寝待月が天頂に差しかかる頃、外から声がかかった。
「沢蕪君、申し訳ございません」
江澄の代わりに政務に従事している師兄の声だった。
藍曦臣は牀榻から下りると、深衣を羽織って外廊に出た。
「なにか急事ですか」
「お休みのところ失礼いたしました。宗主は……」
「お休み中です」
「実は、宗主の異変について手がかりを得まして」
「まことですか」
「門弟をふたり、次の間に連れてまいります」
藍曦臣は急いで室内に戻った。
牀榻の内で、江澄は静かに眠っている。藍曦臣はその頬をそっとなでた。青白い顔だ。早くどうにかしなければならない。
藍曦臣は身なりを整えると、房室を移った。家僕もすでに休んでいる時間である。手ずから明かりをともす。
そのうちに師兄が男女をひとりずつ伴ってきた。
ふたりは藍曦臣を見るとぎょっとして、男のほうはおろおろとしはじめた。
「安学逸と向陽紗です」
「ああ、向家の……」
「安学逸は元は向家の門弟でした」
藍曦臣は目を細めた。
頭の中で向家についての覚えている限りをかき集める。
各地に出した文の返事は、噂は。
彼の地にまつわる逸話は。
記憶をたどれば、つい先日、宗主が江澄と面会をしていたと思い出した。
「初めてお目にかかります。安学逸と申します。先ほど、秀師兄から宗主のご不調についてうかがいました。実は……」
安学逸は青白い顔をして言いよどんだが、一度口を引き結ぶときっぱりと言った。
「向家からの贈物に呪いが施されているかもしれません」
「呪い……」
蔵書閣にあった珍しい術式をあつめた書物。
それから、聶懐桑からもたらされた、向家が絹糸を大量に仕入れたという話。
「呪織が持ち込まれたかもしれないということですか」
藍曦臣は思わず臥室を振り返った。
呪織は強力な術式ではない。織り込まれた呪紋によっては非常に見つけにくいと聞く。
「さすが、沢蕪君。よくご存知で」
「書物で……、いえ、それがなぜ江宗主のおそばにあると?」
「あの! 私が江家門下にお迎えいただいたときに父が大量に贈物をしたらしくて」
今度は向陽紗のほうが口を開いた。
彼女によれば大半の物品は返却されたが、向家の顔を立てるために一部は受け取ったという。
「江宗主がお受け取りになったもののひとつに織物がありました。私が仕立てに回したので覚えております。非常に繊細な紗の織物がございました。家僕に確認しないとわかりませんが、もしかすると、牀榻の帳子がそうではないかと……」
それを聞くや否や、藍曦臣は立ち上がって臥室へと向かった。
帳子の端をつかみ上げて、呪いの気配をさぐる。
なにげなく過ごしているときには気づかないほどの呪力が、たしかに宿っていた。
藍曦臣は江澄を掛布で包むと、ゆっくり抱き上げた。
「ん……、なに……」
「なんでもありません。あなたはまだ、起きていて大丈夫ですよ」
江澄は薄く目を開けたが、すぐに藍曦臣の胸に頭を預けた。
彼はまた、彼の現実へと戻ったのだろう。
藍曦臣はそのまま臥室を出た。次の間へと入ると、三人ともが目を剥いた。
「た、沢蕪君……」
「師兄、すみません。やはり、帳子でした。江澄をどこかへ移したいのですが」
「え、あ、ああ、はい。客房に」
「わかりました」
藍曦臣は安学逸に顔だけを向けると、臥室の調査を依頼した。
「他にもあるかもしれません。裁断されていれば効果は失われていると思いますが、気持ちの良いものではありませんので」
「わかりました。今晩中に」
「お願いします」
客房へと向かう藍曦臣の心中は、まさしく嵐の様相である。
先を歩く師兄も表情は厳しい。
なにせ狙われたのは江家宗主だ。このままにはしておけない。
江澄を客房の牀榻に寝かせた後、藍曦臣は師兄と少しばかり話をした。
「沢蕪君、宗主は……、元の宗主に戻られるでしょうか」
「わかりません。無理に起こさず、明日の朝、起きたときのご様子を見てみましょう」
起きたときに正常に戻っていれば良し。まだ呪いの影響下にあれば対策を考えなければならない。
師兄もうなずき、拱手した。
「わかりました。では、また、明日」
「ええ、私はこのままこちらに」
「お願いいたします」
師兄が去った後、藍曦臣は牀榻の内に入った。
江澄は身じろぎもせず寝入っている。
「気がつかなくて、申し訳ありませんでした」
藍曦臣はこけた頬を人差し指でなでた。起きる気配はない。
どう考えても疲労だけではない瘦せ方であったのに。疑える機会はいくらでもあったのに。
もしかしたら、いくらかでも呪織に霊力を吸われていたのかもしれない。
そう思いついたら居ても立っても居られずに、唇を合わせた。霊力を流し込もうとするが、さすがに江澄の同意がなくては、なめらかに流れていかない。
藍曦臣はそれでも根気よく霊力を送った。江澄も次第にその気配になれたのか、無意識にでも受け取る量が増えていった。
江澄の頬にほのかに赤みが差した。
東の空が群青色に染まりつつあった。
江澄が目を覚ましたのはまだ辰の刻になる前だった。
その直後、藍曦臣と師兄の期待は裏切られた。
「今日は、あなたの客房なのだな」
彼は夜半に自分が移動したとも思わない様子で言った。
とはいえ、藍曦臣の胸に頬をすり寄せる江澄の顔色は昨日よりもいい。
「そうですね、私の房室ではいやですか?」
「いやじゃない」
唇を重ねてくる江澄を受け止めつつ、藍曦臣は体を起こした。
すると、江澄は不満そうにして胸をたたく。
「なんで起きるんだ」
「朝、のようですよ。ほら」
窓を指し示せば、すでに陽は昇っていて、薄青の空が遠くまでよく見えた。
「いいだろ、別に。朝でも」
江澄は藍曦臣の胸を押して敷布の上に倒す。
「どうせあなたには、会えないんだ」
「私はここにいます」
「俺の、夢だからな」
かみつかれるように口づけをされて、藍曦臣はひとまず江澄の好きにさせた。
すべり込んでくる舌に応えてからめれば、鼻から抜けるような声がした。
「っは、藍渙」
「阿澄、いけません。今日は起きないと」
「なんでだ。あなたは、夢でまで……」
江澄の顔がみるみる内にゆがんでいく。
「会えないのに……、夢でも、もう、だめなのか」
「阿澄」
「いやだ、藍渙。抱いてくれ。最後でいいから」
藍曦臣はこらえきれずにその体を抱きしめた。
彼の現実では、いまだに藍曦臣と会えていないのだ。これほどに追い詰めたのは、いったいだれか。考えると腸が煮えくり返る。自分が、憎かった。
「最後などと、言わないでください」
「だって、あなたはもう来ないつもりだろう」
「そんなことはありません。江澄、目を覚ましてください」
「……あなたがいないのに、戻れというのか」
やけに緊張を帯びた声だった。
藍曦臣が体を離すと、江澄は静かに涙を落とした。
「文を出しても、返事がなく、会いに行こうにも仕事が立て込んでいて行けず……、それなのにあなたは会いに来ない。もはや俺はあなたには必要ないのだろう」
藍曦臣は返すべき言葉が見つからなかった。
ただただ、心臓が痛い。
「もういいんだ。わかっている。夢も、今日で終わりにする。今まで悪かったな」
「阿澄、待ってください」
「はは、夢でまであなたに執着して……、俺は」
江澄は自らの手で、藍曦臣の手をはずした。
「あなたを好きになるのではなかった」
「阿澄!」
「出ていってくれ」
か細い声だったが、藍曦臣ははっきりと聞き取った。
起き上がろうとする江澄の手首をつかまえて、反対に敷布に押し付けた。
弱った体はかんたんにひっくり返った。
「許しません」
自分でも思ってもみないほど低い声が出た。
「それは、許さない」
藍曦臣は乱暴に唇を合わせた。
身勝手とわかっていながら、腹立ちが収まらない。
逃げる舌を追いかけつつ、霊力を流す。江澄は大きく目を見開いて、足をばたつかせた。
しかし、藍曦臣はやめなかった。
気づいてほしかった。江澄が夢と思っている今こそが現実であると。
藍曦臣に、江澄を諦めるつもりはないということを。
「んんっ……!」
江澄の抵抗はだんだんと弱まり、しまいには藍曦臣の首に腕を回して与えられる霊力をすべて受け入れていた。
「らんふぁ……」
「阿澄、私はここにいます」
「ん……」
江澄はとろりと瞳を溶かして、藍曦臣を見上げた。頬は紅潮し、息は荒く、まるで酒を飲んだときのような表情だった。
「起きてください、江澄」
江澄は小さくうなずいて目を閉じた。
再び彼は、彼の現実へと戻っていった。