藍曦臣は指先で江澄の前髪に触れた。
はっきりと影の差した顔色は、よりいっそう悪くなったように見える。
求められて拒否ができなかった自分を心中で呪う。まったく情けない。
江澄の言動には不可解なことが多かった。普段であれば照れて言わないようなことでも平然と口に出していた。
あの日の因果とは思ったが、それでも彼が明日の仕事を「平気だから」と言うだろうか。
藍曦臣は身なりを整えると、外廊へ出た。
ここは蓮花塢である。まだ、家僕も起きている時刻であった。藍曦臣を見た家僕はひっくり返りそうになりながらも、素直に藍曦臣の求めに応じて江澄のための湯を用意してくれた。それから、気をつかってか夜食にと包子まで持ってきてくれた。
藍曦臣にすぐに去ろうとする家僕を呼び止めた。
「お尋ねしたいことがありまして」
「なんでございましょう」
「江宗主の様子がおかしいのです。お心当たりはございませんか」
「……あなた様がお越しになって、本当にようございました」
家僕は頭を深々と下げた。
「それはどういう……」
「わたくしめがお伝えすることではございませんでしょう。修士の方々をお呼びします」
藍曦臣が引き止めるのも聞かずに、家僕は外廊を走り去った。
ここで待てばいいのだろうか。しかし、ここは江家の私邸である。門弟とはいえ、呼ばれて入ってくるものなのか。
とはいえ、その江家の私邸では藍曦臣も勝手なことはできず、その場にとどまるしかない。
おとなしく待っていると、すぐに三人の修士が家僕の先導でやってきた。
どう見ても、修為の高い師兄たちに藍曦臣は冷や汗をかきつつ拱手した。
「深夜にお騒がせをいたしまして、誠に……」
「沢蕪君、あなたにおいでいただき、私どもがどれほど安堵しているか、おわかりでしょうか」
修士の内、先頭を歩いてきた男が言った。
「お尋ねになった通り、私どもの宗主は数日前より様子がおかしいのです」
「どういったふうにおかしいのか、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ほめるのです」
ほとほと参っている、というように男は頭を下げた。
「厳しくいらっしゃるのは常とお変わりありませんが、必ずおほめの言葉を賜ります。そればかりか、周囲の者にいたわりのお言葉までかけられて……、いえ、その、誤解のないようお願いしたいところではありますが、常日頃、宗主がおほめになったり、いたわったりなさらないということではなく、なんともうしますか、そのお顔がですね。いつもの厳しいお顔ではなく、笑っていらっしゃるのですよ」
本当に困惑しているのだろう。
彼は身振り手振りを加えて、藍曦臣に状況を説明した。江澄を直接知らない者からすれば、行いを改めたようにしか聞こえないだろうが、男の言う違和感を、藍曦臣は正しく受け取った。
「宗主のおつとめに障りはありませんか」
「ええ、いつものお時間にいらっしゃって、政務も滞りなく……、ですが、今の宗主を表に出すわけにはいきませんので、市井からの陳情については私どもで対応しております」
「そうですか」
傷心によって言動に変化があった、というのでは理解が追い付かない。明らかに外的な要因を疑うような状況である。
「江宗主のご様子が変わったのはいつですか。正確に教えてください」
「藍宗主がお帰りになってより五日後のことです」
「その二日前に向陽紗という娘が蓮花塢に参りました」
「娘を疑って持ち物を調べましたが、なにも出ませんでした」
「ほかに変わったことはありましたか。夜狩で邪祟を鎮圧したというようなこともありませんか」
修士は三人ともが首を振る。
向家、ここでその姓が出てきたとなれば疑わしいかぎりだが、向陽紗について調べが終わっているのなら、藍曦臣が再び疑うことはできない。
あとは各世家に送った文の返事を待って、対処を考えるべきだろう。
三人の修士とは翌朝また話し合うことを約束して、その場は解散した。
その日、藍曦臣は江澄の私室に泊まった。家僕ははなから客坊を用意するつもりはないようで、藍曦臣はひとりになったのちに苦笑をこぼした。
江澄は知っているのだろうか。藍曦臣が江家宗主の私室にいることを、誰もが当たり前のように受け入れている現状を。
きっと知らないのだろう。藍曦臣が滞在するときには必ず客坊が準備されている。それなりに秘密にするべき関係だと思っているに違いない。
この事態が彼の知るところになったら、文句のひとつも言われそうだ。
藍曦臣は帳子の内に入り、江澄の隣に腰かけた。
江澄の寝顔は穏やかとはいえず、寝ているというのに眉間にしわが寄っている。
藍曦臣は額に口づけを落とした。
「私の、道侶になってください」
ささやく声に返事はない。
静かな寝息が頬をかすめた。
翌朝、早々に問題が起きた。
いつもどおり卯の刻に目覚めた藍曦臣は、身支度を整えて江澄が起きるのを待った。
ところが、辰の正刻を過ぎても江澄は起き出してこず、とうとう牀榻の帳子は開かれないまま巳の刻になった。
藍曦臣は私室を家僕にまかせて、修士との話し合いに入った。
「宗主が起きない……ですか」
「ええ、今までにこのようなことは」
「ございません」
修士はきっぱりと言い切った。江澄への信頼が見てとれる。だからこそ、この事態は異常極まりない。
「これもなにかの影響でしょうか」
「分かりません。少なくとも邪祟の気配はありませんが」
藍曦臣も首を傾げるしかない。
ともかく、宗主不在を気取られぬようにしなければいけない。聞けば、三人の修士は江澄の補佐として、常に政務に携わっている身だという。
「それでは、表向きのことは問題ありませんね」
「はい、お任せください。藍宗主、どうか我が宗主をよろしくお願いいたします」
藍曦臣はうなずいたものの、取れる手段はないといってよかった。
江澄がなにがしかの影響下にあるのか、それとも精神の状態が身体に反映されているのか、そもそもの見当がついていないのである。
藍曦臣は江澄の私室に戻りつつ、ひとまず清心音を試してみることに決めた。精神が常態を取り戻すことができれば、なんの影響を受けているのかも見極められるだろう。
しかし、ここでもまた難題が立ちはだかった。
「また、来てくれたのか、藍渙」
正午すぎに目を覚ました江澄は、まず藍曦臣がいることに驚き、そして家僕の目の前だというのに抱きついてきた。
「信じられないが……、きっと、あなたがやさしいからだな」
「江澄、待ってください」
信じられないのはこちらのほうだと、藍曦臣はその肩をそっと押しとどめた。すると、江澄は見る間にしおれ、肩を落とした。
「……そうか、昨日とは違うのか」
「違う?」
「昨日は阿澄と呼んでくれたから」
めまいがした。
うつむきつつ、ためらいがちに言う江澄の耳は赤くなっている。
気がつけば家僕は去り、用意された粥が湯気を立てている。
「阿澄、あの」
「無理に呼ぶ必要はない」
「私が呼びたいのです。先ほどはまだ人がいたので」
言われて初めて気がついたというように、江澄は辺りを見回した。
不安げに体を寄せてくる様は、ふだんの宗主としての彼からは想像がつかない。
「大丈夫ですよ、ほら、食事の支度だけして戻っていかれましたから」
「そうか……」
しかし、江澄は藍曦臣から離れず、そればかりか背中に回した腕に力を込めた。
「阿澄、どうしました」
「離れたくない」
藍曦臣はたじろいだ。追い討ちをかけるかのように江澄は唇を重ねた。
「藍渙、抱いてくれ」
絶対におかしい。
藍曦臣は細い体を抱きしめながら、確信を持った。
今は昼、寝坊をしたことを分かっていながら慌てもせず、しかも用意された食事をないがしろにするなどということは、江澄はしない。
これは誰なのだろう。
「阿澄、お誘いはうれしいですが、まずは食事にしましょう」
「いやか?」
「いやなわけがないでしょう。今すぐにでもあなたに触れたい」
「それなら」
「私もお腹がすいています。心配しなくても、どこにもいきませんから」
江澄は不思議そうに藍曦臣を見つめつつ、そろそろと体を離した。
「妙なことを言うんだな。わかった、食事にしよう」
それからの江澄はいつもと変わらない様子を見せた。
藍曦臣にならって黙食し、蒸した茶を飲み、食後には藍曦臣の肩に頭を預けてまどろみはじめた。
「眠ければ、眠ってください」
「いやだ、だって起きたらあなたがいない」
「いますよ、まだ帰りませんから」
「そうじゃない。夢なら会えても、覚めたら会えないだろう」
それは、まるで謎かけのようだった。
藍曦臣は江澄を抱きあげて、牀榻へと運んだ。
「不安なら、琴を弾きましょう。あなたが起きるまで弾き続けますから」
「また、会えるか」
「ええ、もちろん」
牀榻の帳子は開けたまま、藍曦臣は江澄の古琴を持ってきて清心音を奏でた。
偽りのない気持ちで、江澄の安穏を祈りつつ、一音ずつを大切に弾く。
江澄は横になって藍曦臣を見つめていたが、そのうちにまぶたが落ちた。眠気にはあらがえなかったようだ。
藍曦臣はその後も演奏をやめなかった。
もはや、江澄が正気でないのは疑いようがない。
江澄は「来てくれたのか」と言った。「夢なら会えても」と言った。最後には「また、会えるか」とも。
もしかすると、江澄は夢の世界にいるのかもしれない。