力が込められた。